14.
ぼくと草四郎は無言のまま、夜道を歩いた。
先ほどの谷さんの言葉が、いつまでも頭の中で反響していた。
「これから、どうすればいいんでしょうか?」
草四郎がつぶやいた。
ぼくに向けた言葉ではなかった。
ミカさんに言ったのだ。
いまミカさんは姿を隠している。
だが、間違いなくぼくらの傍らにいるはずだ。
ミカさんが、ぜんぶ教えてくれたらいいのに。
ミカさんは、谷さんに何を告げたんだ?
そして、予言には続きがあるという。
その谷さんの推測が当たっているならば、ミカさんはこれから何を告げる?
「明日、春光堂を訪ねてみるか?」
草四郎に尋ねる。
春光堂には孝三叔父がいる。
孝三叔父は、ぼくらと谷さんを繋げた人だ。
何かを知っているはずだ。
「……やめておきましょう」
しばしの躊躇いのあとで、草四郎は答えた。
そうだ。きっと叔父はなにも答えてくれない。
それは、ぼくらが知る必要のないことだからだ。
「コウガミが負っている因縁も、予言のことも、ぼくには分かりません……でもこれから何かが起こるとしたら、その時は五島万のそばにいたい」
「そうだな」
草四郎の決意に、ぼくも短く答える。
五島万を守る。
それがぼくらに任せられた仕事だ。
しかし、ぼくらの預かり知らぬところで、事態は急速に動き始めていた……
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酒をやめて以来、ニレイさんの生活はがらりと変わった。
「体が酒を受けつけなくなった。薄い水割りを一杯も飲めば、世界が回る」
本人は少し残念そうだ。しかし健康のためには、とても良いことしかなかった。
「昏い酒を飲んでいたな。毎日潰れるまで飲んで、気づけば朝だ」
俳優業は順調だった。
けれど私生活は荒廃しきっていた。
「鬱屈してた。がんじがらめだった。どんづまりにいた」
人気俳優である彼の稼ぎで、たくさんの人間が飯を食っていた。
自由に生きたい。
だから役者になったはずなのに。
まったくわけがわからなかった。
「事故に遭わず、芝居を続けていたら、酒が俺を殺していただろう。死ななかったとしても、取り返しのつかないしくじりをしていたはずだ。綱渡りの日々だった」
ニレイさんは、しみじみと言った。
「いまじゃ肩の荷なんぞ、吹っ飛んだ。それどころかサキ君とアリア君におんぶにだっこ。面倒かけ通しだ。俺が寝てようが、若いふたりがちゃんとやってくれるんだから」
その軽口の中に、本心が混じっている。
ニレイさんにとって、五島万は大切な居場所だった。
しかし禁酒を達成した今でも、ニレイさんは酒の誘いを断らない。
それどころか、自分から人を誘ったりもする。
「みんなが楽しそうに飲んでいるのを見ているのが楽しいんだ」
ニレイさんは酒の席で、ひたすらウーロン茶を飲んで、終始ニコニコしている。
「サキ君は下戸だからな。セイ君が来てくれて良かったよ」
ニレイさんは、よくぼくを飲みに連れ出した。
夜は暗い。
影の時間だ。
五島万を守る立場のぼくとしても、ニレイさんをひとりにしたくなかった。
事故以来ニレイさんは、役者の飲み仲間とは疎遠になっていた。
かといって、文壇バーとやらに分け入っていく気もないようだ。
「事故の拍子に、赤玉が出た」
それは冗談とも本気とも付かないが、ニレイさんは女性が酌をする店も好まない。
しかし他にこだわりはない。
高級店でも路地裏の小さな店でも、ぶらりと飛び込んで行ってしまう。
観劇、旅行、そして夜遊び。三日続けて家にいたことがない。
ニレイさんはいつ机に向かって、原稿を書いているんだろう?
