8.
ニレイさんは41歳。
サキさんは29歳。
演劇の道を歩いていた、ニレイさん。
まっすぐに小説家を目指してきたサキさん。
ふたりの出会いは一年前にさかのぼる。
ニレイさんの事故がきっかけだった。
「事故で顔が焦げました。だから俳優は引退します。ハイ、さようなら……というわけにはいかなかった」
ニレイさんは述懐する。
所属する芸能事務所に、参加している劇団……さまざまなものが、人気俳優の肩に乗っかっていた。
「まとまった金が欲しかった。手切れ金というやつだ」
そのとき方城社が、ニレイさんに自叙伝の執筆を持ちかけた。
小金が稼げる。
ニレイさんは、それに乗っかった。
「そして方城社からサキ君を紹介された。執筆のお手伝いをしてくれるってね」
お手伝い。
いやそれ以上の役目を、サキさんは担うはずだった。
「あのアイドルのエッセイ集も、このスポーツ選手の人生論にも、ちょいとばかり噛ませてもらった。俺の名前は、本のどこにも載ってないが」
あくまでもお手伝いだと、サキさんは言った。
「ゴーストライター?いやいや半死人程度さ。ゾンビの俺がご注文通りの品を、時間厳守でお届けだ」
その仕事でサキさんは、なにも創造しない。
与えられた材料から、依頼主の満足のいくものを生成する。
サキさんは、うまくやった。
彼らの気持ちを程よく汲み取り、そつなく仕上げた。
皆さん、案外図々しい。
著者の有名人たちは、今では一から十まで、自分ひとりでその一冊を書いたと記憶しているくらいだ。
「必要なのは小手先のワザと、勤勉さだ。サラリーマンが報告書をまとめるのと変わりない」
華やかな人生など、何もかも型通り。
無味乾燥な帳簿の数字と同じだ。
しかしニレイさんと出会って、サキさんの価値観はひっくり返された。
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「俺が小説家になりたかった理由?単純だ」
小説のことを話すときは、サキさんは目を輝かせる。
しかし自分のこれまでを話すときは、唇を皮肉に歪めた。
「俺は元々、田舎の優等生だ。高校時代は生徒会会長。バスケットボール部ではレギュラーだ。弁論の大会では学校代表にも選ばれた」
当時のアルバムを見たい。
いまのサキさんからは、想像もつかない爽やかな高校時代だったそうだ。
青白い顔色。こけた頬。そり残したひげ。ヨレヨレの服。
いかにも小説家らしいいまの姿は、あとあと選んで身に着けたものだ。
「優等生といっても、天才とはほど遠い。勉強もスポーツも音楽も、十人並み。ハンサムに生まれついた訳でもない。でも、何か素晴らしく、とてつもなくカッコいいことがしたかった。この世に生まれたからには!」
そして、十代のサキさんは小説に出会った。
衝撃的だった。
「汚いもんと、綺麗なもんと。強さと弱さと、賢さと愚かしさ。人の心の全てがそこにはあって。そこに切り取られた風景は、無限だ。夢も現実も、いまも未来もぜんぶ詰まっている」
そしてサキさんは、本の虫になった。
やがて自分でも、創作を始めた。
「芥川、川端、太宰……現国の教科書に載っていた白黒写真の彼ら。それが、俺の綺羅星だ。自分も、彼らのようになりたかった」
サキさんはここ三年間、自分名義の活動はしてない。
「俺には憧れしかなかった。軽薄な、芯がない軟派もんだ。空っぽだ。書きたいことなんて、何にもない」
長いため息をついて、束の間サキさんは沈黙した。
そして陰々滅滅と吐き出す。
「俺は文学を愛している。報われない愛だ」
サキさんを知る人は、口をそろえて言う。
