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花とペン  作者: 井上マイ
4/68

4.

 六日目。

 仕事場のドアを開けたぼくを迎えたのは、軽いイビキの音だった。

 デスクの下にサナギのように丸まって、その人は眠っていた。

「おはようございます」

 声をかけてみた。

「.......」

 しかし反応はない。

 その人は毛布を頭からスッポリかぶっていた。

 顔は見えないが、足がはみ出している。しゃれたチェック柄の靴下がのぞいていた。

 サキさんはこんな靴下はかないだろう。

 谷さんのわけもない。


 困ったことがひとつ。

 こんな場所に寝転がられては、デスクが使えない。

 コンセントもデスク下だ。つまりワープロも起動できない。

 彼を起こさないように、そっと手を伸ばした。

 デスクの上から清書用の封筒とノートを取る。

 鉛筆ももって、玄関先まで移動する。

 台所のシンクがデスクがわりだ。

 立ちながら作業する。

 ワープロが使えないので、これから清書する原稿をじっくり下読みをする。

 そしてノートにメモをとっていく。

 禁止されているわけではないが、原稿用紙に直接書き込むことはしない。

 メモを取る必要があるときは、自前のノートに書き込む。


 そこから約一時間。

 時計の針が十時を回ったころ、背後で彼の起き上がる気配がした。

 ライターを付ける音、続いてタバコの煙の香りがする。

「.......」

 ぼくの存在に気づいているのか、いないのか。

 彼は無言のまま、じっとしていた。


 3本目のタバコを吸い終えて、ようやく彼は立ち上がる。

「おはようございます」

 ぼくは振り向いて頭を下げた。

「方城社の谷さんの紹介で参りました。渋沢征 (しぶさわ せい)と申します。今週からお世話になっております」

「おはようさん。シャワー室を片付けてくれてありがとう。快適に使わせてもらったよ」

 聞き覚えのある声。

 そして見覚えのある顔。

 彼とは初対面だ。

「仁礼悠太 (にれい ゆうた)です。よろしく」

 ぼくは彼のことを、一方的に知っていた。

 彼が有名人だからだ。


「コーヒーを淹れるけど、君も飲むか?」

「いただきます」

 一口しかないコンロにやかんをかける。茶渋の染みた湯飲みに、インスタントのコーヒーを淹れてくれた。

 ぼくとニレイさんは、横並びで床に座りコーヒーを飲んだ。

 床に寝そべっていたせいで、黒いジャケットに少々皺ができている。

 髪も乱れている。

 しかしそれが気にならないほどに、ひとつひとつの動作も表情もスマートだ。

 テレビで見るより、カッコいいな。

 そう月並みなことを思った。


 ニレイさんは、元役者だ。 

 年は四十前半。

 去年まで映画にテレビに舞台に、幅広く活躍していた。

 ぼくの母は、少々ミーハーだ。

 息子が彼に雇われたと知ったら、黄色い声をあげるに違いない。

 医者や弁護士、そしてエリート刑事....

