9.
ある日の午後だった。
思いがけずに、あっさりと。
ぼくは、三人目の五島万と顔を合わせた。
その日、五島万のスケジュールは立て込んでいた。
基本的に、五島万は無茶な注文も断らない。
代理原稿も、急な増ページでも、なんでもござれ。
やってきた敵をバッタバッタと斬りふせる、荒武者のような作家である。
サキさんはホスピタルを離れ、ウナギの寝床の仕事場で缶詰になることになった。
「昼になったら飯をひとり分、縁側に出しておいてくれ」
出がけに、僕にそう言いつけていった。
もう彼女の存在を、隠す気はないようだ。
昼過ぎにニレイさんから、呼び出しがかかった。
この人には多少の放浪癖がある。一か所に腰を落ち着かせるということがない。
電話で頼まれた資料を図書館で複写し、ニレイの滞在している横浜のホテルに届ける。
そこまでは車で移動した。
ニレイさん名義のアウディを使う。
事故で指をうしなったニレイさんは、運転をやめてしまった。
キーはぼくに預けっぱなしだ。
「ごくろうさん」
書きあげた原稿と、中華街で衝動買いしたという肉まんを半ダース手渡される。
今回ニレイさんが原稿用紙代わりに使ったのは、ホテルの便箋だ。
部屋の備品のボールペンは滑りが悪かったのだろう。
いつも以上に読みづらい。
すべての用事を済ませて帰れば、もう夕方だ。
家を出てから約4時間。
彼女が油断をするだけの時間は、十分あったということだ。
ひんやりとした板張りの床に、仰向けになって。
豪快すぎる大の字で。
彼女は眠っていた。
静かだった。
開けられた窓から入る風が、微かにそよいでいる。
彼女は白いワンピースを着ていた。
呼吸するたびに、微かに上下する薄い胸。
その胸元についた醤油のシミ。
そんな人間らしい印がなければ、死体か人形にでも見間違えただろう。
長く伸ばした髪がかかって、顔を隠している。
表情が見えない。しかし膝下丈のスカートから覗く、しなやかな両足が彼女の年齢を教えてくれる。
十代半ばといったところか。
髪を結んでいたであろう青いリボンは、ほどけてかたわらに落ちていた。
蝶々のようだ。
投げ出された右手の指先は、赤いインクで染まっていた。
やはり、この少女が金釘文字の五島万なのだ。
待合スペースには、ホスピタルでいちばん大きなテレビがある。
昼食を取りにきて、なんとなくテレビを見ているうちに眠くなってしまった。
そんなところだろう。
ふわり。
音もなくミカさんが現れた。
羽をひろげ、彼女の頭上をクルクルと飛び回る。
間違いなく、ミカさんはその時歌っていた。
たぶん子供っぽく得意げに。
よくやく彼女を見つけた、のろまな僕を笑うように。
不思議なことに、この少女は随分とウチの神様に気に入られていた。
そして満足したのか、再びミカさんは姿を消した。
さてキッチンに入るには、どうしても彼女の脇を通らなければならなかった。
抜き足、差し足。
しかし僕は、手に荷物をふたつ下げている。
台所への敷居をまたいだ時に、足音を立ててしまった。
「…………」
しかし、少女はピクリともしない。
そうとう眠りは深いようだ。
キッチンで僕は米を研ぎ、夕食の準備をはじめる。
台所と待合室を隔てるのは、レースの暖簾だけだ。
「くしゅん」
小さなくしゃみの音が聞こえた。
いまは十月も半ば。
きょうは温かい日だったが、それでも心配になるほどの薄着だ。
もう日はくれている。
体が冷えて来たのだろう。
僕は窓をしめる。
