3.
週明けの月曜日。
出版社で作家・五島万に会うことになった。
久しぶりに履歴書を書いて、安物のスーツを着る。
相棒の草四郎は大学だ。
五島万の元に出向くのは、ぼくひとりだ。
五島万は、十日町の死にまつわる事情を知らない。
呪術とは関係ない、市井の人間だ。
孝三叔父から、そう事情を聞いていた。
つまりぼくはコウガミの名前を使うわけにはいかない。
なので形だけのことだが、採用試験を受けることになった。
エントランスでぼくを迎えたのは、若い男性社員だった。
「先日はどうも」
ぼくは彼にそう挨拶した。
すぐにわかった。
あのウサギ面の男だ。
先日、ぼくらが神楽を舞っていたときに現れた見学者。
やはりコウガミの人間だったのか。
年の頃は二十代半ばといったところか。
平均的な体格をしている。
その顔には、目立つほくろも傷もない。
ハンサムといえないこともないが、人が振り向くほどでもない。
強いて言えば、やや垂れぎみの目が特徴といえるだろうか。
あのおかしなウサギの面で、顔を隠す必要なんてない。
素顔でいた方が、よほど目立たない男だった。
男には、ぼくの言葉が聞こえないようだった。
「はじめまして。シブサワ君だっけ?」
察しが悪いぼくでも、さすがに気づく。
彼は先日の出会いを、なかったことにしたいらしい。
「はじめまして。きょうはよろしくお願いします」
ぼくは挨拶をやり直す。
「五島先生の担当の、谷だ」
気の入っていない挨拶だ。
そして名刺をくれた。
谷周平 (たに しゅうへい)。
方城社 文芸部一課 編集局員、という肩書きだった。
「五島先生は住み込みの手伝いを探している」
面倒臭そうに、谷さんはその仕事内容を教えてくれた。
ワープロを使っての原稿の清書。
電話の取り次ぎなどの雑事。
たまにお使いで、車の運転を頼まれることもある。
どれも簡単な仕事だと、谷さんは言った。
「上の会議室で先生がお待ちだ」
必要最低限の説明をこなすと、彼はスタスタと歩き出した。
ぼくも彼のあとに続いた。
アルバイトか。
手間賃がでると、孝三叔父が言っていたのはそういう意味か。
いつまで続くかもしれない予後観察。
まったく気の長い話だった。
今日の面接の前に、僕は通り一遍だが五島万という作家のことを調べた。
書店に行き、著作を買い求め、それを読んだ。
図書館に行き、作品が掲載された雑誌も漁った。
五島万は変わった作家だった。
問題の呪言が載せられていたのは、ミステリ仕立ての作品だった。
だが五島万はミステリ専門の作家ではない。
恋愛小説、時代物、ティーンが好むような冒険小説もある。娯楽ものならなんでもござれだ。
デビューからわずか一年。とにかく筆が早い。
しかし連載を何本も抱え、単行本の刊行数は両手の指にあまる。
書店に行けば、最新刊は目立つ場所に高く積まれている。
しかし五島万は、素顔を露出をしなかった。
インタビューを受けることがあっても、記事に写真は出さない。
さらに経歴は、まったく不明だった。
生年も、出身地も、学歴も。著書のどこにもプロフィールが書かれていない。
デビューまでの経緯も謎だ。
小説家は、出版各社が設けている新人賞に応募し、デビューを決める。それが一般的だろう。
五島万は違った。
どこからともなく現れて、いつの間にか最前線に立っていた。
「シブサワ君、小説は好き?」
長机に両肘をついた、気だるげな格好。
疲労で濁った眼。
やや面長の顔。少し伸びた髪。
タバコを挟む指先は、インクで黒く汚れていた。
サキさんは、いかにも小説家らしい人だった。
この会議室に向かうエレベーターの中で、谷さんから簡単に説明された。
彼が五島万だ。
しかし最初から、五島万名義で書いてきたわけではない。
本名の佐紀 了次で若手作家の登竜門といわれる、雑誌主催の新人賞を受賞。その後、単行本も一冊出していた。
”小説は好きか?”
