第一話 席替え
少し汗ばむほどの春の陽気の中、雲一つない青空が広がっている。時刻は朝の8時15分。昇降口に入った生徒たちが玄関に靴を置き、次々に教室へと向かっていく。楽しそうにおしゃべりをしている者もいれば、ダラダラと横一列に並んでいる者もいる。彼らが通うこの中学校では朝礼が始まるのが8時30分であるため、まだまだ時間に余裕があるのだ。そして、生徒たちには、多くの者たちに共通している重要なポイントがある。そのポイントとは、友だちと一緒にいることだった。
場所は変わって、3年3組の教室。あちこちで「おはよう」と挨拶を交わし合い、おしゃべりを始める声が聞こえる。どの生徒も仲の良い友人と笑顔で語り合っている。そのような状況の中、無言でぽつんと自分の席についている少女が一人。槇原香奈は今日も朝から読書にいそしんでいた。そうはいっても、香奈は決して無視されている訳でもいじめられている訳でもない。その証拠に香奈は、数人の生徒から「おはよう」と声を掛けられているし、そのたびに本から顔をあげて挨拶を返している。問題はその後に会話を続けられないことだった。
なぜ会話を続けられないのか。読書をしているのだから彼女は本を読み進めたいのではないか、という意見もあるだろう。たしかに香奈は読書が大好きだ。だが、クラスメイトと話したくない訳ではなかった。というかむしろ「昨日のテレビ見た―?」とか「今日の給食なんだろうね~?」みたいな、他の皆がしているようなおしゃべりを楽しみたいと思っているのだ。しかし、香奈がクラスメイト達とおしゃべりをすることができないのには、如何ともしがたい理由があった。その理由とは、他でもない、香奈が少しばかりコミュ障であることだった。
香奈が本を読み、他の生徒たちがおしゃべりを楽しんでいると、彼らの両親よりも少し年上くらいの優しげな女性がやって来る。このクラスの担任教師である。
「おはよう。朝の会始めるよ。日直さん、よろしくお願いしますね」
「はーい。起立、気を付け、礼」
「「「「「おはようございます」」」」」
クラスの生徒たちは元気に朝の挨拶をして、着席した。中学生三年生にしては素直な態度である。というのも、3年3組に限らず、全部で3クラスあるこの学校の3年生の生徒たちには素直な良い子が多いのだ。コミュ障な香奈がいじめられることなく安全な学校生活を送ることができている要因としては、同級生たちに恵まれたという点も大きく働いているだろう。
担任教師が今日の連絡事項を一つ一つ確認していく。コミュ障ではあるものの、勉強は得意で周囲から優等生だと見なされている香奈は担任教師の話を真面目に聞いているが、その話はいつもとそれほど変わらない。彼らが3年生となって2週間ほど経ったが、まだたいした行事は行われていなかったのだ。いつもと同じ日常、それはおとなしい香奈にとって、安心できる素晴らしいものだった。しかしその素晴らしき日常は、担任教師の何気ない一言によって、あっという間に崩れ去る。形あるものは壊れてしまう。それが世の常なのである。
「今日は6時間目の総合の時間に席替えをしたいと思います。皆楽しみにしててね~」
担任教師からの唐突な提案に、多くの生徒が嬉しそうな様子を見せる。まだ3年生が始まったばかりの4月の今は席が名簿順であるため、大多数の者が仲の良い友人と近くの席になれる可能性のある席替えが行われることを喜んでいるのだ。
ただし例外的に席替えを素直に喜べていない生徒がいた。香奈である。え、今日席替えするの!?やっとこの席に慣れてきたところだったのに。席替えして、怖そうな子とかすごい絡んできそうな子の隣になったりしたらどうしよう…。すっごく不安だよ~。
この日の給食そして昼休みの時間の3年3組の教室は、この後に6時間目に行われることになっている席替えの話題で持ちきりだった。女子同士で「隣になろうね~」とか「〇○くんの隣になりたい~」とキラキラした顔で言っていたり、男子同士で「お前〇○さんに隣になろうって言って来いよ」とか「絶対一番後ろの席がいい」と楽しそうに騒いでいたりしていた。その間も香奈は、席替えへの不安を感じていたのだった。
そしてあっという間に6時間目。席替えをする総合の時間になった。6時間目開始のチャイムが鳴ると、クラスの中でも目立っている元気なタイプの少年が勢いよく手を挙げ、期待に満ちた顔で皆が気になっていたことを聞いた。香奈は、彼とは1、2年の間には同じクラスになったことがなかったので、その少年に対しては顔は見たことがある騒がしそうな子という認識しか持っていなかった。
「先生、席替えは俺たちで好きに決めてもいいんですか~?」
「ううん、くじびきだよ」
担任教師は彼の質問に、ニヤっと不敵な笑みを浮かべてそう答えた。それを聞いた生徒たちは「え~、いやだ~」とブーイング。くじびきでは自分の好きな相手と隣になるなどは難しくなってしまうからだ。しかしそこは素直で良い子の3組の生徒たち。ブーイングもそこそこに、誰が自分の隣になるんだろうと、くじびきの結果を楽しそうに想像し始める。ちなみに香奈は相変わらず不安そうだ。
生徒たち一人一人が番号の書かれた小さな紙きれを一枚ずつ引き終わると、彼らは担任教師が黒板に書いた番号の並びに従って、自分が引いたくじの番号の席に移動し始める。香奈は13という番号が書いてあるくじを引いたので、担任教師が6×6列で書いた番号の並びによると、前から2番目、黒板に向かって右から4番目の席になるようだ。
私の隣になるのは12番を引いた人か。誰になるんだろう。仲良くなって友達になりたいなって気持ちもあるけど、あんまり絡んできそうな騒がしそうな子は怖いし…。話しやすい穏やかな子と隣になりたいな。そう思っていたところ、香奈は不意に声を掛けられた。
「槇原さん、13番?俺12番引いたんだ、よろしくな~」
「よ、よろしく。え…。」
香奈は隣の人と仲良くなろうと頑張って口角をあげることを意識しつつ、顔をあげてその声の主に返答したが、顔を上げた先にいた人物を見て絶句した。香奈によろしくと声をかけてきたのは、先ほど手を挙げて担任教師に質問していた彼。どう考えても穏やかというよりは、すごく絡んできそうな、騒がしそうなタイプのクラスメイトだったのである。