そして急いで奥の部屋の押し入れから、タオルケット持ってきた。
ふわりと、それを彼女の体にかけたその瞬間。
「…………ん」
彼女がパチリと目を開けた。
まだ夢の半ばにいるのだろう。まばたきを繰り返す。
「おはようございます」
声をかけてみた。
「――――!!」
ようやく彼女は、自分の置かれた状況を把握したようだ。
長い髪から覗く、耳がたちまち真っ赤になった。
人間いざとなれば、こんな動きができるのだと感心する。
ダンッと大きな音を立てて。
まるでバネの入った人形のように。
大の字の状態から、彼女は撥ねて立ちあがった。
しかし勢い余って、ドスンと尻もちをつく。
「大丈夫ですか?」
僕が差し伸べた手は、パシッと払われた。
まるで猫だ。
「ううっ」
彼女は、僕の持ってきたタオルケットを、頭からかぶってしまった。
穴があったら入りたい。
そんな気分のようだ。
そのまま逃げるなら、引き留めないつもりでいた。
けれど彼女は、その場でグズグズしていた。
この子だって分かっているのだ。
ひとつ屋根の下にいるのだ。
ぼくとずっと顔を合わせないわけにはいかない。
引きこもりきりの彼女だが、その生活は案外規則正しい。
そのことをぼくは知っていた。
超夜型のサキさんとは真逆のサイクルだ。
ちゃんと朝起きて、夜眠る。
ぼくとは行動時間がバッチリ重なる。
ぼくが起きている間中、息をひそめているのは相当なストレスだったろう。
はじめまして。
そんな白々しい挨拶はしたくなかった。
ぼくは、この人とはずっと仕事をしているのだ。
初対面という気が、まったくしない。
グシャグシャと絡まった原稿用紙を通して、ぼくは彼女のことを良く知っていた。
自由奔放に筆を走らせるニレイさんの手綱をとり、娯楽小説のプロに徹したサキさんと同等に渡り合う。類いまれなる構成力をもち、ひとつの作品をまとめあげる……
それがぼくの知る、金釘文字の持ち主、五島万の最後のメンバーだ。
正直、その正体には驚いた。
目の前にいるのは、警戒心丸出しの子猫のように、ちんまりうずくまる少女だ。
ひどく子供っぽく、頼りなく見えた。
「先生、ニレイさんから下書きを預かってきました。ご確認ください」
彼女の前の床に、そっと便箋に書きつけられた原稿の束をおいた。
そしてぼくは傍らにしゃがみ込む。
沈黙が続いた。
ややあって、小さな声が返ってきた。
「……先生?わたしのこと?」
「はい」
他に誰がいるんだ。
「それ、やめて」
やっと彼女は、タオルケットをとって顔を見せてくれた。
先ほどからの様子から、か細いタイプだと予想していた。
だが予想は裏切られた。
きりりとした眉と目元。
彼女は凛としていた。
「…………」
彼女が立ち上がった。
僕の渡した下書きに目を落とす。
上背はないが、すらりと写る細身の肢体。
長い黒髪が映える、ぬけるように白い肌。
武家の子女。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
薙刀なんかが似合いそうだ。
彼女は原稿から目をあげず、頑なに僕と目を合わせようとしない。
耳はまだ赤いままだ。
凛々しい見た目。
頼りない中身。
なんともアンバランスだ。
彼女が原稿を読み終えるを待って、僕は尋ねた。
「先生はだめですか。なんとお呼びすればいいですか?」
「……ぁ」
小声過ぎて、聞き取れない。
「え?」
「アリアです!」
ありあ。
どういう字を書くんだろう?