雑談の入りのような、質問だ。
しかしサキさんは真剣だった。
それだけ発すると、また口を閉じる。
射貫くような目でぼくをみていた。
彼にとって、これは重要な質問らしい。
「はい、好きです」
だが空気に飲まれたぼくは、工夫のないひとことを返した。
嘘ではない。
学校で文学を勉強したわけはない。
けれど、読書は好きだ。
ぼくはアガミという、大人数の出入りする家で育った。
新刊・古本、ジャンル問わず。誰がいつ買ったのかも定かでない、本があちこちに積んであった。もちろん、小説も。
ぼくは物心着いた頃から、ごく自然にぼくはそれらを雑食的に読んできた。
「フッフッフッ....」.
ぼくの答えを聞いたサキさんは、笑い始めた。
「?!」
思わずのけ反った。
「そりゃ結構。非常に結構!大変結構だ!!」
感嘆。
青白いその顔に朱が差したように見えた。
目は爛々と光を帯びる。
「俺も小説大好き!!」
力強く、サキさんは叫んだ。
サキさんは腰かけていたパイプ椅子から立ち上がった。
そして、ツカツカとぼくに向かってきた。
彼の手がぼくに差し伸べられる。
「えっ?えっと……」
まごまごしてると、ぎゅっと両手で包み込む握手をされた。
結構な力だ。
「採用だ。おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
呆気にとられた。
「明日から来れるかい?」
「は、はい」
サキさんはぼくの履歴書をみていない。
封筒から出しもしなかった。
「じゃあ面接終わり。谷くん、細かい説明は任せた」
パッと輝いた目が、また元の濁った色に戻った。
サキさんは唐突に立ち上がると、ふらりと会議室を出ていった。
ぼくの履歴書は長テーブルの上に残されたままだった。
キツネにつままれたような気持ちだ。
「せっかく事務の子が入れてくれたんだ。コーヒー飲んでけよ」
谷さんが言った。
サキさんの奇行ともいえる振るまいには、慣れっこなんだろう。
谷さんは机上に手を伸ばした。
サキさんの代わりに、谷さんはぼくの履歴者を眺める。
ニヤニヤ笑っている。
「字が綺麗だな」
「そりゃどうも」
一応の礼を返す。
「じゃあ五島先生の仕事場の住所なんだが……」
「ちょっと待ってください」
流れるように話題を転じた谷さんを、どうにか引き戻す。
「その前に、もうひとつの仕事の話をしましょう」
グッと正面から、谷さんを見据えた。
けれどもあっさりかわされた。
「その話は、おいおい」
含み笑い。
「今は目の前の仕事に、集中することだ」
その後、サキさんの元で働くことになって、分かったことがある。
彼は奇人でも、変人でもない。
小説家らしく繊細ではあるが、病的なほどではない。
常識的で勤勉な人だった。
考えてみれば、当たり前だ。
破天荒で不健康だけの人間に、あの量の執筆がこなせるわけもない。
けれどサキさんには、その箇所に、ふれると暴れ出す逆鱗ともいうべきツボがあった。
それは小説だ。
『小説は好きか?俺は小説が大好き!!』
彼にとって、小説が全てだった。
この人は一日24時間、いつも読んでいるか、書いているか、小説のことを考えているかしている。
サキさんは世にある、すべての小説が大好きだ。
軽いものでも、重いものでも、現代ものでも、古典でも。
日本産でも、外国産でも、子供向けと括られるものであろうと、低俗と蔑まれるようなものであろうと。
それが小説だというならば、すべてを愛した。
古今東西すべての小説家を尊敬していた。
ぼくのような素人相手に、徹夜で文学論をかたる。
ひいきの作家が新刊を出したと聞けば書店に駆け込み、帰宅後コートも脱がずに貪り読む。
活字の本なんて、堅苦しい。めんどくさい。
当然、小説をまったく読まない人も、世の中にはいる。
でも、サキさんにはそれがまったく理解できない。認められない。
「いつか俺は、この世界の全員を振り向かせる作品を書く」
サキさんは酒が一滴も飲めない。
シラフでこういうことを言ったりする。
「小説が好きな人間は、みんな善人だ」
真面目に無邪気に、彼はそう信じていた。
ワープロを使っての、原稿の清書。
仕事内容の中でこれがネックだった。
ワープロなど使ったことがない。
