第七十八話 バレンタインデー
碧人が彼女からのバレンタインチョコを楽しみにしているらしいという情報を羊子から聞き、料理に不慣れな香奈でも簡単に作れるチョコマフィンのレシピを菜緒に教えてもらった。という訳で、バレンタイン前日の放課後、香奈はいつもなら碧人とゆっくりおしゃべりを楽しむところを、碧人に断ってから一人ですぐに帰宅した。本当なら、自分よりは料理経験があるらしい羊子や菜緒に手伝いを頼みたかったところだが、私立単願組だった香奈と違い、菜緒や羊子はまだ公立高校受験が終わっていない。そのため、彼女たちにこれ以上頼ってしまう訳にはいかなかったのだ。香奈は、一度私服に着替えてから自転車で近所のスーパーマーケットに行くと、菜緒に教わったマフィンのレシピの材料を購入した。基本的にあまり物欲がない香奈は、お小遣いは貯めておくタイプなので、予算面でも特に問題なしである。だが、香奈の家からスーパーマーケットはそれなりに遠いうえ、普段一人でスーパーマーケットに行くことが少ない香奈は買い物に手間取ってしまった。そのため、材料を買い終えて家に戻る頃には、既に18時くらいになっていた。
家に戻ると、母である絵里がパートから戻ってきており、夕食の準備をしてくれているところだった。香奈が玄関を開けた音に気づいたようで、絵里は振り向きながら「おかえりー」と言う。
「ねえねえ、明日バレンタインでしょ。香奈のことだから忘れてるか、他人事だと思ってるか、するんじゃないかと思って、浦田くんに渡すようにチョコクッキーの詰め合わせ買ってきておいたわよ~」
絵里には、香奈がバレンタインをすっかり忘れていたことは読まれていたようだ。さすが母親である。香奈は自分の性格を熟知されていたことにドキッとしつつも、母の言葉を否定する。
「い、いやいや、バレンタインを忘れてた訳ないじゃん。だって、私には大事な彼氏がいるんだよ~。ほら、チョコマフィン作ろうと思って材料も買って来たところだし」
香奈は、バレンタインのことを忘れていたという情けない事実のことは、家族には隠しておくことにした。
「ええ~!!料理なんて面倒だっていつも言ってる香奈がお菓子作り!?珍しいこともあるもんね、明日は槍でも振るのかも。まあ、やっぱり恋の力って偉大なのねぇ」
大事なイベントを忘れていたことは事実だが、そこまで言われると、文句の一つも言いたくなった。ただ、香奈には母に頼みたいことがあったため、その文句はグッと飲み込む。料理に不慣れであることを自覚している香奈にとって、チョコマフィンを無事に作り終えるためには母の協力が必要不可欠だ。もちろん主な作業は自分で行うつもりだが、ちょっとした監督役をお願いしたいのである。
「それでね、お母さん。実は明日のバレンタインに碧人くんにチョコマフィンを渡したくて、後で作るの手伝ってくれないかな?」
「もちろんよ!材料とレシピはあるのね?任せなさい、とびきりおいしいやつ作るわよ!」
香奈にとって初挑戦となるチョコマフィン作りは、夕食を食べてから行われた。菜緒が簡単なレシピを教えてくれただけあって、それほど難しい工程はない。とりあえず、ホットケーキミックスとチョコとバターと砂糖と牛乳、それと卵を混ぜれば良いらしい。ただ、最初にすべてそのまま混ぜようとしたら、バターとチョコは溶かしてから入れなさいと母に止められた。特にチョコレートの方は、湯煎とやらの作業をしてもなかなか溶けなくて大変だった。その後、生地をカップに入れて、オーブンで焼く。家にある電子レンジにオーブン機能があることは知っていたが、使い方は理解できていなかったので、これも母がいてくれて助かった。余熱って何?って感じだったが、教えてもらいながらセットした。こうして、何とかそれなりにおいしそうに見えるチョコマフィンを作ることに成功したのだった。少し味見もしたが、特に問題なさそうだ。香奈は碧人がおいしいと思ってくれるといいなと思いながら、バレンタインの存在を今日まで忘れていた罪悪感もあり、普段大雑把なところもある香奈にしてはかなり丁寧にラッピングをしたのだった。
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バレンタイン当日の朝。碧人は、香奈から少し早めに駐輪場に来てほしいとメッセージを受け取った。もしかして、とウキウキしながらかなり早めに教室に着くと、少ししてから香奈がやって来た。そして、香奈は恥ずかしそうに、キレイにラッピングされた袋を取り出す。