純和風の見た目に反した、意外なバタ臭い名前。
本名なんだろうか。
そして名字は教えてくれないのか。
「アリア先生」
そう呼んでみた。
彼女は眉間に皴を深く寄せる。
「先生は、いらない」
「アリアさん」
「……もうそれでいい」
「僕はセイです。渋沢征 (しぶさわ せい)。少し前から、ここで働かせて貰ってます」
「知ってる……ジッと見ないで。作業できない」
そう言って、アリアはぼくをその場から追い払った。
ぼくは台所に引っ込んで、夕飯の支度の続きをした。
背中で気配を探っていたが、彼女の集中力は大したものだった。
仕事となると、切り替わる。
「ペン貸して」
動いたのは、ぼくのところに文房具を取りに来たときだけ。
あとは床に腹ばいの姿勢で、原稿と向き合っていた。
まず何度も繰り返しニレイさんの原稿を読む。
そして一気呵成。強い筆圧で、原稿に細かく指示を入れていく。
最後になんどか見直して、作業完了だ。
「いったんサキ君のところに、送って」
サキ君。
軽く10は年上のサキさんのことを、彼女はそう呼んだ。
ふたりは対等な仕事仲間だった。
ニレイさんの書いたベースを元に、アリアが作品の枠組みを決める。
サキさんは、それを小説という形に起こす。
そこから何度もサキさんとアリアの間でやり取りがあり、原稿は完成する。
とても非効率的な方法で、五島万の小説は作られている。
言いつけどおりにコピーを取り、FAXを送信する。
そしてアリアに声をかけた。
「お疲れ様です。肉じゃがも煮えてます。すぐに飯にできますよ」
「……いい。お腹減ってない。あとで、わたしの部屋にもってきて」
言い終わるか、終わらないかのうちだった。
きゅう、と彼女のお腹の虫が鳴いた。
「デザートに、谷さんが持ってきたメロンも出しましょうか」
「……果物はいらない」
覚悟を決めた表情で、アリアはキッチンテーブルについた。
翌日の午後、アリアはぼくのいるキッチンに姿を見せた。
「これ、今日の分……夜までに仕上げて」
相変わらず、目を合わせようとしない。
サキさんは、まだ缶詰から帰ってこない。
アリアは仕方なく、自ら清書前の原稿を持ってきたのだ。
昨日と服装はまったく同じだ。
醤油のシミ付きのワンピース姿。
なぜか髪飾りだけ変えている。
きょうのリボンは白だった。
アリアはブラジャーをつけていない。
きのうから、そのことに気づいていた。
襟ぐりの深い胸元から、白い肌が覗いている。
ぼくに対しての緊張はまだ解かない。
しかし肝心なところは、まったく無防備だ。
「寒いでしょう。これを着てください」
買いたてホヤホヤ。近所のイトーヨーカ堂で1,980円。
ピンクのカーディガンを手渡す。
「ありがとう」
小さな声でお礼を言って、アリアはそれを着てくれた。
翌日。
時計の針は15時をさしていた。
ぼくはキッチンで、先日ニレイさんからもらった肉まんを蒸していた。
「アリアさんも、一つどうですか」
「……食べる」
「お茶を淹れますね」
ふたりで肉まんを食べているところに、ニレイさんが戻ってきた。
向かいあって座る、ぼくとアリアをみても驚きはしない。
「おや、すっかり仲良しだねえ」
「はい」
「…………」
にこやかに答えた僕を、アリアが呆れ顔で見やる。
「はい、セイくんへ横浜みやげの追加だ」
どこが横浜名物なんだ。
ニレイさんからポンと手渡されたのは、ハンカチ。
これまた、洒落た格子柄だ。
「大切に使わせていただきます」
これで、僕がニレイさんから貰ったハンカチは三枚目。
この家にきてひと月。なかなかのペースだ。
いまに引き出し一杯になってしまう。
「アリア君にはこれ。掘り出しもんだ」
ちいさな紙袋から出てきたのは、髪留めだった。
キラキラとしたビーズのついた、安い駄菓子のような髪留め。
「ありがと」
アリアはすぐにそれを髪につけた。
不思議とよく似合う。
「やっぱり女の子はおしゃれをしないと」
満足げにニレイさんは微笑む。
サキさんへのお土産もちゃんとあった。
ラッキーストライクが一箱。
間違いなく、その辺のタバコ屋で買ったものだろう。
日比野 亞璃亞。
