18.
ホスピタルにきてひと月がすぎた。
日々の仕事にも慣れた。
しかし変わらず、苦手なこともある。
「これとそれ、どっちがいい?」
ぼくの苦手なこと。
それは作品の意見を求められることだ。
壁に向かって独り言いうよりは、若干マシだから。
相手だって、軽い気持ちで尋ねたにすぎない。
ぼくはただの手伝いだ。
ぼくがなにを言ったところで、作品の根幹が揺らぐことはない。
「わかりません」
でもいつも、それしか答えられない。
五島万の三人に、口先で適当なことを言いたくはない。
「遠慮するなよ。怒らないから、何でもいい。言ってみてよ」
そんなことを言われると、ますます分からなくなってしまう。
「……どちらも、とても面白いと思います」
嘘を付いているわけではない。
でもそんなぼくの言葉は、気持ちとは裏腹に白々しく響く。
「セイくんは、つれないなー」
ニレイさんは、すぐに諦めた。
アリアはそんなとき、ギロッとぼくをにらんだ。
「わかった。次はもっとすごいのを書くから」
「いつだって、アリアさんの作品はすごいですよ」
「全然、心がこもってない」
ぼくの言葉は、アリアに切って捨てられる。
嘘じゃないのに。
サキさんが、いちばん面倒だった。
「セイくん、俺たちに噛みつくくらいの気概がないと、いい物書きにはなれないぜ」
「だから、ぼくは作家になる気はないんですってば!」
「まず一本書いてみるといい。どれだけ、いいものかが分かる」
「ぼくには物を書く才能なんてありませんよ」
そう言っても、サキさんは逃がしてくれない。
「駄作でも傑作でもいいんだ。とにかく書くんだ。世界にまたひとつ、新しい物語が生まれる……それ自体が価値なんだ。小説ってのはな、奇跡なんだよ」
形のないものを、想像してはならない。
影を名付けてはならない。
心を奪われてはならない。
それが、アガミの術者の鉄則だ。
小説もまた形のないものだ。
ぼくは小説との付き合い方が分からなかった。
五島万は売れっ子作家だ。
小説以外の注文もひっきりなしだ。
五島万は、エッセイの連載をふたつ持っていた。
エッセイ、散文、随筆。
作者がその日常で見たこと、感じたこと、それがそのまま作品になる。
エッセイを読むことで読者は、作家をより身近に感じることができる。
「随筆ってのは、まぁ埋め草だよ」
サキさんは言った。
文芸誌といっても、小説ばかり並べるわけにはいかない。誌面が息苦しくなる。
だから間にエッセイが挟まれる。
小説が一本も載らないような雑誌からも、けっこう引き手がある。
隙間に軽い読み物が欲しい。そういう需要に応えているわけだ。
だがエッセイを書くといっても、三人の実際を書くわけにはいかない。
「短編を書くのと変わりない」
アリアは、エッセイの仕事をそう考えていた。
「どんな作家のエッセイも、誇張とでたらめで出来ている」
作家ってのは嘘つきなんだ、と極端な意見をサキさんは述べる。
「でも嘘をつくなら、読ませる嘘を付かないとな」
ニレイさんが言った。
週に一回、半日かけて。
五島万の三人は、エッセイのために共同作業をする。
作業場所は、玄関から入ってすぐの待合室だ。
ぼくはポットにたっぷりお湯を沸かす。
コーヒーと紅茶、緑茶を用意する。
お茶うけを、テーブルに並べる。
甘いものを好まないアリアのために、漬物も出しておく。
ローテーブルに車座になり、膝をつきあわせて、打ち合わせ兼お茶会だ。
小説は三人バラバラに、別々の部屋で黙々と綴られている。
エッセイは特別だ。
三人一緒に作業する。
お茶をガブガブ飲みながら、ああだこうだと三人は言い合う。
時折笑い声も混じる。
はたで見ていると、雑談をしているようにしか思えない。
「楽しい楽しい、井戸端会議だ」
ニレイさんが醤油せんべいをパリパリかじりながら、歌うようにいう。
しかしこれは、真剣勝負の場だ。
見えない火花を散らせながら、三人は作品を編んでいく。
サキさんは書記役もかねている。
アイデアを、箇条書きでサラサラサラと書き留めていく。
アイデアは湯水のように湧き出てくる。
それぞれから湧き出た、小さな願望やほんのたわごとを、五島万という器に落とし込む。
そして人が読むに足りる作品にしてしまう。
「ポテトサラダのうまい飲み屋があってな。ここは昔美人の三人組が、切り盛りしている小さな店で……」
これはニレイさんが、ぼくの母親の店”梅や”に寄った時の話だ。
作り事が八割、事実が二割。
H城社のTさんという編集者も、五島万のエッセイのレギュラーだ。
さて五島万は最近、秘書を雇った。
オスのゴリラである。サーカス団から安く買い入れた。
「ゴリラというには、薄い顔だけどな」
サキさんがニヤリと笑う。
まったく、誰のことを言ってるんだろう?