「その、これ、バレンタインのチョコです。朝に渡すのもどうかと思ったんだけど、一応、学校にお菓子持ってきちゃだめだから、せめて先生がいない朝の駐輪場で、と思って」
この学校ではバレンタインチョコは黙認されている。それなのに、つい人目を気にしてしまう香奈の真面目さを可愛らしく思いながら、碧人は彼女からのバレンタインチョコをもらえるという状況に大いに喜びしながら、その袋を受け取った。すると、おや、と気づく。このラッピング、最初はキレイすぎてお店のやつかと思ったけど、これはもしや……。
「まさか、手作り……!?」
「あ、実は、そうなの。私、料理は得意じゃないから、お口に合うといいんだけど」
「合いますとも!香奈ちゃんが作ってくれたなら、うまいに決まってるって」
手作りだ!碧人は目をキラキラと輝かせた。ガッツポーズもしたいところだが、それはさすがに心の中だけにとどめておく。そして、せっかくもらえたのだから、早く食べてみたいという思いを正直に口にする。
「なあ、これ、今一つ食べてもいい?」
「今!?もちろん、どうぞ……。一応、チョコマフィンです」
香奈の返事を聞くが早いか、碧人は早速袋を開いてみる。中には、カップケーキ的な——香奈はチョコマフィンと言っていただろうか——お菓子が三つほど入っている。碧人はその中から一つとり出して、ひと口食べてみた。すると、思わず「うまっ」と声が出た。お世辞抜きに普通にうまい。横で香奈が「よかった~」とほっとしたようにつぶやいているのを聞きながら、碧人はパクパクと三口くらいでペロリと一つ平らげてしまった。名残惜しいが、あとの二つはとっておいて放課後になってから食べることにして、袋の口をとじる。
そして、碧人は香奈の方に向き直る。たぶん、今の自分の顔は、チョコマフィンのおいしさと、香奈にバレンタインチョコをもらえた嬉しさによって、だいぶ緩んだものになっていることだろう、と自覚しながら。
「香奈ちゃん、マジでありがとな。これ、本当にめっちゃうまいよ。俺、ほんと、幸せもんだわ~」
心を込めて礼を言うと、香奈は嬉しそうにニッコリと微笑んで、「どういたしまして」と返してくれたのだった。
一方、香奈は碧人の幸せそうな表情を見て、昨日の頑張りがすべて報われた気がした。まさか、こんなに喜んでくれるとは。ちゃんと手作りしてよかった~と安堵する。そして、昨日まですっかりバレンタインのこと忘れててごめんねと心の中でこっそりと謝りながら、碧人と並んで教室に向かったのだった。
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バレンタイン当日の放課後、公立高校の入学試験日が近づいてきているにもかかわらず、一部の男子たちの表情が明らかに緩んだものになっていた。どうやらチョコレートをもらえたらしい。その中には、碧人と庄司の姿もあり、彼らは親友同士で自分が彼女からもらったチョコレートの素晴らしさを互いに自慢し合っていた。
そして、その近くには、彼らの友人である浩平と信介もいる。イケメン生徒会長である浩平は、今年も多くのチョコレートをもらったらしく、慣れた様子で紙袋にチョコレートを詰めていた。
一方で信介は、そんな浩平の様子に多少引いて「うわあ……」と顔をしかめる。今年のバレンタインは、大会で良いところまで行ったバスケ部男子の人気が高いらしいと噂になっているが、その人気を受けているのは試合で活躍したエースら数人のみである。信介や宗吾ら、それほど活躍していないその他大勢は、バレンタインのバスケ部人気とはほとんど無縁である。「バスケ部の皆さんへ」と書いてある大袋のチョコ菓子くらいしかもらえていない。しかし、信介だって個人宛のバレンタインチョコを一つももらえなかった訳ではない。一応、一つはもらえたのだ。そのチョコレートには、きれいな手書き文字で大きく「義理」と書かれた紙が書かれている。信介は「ったく、あいつなあ」と言いながらも、どこか嬉しそうに「義理」チョコレートを手に持って眺めているのだった。
次回の更新は10/24(金)です。




