第七十六話 合格
入学試験の前日。香奈と碧人は、普段通りに駐輪場まで二人でゆっくりと歩いていた。いつもと同じようにおしゃべりをして、いつもと同じように笑い合う。いつも通り、いつも通り。心の中でそう繰り返し唱えながら、自然な笑顔を作る。決して、無理をして笑っているつもりはない。隣に碧人がいてくれれば、それだけで嬉しいのだから。そう思っていたら、碧人が不意に立ち止まった。
「なあ、香奈ちゃん」
名前を呼ばれて、なぜか、変に真剣そうな表情でじっと顔を見つめられた。いったい、どうしたのだろう。香奈は不思議に思って、首をかしげて碧人の顔を見上げながら、彼が言葉の続きを発するのを待った。
「もしかして……もしかしてなんだけどさ、緊張してる?」
「え?」
香奈は急な碧人からの質問に、上手く返事ができなかった。緊張していることは上手く隠しているつもりだった。それなのに、見破られてしまったため、驚いたのである。
昨日までは、本当に全く緊張していなかったのだ。だが、今朝教室に入って、黒板に「A高入試まであと1日!」と書いてあるのを見た瞬間、だめになった。突然、緊張に襲われたのだ。だが、香奈は不意に思ってしまったのだ。入試に緊張してるって碧人に気づかれたくないな。余裕な感じでかっこよく、試験で良い成績をとりたいな、と。
香奈にとって、勉強は碧人にかっこつけられる唯一のものなのだ。自分の彼氏である碧人はイケメンで優しいのはもちろんのこと、野球部部長をしていただけのことはあって、スポーツ万能でリーダーシップがあるうえ、緊張とも無縁そうで、からっとした明るい性格で周囲を盛り上げることもできる人だ。そのため、正直に言うと、少し勉強が得意である以外に大した取り柄のない自分は、碧人とは釣り合わないのではないかと思う時が、たまにある。だが、そんな弱音を口に出すのは、自分を好いてくれている碧人にも失礼だ。だからこそ、勉強が絡む場面だけでもいつもより堂々とすることで、碧人と一緒にいても恥ずかしくないかっこいい人間に少しずつでもなっていきたい、とそう思っているのだ。そういう気持ちを持っているからこそ、香奈は今日も、周りのクラスメイト達にも緊張していることを隠し、碧人にかっこいいと思ってもらいたいと考えていたのだ。考えていたのだが——。今回の緊張は普段の定期テストなどよりもずっと強いから、さすがに緊張していることを見破られてしまったようだ、他でもない、かっこいいと思ってほしかった相手に。
緊張なんてしてないよと言って、誤魔化してしまおうか。そう思ったが、もう一度碧人の顔を見た瞬間に、気づいた。ああ、この目はダメだ。心配してくれている碧人は、こんなに真っすぐにこちらを見つめているのだ。たぶん、誤魔化されてくれない。香奈は腹を決めて、碧人に打ち明けることにした。ただし、碧人にカッコつけたい欲が消えたわけではないため、あくまで軽い調子で。
「いやあ、碧人くんに隠し事はできないんだね。大丈夫なふりをしてたんだけど、気づかれちゃったか。うん、私、緊張してるみたい」
すると、自分でもびっくりした。さっきまでは緊張していても、それを隠そうとできるくらいの余裕はあったのはずなのに、急にひどく緊張感が高まってきたのだ。緊張していることを言葉にしたことで、自分が緊張しているということを先ほどまで以上に強く感じてしまったようだ。さっきまでは笑顔を作れていた顔が、強張ってしまったこともわかる。そんな情けない自分を碧人にあまり見てほしくなくて、つい顔を下に向けてしまった。
「香奈ちゃん……」
碧人の顔も見ないで下を向いて、困らせてしまっているだろうか。そう反省しつつも、香奈はなかなか顔を上げられなかった。すると、碧人が動く気配がした。何だろうと思っていると、下から自分の顔を見上げる少年の顔が目の前に現れた。碧人がしゃがみこんだのだ。突然の碧人の行動に驚いていると、碧人はしゃがみこんだまま香奈の両手を握った。
「よし。これなら、香奈ちゃんの顔がよく見えるな」
「えっと、碧人くん……?」
香奈が困惑していると、碧人が「あのな」と口を開いてニヤっと笑う。
「オススメの緊張解消法があるんだよ。俺って能天気に見える方らしいんだけど、実は野球部のエースとしてのプレッシャーって結構緊張するもんでさ。そんな時によく使ってた方法だから、よーく効くこと間違いなし!」
「え、碧人くんって緊張してたの?意外……」
「やっぱり、香奈ちゃんにも俺のこと能天気野郎だって思われてたか~。俺だって、緊張くらいするって~」
碧人は心外だ~と言いつつも、おもしろそうに笑う。
