第二話:「玄関先の猫と老婆」
雨上がりの午後。
水たまりに街灯の光が映って、アスファルトが少しだけ輝いて見えた。
「神原ユウトです。ウーバーでーす」
小さな平屋の玄関に立ち、インターホンを押す。
昔ながらの木造住宅。庭には古びた石灯籠と、小さな花壇。
玄関先には、一匹の猫が座っていた。
ふさふさした白毛に、薄い茶色の縞模様。片耳が欠けている。
「お前、客?」
ユウトがそう言うと、猫は「にゃ」と一声。まるで返事のようだった。
すると、玄関の扉がゆっくりと開いた。
「まあ、ご苦労さまね。雨の中、来てくれてありがとう」
出てきたのは80歳は超えていそうな老婦人だった。
小柄で、背筋が少し丸い。けれど、声にはどこか芯がある。
「こちらにどうぞ。置いてもらえるかしら」
「はい。ここに置きますね」
ユウトが袋を渡すと、猫がすっと彼の足元に寄ってきた。
「……この子、たかしって言うの」
「へえ。いい名前ですね」
「ええ。……息子と同じ名前なの」
言葉が、一瞬だけ重くなった気がした。
ユウトは軽く頭を下げ、バイクへと戻ろうとした。
だが、背後から、ぽつりと声が聞こえた。
「――今日も、帰ってきてくれたのね」
ふと振り返ると、老婆は猫に向かって、そう語りかけていた。
まるで、そこに本当に“たかし”という息子がいるかのように。
⸻
数日後、また同じ家に配達が入った。
猫は変わらず玄関にいて、ユウトを見上げていた。
「……また来たよ。たかし君」
猫は「にゃ」と返し、玄関の前で座ったまま動かない。
「ご苦労さまね。あなたのこと、覚えてるみたい」
そう言って、老婆――文子さんは微笑んだ。
「昔、息子がいたの。とっても優しい子だった。
もう何年も前に、事故で……ね」
その目はどこか遠くを見つめていた。
ユウトは何も言えず、ただ黙って話を聞いた。
「……でも、不思議なの。
この猫が来てから、毎日“おかえり”って言えるようになったの。
そして、あなたが来た日は……なんだか、ほんとに“誰か”が戻ってきた気がしたのよ」
ユウトは静かに頷いた。
「そうですか。それは……よかったです」
言葉にできない感情が、胸の奥にじんわりと広がった。
⸻
帰り際、ユウトは猫に手を振った。
「たかし君。これからも、ちゃんと帰ってきてやれよ」
猫はまた「にゃ」と返し、文子さんの足元へ戻っていった。
【配達員メモ】
今日のお客様:文子さんと、猫のたかし君
届けたのはご飯一つ。でも、
“誰かが帰ってきた”って思える瞬間を運べたなら――
それが、本当に価値のある配達だったのかもしれない。