そばにいる筈のぼくも、たまに不思議に思う。
きょうもニレイさんは打ち合わせを兼ねて、編集者と夜の街へと繰り出していた。
谷さんではない。別の会社の編集者だ。
ぼくも付き添いとして、同席していた。
その編集者とは、二件目の店で別れた。
今日の三件目の河岸は、こじんまりとしたカラオケバーだった。
「セイくんも飲め飲め」
酔ってもいないのに、絡んでくる。
きょうもニレイさんは上機嫌だ。
ぼくは酒が好きでも嫌いでもない。
体が大きいせいだろうか。いくら飲んでもあまり酔わない。飲んでも飲まなくても同じことだった。
「無理です。車を置いて帰れません」
勧められた酒を断り、瓶コーラを頼む。
酒を飲まないふたりが、はしご酒だ。なにをやっているんだか。
さて時計の針は、てっぺんを過ぎた。
朝型のぼくは、そろそろおねむだ。
ニレイさんを、送り届ける頃あいだ。
ニレイさんは飲みに出ると、ウナギの寝床の仕事場に泊まることが多い。都内の盛り場からは、ホスピタルよりも近いからだ。
「セイ君、最後に一曲歌え」
今度はマイクを押し付けられる。
「はいはい」
ぼくは、裕次郎を選んで歌った。
「セイくんの歌は……なんというか……ビリビリくるな」
ニレイさんが、ぼくの歌に対してそう感想を述べた。
褒めてくれているわけではないみたいだ。
「じゃあそろそろ」
ぼくは席を立ち、勘定をたのんだ。
「おやすみなさい。お昼ごろ、お迎えに上がります」
「うん、ありがとう。帰り道、気を付けてな」
仕事部屋には、駐車場がない。
建物の前の道で、ニレイさんとはお別れだ。
車を出すのを少し待って、仕事部屋に明かりが点くのを見届ける。
その時だった。
前方から、通行人がひとりやってきた。
さきほど、ここに来た時にチラリと目にとめていた。
道の少し先にある電話ボックスを使っていた男だ。
男は夜目にも分かる、派手な男だった。
金に染められた髪、派手な花柄のシャツに細身のズボン。
にじみ出る荒んだ空気。
まともな商売をしているようには見えなかった。
男はこちらの車体にもたれかかる様に、身を寄せてきた。
サイドドアのガラスが乱暴に叩かれた。
「何の用だ?」
丁寧な口をきいてやる必要はなさそうだ。
ぼくはハンドルを回し、ほんの少し窓をひらいた。
男は窓をこじ開けようとするかのように、指を差し入れた。
「開けろ。出てこい」
ガラスに顔を付け、男は怒鳴る。
くすんだ肌の色。それは覚醒剤常用者によく見られるものだった。
「だから、なんの用だと聞いてるんだ」
言い返したその時だ。
車体が揺れた。
大きく、何度も揺さぶられている。
男には仲間がいる。それも複数人だ。
「くそっ!」
言いなりになるのは腹立たしいが、ぼくは車外へと出た。
ニレイさんの車体に傷が付いたら、どうしてくれるんだ。
男は全部で三人だった。
みんな似たり寄ったりの風貌をしている。
ヤクザではない。ただのチンピラだ。
たたずまいを見ればわかる。
ひとりの男に肩口を抑えられた。
そして腹に一発、拳を叩きこまれる。
「ーーー!」
咄嗟に腹を折って、衝撃をいなした。それでも息が詰まった。
「来い。いっしょに来てもらおう」
目の前にかざされた銀色の刃。
男が取り出したのは、折り畳みナイフだ。
華奢な刃だ。
刺されても、致命傷にはなるまい。
ただの脅しだ。
男が肩を組んできた。
やはり、こいつはポン中だ。ひどい口臭がした。
「車を置いていくわけには行かないんだが」
呟けば、今度はむこうずねを蹴り上げられる。
「逃げられるなんて、思うなよ」
「逃げないさ」
三対一。
しかし彼らは暴力の素人だ。
振り払えないこともない。
しかしここは路上だ。人がいつ通りかかるとも限らない。
騒ぎを起こすのは避けたかった。
貧相な顔だ。
目を血走らせ震えているのは、ナイフを突きつけられている、ぼくではない。
こいつらの方だ。
「ハズレくじだな」
「なんだと!」
ぼくの呟きに男は怒声を返す。
まぎれもない、ハズレくじだ。
こいつらから伸びた糸をいくら引いても、何に辿り着くとも思えない。
「逆らうんじゃねえ!ぶっ刺すぞ」
工夫のない言葉。
「はいよ」
背後に立つ男に小突かれて、歩み出そうとしたその時だ。
「おーい、セイくん。なにしてんの?」
のんびりした声。
ニレイさんだった。
「なんで、ここにいるんですか!?」
思わず大声を出してしまった。
仕事場に入っていったはずじゃなかったのか。
「ーーー!」
男たちも身をこわばらせる。
「車を出す音が聞こえなかったから、気になってね」
本当にこの人は感覚が鋭い。
しかしいまは最悪のタイミングだ。
「お取込み中かい?」
ぼくに突きつけられたナイフは、ニレイさんの位置からは見えない。
しかしこの状況は、ぼくが三人の男に絡まれているようにしか見えないだろう。
だが、ニレイさんは逃げようとしなかった。
「いやぁ、いま偶然高校時代の同級生に会いまして……」