採用を取り消されてはかなわない。
面接会場の方城社を出たぼくは、スーツ姿のまま春光堂へと向かう。
事務所にはワープロの一台くらいあるだろう。
練習に叩かせてもらうのだ。
面接の翌日、午前八時半。
私鉄の駅で、谷さんと待ち合わせだ。
持ち物も服装も指示されなかった。
ワイシャツだけ替えて、今日も昨日と同じスーツを着る。これしか持っていないのだから仕方ない。
待ち合わせ場所に現れた谷さんは、ひどくねむそうだった。
編集者は夜型の人間が多いと聞く。
普段はまだ寝ている時間なんだろう。
谷さんは、あくまでも表向きの顔を崩すまいと決めているようだ。
ぼくとふたりきりになっても、コウガミのコの字も、十日町条の名もおくびにもださない。
仕事場は、駅から徒歩十五分ほどの場所にあるワンルームマンションだった。
サキさんは、ここで暮らしているわけではない。
仕事場として使っている部屋だそうだ。
「タコ部屋にようこそ。ここが当面の君の職場だ」
ニコリともせず、谷さんが言う。
借り主の作家先生がいないからといって、ひどい物言いだ。
確かに小説家を缶詰にするにうってつけの場所だった。
狭く薄暗い。ウナギの寝床だ。
テレビもオーディオも、その部屋にはない。
小型のラジオが1台あるだけ。
繁華街からは遠く離れて、外は静かだ。
しかし窓を大きく開けるわけにはいかない。
臭いの問題がある。
窓の下はドブ川。ビニール袋が黒い水面に浮き、泥濘の中に自転車が逆さに突き刺さっている。
爽やかな風が流れ込んでくる訳がない。
二組スチール机と椅子、そして小さめのキャビネット。それだけで部屋の中は満員状態だった。
横歩きをしないと移動できない。
玄関先には小型の冷蔵庫が置かれている。
その脇には一口だけのコンロ台と、流し台がある。
狭いトイレ。そのとなりには極小のシャワールーム。
スチール机の足元に丸めた毛布が投げ捨ててあった。ここに寝泊まりすることもあるのか。
「その机を使ってくれ」
言われたとおりにスチール机の上に山になっている、紙束を押しのけた。
そこに部屋の片隅に転がされていた、ワープロを置いた。
机上をなぞってみれば、ほこりとタバコの灰で指が黒くなる。
ワープロは谷さんがもってきた、編集部の余りものだ。
「このワープロは、先生のために持ってきたんだけどな」
谷さんが漏らした。
サキさんは手書き派。ワープロへの移行は果たせなかったようだ。
「きょうの仕事は原稿の清書だ。決められた量の仕事を終わらせること。17時までこの部屋で過ごすこと。昼休憩は一時間」
それさえ守れば、後は何をしても構わないと谷さんは言った。
「先生は、いつお見えになるんですか?」
当然聞かねばならない。
そもそもぼくの役目は、彼の予後観察だったはずだ。
その対象がいないのでは話にならない。
けれど谷さんからは、明確な答えは返ってこなかった。
「さてね。先生は、ここに来る日もあれば来ない日もある」
そのときの作業状況によるらしい。
「気楽にしてくれ」
谷さんは、そう言い残して引き揚げて行った。
「はぁ......」
ひとり取り残されてため息を付く。
デスクには、角二サイズの封筒が置かれていた。
原稿が入っているはずの封筒は、なぜか不気味にふくらんでいる。
これを清書する。それがぼくの初仕事だ。
封筒とは別に紙ペラ一枚、サキさんからの指示書きが付けられていた。
『そのままワープロで写すこと』
ただひとこと。
ぐにょぐにょと曲がった癖のある字で書かれていた。
指示書きの "そのまま"という4文字には、強調を表す上点がふられている。
「ふむ」
強調するからには、重要なことなんだろう。
ワープロは東芝のルポ。最新機種だ。
そして封が切られていないフロッピーディスクの束。
インクリボンと、手も切れそうなA4用紙もそろっている。
「.......」
ふんわりと膨らんでいる角二封筒を開封する。
そこには、たしかに手書き原稿が詰められていた。
だがそれは、一筋縄ではいかないものだった。
厚みの割には封筒は軽かった。
中身を机に出してみてその理由が分かった。
出てきたのは大きさも、厚みも、色味も、バラバラの紙の束。
中には原稿用紙もあった。しかしもれなくグシャっとよれている。
