7.
ミカさんはホスピタルを縦横無尽に飛びまわった。
そして、的確に隠されていたもの位置を示す。
侵入者がおいていったいぶつは一つではなかった。
台所の天袋の奥から1つ。
便所の水洗タンクの中から1つ。
僕は黒いビニール袋を見つけ出した。
「…………!」
僕には聞こえない声で、ミカさんが鳴く。
そして再び、飛翔する。
ミカさんの向かった方向は、裏庭だ。
「待った待った、ミカさん!ストップストップー」
急ブレーキをかけた。
しばらくするとミカさんが戻ってきた。
ぼくの頭の上にちょこんと止まる。
なんで付いてこないんだ?そう聞いているようだった。
「ごめん、ミカさん。そっちは立ち入り禁止なんだ」
サキさんに見つかったら、この家から追い出されてしまう。
みつけた三つの袋を持ってふたたび前庭に出る。
室内でそれを開ける気はしなかった。
ビニールに包まれていても、ひどい臭いを放っている。
常人にもわかる鉄臭い血の臭い。
そして術士にしか分からない、腐臭。
それは死の願いを込めた、呪術のにおいだ。
思った通りだった。
ビニール袋から出てきたのは、呪札だった。
そのへんの神社で配られているような、お札とはまるで性質が違う。
札は禍々しい臭気を放っていた。
恐らく、犬のものであろう血で綴れらた文字。
札は何重化に貼られた和紙で固められていた。
この中になにが埋め込まれているのか。
見たくもない。
気に食わなかった。
侵入者は、これが見つかることも織り込み済みだったのだろう。
羽ばたきの音と共に、ミカさんが地面に降りる。
ミカさんは器用に、呪札をくちばしで摘みあげた。
そしてスルスルと飲み込んでしまった。
美味そうに食べているわけではない。
必要だから苦い薬を飲む。そういう風に見える。
そして札は消失する。
漂っていた瘴気が薄まった。
裏庭になっているスペースは、元々は医院の駐車場にあてられていた。
ニレイさんがここを買い取った時、通りからの視線を遮るため生垣を据え付けた。
裏庭に入るには、母屋を半周回り込まなければならない。
「ほっとくわけにもいかないな……」
僕はその場に立ちすくみ、ため息をつく。
ミカさんが裏庭に向かったということは、そこにも呪札が仕掛けられているのだろう。
呪札は即効性の毒ではない。
けれど空気を澱ませ、人を蝕むものだ。
前庭には手入れが煩雑にならない程度に、庭木が植えられている。
一方の裏庭は、殺風景なものだった。
唯一、ある木は背の高い柿だ。
もう数週間もすれば、持て余すほどたわわに実を付けるらしい。
僕はいったん母屋に戻った。
立ち入りを禁止されているといっても、眺めるのは自由だ。
二階に上がれば、廊下の窓から裏庭を見下ろすことができる。
柿の木にさえぎられてほとんど見えないが、裏庭にはひとつ建物あった。
それは、ニレイさんがホスピタルを買い取った時に作ったものだ。
二階建てのプレハブ小屋だ。
ただの物置だとサキさんは言っていた。
しかし、おそらく中には人がひとり暮らせるだけのスペースがあるはずだ。
裏庭に立ち入るための理由を作る必要があった。
ミカさんをそのままに、僕はホスピタルを出た。
外出先は、近所の空き地の草むらだ。
おあつらえ向きのブツがそこにはあった。
産み立てホヤホヤ、しっとりと重さのある。
犬の糞だ。
軍手をはめた手で、持参したビニール袋につまみ入れる。
ホスピタルに戻り、二階の窓辺に立つ。
一球入魂。
失敗は出来ない。
裏庭のちょうどいい位置を狙って、それを投げた。
午後になって、サキさんが起き出してきた。
数時間前に、忍び込んだ人間がいたのはまるで気づいていないようだった。
「おはようございます」
「……ああ」
ぼくに億劫そうに頷く。
低血圧のサキさんは、機嫌が悪い。
用件を切り出すのに、サキさんが朝食兼昼食を終えるのを待った。
今日のメニューは、ぼくお手製のかき玉うどんだ。
生野菜サラダとおにぎりもつけた。
「ちょっと見てもらいたいものがあるんですけど」
サキさんを引っ張るようにして、二階の窓辺からそれを見せた。
「野良犬か……どこから入ってきたんだか」
うんざり顔のサキさん。
当然、ぼくの仕業だとは気づかない。
「俺が片付ける。君はやらなくていい」
サキさんはそう言ったが、どうにか言いくるめた。
「少し待ってろ」