 知的な2枚目という役を演じることが多かったように思う。

 ぼくがよくおぼえているのは、いつかの時代劇で見た明智光秀役だ。


 ニレイさんは一年前に、交通事故に遭った。

 そのケガが理由で、役者を引退した。

 秀麗な顔立ち。

 だがいま左の頬には、切手ほどの大きさの赤黒いやけど跡がある。

 膝に置いた左手の、中指、薬指、小指は欠けて根元からない。

 酷い事故だった。死んでもおかしくなかった。

 そうニレイさんはいう。

「この程度で済んで、俺は運がいい。それで役者をやめて、一念発起いまは駆け出しの作家というわけだ」

 ニレイさんは、五島万のひとりだった。

 五島万が新人賞という過程も経ず、文壇に現れたわけもこれで分かった。

 彼の知名度が買われてのことだろう。


 指の欠けた左手も、顔の火傷も、ニレイさんは隠そうとしなかった。

「周りの人間に、気を遣わせてしまうけれどね……君は違うようだけど」

 彼の傷をみると、たいていの人間は傷ついた表情を見せる。

 そうニレイさんは言った。

「顔を知られてるのも良し悪しだ。みんな怪我をする前の俺の顔を、おぼえているからな」


 ニレイさんは、床にあぐらをかいて、ぼくが仕事をするのを眺めていた。

「あの、先生……そうじっと見られると、落ち着かないんですが」

「ふふふ」

 抗議をしてもやめてくれない。

「あと俺のことを、先生と呼ぶのはよしてくれ。おっちゃんで構わない」

 そんなわけにいくか。

 なので、ぼくは彼をニレイさんと呼ぶことにした。

「君の履歴書をみせてもらった。綺麗な字を書くな」

「ありがとうございます」

 字を誉められたので、礼を言った。

「しかし綺麗な字に似合わず、デカイなりだな。狭いこの部屋が余計に狭い」

「……ははは、すいません」

 これには苦笑を返すほかなかった。

 ニレイさんは、昼前にふらりと出ていった。

 結局、仕事のことはまったく話さなかった。


 やがて昼食の時間がきた。

 ぼくは自分のために茶を沸かし、スーパーで買ってきた弁当のふたを開ける。

 弁当を食っていると、ニレイさんが戻ってきた。

「近所の店であつらえてもらった。君の歓迎会だ」

 ニレイさんはスーパーの袋と、おおぶりの寿司桶をさげていた。

 ぼくの格安弁当を遠慮なく覗きこんで、ニレイさんは言った。

「そんなもんじゃ栄養が足りんだろ。ほら、たんと食え」

「遠慮なくいただきます」

 艶々とうまそうな寿司だ。弁当に手を付ける前に食べたかった。

「醤油も忘れずに買ってきたよ」

 ニレイさんは得意げにスーパーの袋をかざしてみせる。

 1,2Lの大ボトルの醤油だ。

 この仕事部屋には、小皿なんていうものは一枚もない。

 湯飲み茶碗に醤油を入れた。シャリを崩さず、醤油をつけて食べるのにはコツがいった。

「角の寿司屋だ。寿司桶、返しておいてね」

「分かりました」

 当然だというように、ニレイさんは缶ビールを買っていた。

「このあとも、ぼくは仕事なんですが……」

 断ったが、缶を押し付けられる。

「ビールなんて酒のうちに入らないだろう」

 まったく。酔っぱらいの常套句だ。

 寿司はゆうに五人前はあった。

 ニレイさんは、寿司は2、3個摘んだだけだ。

 しかもビールにも手を付けない。

「事故以来、酒はやめた。傷がうずくんだ」

 缶のウーロン茶をぐびぐびと三本も飲んだ。

「それ、ちょっとちょうだい」

 そしてぼくの弁当からポテトサラダを掠めとる。

 大きすぎる醤油。多すぎる寿司。

 おおらかさと、細やかな気遣いが同居した人だ。

 この人が原稿の起点である、丸字の書き手だ。

 発想し、作品を0から1へと変える役割だ。

 ニレイさんがいまぼくの目の前で、原稿を書きはじめたわけではない。

 こうして話をしているうちに、自然と分かった。

「はい、ここには谷さんの紹介で。ぼくの実家と谷さんの家が、懇意にしていたというか....」

 ニレイさんは聞き上手だった。

 ついペラペラしゃべりすぎてしまう。


「もうひとりの先生にも、ご挨拶をさせていただきたいんですが」

 清書前の手書き原稿を指して、ニレイさんに尋ねる。

 ミミズの字は、サキさん。

 丸い字は、ニレイさん。

 最後に残ったのは金釘文字。

 作品のまとめ役。赤ペンの使い手だ。

「ご紹介いただけませんか?」

「俺とサキくんは、ふたりでひとりの五島万....そういうことになっている」

 そして、ちょっと困った顔をして微笑む。

「その話はまたいずれ...だ」

 そう言われてしまえば、引き下がるよりなかった。


「仕事邪魔してごめんね。谷くんに怒られたら、ニレイのおっちゃんがのせいだ。そう、ちゃんと言っておきな」

「大丈夫です。今日中には終わりますよ」

 昼食を終えると、ニレイさんは帰っていった。

 しかし、これが最終面接だったのかもしれないな。

 ふとそう思った。

 ニレイさんは、ぼくと向き合って飯を食いながら、何かを量っていたのかもしれない。


 翌日から、様子が変わってきた。

 この仕事場に、人が訪ねて来るようになったのだ。

 そりゃもう、ひっきりなしに。

 それは谷さんをはじめとする、五島万付きの各出版社の編集者たちだった。

「これ、13時までにお願いね」

 彼らはぼくの前に、原稿を積み上げる。

 例によっての、ツギハギだらけの五島万の手書き原稿だ。

 そして彼らは茶も飲まずに、ひどい時には玄関先で靴も脱がず、原稿だけ放り投げるようにして帰っていく。

 編集者のひとりが、この狭い部屋にFAX機を持ち込んだ。

 ぼくは原稿をタイプし、プリントアウトし、それをせっせとFAXし続けた。

 ぼくのタイプ原稿を受け取った編集者は、直筆原稿のコピーと照らし合わせながら、校正作業をおこなうことになる。


 そう、六日かかって、やっとリアルタイムの仕事が始まったのだ。

 初日から五日間。

 ぼくがタイプした原稿は、練習のために用意されたものだった。

 あの原稿は、谷さんが骨を折って、過去に清書したものだった。

 小説家の書いた原稿は、”玉稿”だ。

 玉といえば、大事なものだ。

 ど素人に簡単に触らせる訳にはいかない。

「五日かけてぼくをテストしていた。そういうことですか?」

 谷さんに尋ねた。

 谷さんはぼくが清書し原稿に、素早く目を走らせていた。 

 今日の谷さんも編集者の顔をしていた。

「そうだ。君の判断で一文字でも、余計なものを書き加えでもしたら、そこで終わりだった」

 谷さんは首に自分の手刀をあてて横に引く真似をした。

 そのまま書き写せ。

 サキさんの言いつけを守って良かった。

「正直、君が来て助かった。あのクソダメを書き直すには、うんざりしていたところだ」

 谷さんが吐き捨てた。

 あいかわらず、先生がいないところでは言いたい放題だ。

 