能天気で、無骨者の、あまり情緒というものを理解しないゴリラである。
ゴリラ秘書はたまに、珍妙な飯をあつらえる。
ゴリラ秘書は派手な柄のシャツを着ている……ぼくのセンスではない。ホスピタルの忘れ物を借用しただけだ。
ゴリラ秘書は掃除機をかけながら、下手な鼻歌を歌う。
こちらがとんと知らない間に、よく見てるものだ。ため息が出てくる。
「たまにウンコを投げるの。ゴリラだから」
アリアが言ったこの言葉に、ドキリとした。
彼女と顔を合わせる前のことだ。
立ち入り禁止の裏庭に出るための、やむを得ず取った奇行だった。
アリアにはバレていたらしい。
「草四郎くんは、小説の方に出したいな」
サキさんの言葉に、ニレイさんも乗ってくる。
「白皙の美青年といえば…吸血鬼なんてどうだろう?」
女にウブな吸血鬼。奇抜な設定だ。
「もしくはベタに探偵とか。草四郎くんは和装が似合いそうだ。横笛は小道具でそのまま使いたいね……彼が不吉なメロディーを奏でる度に、人が死ぬ」
「なんで探偵のせいで、人死が出るんだか」
呆れたようにアリアが言った。
「いっその事、吸血鬼で探偵ってことにしようか」
ニレイさんが笑う。
こんな荒唐無稽なアイデアでも、書くとなったら書き上げるのが、この三人だ。
草四郎は本人のあずかり知らぬところで、娯楽小説の主人公になろうとしている。
ゴリラにされるのと、どちらがマシだろう。
途中脱線もありつつ、定刻通りに、
「じゃ今回は五島先生に、ゴルフについて書いてもらうか」
ニレイさんが、区切りの一言をのべる。
話の核が決まってしまえば、あとは速い。
一気呵成で書き上げてしまう。
「五島万先生は、いったいどんな人なんですか?」
ふとアリアに、そんなことを尋ねてみた。
エッセイ二本分。
原稿用紙きっかり三十枚。
夕食を挟んで、日付が変わるころには、ぼくの清書作業も完了した。
アリアは風呂上がり。あとは練習室に帰って眠るだけだ。
ドライヤーのかけかたがいつも甘い。
長い髪はところどころ、しっとりと濡れている。
「五島万がどんなかって?それ、どういう意味?」
アリアが小首をかしげる。
質問の意図は、うまく伝わらなかったようだ。
「本当に五島万がいるとして。年はいくつなんだろう?とか。どんな顔をしているのかな?とか、いろいろ気になってきまして……」
「ハゲ、チビ。冴えない中年男」
明らかに、いま思いついたことだろう。
無造作にアリアはいった。
「あんまりですね」
苦笑するしかない。
「カッコよくない方がいいのよ。読者の反感を買わないように」
アリアは訳知り顔にいう。
「性格はもっとひどいの」
と、アリアは続けた。
五島万は、お酒と女にだらしなく、不器用で人見知り。
コンプレックスのかたまりで、世の中をひねて見ている。
そのくせ気分屋で、おっちょこちょいのミーハーだ。
「欠点だらけなんですね、彼は」
「うん、ダメな人」
しかしアリアの言葉を聞いているうちに気づいた。
五島万の欠点は、生みの親である三人から出たものだ。
「ぼくは彼のことが、好きですよ」
きっと、五島万はいいやつだ。
「ふふふ」
ぼくの言葉をきくと、アリアは嬉しそうに笑った。