そう言ってサキさんは、ぼく待たせた。
奥の自室で、電話を使う声が聞こえた。
内線で、あのプレハブ小屋にいる人間に連絡を入れたのだろう。
「じゃあ、行こう」
裏庭には、サキさんもついてきた。
「あれは、おっちゃんの仲間が出入りしていた時にダンスの稽古に使っていたんだ」
プレハブ小屋は、もともと練習室と呼ばれていた。
僕の視線の先に気づいた、サキさんが教えてくれた。
「前にも言った通り、いまはただの物置だ。何にもないんだから、近づかなくていいぞ」
釘を指すことも忘れない。
そこにいる誰かと僕を、絶対に会わせたくないらしい。
「よく、手で掴めるなぁ」
サキさんが、うへえという顔をする。
「手袋してますから」
拾ったときも、二階の窓から投げたときも、この軍手で鷲掴みである。
ポンとゴミ袋に放り込んで完了だ。
マッチポンプだ。
「あ、あそこにもなにか落ちてますね。片付けてきますよ」
あくまでも、さりげなく。
柿の木に近づく。
ミカさんはその枝に止まっていた。
あった。
柿の木の根元に、また黒いビニール袋。
そっと拾い上げる。
「何があった?」
サキさんは少し離れた場所で、煙草に火を点けていた。
「ただのゴミみたいです。風で飛ばされてきたんでしょう」
「ふうん」
柿の木の下から、上を見上げた。
練習室の窓が、細く開けられたカーテンが揺れている。
人の気配がする。
カーテンは、その時も開いていたんだろうか。
その人は、この庭に現れた侵入者をみたのだろうか?
日曜日がやってきた。
「休みの日はなるべく、外に出てくれ」
ニレイさんから、そう申し渡されていた。
「きみがそばにいると、つい用事をいいつけたくなってしまうから」
とのことだ。
本家でぼくの使っていた部屋は、片付づけられてしまった。
一晩置いてくれる、恋人の持ち合せもない。
清書の仕事が押している時は、あのウナギの寝床の仕事場に泊まった。
きょうは、草四郎の下宿に上がり込むことにした。
「実家に泊ればいいのに」
文句をいうものの、草四郎は家にいれてくれた。
草四郎は、学生専用の下宿に住んでいる。
狭苦しい部屋だ。部屋専用の便所がついているのだけが取柄だ。
客用の布団はあるわけもないので、毛布一枚で雑魚寝する。
「どうして、すぐに連絡をくれなかったんですか!」
草四郎に先日の呪札の件を伝える。
案の定、小言が降ってきた。
「気づいた時には、敵はとっくに逃げてたんだもん」
「だもん、じゃない!」
ホスピタルの見取り図を簡単にかいて、草四郎に見せる。
「これは……イタズラで忍び込んだという範疇じゃないですよ」
草四郎は眉をしかめる。
改めて書き起こすと、ホスピタルの広さがよく分かる。
「侵入者は建物の作りはもちろん、セイさんも含めた住民の生活習慣も知っていた……そうでなければ、短時間に複数の仕掛けができたわけがない」
「さすが草四郎さん、よく気が付いたな」
「セイさんも、少しは真面目に考えてください」
褒めてやったのに、ちっとも可愛くない。
「やはり死んだ十日町には仲間がいたということでしょうか?」
「だとしても、なんのためにこんなことをした?」
手は込んでいる。でも、やったことはただの嫌がらせだ。
「コウガミの術士の仕業かもしれません。もともとコウガミ内部で終わっているはずの話だったんだ。ぼくらアガミが、こ首をツッコんでいることを良く思っていない奴がいるのかもしれない」
そちらの方がまだあり得る話だ。
でも草四郎をたしなめた。
「勝手な推測で人を悪く言うんじゃないよ」
「不審な人影を見なかったか?練習室の住民から、話を聞けないんですか?」
「無理だ。あの家を追い出されたくない」
草四郎の提案は却下だ。
「小説家は変人……そういうものなんでしょうけど。その彼は度が過ぎていますよ。セイさんが住み込んでもう二週間だ。一度も顔を見せないなんて」
「いずれ会える日もくるだろう」
面倒くさいから、訂正せずにおいた。しかし草四郎の認識にはひとつ間違いがある。
練習室の住民は"彼"ではない。
たぶん"彼女"だ。
この件の、依頼主は谷さんだ。
谷さんにも当然、侵入者があったことを報告した。
だが、反応は驚くほど薄かった。
「実害はなかったんだろう。ならいい」
たった一言。
まったく。
忍び込んで、呪札を仕掛けた犯人はこの人じゃないだろうか?