他にはチラシの裏、メモ帳にノート。
様々なものに、作品の断片が書きつけられていた。
走り書きの一行で終わっているものもあれば、蟻のように細かい字で、まっ黒に埋めている紙片もある。
紙はどれもゴワゴワとしている。はみ出た液体のりだ。
バラバラの紙片が大判のコピー用紙に、のりで、ホチキスで、セロテープで、クリップで、雑に切り貼りされている。
その紙束の一片一片をじっくりと読むことからはじめた。
ワープロの電源を入れるのは、後回しだ。
きれぎれ。
順番もバラバラ。
全体をまとめても決して長い文章ではない。
しかしバラバラの組み上げて、理解できる形まで持っていくには手間がかかりそうだった。
加えて、文字のクセが強い。
よく言えば味がある。正直に言えば悪筆だ。
これがまたぼくを苦しめた。
「Apple….いや、これは塔の中って書いているのか?」
相当なもんである。
五島万はひとりじゃない。
一度原稿を読んで、そのことに気づいた。
二度三度読み返して、確信になる。
まずは、ミミズがのたくったような、ヘロヘロの文字。
これはサキさんのものだ。
他にも二人分の筆跡がある。
そして筆圧が高い、四角ばった字。
最後に、小さくて丸っこい文字。
原稿は、三人の手で書かれたものだった。
死んだ十日町条は小説家ではない。
五島万は利用されただけだ。
孝三叔父から、そう聞いている。
原稿を書き付けた紙片には、十日前の日めくりカレンダーもあった。
十日町が死んだのは三月前。
不明な字は十日町のものではない。
谷さんからは何も聞いていない。
当然、担当編集ある彼は知っている。
五島万は三人グループの作家だと。
舐められたものである。
谷さんは、コウガミという大社の人間だ。
外部からきた、ぼくみたいな小僧のことなど信用していないのだろう。
昨日の態度を思い出すだに、尋ねてもあの人からまともな返事が返ってくることはないだろう。
いまはこの清書作業を黙って続けるほかない。
月産2000枚の売れっ子作家。
その五島万の作品が、こうやって作られているとは思わなかった。
その工程は、決してまっすぐなものではなかった。
なんどもなんども泥臭い程に書き直しがされていた。
文章の書きつけられた紙片は、煮えたぎる鍋のようだった。
三人分の文字たちは、その中でひしめき合い、グツグツと沸騰していた。
起点は、丸っこい文字。
原稿に占める分量は少ない。しかし作品の大枠を作るのは、この丸文字の持ち主だ。
次にくるのは、サキさんのミミズのヒョロヒョロ字だ。
サキさんは、作品にみっちりと肉を付けていく。
最後は赤インクで書かれた、金釘文字。
金釘文字の持ち主の役割は指揮者。
他のふたりに全体の構成の指示し、添削をくわえまとめあげる。
しかしそれで作品は、完成ではない。
金釘文字がまとめたところを、他のふたりが角度をつけ混ぜ返す。
支流を本流にして、鮮やかな色を加える。
遠慮会釈はそこにない。
ピッチャーは投げ、バッターがフルスイングで打ち返す。
三人は文字を重ね、また大胆に削り取る。
フリージャズのセッション……いや、この例えでは優し過ぎる。
ギリギリのカーチェイスだ。
ペン先というタイヤがアスファルトを削って、原稿の上で火花を散らす。
短編小説とエッセイだ。
封筒の中には2種類の原稿が混在していた。
それに気付いたのは、作業をはじめてだいぶ経ったあとだった。
ふたつあわせて、原稿用紙で約50枚。
ぼくがワープロ操作に不慣れだといっても、一日かければタイプ出来ない量ではない。
だが作業が終わったのは、終業時間を二時間もオーバーした19時過ぎだった。
昼休憩もほぼ返上した。
なのに、この体たらくだ。
途中で作業中のデータが消えたのも痛かった。
ワープロは高性能な最新機種。
しかしデータが飛ぶときは飛ぶ。
「......ああああ」
文書は小まめに、フロッピーディスクに保存。
そのフロッピーも複数枚コピーを作る。
それを学ぶために、三時間無駄にした。
仕事部屋の鍵は、谷さんから預けられていた。
翌日、朝の9時。
「おはようございます」
いちおう挨拶をした。しかし返事はかえってこない。
谷さんの付き添いはない。
今日はぼくひとりで、ウナギの寝床の仕事場に出勤した。