あの人は小説家になんてならない方が、よっぽど楽しく生きられただろうに。
高校を卒業すると、サキさんは東京の大学に進学した。
小説家を多く輩出している、私立の文学部だ。
1979年。
学生運動は、だいぶ前に終わっていた。
サキさんの理想より、もう随分と時代の空気は軽薄だった。
夜通し文学を語り合う仲間も見つからなかった。
文庫本を懐に忍ばせ、ジャズ喫茶でコーヒーを飲んでも様にはならない。
残念ながら、アルコールは体質的に受け付けない。
味気ない毎日。
「大学なんて、中退するほうが偉いんだ。でも、どこまでいっても俺は小市民だった。きっちり四年で卒業しちまった」
卒業後に進む道は考えたくなかった。
小説家になりたい。他のものにはなりたくない。
卒論よりもよほど気を入れて、長編小説を書いた。
しかし、新人賞の二次審査どまりで終わった。
「すっかりさっぱり諦めて、市役所にでも勤めれば良かった」
でも、サキさんは諦めきれなかった。
どんな形でもいい。
物を書く仕事がしたい。
サキさんは、小さな広告代理店に就職した。
一行書けば、ギャラ一億。
売れっ子コピーライターともなれば、それが相場と言われていた。
小説界でも、コピーライターからの転身者が次々とスターになっていった。
都会的。最先端。新しい風。
彼らの作品はもてはやされていた。
だが、サキさんからしてみれば絵空事だった。
「大手以外の広告マンになんて、なるもんじゃない。泥を食ってはいずり回る日々が始まった」
とにかく忙しい。二徹三徹は当たり前だった。
任された仕事は、創造的とは程遠い。
パチンコ屋のチラシや、会社のパンフレット制作がサキさんの主な仕事だった。
「その時代の経験も、いま役に立っているわけだが」
僕がここに来るまで、サキさんはホスピタルの雑事を一手に引き受けていた。
五島万の事務周りの仕事に、細々とした生活の手配まで。
それもサラリーマン時代に培った能力だ。
サキさんはサラリーマン生活で消耗しながらも、小説を書き続けた。
「三年かかって、やっと新人賞が獲れた。でも、しばらく会社勤めは続けた」
サキさんの小説は、娯楽路線な五島万の作風とはまるで違う。
「ボインな姉ちゃんは出てこない。チャンチャンバラバラもない。名探偵も登場しない」
とがってもいない。派手でもない。
けれど、サキさんのデビュー作は凡作ではなかった。
主人公はサキさん自身を投影させた、青年だった。
繊細な感性を、ゆるりとしたユーモアが包む。
吹き抜ける風のような爽やかさと、一つまみの倦怠感。
弾むような会話文で彩られた青春のお話。
「失敗したのはタイトルだな。凝りすぎて、つるりと引っかかりがない」
俺はコピーライターに向いてなかった。
そうサキさんはまた自嘲する。
そして二冊目が発売された。
「これを評価してもらった。まぁ運が良かった」
そうサキさんは謙遜する。
長期連載の依頼が来た。
書下ろしの仕事も舞いこんできた。
筆一本で食っていける見込みがつき、会社を辞めた。
しかしサキさんは、そこでつまずいた。
「三作目、誰もがブチ当たる壁だ。風邪みたいなもんさ。でも俺は乗り切ることができなかった。トチ狂っちまった」
そしてサキさんは、盗作事件を起こした。
方城社の月刊誌。
連載の最終回だった。
物語の最終盤、道なりに走ればゴールに着くであろう九合目。
そこでの盗作。
アイデアに詰まって、やむにやまれず犯したわけではなかった。
ついうっかり、無意識に手が伸びてしまったわけでもない。
サキさんは小説に対しては、常に意識的だ。
どこから盗用したのか?
