17.
やきとり、コロッケ、かぼちゃの煮物。
うめ屋から、総菜を何種類か持ち帰った。
ぼくとアリアの夕飯のおかずだ。
不在がちのニレイさんと、昼夜逆転生活のサキさん。
自然と夕食は、ぼくとアリアでとることが多くなる。
最近はアリアも、母屋まで出てきてくれるようになった。
アリアはおかずの中で、やはり焼き鳥が気に入ったらしい。
見る間にアリアの皿の上に、食べ終えた串がずらり並んだ。
「いつもの、ガード下の店よりおいしい」
絶賛といってもいい言葉だ。
「良かった。おふくろが喜びます」
弟のエイも独身男子だ。
アリアの未来の花婿候補だ。
エイには、アリアのことを言いそびれた。
アリアを意識してしまっている草四郎に、義理立てしたわけではない。
弟に五島万に関するあれこれを、話すわけにもいかないからだ。
「母の店で、弟にばったり会ったんですよ」
「野球選手の弟さん?」
アリアは、エイのことをちゃんと知っていた。
「ええ、ぼくとそっくりの」
「ふぅん」
一区切り焼き鳥を食べ終えたアリアは、白いご飯に移る。
エイに対して、特別な関心はないらしい。
「兄をよろしくお願いいたします……と、五島先生あての伝言をあずかってきました」
「弟じゃなくて、お兄さんみたいだね」
そう言って微笑む、アリアのほっぺたに焼き鳥のたれがついていた。
「アリアさん、ほっぺにお弁当がついてますよ」
「ん」
「ああああ!ティッシュを使ってください!」
自分の袖で口を拭おうとしたアリアを慌てて止めた。
未来の花嫁姿など、いまはまったく思い浮かばない。
そんな15歳の少女こそが、五島先生であることをエイは夢にも知らない。
弟のエイの趣味は読書。
五島万の著書も、読了済みだ。
そう伝えると、アリアは驚いた。
「それを聞いたらサキくんは喜ぶよ。よし、次回作は野球小説だ!とかきっと言い出す」
「ははは、ありえますね」
サキさんは小説とその読者を愛している。
「ひとつ聞きたいんだけど」
アリアは急に声を潜める。
「なんです?」
「弟さんも、セイさんと同じ力が使えるの?」
「素養はあるんですが、あいつは野球で手一杯です。ぼくたちの様な活動はしていません」
「そっか」
少し驚いた。
アリアが自分から、ミカさんのことを話題にするなんて。
「ごちそうさまでした」
食べ終えると、アリアはすぐに立ち上がった。
そして食器を流しにさげる。
「もう少しで、今回分が終わるから。二時間後には、そちらに回す」
練習室に戻って、食休みも入れずにまた一仕事だ。
「お茶を淹れて、待ってます」
アリアは甘いものが嫌いだ。デザートには、煎餅を出すことにしよう。
「かたじけない」
アリアは勝手口から、サンダルをつっかけて出ていった。
小説のアリアの将来の夢は、看護婦さんだ。
「看護婦?なんでまた?」
尋ねてみると、熱のこもってない調子でアリアは答えた。
「手に職を付ければ、食いっぱぐれることはないから」
「アリアさんは、すでにプロの小説家じゃないですか」
「一生、小説家でいるのはとても難しいんだよ」
そう分別臭いことをいう。
それはそうかもしれないが。
『高校に通いながら、女優になるためのレッスンを受ける』
アリアは田舎の祖父母に、そう宣言して東京に居残った。
しかしそれは真っ赤な嘘だ。
アリアは掛け値なしの美少女だ。
知名度のある女優の娘で、ニレイさんというコネクションもある。
「わたしには無理」
でも芸能界への意欲はゼロだ。
「女優は、神様に選ばれた人間にしかなれないの」
それに、とアリアはもうひとつ理由を述べた。
「わたしはお母さんに似ていないから」
アリアの母は、柔らかい物腰の可憐な印象の女優だった。中年になっても娘らしい瑞々しさを失わなかった。
凛々しい面立ちのアリアとは、たしかにタイプが違う。
アリアは人からいくら誉められようと、母と似ていない自分の顔が嫌いだった。
アリアが母親を亡くしてから、まだ一年足らずだ。
目に入るだけで辛いからと、アルバムや遺品はこの家に持ってこなかった。
けれどなにが、感情を揺さぶる引き金になるかは、彼女自身にもわからない。
テレビから流れてきた映像。小説に登場した、なにげないワンフレーズ。それがふいうちになることもある。
とつぜん目を真っ赤にして、声を詰まらせるアリアをぼくも数度目にしていた。
アリアがイメージする、女優とは真逆の職業。それが看護婦なんだろう。
アリアは、とても世間が狭い。
女優、ナース、店員さん、学校の先生。
働く女性と職業といえば、この四種類しか思い浮かばない。
学校は大嫌い。
まず教師という選択肢が消える。
接客業は、引っ込み思案の自分にはできそうにない。
女優は無理。
で、残るはナースしかない。
「ハッキリ言って、アリアさんには向いてないと思います」
「セイさんまで。そんなの分からないじゃん!」
素直な意見を述べると、アリアはむくれた。
セイさんまで、とアリアは言った。ということは、ニレイさんもサキさんも同意見ということだ。
「まぁ夢を見るのは自由だ」
サキさんがしたり顔なのは、アリアの目論みが挫折に終わると踏んでいるからだ。
「だが看護婦になるなら、高卒資格はとっておいたほうがいいらしいぞ。中卒でなれんこともないが、かえって難しいんだとさ」
「べんきょう……」
その単語を聞いて、アリアの顔がさっと曇る。