サキさんはきょうも不在だった。
だが、新しい角封筒が机の上に置かれていた。
今日の分の仕事だ。
昨日の原稿の封筒と、ぼくが仕上げた清書の入ったフロッピーはなくなっていた。
きょうの昼食は近所のスーパーで買った弁当だ。
飲み残したパック牛乳を入れようと、玄関先の冷蔵庫を開ける。
中に封筒が2通入っていた。
昨日この冷蔵庫を開けた時にはなかったものだ。
『九月二日分、給与』。
『九月二日分、昼食代』。
封筒にはサキさんの字で、そう表書きされていた。
中をあらためてみると、聞いていたより二割は多い金額が入っている。
昨晩ぼくが帰った後に、サキさんはこの部屋にきて封筒を入れていった。
最初の一週間は試用期間。その間の給与は日払いとは聞いていた。
しかしなぜ、冷蔵庫に入れたのだろう。
主婦のヘソクリみたいだ。
清書作業も二日目ともなれば、ワープロにもだいぶ慣れてきた。
最初は、両人差し指2本でタイプ。
そこから、使える指の数が順調に増えてきた。
封筒の原稿は、初日の昨日より一割ほど増量されている。
それでもきょうは予定時間より早く、打ち終えた。
しかしここで帰るわけにはいかない。
割高な給与を貰ったのだ。
時間いっぱい仕事をしないでは、バチが当たる。
冷蔵庫の脇に、カラカラに干からびた雑巾が一枚落ちているのに気づいた。
勤務時間最後の三十分を、部屋の掃除にあてることにした。
「うお、真っ黒」
デスクを拭えば、タバコの灰とほこりで雑巾がすぐに黒くなる。
明日は家から、他の掃除道具を持ってくることにしよう。
三日目。
仕事場に入ると、冷蔵庫をまず開けた。
やはり給与の入った封筒が2枚入っている。
そして、またぼくが昨日終えた作業分のフロッピーと原稿は消え、新しい作業が追加されている。
今日も仕事場には誰も訪ねてこなかった。
デスクの上の電話もリンとも鳴らない。
清書用の原稿の量は、また増えている。
焦りは禁物。
そして少し慣れたからといって、油断も禁物。
コツコツとひとり作業する。
しかし静かだ。
ここにあったラジオを借りた。
ひとりの昼食時にかける。
バケツに新しいぞうきん。窓を拭くための古新聞に、スポンジとブラシ。たわしに各種洗剤……
本家でこの職場のことを話したら、お節介焼きが山ほど持たせてくれたのだ。
今日はシンク周りを掃除した。
清書作業で一日中座りっぱなしだ。さすがに体がこわばる。
掃除はいい気分転換だ。
こうして少し、体を動かすのも悪くない。
四日目。
清書の量がまた増えた。
どこかから見張られているんじゃあるまいか。
適切過ぎる増量だ。
冷蔵庫に今日も変わらず、封筒2通。
今日はシャワー室を掃除した。換気扇までピカピカに。
帰り間際、サキさんへ手紙を書いた。
ぼくの3日間の仕事で、改めるべき点があるならご指導いただけないだろうか。
あとは、他のお二人に一度挨拶をさせていただきたい。
五日目。
今日はトイレを掃除した。
今日も誰もこなかった。
サキさんから手紙の返事もない。
ひたすら清書をする。
その作業にも慣れてきた。
三種類のクセ字に酔って、手が止まる...そんな時間も少なくなった。
タイプは一定のリズムで。
あわてない。でもモタモタしない。
打ち終わった後の見直しを3回する。
しかしやはり、その毛玉のようにもつれた原稿には難読な箇所が多々あった。
「……なんて書いてあるんだ?」
日本語には存在しない文字にしかみえない。
そんな箇所は、いったん手で書きだす。
もしくは声に出して読んでみる。
そうすると、絡まった文字はほどけ、そこになにが書いてあるのか見えてくる。
そのままを書き写す。
誤字脱字、句読点が抜けようが、文脈が転んでようが。
全部ほっておけ。
ぼくはサキさんの指示を、ちゃんと守った。
泥の中から、大根を抜くのがぼくの仕事。
泥だらけの大根を白くなるまで洗って、店に並べるのは作家と編集の仕事だ。
サキさんは毎日ぼくのいない時間を選んで、この職場にきていた。
使用済みのフロッピーを回収し、冷蔵庫に金の入った封筒をおいていく。
ぼくはサキさんの、そしてまだ見ぬもう二人の五島万にあうためにここにきたのに。
こうなったら、居残ってサキさんを待ち伏せするしかないのか?