サキさんの連載している、まさにその雑誌からだ。
しかも先月号に掲載されたばかりの、別の作家の連載小説。
駅徒歩1分だ。近場にもほどがある。
それはサキさんのデビュー作の帯に、推薦文を書いてくれた大先輩の作品だった。
まるまる原稿用紙二ページ分。
固有名詞以外は一言一句変えずに、サキさんは引きうつした。
「なんで、そんなことをしたんですか?」
ぼくは当然聞いてみた。
バレるに決まっている。
「先輩と方城社に、甘えたかったの」
口を尖らせ甘えた調子で、サキさんは答えた。
そう、サキさんは露見することを前提にして、それをやった。
僕もあとあと思い知ることになるのだが、この人は面倒くさい方法で人を試す。
ひねくれた自意識と厄介な鬱屈が、彼を奇行に走らせる。
そして自分が傷つき、相手も傷つける。
「悪いのは俺だ。でも、気付かずに載せちゃった編集もひどいよねえ」
そう悪い顔で笑う。
問題が発覚した、その翌月。
雑誌に掲載されたのは、たった半ページの詫び文だ。
いや、謝罪文ですらない弁明だった。
サキさんが行ったのは、盗作行為ではない。
あくまでもパロディだ。
引き写したのではない、引用だ。
引用元の作者には、事後ではあるが承諾をとっている。
そういったことが淡々と書かれていた。
サキさんが分かりにく、つまらない冗談をいった。
それだけのことだ。
表向きの説明はこれで終わった。
けれど裏側は、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。
雑誌の発売日翌日。
青ざめた編集者が、サキさんの自宅アパートのドアを神経質にノックした。
そして、サキさんは方城社に引き立てられていった。
会議室で待ちかまえていたのは、まだ若い担当編集と編集長。
そして、編集部部長の沢本さんだった。
沢本氏は、ロマンスグレーの温厚な紳士だ。
しかしその日は、その温厚さはぱたりと消えていた。
真昼だというのに、会議室のブラインドはピッチリと閉められ、白々と蛍光灯がつけられていた。
重苦しい空気の漂うその部屋に、不似合いなものがひとつ置かれていた。
沢本部長の座る脇に立てかけられた、ゴルフバッグだ。
三人の編集者が腰かけた対面に、サキさんの座る椅子が用意されていた。
まるで面接のような配置だった。
「なにが、不満だったのですか?」
まず口を開いたのは雑誌編集長だった。
ギャラなどの処遇に不満があったのか?
担当編集に問題があったのか?
あるいは掲載誌に、方城社に、モノ申したかったのか?
はたまた盗作元の先輩作家を憎んでいたのか?
しかし、どの質問もNOだった。
「理由なんてないんです。皆さんには、一点の落ち度もありません……」
サキさんは、すべてを言い終えることができなかった。
ゴッ。
鈍い音が響いた。
右頬に衝撃受けた。
サキさんは、椅子から転がり落ちた。
俯いていたサキさんは、気付いていなかった。
沢本部長はいつの間にか、サキさんの前で仁王立ちしていた。
沢本部長は小柄なひとだ。
だが、今日はその姿がずいぶんと大きく見えた。
部長の手には、ゴルフバッグの中から抜き取ったアイアンが握られていた。
サキさんの三半規管がグラグラと揺れる。
ひどい耳鳴りがした。
痛みは遅れてやってきた。
「文芸誌は、出版社の根幹だ」
ゆっくりと言い聞かせるように部長はいった。
「方城社そのものと言っていい。貴様はそれを傷つけ、終わらせようとした」
部長は年季の入った編集者によくいるような、声が大きく押しの強いタイプではない。
きょうも、怒鳴り声ひとつあげなかった。
しかしその目だけが、ギラギラと怒りをたたえていた。
「我々を殺す気で撃ったんだ。なら反対に撃たれる覚悟もあるんだろう?」
風切り音が鳴った。
柿本部長は、サキさんめがけてアイアンを打ちおろした。
「死ね」
「うん、実際死にかけた」
サキさんは、僕にはえ際に残った傷を見せてくれた。
傷痕はそこだけではない。
歯も2本折れたし、右目の視力もガクッと下がった。
「血ダルマになって、ションベン漏らすまで、滅多打ちだ。アイアン、ウェッジ、ウッド……凶器のクラブも3本ヘシ折れる強さで、フルスイングだよ」
その部屋は、ちょうど僕の面接会場が行われた会議室だったらしい。
ぼくは気づかなかったが、カーペットの床にはその時の血のしみが、まだ残っているという。
サキさんから遅れること三十分。