「アリアくん、おまえさんの得意科目はなんだっけ?」
サキさんが続けて、意地悪く問いかける。
「算数」
うつむいてアリアが答える。
数学じゃなく算数。
アリアは中学に入ってすぐ、落ちこぼれた。
京都の撮影所で長期の仕事の入った母親の都合で、転居したのがつまづきの発端だ。
土地と学校に馴染めず、ろくに登校もしなかった。
たまりかねた母親は、寄付金をたんと積んでアリアを私立中学に編入させた。
そこは裕福な家庭に生まれた問題児たちの、駆け込み寺のような学校だ。新興宗教教団が、経営している全寮制の学校だった。
「授業に出なくても、いちにち一回、お経?を唱えたら、出席扱いにしてくれた」
アリアは中学校生活のほとんどを、寮のベッドの上で過ごした。
友達のひとりも作らず、本を読み、惰眠をむさぼり、孤独に過ごしていたわけだ。
「あれだけ毎日も唱えたお経も、今はもう忘れちゃった」
「変身のクソ虫のような青春だ」
嘆かわしい。とサキさんがいう。
練習室に閉じこもりっぱなしの現在も、あまり状況は変わっていない。
「で、見かねた俺が、勉強をおしえてやろうとしたわけだが……」
サキさんは一流大学の出だ。教員免許も持っている。
「学生時代は、家庭教師のバイトもしてたんだぜ。結構評判も良かった」
しかしアリア相手の、個人教授は大失敗に終わった。
授業開始30分で、取っ組み合いの大喧嘩だ。
「五島万、解散の危機だ」
ははは、とサキさんは笑った。
アリアは頑固なところがある。そしてサキさんは、アリア限定で大人げない。
アリアに、勉強する気がないわけではない。
谷さんあたりが頼まれて、持ってきたものなんだろう。アリアの暮らす練習室には、何冊もの参考書やら問題集やらが積んである。
「学歴なんて小説家やるには関係ない。だが知識と教養はいくらあってもいい……学校の勉強なんて無駄かもしれん。だが無駄を知ることもまた教養である」
サキさんはそう、周りくどく言った。
アリアの助けになってやりたいという兄心だ。
勉強しなきゃ。
でも、どこから手を着けていいかわからない!
アリアはいまそんな状態だ。
「セイ君、手の空いた時間にアリアくんの勉強見てやってくれ。特別手当を付けるからさ」
サキさんからのその申し出に、ぼくは首を横に振る。
「ぼくに勤まると思いますか?」
学校の勉強?
高校卒業と同時に忘却の彼方だ。更に元々の出来が悪い。
「他に頼める人がいないんだよ」
サキさんも人選に頭が痛いらしい。
アリアは重度の引っ込み思案だ。
学習塾に通い、他の生徒たちと机を並べるというのは、ハードルが高い。
「家庭教師を雇うのは、どうでしょう?」
思いついた。この役目にうってつけの男が、ひとりいる。
「・・・・・・知らない人と会うのは、疲れる」
アリアはなおも渋った。
「大丈夫、アリアさんも面識のある人間です。人物はぼくが保証しますよ」
ぼくの知り合い。しかも勉強ができる。
アリアの家庭教師に就任したのは、草四郎だ。
甥のぼくとは出来が違う。草四郎は理大に通う秀才だ。
「良かった。これで、ぼくも堂々とあの家に出入りできます」
草四郎は、一も二もなく承知した。
「引き受けたからには、家庭教師の仕事をちゃんとやれよ」
推薦した手前、草四郎に釘をさしておく。
「セイさんに、言われるまでもありませんよ」
週に二回、各二時間。
あくまでも作家の仕事優先。それがアリアの希望だった。
長らく遠ざかってきた勉強という行為に、慣れることから始める。学力アップは二の次だ。
草四郎は、なかなかの熱血教師ぶりを発揮した。
「セイさん、見てください。カリキュラムを組んですが、どうでしょう?」
短時間でいかに効率よく授業を進めるか。
草四郎は学習計画書を、ノートにびっしりと書き込んできた。
「うん、いいんじゃないか…」
クソ真面目にもほどがある。
生徒であるアリアと温度差があるんじゃないか。その点が心配だ。
「ぼくがいないときは、セイさんがアリアさんの勉強を見てあげてくださいね」
「……はい」
渋々とうなずいた。
ぼくも復習しておかなくては。
草四郎がこの家に訪れるようになって、アリアの格好は少しまともになった。
「山猿が淑女に変わった」
サキさんは述べる。しかし、それは大袈裟だ。
アリアはおしゃれに目覚めたわけではない。
パンツが見えるような格好で、うろつくことがなくなった。
ブラジャーを着けるようになった。
その程度の進歩である。
草四郎がアリアの肌を見て狼狽えるたびに、授業が止まっていては話しにならないからだ。
「いくら言っても治らなかったんだが、こんなにあっさり改善するとは…草四郎くんに感謝だなぁ」
ニレイさんまでもが、そういって笑う。
北風と太陽みたいな話だ。
「Can I borrow you pen?」
「この場合、youは所有格に変化するんですよ」
草四郎の指摘をうけて、アリアはうなる。
「ううん、えっと、えっと」
英文に悪戦苦闘。
とてもベストセラー作家とは見えない。
勉強が苦手な、十代の女の子だ。
アリアの暮らす練習室には、小さな机がひとつしかない。
家庭教師は、必然的に母屋でやることになった。
ぼくが清書作業をしている、キッチンが会場だ。
ふたりが英語のテキストとにらめっこする傍らで、ぼくはパタパタとワープロを叩く。