第七十七話 期待と焦り
碧人は、自分も可愛い彼女も同じ高校に行けることが決まって、すっかり人生バラ色気分になっていた。だが、そんな喜びに浸ってから数日経ったある日、いつもお馴染みのニュースキャスターが出ているニュース番組を見ながら朝食を食べていた碧人は、テレビに出てきたある単語を耳にしてフリーズした。朝早くからキラキラの笑顔を見せてくれるニュースキャスターは他の出演者たちと共に、「明日はバレンタインですねえ」と楽しそうに話していたのだ。
バレンタイン。それは、日本においては主に、恋する女性が意中の男性にチョコレートを渡すイベントとされている。最近は、友チョコ、逆チョコ、果ては自分用チョコなんてものまで流行っているようだが、やはりイチ男子中学生としては好きな女の子からチョコレートをもらいたいと思ってしまうものである。碧人も、もちろん例外ではない。男前だとされる顔立ちであるうえに、背も高く運動もできる彼は、それなりにモテる要素を持っている。だが、これまでにバレンタインチョコをもらった経験はあまりない。もらった数少ない記憶は、母親からのチョコレートや、幼稚園の時にいとこのお姉さんからもらったものくらいなものなのだ。と言うのも、これまでに彼が過ごしてきた場所には、彼以上にモテる存在が他にいたからである。
小学校時代には、イケメンで明るい性格で、運動も勉強も得意な天才少年がいた。碧人はどうしても勉強の面で勝てなかったのである。女子たちはその男子に夢中で、全員が彼にチョコを渡していた。当時はさすがにそれほど女子にモテたいとは思っていなかったが、チョコをもらえるのは羨ましかったことは覚えている。
そして、中学校に進学した。小学校時代のそのカンペキ少年は、弥生中学校ではなく私立の中学校に行ってしまったため、中学入学したての時には今年からのバレンタインは期待できるかもしれないと思っていた時期もあった。だが、碧人は、中学校に入学してからは、別のスーパーイケメンと親しくなってしまったのである。五十嵐浩平というもの凄く良い男のことである。
浩平は、運動能力でこそ碧人には敵わないが、成績優秀で生徒会長になれるほどの人望を得られる性格の良さも持っている。そんな彼と1年生の時から共に過ごしていたら、碧人の魅力も霞むというもの。浩平が良い奴すぎて嫉妬することもできなかったが、1年生2年生の時にチョコレートを大量に受け取っている浩平の横にいた彼は、一つもチョコをもらえていない自分の現状に虚しさを感じたのだった。いっそ、学校にチョコ持参を禁止してくれたら惨めな思いをしなくて済んだのだが、弥生中学校はバレンタインにはチョコが黙認されているのだ。ちなみに、このまえの修学旅行の際には碧人に告白した西野花は、去年のバレンタインの時期には顔が良いとされる他の男子と付き合っていたため、碧人にはチョコレートを渡していない。その後、1か月ほどで彼女の方から、別れを切り出したようだが。
という訳で、碧人はこれまでにバレンタインチョコをもらったことがほとんどない。そのため、バレンタインにチョコレートをもらうということに、ちょっとした憧れを抱いていた。そんな碧人が、明日がバレンタインだと気づいたことで、今年こそは自身の彼女である香奈がチョコレートをくれるかもしれないと期待することは、ごく自然なことだったのである。
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2月13日。この日の昼休み、香奈は、清水聖子に呼び出されていた。この時期にはもう既に美化委員会の活動もすべて終了しているはずなのに、いったいどのような要件なのだろうか。そう不思議に思いながら、香奈が呼び出された空き教室に向かうと、そこには美術部仲間の菜緒と羊子もいた。どうやら聖子には彼女らに相談したいことがあるらしいが、常に清く正しくをモットーにキリッとしている彼女にあるまじきことに、モジモジとして下を向いている。だが正直、この面子が揃っているということは、話題は一つしか思いつかない。おそらく、聖子の想い人である水沢信介についての話だろう。香奈の優秀な頭脳は、瞬時にそう判断して、聖子にやんわりと話しかけた。