サキさんから作品を引き写された、被害者の先輩作家が到着した。
彼は怒り、そして困惑していた。
サキさんとは知り合い程度の間柄だった。
サキさんの本の帯に推薦文を書いたのは、出版元の方城社から依頼があったからだ。
仕事として、引き受けたにすぎない。
彼の怒りの矛先は、キチガイの蛮行を見過ごした、編集部に向いていた。
原稿用紙2枚分に渡る丸写し。
それに気付かないなんて。
オリジナルを書いた自分を、軽んじている証拠ではないか。
話し合いの成り行きによっては、許しはしない。
方城社で出した既刊を、すべて引き揚げるつもりだった。
しかし会議室に一歩足を踏み入れた途端、彼の決意も怒りも、霧散してしまった。
サキさんは、血まみれで倒れている。
サキさんの担当編集と雑誌編集長は声もなく、ただ滂沱の涙を流していた。
「お座りください」
沢本部長から冷静に声をかけられ、先輩作家は逃げるタイミングを失った。
部長は事情説明を、粛々と行った。
弁明は一切ない。
責めはすべて、方城社にある。
編集に携わる者として、到底許される過失ではない。
せめて誠心誠意、事後対応にあたらせて欲しい。
そして3人の編集者は立ち上がり、先輩作家に向かって深々と頭を下げた。
「起きろ」
コップの水を頭からかけられて、サキさんは目を開いた。
「先生がみえられた。あなたも謝罪をなさい」
沢本部長に襟首を掴まれ、引き起こされる。
しかし部長が手を話した途端、サキさんは力なく崩れてしまった。
口中はめちゃくちゃに切れていた。折れた歯がジャリジャリとする。
頭が割れるように痛んだ。
サキさんの口からは、うめき声しか出なかった。
部長はサキさんの背にミドルアイアンを差し入れて、その体を仰向けにひっくり返した。
狙いを付け、再びクラブを振り下ろす。
眉間に当たる寸前で、クラブは止められた。
柿本部長はそのままクラブを、震える先輩作家に差し出した。
「さぁ、とどめを」
事を荒立てたくない。
先輩作家の要望は、それだけだった。
彼の意向で、あの謝罪文での決着になった。
もうこの件には関わり合いになりたくない。
それが彼の希望だった。
現在のサキさんがヘラリと笑って僕に言う。
「先日、先輩に新宿でばったり行き会ってね。コーヒーを奢ってくれた。いい人だよ。書くものも素晴らしい」
ぼくは先輩作家に同情した。先輩作家は逃げ出したかったに違いない。
そして部長自身も含めた編集者たちは、肉体的に痛めつけられたサキさん以上の厳しいペナルティが課せられた。
職業人としてのキャリアに、消えない傷を負ったのだ。
しかし禍根が残ることはなかった。
飛び散った血と、吐き出された砕けた歯を見てしまえば、誰もそれ以上サキさんを叩くことなどできなくなってしまった。
沢本部長は意図的に、あのような方法でサキさんの作家生命を救ったのだ。
しかし雑誌は世に出てしまったのだ。
すべてを無かったことになんて、できるわけがない。
サキさんのしでかした笑えない冗談と、その始末は、業界全体に知れ渡った。
「噂に背びれに尾びれまでついてさ。俺は全身の骨が折れて、2週間ICUで生死の境をさまよっていたことになっていた」
同情の声も少しはあった。
だが問題を起こした駈け出し作家を、使おうと思う出版社などなかった。
しかし、沢本部長はサキさんに筆を折ることを許さなかった。
方城社がサキさんに仕事を斡旋した。
「最初は占星術の本だった。次はワインの論評本。お次は、レストラン経営のハウトゥ本だ」
サキさんは名も無きライターとしてペンをとることになった。
「小説を書くのとは、また違う力を使う仕事さ……残念なことに、俺の才能はこちらの方にあったようだ」
サキさんの仕事の評判は上々だった。
出版社は、彼に企画書と資料を渡すだけだ。
迅速に、過不足なしに、注文通り。
サキさんはそれを一冊の本に仕上げる。
「どうせ俺は、実のない空っぽな人間だ。製麺機になるのさ。材料を俺の中に入れれば、先っぽからニョロっと出てくる」
定型をどれだけ知っているか。
それだけの話だとサキさんは言った。
「本だけは、浴びるように読んできた。手垢にまみれた言葉は、俺の中にしみこんでいる。あとは、お筆先で仕上げるだけだ」
そんな、その場限りの仕事を続けて2年がたったころ、サキさんはニレイさんと出会った。
サキさんは、小説の書き手を無条件で愛し、敬っている。
しかし俳優は対象外だ。
ニレイ…ユウタ?
