第一話:「置き配ボックスの向こうで」
雨が降っていた。
都心のアパート群は、グレーの雲とともに沈んだ静けさをまとっている。
神原ユウトは、その一角にある三階建てのアパートの前に立っていた。
ウーバーイーツの黒いバッグを肩に背負い、片手には熱々のビニール袋。
画面を見ると、メッセージが表示されていた。
「人と接するのが苦手です。置き配ボックスに入れてください」
簡潔な一文だった。
けれど、どこか、その文章には――“声”があった。
「はーい、お届けに来ましたー!」
誰もいない玄関前で、わざと少し明るめに声を出す。
冷たい雨の音に、その声はすぐ吸い込まれていった。
手前にある銀色のボックスを開け、中に弁当を入れる。
温かさが一瞬、雨の冷たさを溶かすように感じられた。
バッグの中から、もうひとつ取り出したのは――手書きの小さなメモ。
『お疲れ様です。寒いですが、温かいもの食べてくださいね。』
それをそっと弁当の下に忍ばせ、ふたを閉じる。
見られるわけでもないし、返事が来るわけでもない。
でも、何となく書かずにはいられなかった。
「……配達完了」
ユウトは、そう呟き、再びバイクにまたがった。
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翌日、偶然にも同じ場所への配達が割り振られた。
ボックスの中は空だった。けれど――小さな紙が置かれていた。
ユウトが書いたのとは違う、折り目のある白い便箋。
そこには、柔らかい文字でこう書かれていた。
『昨日はありがとうございました。
少しだけ、心があたたかくなりました。
こんな雨の日に、ご苦労さまです。』
彼は思わず笑みをこぼした。
顔も知らない。名前もわからない。
ただ、1分もないやりとりが、ほんの少し心を動かした。
それでいいのだ、とユウトは思う。
配達員は、何かを届ける仕事だ。
食べ物だけじゃない。ときどきは、気持ちや温度も――。
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【配達員メモ】
今日のお客様:置き配ボックスの中の誰かさん
人は顔を合わせなくても、つながることができる。
だからこそ、俺は今日も“ちゃんと”届けようと思った。