 五島万は、文句なしの流行作家だ。

 それをいやというほど、実感することになった。

 ぼくが清書する速度より、0から創作するスピードの方が速いというのはどういうこった?


 そして、また5日が過ぎた。

 ニレイさんも、あれ以来この仕事場にやってこない。

 もう冷蔵庫には、給与袋はは入っていない。

 原稿を取るついでに、五島万先生のところから、編集者たちが運んでくれるようになった。

「俺にお使いをさせるとは、いいご身分だな」

 谷さんに嫌みをいわれた。


 忙しいといっても、ぼくは毎日19時には帰宅する。

 しかしその日は、17時をすぎてから急な仕事が持ち込まれた。

 チェックは明日に回すとして、タイプだけ済ませておこう。

 そして目算通り、数時間真面目に残業して作業は終わった。

 家に帰ってから、飯を用意するのがめんどくさい。

 夕飯をここで済ませておくことにした。

 ホカ弁をふたつ積み上げてかっこんでいた時だ。

 人の気配を感じる。

 来客だ。

 玄関の前で誰かが立ち止まった。しかしチャイムは鳴らない。

 その代わり玄関ドアに付けられている、新聞受けが音を立てた。

 新聞受けの隙間から、室内に明かりがついていることを確認したんだろう。

 ぼくは慌てて、玄関へと走り出た。

「サキ先生、待って下さい!」

 立ち去る背中に呼びかける。

 振り返ったサキさんは、決まりが悪いという風に背中を丸める。

「仕事中だったんだろ?……邪魔しちゃ悪いと思って」

「終わったところです。飯をくって、もう帰ります」

 ぼくが帰った後で、サキさんがこの仕事部屋に来ていることは知っていた。

 インスタントコーヒーの粉が減っていたからだ。

 この部屋は狭い。

 ぼくがいたんでは落ち着いて仕事ができないんだろう。

「分かった。君が帰るまで、その辺をぶらりとしてくる」

 踵を返したサキさんに、慌てて声をかける。

「今日いただいた原稿で、先生に、確認していただきたいところがありまして……」

 口実を作って、サキさんにあがってもらった。


 本日のサキさんは、完全に心のシャッターを下ろしていた。

「お疲れですね」

 ぼくはコーヒーを濃く入れて、サキさんに出した。

 ちゃんとコーヒーカップとソーサーもある。

 どこぞの結婚式の引き出物。ほこりをかぶって、ほったらかされていたそれを箱ごと一式。ぼくが実家から、かっぱらってきたのだ。

「…………」

 砂糖を二杯、クリープを二杯。

 山盛りに入れてかき混ぜる。

 サキさんはズルズルと音を立てて、それを啜った。

「人が淹れてくれたコーヒーはうまい」

 ポツリと漏らした。

 初めて会った日よりも、目の下のクマが濃い。

 いったい今日だけで何杯、自分で淹れたコーヒーを流しこんきたんだろう。

 面接でぼくをたじろがせた、熱さは息をひそめている。

 コーヒーを飲み終えたサキさんは、清書した原稿を見るともなく捲っていった。

 部屋に一脚しかないキャスター付きの椅子に座り、クルクル回りながら。

 ぼくは床にぺたりと座って、そんな彼を見上げていた。

「面白いか?五島万の書いたものは?」

 "俺が書いた"とは言わずに、"五島万が書いた”とサキさんは言った。

「いまは先生のこの原稿を、追いかけるだけで精いっぱいです」

 ぼくの返事にサキさんは、眉をしかめる。

「先生呼ばわりは、やめてくれ。安くなる……それに、俺から何を習う気もないだろう」

 ニレイのおっちゃんから聞いたぜ、とサキさんは言った。

「君は小説家志望じゃないんだってな」

「そうです」

 正直に答えた。

「でもいいよ。触れていれば、いずれ変わる」 

 サキさんは、静かに言った。

「変わる?ここで仕事を続けていれば、ぼくも小説を書くようになるということですか?」

 それはない。賭けてもいい。

 ぼくは小説家になりたいとは思わない。なれるわけもない。

「変えられるんだよ。無理やりに。俺以外のふたりは天才だからな」

 確信に満ちた言葉。その目には、焦燥がある。

「天才は周囲を飲み込んで、変えちまう。溺れるしかないのさ、我々凡人は」


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