年は十五歳。今年中学を出たばかりだ。
高校には通っていない。
彼女のフルネームと年齢を、ニレイさんから聞きだした。
日比野という名字には、聞き覚えがある。
「じゃあアリアさんは、あの……」
「うん、そうだ。ぼくの元奥さんの娘」
ニレイさんが頷く。
日比野 みちる。
ニレイさんの元妻だ。
少女歌劇団の出身で、愛くるしい丸顔の美人女優だ。
年を重ねてからは、ホームドラマやCMで母親役を演じることが多かった。
娘のアリアとは、あまり似ていない。
ニレイさんと元妻は別れてからも、友人として交流があった。
その日ニレイさんは、元妻の運転する車に乗っていた。
そして事故に遭った。
ニレイさんは顔と手に傷を負った。
日比野 みちるは助からなかった。
アリアとニレイさんには、血の繋がりはない。
けれどアリアは過去にも、ニレイさんと生活していた。
「みちるちゃんと別れてから十余年。アリア君と再会したのは、ついこの間だ」
十年以上、ニレイさんはアリアと一度も会うことはなかった。
「いまさら父親面する気はないよ」
そう言っても、ニレイさんはアリアを冷たく突き放さない。
再会してからは、年上の仕事仲間として、穏やかに彼女に接していた。
アリアもニレイさんとのいまの関係を、心地よく思っているようだった。
彼女はすべての時間を、ホスピタルで過ごす。
「最後にアリア君が外に出たのは……さて、いつのことだっけ?」
ニレイさんも首をかしげる。
あのプレハブの練習室が彼女のねぐらであり、書斎である。
母屋に来るか来ないかは、その日の作業状況とアリアの心境しだいだ。
「仕事してるか、本を読んでいるか、寝てるか……」
アリアの一日の様子を語りながら、ニレイさんはウンザリした表情になる。
彼女は孤独だ。
外でいっしょに遊ぶ友達もいない。
会いにいく家族も他にいない。
アリアの出生については、ぼくもぼんやりと知っていた。
『清純派女優に、隠し子発覚』
『選んだ 未婚の母の道』
そんな見出しが、十年以上前のゴシップ誌を賑わせた。
日比野みちるが、ニレイさんと結婚する前の話だ。
アリアは父の顔を知らない。
女優の母の手一つで育てられた。
母親が亡くなった当時、アリアは中学三年生だった。
全寮制の学校に入っていたアリアは、卒業と同時にサキさんを訪ねてきた。
十年ぶりの再会だった。
「アリア君の祖父母は、田舎の常識人だ。女優になって父無し子を産んだ翔んでいる娘と、いつの間にか大きくなっちまった孫を持て余してはいた。しかし鬼畜生というわけではない」
以前の義理の両親だ。
ニレイさんは、もちろんアリアの祖父母をよく知っていた。
「アリア君を引き取って、高校に通わせるくらいの事はしてくれたと思う」
けれど彼女が頼ったのは、ニレイさんだった。
どうしても、東京で暮らしたい。何でもいいから、仕事を紹介して欲しい。
アリアは言った。
役者をやっていると、こういうケースにはよく出くわす。
特に春先だ。家出同然に押しかけてくる少年少女など珍しくもない。
そんな輩を面倒みる余裕も義理も、ニレイさんにはない。
すべてお引き取りいただく。
しかし思い詰めた様子のアリアを目の前にして、ニレイさんの気持ちは揺らいだ。
自分とは、縁がある子でもある。
そして彼女は美しかった。
演技の経験はゼロ。
内向きな性格にも難がある。
だが、何が当たるか分からないのが芸能界だ。
つてを辿って、適当なオーディションを紹介するくらいの事はしてやるか。
あとは本人次第。
ニレイさんはそう決めた。
さて、その頃にはもう、ニレイさんは五島万として活動していた。
そしてサキさんも、ホスピタルに居付いていた。
アリアに原稿を見せて、感想を求めたのはサキさんの気まぐれから出たことだ。
そこから、すべてが始まった。
三日目。
やっとアリアの服が変わっていた。
赤いサテン地のチャイナドレス。
そこにぼくが渡したカーディガンを無造作にひっかけている。
気遣いゼロの着こなしは、いっそ清々しい。
チャイナドレスには、クッキリと折り皺がついていた。
ニレイさんの役者時代の遺物。