ホスピタルの内部情報にも詳しいし、お茶の子さいさいだろう。
目的はぼくをからかうためだ。
つい、そんな考えが頭を掠めた。
しかしそんなことは、あり得ない。
この前サキさんから、谷さんの話をきいた。
「谷くんはもともと、同じ会社の新聞部にいたんだ。強く志願して、出版部に異動してきたらしい。よっぽど小説が好きなんだな」
サキさんは嬉しそうに話していたが、谷さんは文学青年という柄ではない。
十日町の事件を知って、五島万に関わるためにわざわざ編集部へ入ったのだ。
谷さんはコウガミという大社の人間だ。
そして予想でしかないが、彼は秀でた術士だ。
この終わった事件に彼が関わる、理由は知らない。
ぼくたちの仕事は予後観察。
十日町条は死んだ。
すべては終わってしまったことだ。
そして五島万は、十日町に利用されただけだ。
事件の重要人物ではない。通行人の役回りだ。
しかし実際に呪符を手に取り感じた。
そこにこめられていたのは、生々しい悪意だ。
XXXXXXXXX
「セイくん、おはよう。これ昼までに頼む」
「セイくん、車出してくれ。神田までだ」
ニレイさんもサキさんも、すっかりぼくという存在に慣れたようだ。
「君の顔を見ていると、気が抜けるな」
向き合って食事をとっている時、サキさんにイヤミでもなくそう言われた。
集団生活には慣れている。
アガミの家は大家族だ。
三年前からそこで暮らして、自然と身についたことは多い。
だがぼくは優秀なわけでもない。
家事も車の運転も気配りも、合格点そこそこだ。
鼻につかない程度が、ちょうどいいのかもしれない。
ホスピタルに住み込んで、三週間がたった。
『ホスピタル連絡帳』。
待合室の机の上に、そうタイトルをつけたノートを置くことにした。
五島万のふたりと僕との、連絡ノートだ。
ぼくは朝に起きる。サキさんは朝になったら眠る。
生活時間はバラバラだ。
ニレイさんに至っては、家を空けることも多い。
三人がいっぺんに揃うことは稀だった。
仕事絡みの連携は決して怠らない。
だが、生活面ではぬけが多いふたりだ。
そのために、このノートを作った。
『ピー缶、ダース』
『昼飯。長篠屋のオカメそば、鍋焼きうどん』
いちばん、書き込まれる頻度が多いのは、お使いメモだ。
そして仕事のメモ。
『15日〆、S社30枚。K社ゲラ、18日受取り』
そんなことは自分の手帳にでも書き込めばいいのに。
ニレイさんはページの隅にパラパラ漫画を書いてくれた。まゆ毛の生えた猫が空を飛ぶ漫画だ。
器用な人である。
裏庭にある練習室の住人は、24時間そこに引きこもっているわけではない。
練習室にはトイレはついているらしいが、風呂はなかった。
入浴のためには母屋に来る必要がある。
ぼくが夜間、風呂場に立ち入りを禁止されているわけはこれだ。
自分の洗濯物は部屋の中に干しているのだろう。
徹底して、ぼくを避けている。
しかしサキさんには、うっかりしたところがある。
じぶん仕事が立て込むと、練習室に食事を運ぶことを忘れてしまうようだ。
いつの間にか、キッチンテーブルの上から食パンが消えている。
そして他にもぼくは家のあちこちで、その人の痕跡をみつけた。
風呂場の排水溝に、長い黒髪が一本絡まっていた。
洗濯場にピンクの靴下が片方落ちていた。
三人目の、五島万。
抜群の推理力なんかなくとも、その人は"彼女"だと分かる。
ある日、『ホスピタル連絡帳』書き込みがあった。
『こう茶』。
ポツリとそれだけ書かれていた。
金釘の文字。姿を見せない3人目の筆跡。
こう茶?