ああ、あのトウの立った二枚目か。
発声練習で鍛えた声だけでかい、スカした、高慢ちきの、コンコンチキに違いない。
人気商売に対するやっかみ半分サキさんは思った。
だ。
芸能人の本は、前にも手掛けたことがある。
しかし芸能人本人が、無名ライターとの打ち合わせに訪ねてくるのは初めてだった。
ニレイさんは退院したばかりで、今より更に弱っていた。
頬のやけどの跡も今より濃かったし、指を無くした左手を扱いかねていた。
コーヒーに砂糖を入れようとして、ボロボロとこぼした。
マッチをうまく擦れなくて困るよと、サキさんから貰い火をした。
「でも、悲壮感はこれっぽっちも無かったな」
これから再起をかけて処女作を出版する。という気負いも内容だった。
「役柄通りのクールな二枚目ではないよな、あの人」
フワフワとして、つかみどころのない人だな。
とサキさんは思った。
けれど、絶妙な角度でするりと、こちらの懐まで入ってくる。
その印象は、今に至るまで変わっていない。
ニレイさんは、書きかけの原稿を持参してきた。
その量に、サキさんは驚いた。
ざっと1000枚。
そのまま使えば、上下巻の厚い本ができる計算になる。
「どうしても、うまくまとまらないんです」
サキ先生、力を貸して下さい、とニレイさんは頭を下げた。
電話帳ほどの厚みがある原稿を、サキさんは持ち帰り精読した。
読み終える頃には、すでに気持ちは固まっていた。
「血が沸いた。恋に落ちたように、俺は打たれた」
ニレイさんが持ってきた原稿は、別世界の扉だった。
そのころのサキさんが肩まで浸かっていた、漂白剤のたっぷり入ったぬるま湯のような文章とは正反対のものだった。
編集部主導で立てた企画は、無難なものだった。
差し障りのある固有名詞はぼやかしつつ、耳触りの良い思い出話でも並べておけばいい。
事故という悲劇に襲われた、人気俳優の復帰作。
それだけで話題性は、十分あるのだ。
ニレイさんの持ってきた下書きは、無難なんてものの対極にあった。
ニレイさんは、二枚目だけが売りではない。実力のある役者だ。
教養も、人生経験で培われた厚みも持っている。
だが、筆を握れば一切のたがが、外れてしまう。
転調、転調、また転調だ。
沸き上がる発想に、筆が追いつかない。
わたしから君へ、貴女から僕へ。
現在に、過去に、未来へと。
視点も、時世も、目まぐるしく切り替わる。
まるで極彩色で作られたモザイクだった。
「ニレイさんは生粋の詩人だ。言い方を変えれば、野性児だ」
その型破りな文章。
サキさんの目には眩しかった。
自分の力のすべてを使って、最高の本に仕上げたい。
サキさんは思った。
もちろん、1冊きりの契約だった。
「まだ俺には書きたいものがある。これからも君の助けが欲しい」
申し出たのは、ニレイさんの方だった。
サキさんは、いったんは誘いを断った。
ニレイさんは有名人だ。
事件を起こし、脛に傷を持つ自分を組むなどリスクしかない。
それでもすべてを知った上で、ニレイさんはサキさんを選んだ。
「君がいいんだよ」
役者のくせに工夫のないセリフで、口説いた。
「この本が売れたのは、素材の良さだ。俺は盛りつけを手伝っただけだ。他の誰が手伝いに入ったって、うまくいったはずです」