「いいか、香奈ちゃん。緊張した時は、褒められた時のことを思い出すのがいいんだぜ。そうすると、自然と自信が出てくんの」
「な、なるほど……?」
碧人が紹介してくれた緊張解消法はシンプルなものだった。碧人には悪いが、そんなことで本当に緊張を解消できるのか、疑わしく感じてしまう。そう思っていたら、碧人が再びニヤっと笑った。
「という訳で、今から俺が、香奈ちゃんのことを褒めます!」
「え?」
「香奈ちゃんは、作文も得意だし、文章読むのも計算も早いし、リスニングもできるし、めっちゃ頭良いいし、天才だし、俺からしたら全教科できすぎてすごくて、まじでかっこいい!あとは、かわいくて、優しくて、絵も上手くて——」
「って、ストップストップ!なんかすごい照れくさいし、最後の方、入試とか関係ないよね!?」
香奈は碧人からの褒め言葉連続攻撃に降参した。こんなの恥ずかしすぎる。そう思って眉をしかめて見せると、碧人は「ごめんって」とまったく悪いとは思っていなそうな顔で謝った。
「でも、なんか元気出てきただろ。自信ついたような気がしない?」
そう言われてみれば、たしかに、自信が出てきた気がする。「天才」、「頭良い」、そして何より「まじでかっこいい」と言う碧人からの褒め言葉は、香奈の心にすとんと届いた。不思議なことに、緊張もだいぶ薄れている。
「あれ、本当だ……」
「だろ~」
本当にこの彼氏には敵わないな、と香奈は思う。そして、今度は無意識に自然に浮かんだ笑顔を、碧人に向ける。
「ありがとう、碧人くん!私、もう大丈夫だ!」
「おう、よかった!」
こうして碧人に自信をもらった香奈は、元気に家路に着いたのだった。そして、家に帰ると、受験前の直前準備をしてから、早めに寝た。明日持って行く用の鞄の中には、クリスマスに碧人からもらった学業お守りがしっかりと入っている。
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A高校受験本番の日。香奈はお守りを握りしめて会場であるA高校の校舎に入った。そこには、同じ中学の生徒たちも多くおり、その中によく見知った顔を見つける。
「五十嵐くん、おはよう」
「ああ、おはよう。槇原さん」
香奈は、手に持ったお守りを浩平にも撫でさせてあげて、ご利益を分けておく。碧人にも、浩平にもよろしくと言われているのだ。そして、互いに頑張ろうと言い合って、それぞれの座席に着いた。
試験をすべて終えた香奈は、試験教室を出た。緊張しきっていた昨日よりもだいぶリラックスして試験を受けられたからか、テストはどれも良い感じだった。これは、碧人に感謝しなければ。少し廊下を歩いていくと、同じく試験を終えたばかりの浩平と上手く合流できたので、手応えを報告し合った。どうやら、浩平もそれなりに満足のいく解答を書くことができたようだ。
話しながら二人で会場を出ると、校門の前で碧人が待っていた。前々から、試験が終わったら迎えに行くからな、と言っていたのだ。
「よっ、二人共、上手くいったかー?」
香奈と浩平は、碧人に笑顔で走り寄ったのだった。
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2月10日10時。A高校の入試結果の発表日だ。合否の結果は中学に来るらしい。そわそわしながら待っていると、田中先生が昼休みに3組の教室にやって来て、A高校を受験した10人ほどが職員室に呼び出された。職員室で、結果が書かれた紙が手渡される。——結果は、合格だ。隣にいる浩平の顔を見ると、にっこりと笑顔を見せたので、浩平も無事合格したようだ。ただし、その紙には合否結果しか記されていない。クラスや特待生がどうなるかはまだわからないのだ。
すると、田中先生が香奈と浩平をこそっと呼び寄せた。
「二人はね、特待生で合格ですよ。特に槇原さんは、あなたが目標にしていた一番上のランクの特待生ね。槇原さんも、五十嵐くんも、頑張ったわね」
特待生と言うことは、それだけで二人共自動的に一番上のクラスであることが決定だ。香奈と浩平は互いの顔を見合わせて喜んだ。
その場には合格の生徒も不合格の生徒もいるから、合格しても騒いで喜んではいけない。3学期の始業式の時からそう言われてきた生徒たちは、しばらくすると静かに職員室から教室へと戻った。香奈と浩平も、同様だ。そして、廊下から碧人を呼び出して、嬉しい結果をコソっと報告した。来年のA高生になることが決まった3人は、静かに喜びを共有し合ったのだった。
次回の更新は10/10(金)です。