タンスいっぱいに残された、舞台衣装。
その中から極めて適当に選びだしたものだろう。
前髪にちょこんと結んである髪飾りの青は、ドレスと全く合っていない。
アリアはストッキングもタイツも履いてなかった。
深く入ったスカートのスリット。太ももどころか水色のパンツも覗いている。
「…………」
僕はため息をついて、奥の部屋に向かう。
そしてタンスを漁った。
そこで見つけたものを引っ掴んで、アリアの元に戻る。
「これ履いてください」
僕が差し出したのは男物のトレパンだ。
こんな物でも無いよりはましだ。
「何で?」
差し出された、トレパンを見てアリアはキョトンとする。
「パンツ見えてます」
仕方がないので、ストレートに告げる。
「サイズが全然合わない」
いちおうの抵抗を示しながらも、アリアはそれを受け取った。
「ちょっと待って。向こうで着替えてください!」
止めたが間に合わなかった。
アリアは僕の眼前で、チャイナドレスのすそをめくった。
そして、スルスルとトレパンを履く。
「これでいい?」
「……はい、結構です」
まったくもう。
三日ぶりに、缶詰明けのサキさんが帰ってきた。
僕らが二人並んでいるのを見つけて、ニヤニヤ笑う。
「よう、ご両人。ようやくご対面か」
これでサキさんは、三度の飯を練習室に運ばずに済む。
「よしアリア君、これを渡しておこう」
サキさんはマガジンラックに突っ込んであったものを、アリアに向かって放り投げる。
「この男が狼藉に及ぶようなことがあれば、これを使ってやっつけろ」
伸縮式の特殊警棒。けっこう本格的な奴だ。
どこで買ってきたんだか。
「なにを言い出すんですか。そんなことするわけないでしょう」
もちろん抗議する。
「男はオオカミなのよー」
サキさんは節をつけて歌った。
音痴だ。
「股間を狙え」
余計なアドバイスも付けくわえる。
しかしその眼には、一分の本気が宿っていた。
親馬鹿の目だ。
「……」
ぼくらの下手くそな漫才じみたやりとりを、アリアは右から左へと聞き流していた。
「だいぶ伸びたな」
サキさんは、目をすがめる。
手を伸ばして、アリアの前髪を掬いあげた。
「結ってやる。あれ、持ってこい」
「うん」
アリアは棚に置かれていた、大きなクッキー缶を持ってきた。
そこには色とりどりのキラキラした髪飾りが、パンパンに詰まっていた。
「あと2缶ある。ぜんぶニレイのオッちゃんのお土産だ」
ぼくに向かって、サキさんが笑う。
ニレイさんが外出するたびに、アリアの髪飾りは増えていく。
サキさんは車の運転も、料理もしない。
しょっちゅうズボンにタバコの焼け焦げを作っている。
不器用な印象しかない。
しかし、女の子の髪を上手に結う。
アリアは、大人しくされるがままになっていた。
チャイナドレスに合わせたのだろう。
整髪料も使わずネットとピンを使って、高いお団子に結いあげる。
「意外な特技ですね」
「ここにいるときは、毎日結ってんだ。慣れちまったよ」
そう言いながら、照れたように笑う。
いまもミカさんは、僕の肩に止まっている。
その鳥の瞳で、ふたりの五島万を静かに見ていた。
「夜までには、こっちの分を終わらせる」
サキさんが書き上げた原稿を一読して、アリアはすっと立ち上がった。
すっかり仕事の顔になっている。
「飯を食ってからにしろ。ガード下んとこの焼き鳥買ってきた。セイ君に温めてもらえ」
「うん」
無意識のうちだろう。アリアの口元が緩んだ。
焼き鳥が好きなのか。
「セイさん、ご飯炊けてる?焼き鳥乗っけて食べる」
「はいはい」
セイさんと呼びかける声には、まだ幾ばくかの固さが残っている。
しかし段々ぼくという存在に、慣れてきてはいるようだった。
「向こうで食べる。持ってきて」
そしてアリアは戻っていった。
アリアの住む練習室は、もともと寝起きするために作られた部屋ではない。
夏は暑いし、冬は寒い。
とても快適な場所とは言えないらしい。
「ウチのおつうさんは健気だろう?自分を拾ってくれた、ニレイのおっちゃんのためさ。トントンはたを織りつづける」
サキさんは、そう言った。噛みつくような口調だった。