自分の代わりなんて、自分程度の文章を書ける人間なんて、他にいくらでもいる。
サキさんは重ねて断った。
けれど、ニレイさんは違うと笑った。
君の技術だけが欲しいわけじゃない。
「君といると面白いからだ」
まるで子供みたいな物言いに、ついサキさんも笑ってしまう。
この人と一緒に仕事がしたい。
ニレイさんは、沢本部長のところにいって、頭まで下げた。
そこで、サキさんはとうとう観念した。
五島万という、新しいひとりの作家を作る。
それは自然の流れで決まったことだ。
サキさんは作家として筆を折った気でいた。
ニレイさんも役者としては死んだ気でいた。
ふたりは新しい姿で、再出発を図りたかった。
五島万として何作書いても、ニレイさんの強烈な個性が摩耗することはなかった。
本人は上手い文章が書きたいと奮闘するが、逆方向に進んでいく。
ニレイさんが何度も書きなおし、推敲を重ねるごとに、ますます物語は混沌の度合いを増す。
登場人物の服装や、性別がいつの間にか変化することなどよくあることで。
主人公だったはずの人間が途中退場し、まったく新しい話がはじまってしまったりする。
「ニレイのおっちゃんは、あのまんまでいい。整地に測量、調整が俺の役目だ」
サキさんはそう言った。
そうやって、2人ではじめた五島万。
しかしその後新たなメンバーが加わった。
金釘文字を書く人だ。
「谷さんから聞いたんですが、五島万はもうひとりいたんでしょう」
谷さんが言ったと嘘をついて、十日町のことをサキさんに尋ねてみた。
「ん?ああ……仁礼のおっちゃんが引っぱってきた人のことか」
組んでたわけじゃない。
アイデアを貰っただけだ、とサキさんは言った。
「原案協力ってやつだよ。それも一作品だけ……変わった人だったな。クレジットはいれなくていい、ギャラだけくれって」
「どんな人だったんですか?」
ぼくの質問に、サキさんは眉をしかめる。
「俺は、十条さんに会ったことがないんだ。ぜんぶFAXのやりとりで済ませたから」
サキさんは十日町の名前を間違った。
記憶もあいまいのようだ。
「どういういきさつでニレイさんは、十日町さんに協力を頼んだんですかね」
「すり寄ってきたのは、向こうの方からだ」
他人のフンドシで、小説家気分を味わいたい輩は五万といるんだとサキさんはいった。
「買いたい程のアイデアでも無かった」
サキさんは、あっさり切って捨てた。
「ニレイさんはあの人に、何らかの義理があったんだと思うよ。だから断れなかった」
そしてニレイさんに十日町の話はするなと、やんわり口止めされた。
「件の仕事だが、ケチがついてね」
十日町条が消えてしまった。
「借金苦で夜逃げの果てに、自殺だって?谷君から聞いたよ」
サキさんは表向きの死因を、そのまま信じているようだ。
「それにあの作品、突然の掲載中止とは穏やかじゃない。理由ははっきりしない。編集に聞いても言葉を濁される」
パロディ要素満載のコメディ小説だ。
どこかが規制に引っ掛かってしまったんだろうけど、とサキさんは言った。
「まぁ曲がり間違って、あれがこれから本になったとして。十日町さんの遺族がしゃしゃり出てきて、権利を主張されても困る。はした金が惜しいわけじゃないが、トラブルが起こること自体避けたい」
サキさんにとっては、十日町条は完全に過去の話のようだった。