第五話 隣の席の忘れん坊
今日から新しい席だから少し不安だな。香奈はそう思いながらも、自分の近くの席になった人気者の彼らが、暗くて地味な自分にわざわざ絡んでくることはあまりないだろうから、きっと穏やかな日常を続けられるはずだという謎な自信を持っていた。ネガティブなのか、ポジティブなのかわからない思考回路である。
香奈が席に着いていつものように読書を始めてしばらく経つと、彼女が読む本のページに誰かの影がかかった。本が読みづらいなと不快に感じて、その影の原因を確かめるために思わず顔を上げると、そこには小柄な香奈から見るとかなり背の高く見える人物が経っていた。高身長なうえに、屋外でのスポーツによって中学生にしてはしっかりと鍛えられた体格と健康的に日焼けした肌を持つ彼は、整った精悍な顔立ちをした少年だった。皆の人気者である浦田碧人である。
やばっ!本の影の原因を見ようと思って顔を上げたから、眉間にしわが寄ってたり、眉毛しかめてたりしてたかも。この人にガンつけてるとか思われちゃったら大変だ!いじめられるかもしれない~。
香奈は、うかつに顔を上げてしまった自分のことを恨みつつ、自分が碧人に与えた悪い印象をなんとか挽回しようと考えた。彼はイケメンではあるが、大柄だし怖そうだ。こんな相手に喧嘩を売ったとでも勘違いされたら非常に困る。そこで香奈が思いついた作戦は、なるべく彼に愛想よく挨拶をすることだった。笑顔を向ければ、香奈は碧人に敵意を持っていないとわかってもらえるはずだと考えたのである。そこで、香奈はコミュ障なりにではあるが全力の笑顔と愛想を碧人に向けた。
「お、おはよう、浦田くん!」
「…………おはよう!!」
碧人はしばしの間沈黙していたが、香奈から挨拶をされた数秒後には彼女に「おはよう」という言葉を返した。何も言わずにたっぷり5秒くらいじっとしていた彼の様子が不動明王のように恐ろしく見えたため、碧人に地味な女子のくせに睨んできやがってとか思われているのかもしれないと考えて、香奈は多少の恐怖を感じていた。しかし、しばらくすると彼が挨拶をきちんと返してくれたので安心することができた。というのも、碧人は香奈に挨拶をする時に、にこやかな明るい表情をして見せたのだ。
さすがイケメン、さわやかスマイルだなー。浦田くん怒ってなさそうだし、セーフだよね。それじゃあ、さっそく本の続きを読もうー!大柄な男子に目をつけられるのではないかという不安からすっかり解放された香奈は早くも碧人への関心を失って、読書を再開した。そのため、碧人のその後の様子にはまったく目を向けていなかった。もし見ていれば、少し頬を赤く染めながら彼女の隣に腰を下ろした碧人が「槇原さんから挨拶してもらえたぜ」と内心喜びながら、隣の香奈の顔をチラチラと数回覗き見ていたことに気づいていただろうに。
その日の一時間目から三時間目の授業は移動教室だったが、四時間目は教室で受ける社会の授業だった。実質、新しい席になってから全員でこの教室で授業を受けるのはこの時間が初めてとなるが、基本的に板書を写して先生の話を聞いていればよいだけの社会の授業では周囲の席の人が変わったからといって問題が生じることもないだろうと香奈は考えていた。真面目が取り柄の優等生の香奈は、毎回休み時間のうちから机の上に授業で使うためのノートと教科書、筆記用具などを用意する。そのため、今日もいつも通り早めに授業道具を準備していたら、唐突に碧人に話しかけられた。
「いつも早めに授業の準備してんの?えらいなー」
「あ、うん、そうなの一応ね」
香奈は急に話しかけられて驚きはしたものの、人見知りなどとは無縁そうな彼は、あまり話したことのない人間の真面目な行動が単純に物珍しかったために話しかけてきたのだろうと納得する。碧人はそうした真面目な行動をとらなさそうなので、自分とは異なるタイプの人間に興味がわいたのかもしれない。しかし、次の彼の発言は香奈を困惑させた。
「あれ、槇原さんが出してるのって歴史!?そういえば今日からしばらく歴史やるんだっけ。うわー、俺今日地理の教科書持ってきちゃったよ。授業中一緒に見させてくれない?」
頼む!と手を合わせる碧人に香奈は焦った。人気者に頭を下げさせるなんてよろしくない状況だ。早く頭を上げてもらわないという一心で、香奈はその頼みを承諾してしまった。
「うん、いいよ」
「サンキュー!助かる!」
満面の笑みで感謝を伝える碧人につられて少し笑顔になりながらも、香奈の脳裏には、あれ、この子友達多いんだから他のクラスの子から教科書とか借りればいいんじゃないの?という考えが浮かんでいた。しかし気弱な香奈には、一度受け入れた頼みを断るということはできそうにない。今回は諦めて、貸してあげよう。こんなことはそうそうないだろうし。香奈はそう考えることにしたのだった。しかし、その考えは甘かった。
五時間目の国語の授業中。
「ごめん、便覧忘れちゃって。見せてくれない?」
「どうぞー」
六時間目の英語の授業中。
「まじ、ごめん!英語も教科書忘れちゃって!」
「わかった、一緒に見ようかー」
なるほど、これは今後ずっとこうなるパターンだ。私は毎回断れずに一緒に教科書とかを見ることになるんだろうな。まあ本当に申し訳なさそうに頼んできてたから、持ってくるのが面倒だという確信犯でわざと持ってきてないとかではないんだろうけど。こうして香奈は新たな席になったことで生じた問題点に気づいた。面倒なことになったなと思いながらも、貸したくないと言って目をつけられるよりは良好な関係を保ちたいよなと考えて菩薩になることを決めたのだった。
それにしても教科書とかを一緒に見ているときに、浦田くんが妙に距離が遠かったり、顔が赤かったりする気がするんだけど気のせいかな。まあ何でもいいけど。