紅茶か。
飲みたいのか。
さっそく僕は茶葉を買ってきた。
そして戸棚の奥底にしまわれていたティーポットを引っ張り出す。
紅茶の缶とティーポットをお盆にのせて、キッチンテーブルの上に置いておいた。
翌日、茶葉とポットはテーブルの上から消えていた。
そしてノートに、メッセージが増えていた。
今度は2行。
『ありがとう。次はティーバックで。
オムライス。』
ありがたく紅茶を飲ませていただきました。
しかし次回は、茶葉ではなくティーバックにしてください。
話は変わりますが、夕飯にはオムライスを所望します。
そう言いたいらしい。
オムライス。
もちろん食べたことはある。
しかし作ったことはない。
卵、ごはん、鶏肉、ケチャップ、玉ねぎ。
まずは試しに作ってみよう。
そして一時間後。
原稿を取りに来た谷さんが、キッチンに現れた。
「何食ってんの?」
「少し早い夕飯です」
「それは、チャーハンか?」
「オムライスです」
まじまじと皿の中を覗き込んで、首をかしげる。
「それは俺の知っているオムライスじゃない」
うん、僕の知っているオムライスでもない。
オムライスと、谷さんが分からなかったのも無理はない。
卵はほどけてバラバラだ。色味も茶色い。
フライパンにはまだ炒めご飯が山ほど残っていた。
「たくさんあるんで、食っていきませんか?」
「いただこう」
どうせ断られると思って聞いたのだが、むっつりと谷さんは頷いた。
「先生がたに、こんなものを食わせるわけにはいかない。俺が食って減らす」
編集者としての、献身だ。
大皿に山盛りでよそってやった。
谷さんは胃のあたりを押さえながら、帰っていった。
さらに30分後。
「食えないことはない」
一口、二口、三口。
サキさんは、重々しく言った。
完成品第二弾。
さっきよりは、だいぶ前進だ。
オムライスに見える。
ケチャップは偉大だ。
飯に巻きつけるとき、案の定破れた卵の破れ目を隠してくれた。
だがサキさんの次の言葉で、がっくりきた。
「だが、うまいということは全くない」
そして追い打ちに一言。
「これは俺の知っている。オムライスとちょっと違うな」
残りのタマゴは4つ。
鶏肉はなくなったので、ハムを三切れ。
残りの材料も心もとなくなってきた。
練習室の先生を待たせるわけにはいかない。
ホスピタルに来て以来、最大のピンチだ。
えいやっと、完成させたオムライス第三弾。
少し焼き過ぎた。タマゴが茶色い。
洋食屋で出てくるような、ふんわりとした形状とは程遠い。
ぼくのオムライスはどこまでも平坦な地形を成していた。
「潰れたウミガメだな」
そう言って、サキさんはそれをお盆に乗せて練習室へと運んでいった。
翌日の『ホスピタル連絡帳』。
オムライスという文字の横に、花丸が書き加えられていた。
練習室の人は、オムライスを気に入ってくれたらしい。
「なんだい?ご機嫌そうだな」
下手くそな鼻歌を歌っていたところに、声をかけられた。
勝手口から、声もかけずに入ってきたのは谷さんだ。
「打ち合わせですか?サキさんを呼んできます」
「いいや。きょうは君に会いに来たんだ」
むっつりとへの字口。
まだ胃の具合が悪いのかもしれない
そして谷さんは大きな紙袋を差した。
受け取るとズシリと重い。
「ウチで出している本だ。君にやる」
用事はそれだけだ、と言い捨てて谷さんは帰っていった。
『家庭の味、百選』
『新米奥さま 応援レシピ!』
『盛りだくさん 毎日べんとう』
谷さんが持ってきたのは、料理本だ。
これを読んで精進しろと。そう言いたいわけだ。
「はぁ……」
ため息のひとつもつきたくなる。
あの人にやって欲しいことは別のことだ。
半年前の事件のこと。この家に仕掛けられた札のこと。
谷さんはどう考えているのか?なにも分からない。
考えるだけ無駄なことだ。
「よし」
気を取り直して、ぼくは料理本を開いた。
最初はこのハンバーグ辺りから攻めてみようか。
練習室の彼女から、また花丸をもらってやる。