「あの、清水さん、もしかして水沢くんに関する話だったりする?」
すると、聖子はガバッと顔を上げて、「そうなの!さすが香奈ちゃん!」と香奈の手をつかむ。言い出しづらい話題をこちらから出したことで、話しやすくなったらしい。
「ほら、明日ってバレンタインでしょう。だから、一応用意してはあるんだけど、チョコを彼に渡すべきかどうかで迷っていて……。喧嘩ばかりの私が、急にチョコなんて渡したら、迷惑かもしれないし」
聖子のその相談を聞いた瞬間、香奈は大いに動揺してした。正直に言うと、バレンタインというイベントの存在をすっかり忘れ去っていたのだ。これは、かなり大問題である。去年まではまったく関係がないものだったし、こないだまで高校入試の合否のことで頭がいっぱいだったとか、言い訳はある。だが、現在の香奈には碧人という彼氏がいるのである。碧人がチョコを楽しみにしてくれているかどうかはわからないが、バレンタインチョコを用意し忘れていたとなっては、彼女としてさすがに情けないような気がする。
香奈がそんな焦りで動揺している一方で、羊子と菜緒は、すぐさま聖子を励ました。
「あげた方がいいに決まってるよ!水沢くんが迷惑がるとは思えないんだよねぇ。ほら、音楽会でも清水ちゃんのこと慰めてくれてたしさ。絶対喜ぶって!」
「そうそう!ってか、噂話マニアである私が集めた情報ではね、卒業間近の3年生のバレンタインでは、バスケ部男子って毎年結構人気なんだって。水沢くんバスケ部でしょ?これは清水さん、うかうかしてる場合じゃないかもよォ」
羊子の言葉にはキラキラとした喜びを見せ、菜緒の言葉には焦った表情を見せた聖子は「なるほど……」と悩んでから、香奈の方を見た。
「じゃあ、香奈ちゃんも渡した方がいいって言ってくれたら、私頑張ってチョコレートを渡してみるわ!ねえ香奈ちゃん、どう思う?」
碧人にチョコを用意していない事実に気づいてボーっとしていた香奈は、急に呼ばれて一瞬動揺したが、すぐに気持ちを落ち着かせる。聖子は不安でいっぱいなのだから、今はきちんと聖子の背中を押してあげなくては。
「水沢くんにチョコレート、渡した方がいいと私も思うな。清水さんの気持ちが少しでも伝わるように、応援してるね」
香奈がそう言うと、聖子は頬をピンクに染めた。
「わかったわ。ありがとう、香奈ちゃん、皆さん。素直に渡せるかはわからないけど、私、頑張ってはみるわね」
聖子は笑顔でそう言ってから、いつも通りの美しい姿勢でその場を去って行った。しばらく、残った3人は聖子が上手くやれるといいなあと話す。だが、その後、羊子と菜緒の興味は香奈に移った。
「それで、槇原ちゃんは、もちろん彼氏にチョコをあげるんだよね?」
「同じ高校に行く仲良しカップルさんは、どんなチョコを用意してるんですか~?」
香奈はうっと言葉に詰まる。
「実は……」
「まさか……!?」
「用意してないの!?」
「……はい」
友人二人が衝撃を受ける姿を見て、香奈は情けなく肩を落とす。
「すっかり忘れてて、さっきの清水さんの話でバレンタインだって気づきました」
香奈たちと同じクラスの羊子が遠い目をする。
「さっき教室で、浦田くんが今年こそは俺たちチョコもらえるよなっ、手作りとかいいよなあって、井出くんと肩組んで笑い合ってるところ見ちゃったんだよね。あれは、彼女からチョコをもらえると信じて疑ってない感じだったなあ……」
それを聞いた香奈はバレンタインのことを忘れていた罪悪感で胸がいっぱいになりながら、「て、手作り……!?」とつぶやいた。正直、料理は得意ではないのだ。菜緒が香奈の肩をつかむ。
「香奈ちゃん、まだ間に合うよ。ありがたいことに、今はもう私たち3年は速めに授業終わるし、今日のうちに全然用意できるもん!大丈夫、簡単でおいしいチョコマフィンのレシピ知ってるから、それ教えてあげる!」
香奈は「ありがとう……!」と言って、感謝したのだった。
次回の更新は10/17(金)です。
本作は、次回を入れてあと4話で完結となります。あと少々、お付き合いいただけたら嬉しいです。