ニレイさんが小説を書く。
だから、アリアもそれを手伝う。
もしもニレイさんが大工なら、アリアは今頃カンナ屑をあつめている。
もしもニレイさんが蕎麦屋なら、アリアは出前持ちでもしているはずだ。
「あの子にとって小説は仕事だ。それ以上でも、それ以下でもない。この場所にいるためにやらないといけないノルマだ。憧れなんて、やわな感情は一切ない」
そのやわな感情100%で、動いているのがサキさんだ。
「明日にでも宝くじが当たったら、あの子は書きかけの原稿を置いてここを出ていくだろう。潮目が変わって、五島万が売れなくなったとしたら、あの子は別の仕事を探しにいくだろう」
サキさんにとって、小説は、文学は人生のすべてだ。
でもアリアは違う。小説は生活手段だ。
そのことにサキさんは苛立っていた。
「あんなに可愛い顔をしているのに、ボロを着て遊びもしない。頑固で愚かなロバのように、一日働く……そんなのが小説家だと、創作だというのかよ」
吐き捨てるように、サキさんは言った。
控えめに僕は反論を試みた。
「アリアさんが義務感だけで仕事をしているなんて、思えませんが」
嫌々やっていて、あれだけ書けるわけはない。
サキさんに、フンと鼻で笑われた。
「君がそこに見ているのは、熱意じゃない。圧倒的な地の力だ。天才なんだ。心がなくても、あれだけ書けるんだ。清書をしている、きみにも分かるだろう?」
五島万というワクがなければ、アリアはなにも書くことができない。
そうサキさんはいった。
彼女の心は、いまだ手つかずで残っているのだと。
サキさんは仕事仲間という枠を超えて、アリアのことを大切に思っているようだ。
小説家としての、アリアの実力は認めている。
けれども、孤独なアリアを現状に心を痛めている。
「高らかに歌え……そういう意味を込めて、彼女の母親はあの子にアリアと名づけた。ははは、笑える。あの子が楽しそうに歌っているところなんて、見たことがない」
取ってつけた平板な笑い。
サキさんは新しい煙草に火を点ける。
「アリア君に必要なのは、王子様だな」
「王子様ですか?」
ロマンチックな単語が急に飛び出してきた。
「呪われた屋敷から強引にあの子をさらって、どこまでも遠くへ逃げてくれる。そんな王子様がさ」
ニレイさんとサキさんは、姫君を閉じ込める悪い魔女の役回りなのか。
「強引にって……それじゃあ王子じゃなくて山賊だ」
「さて。セイ君。そこに直れ」
急に分別臭い口調を作る。
これは、面倒くさいことを言い出すに決まっている。
「……なんでしょう?」
「可愛いだろう」
「まぁ、そうですね」
それは同意だ。
アリアは口数は少ないが、表情は豊かだ。
数日間をともに過ごして、それに気づいた。
しかし、次の質問にはうなずけなかった。
「惚れたか?」
「惚れません」
ここにアリアがいなくて良かった。
「男と女がひとつ屋根の下だ。そのうちデキる」
「デキません。少しくらい、ぼくを信用してください」
雇用主におイタをして、何もかもぶち壊しにする気などない。
「だいたい彼女が、ぼくになびくわけないでしょう!!」
しかし相変わらずサキさんは、ぼくの方を胡散臭げに見つめている。
まったくもう。
感性とか才能とか、そんな不確かで、やわなものなどアリアは信じない。
そんなものだけでは、他のふたりと肩を並べることなどできない。
読んでいるか、書いているか、調べているか、考えているか……すべての時間を、書くため使っていた。
生活なんてものは、彼女にはなかった。
たった15歳。アリアは自分が、若くて、なにも知らないことを、痛切に感じている。
だから、それをなんとか解消しようともがいている。
夕方の待合室、明かりも付けずにアリアは床に寝そべりページをめくる。
ボロボロの背表紙の分厚い本、アリよりも細かい文字を熱心に追う。
中指にはペンだこができ、常にインクで汚れている。
クスリとも笑わずに、待合室で深夜のテレビ番組を見ている。
ぼくとサキさんの他愛もない無駄話に、そっぽを向きながらもじっと耳をすませている。
ヨレヨレの服を着る彼女は、常に何かを探していた。