ぼくの口から飛び出たのは、まったくのでたらめだ。
ニレイさんは有名人だ。
警察沙汰ともなれば、迷惑をかけることになる。
この場はどうにか、やりすごしたい。
「こちらスズキ君、タナカ君、そしてサイトウ君です」
三人のチンピラどもを適当に名づける。
しかし三人からは敵意の籠った視線が返ってくるばかりだ。まったくぼくに合わせてくれようとしない。
一人芝居だ。
「それじゃあ、ぼくらは積もる話もありますので……これで失礼します」
強引に話をまとめたつもりだったが、邪魔をされる。
「なんだオッサン引っ込んでろ、こら」
チンピラが、ニレイさんに向かって吠えた。
突然の闖入者に、驚いたのもつかの間。
やってきたのは、細身で年かさのニレイさんだ。
たちまち彼らは増長した。
「見てんじゃねえよ。かまされてえのか!」
ぼくの背後を固めていた男が、ニレイさんの方へ一歩踏み出す。
目の端でそれを捉えるなり、ぼくは跳ぶ。
男の後ろ髪を掴んで、引き倒す。
連続して、もう片方の拳をその首元に叩きこむ。
「なっ……!?」
ぼくの脇腹はがら空きだ。
しかしナイフの男は、即座に反応できない。
棒立ちだ。
遊んでいるその手に、手刀を打ち付ける。
ナイフが落ちた。
最後のひとりには触れる必要もない。
右手をのこぶしを軽く握る。
親指と人差し指を立てる。
ピストルの形だ。
「パーン!」
男の眼前に突きつけ、引き金を弾く真似をしてみせる。
「ーー!!」
それはピストルではない。僕の手だ。
けれど目の前の男は、おおきく上体をのけぞらせる。
弾丸に、その顎を打ち抜かれたように。
男は既に意識を失っていた。
痙攣し、そのまま仰向けに倒れる。
「おっとっと……」
コンクリートの地面に頭を打ち付け、死なれでもしては困る。
僕は男を抱きとめ、地べたに寝かせた。
静かだ。
アスファルトを踏む、自分の靴音だけが大きく響く。
数分前にこの場所で格闘をしたとは、思えない。
男たちは完全に沈黙していた。
ナイフを構えていた男は、ぼくに蹴られた手を押さえうずくまっていた。
ニレイさんに手を出そうとした男も、白目を剥いて星空を見上げている。
「死んだか?」
のんびりとニレイさんが尋ねる。
「全員生きてますよ」
ただし、三人とも夢の中だ。
「セイくん、君の方は?ケガはないか?」
「大丈夫です……すいません。やつらともみ合った時に、車に傷を付けてしまったかもしれない」
「馬鹿。そんなことはどうでもいい」
「すいません」
ぼくはまた頭を下げた。
伸びている三人を物陰まで運ぶには、骨が折れた。
近くの電話ボックスから連絡を取る。
110番にかけたのではない。
谷さんから緊急用にと聞いている、例の番号にだ。
決められた合言葉といっしょに、近くの電柱に書いてあった住所も告げる。
応えたのは留守番電話の、機械的な音声。
けれど受話器の向こうには、ちゃんとメッセージを聞いていた人間がいたようだ。
仕事部屋に、ニレイさんのカバンを取りに戻っているわずかな間のことだった。
路上に戻ると、三人の男たちも道の向こうに止めてあった彼らのバンも、綺麗さっぱり消えていた。
「俺もホスピタルへ帰る。ひとり寝をする気分じゃなくなった」
ニレイさんが言った。
「本当に、お騒がせしました」
先日のアリアとの件といい、最近謝ってばかりだ。
取り繕うこともできない。ボロボロだ。
「なんだか、いい匂いがするな」
車に乗り込むなり、ニレイさんが言った。
「ウチの実家で扱っている、香の匂いです」
その香は特別製だった。
ぼくはズボンのポケットに、それを仕込んでいた。
男にナイフを押し当てられる直前、香を入れていたビニールの小袋を爪で破いた。
「しかし、君のアチョーは凄かった。踊るように優雅に一撃必中。京劇をみているようだった」
ニレイさんはミカさんをみることが出来ない。
ぼくが超人技で、男たちをぶちのめしたようにしか見えなかったのだろう。
実際、彼らをのしたのはミカさんだ。
香の臭いと、ぼくの跳躍が引き金となった。
ぼくが彼らに放った打撃は、踊りの拍子取りに過ぎない。
ミカさんの手綱など、僕がとれるわけもない。
加減もできない。
できれば、人相手にミカさんの力は使いたくない。
ぼくを気遣うように、ニレイさんは問いかける。
「何か深刻なトラブルに巻き込まれているのか?」
「いいえ……彼らに見覚えはありません。たまたま絡まれただけだと思います」
男たちは術士ではない。一般人だった。
かれらはなぜ、ぼくに近づいて来たのか。
心当たりはない。
しかし、ぼくがここに来た理由、その一連の話と関わりのないことだとも、言い切れない。
ぼくの知らないところで、混線が起こっている。そう感じた。
「でも、もう無茶はするな。君の手は、清書をしてくれる大切な手だ。商売道具だ。ケガなんてされたら困る」
「すいません・・・」
「なぜ俺に謝る?」
そういってニレイさんは笑う。
今回のぼくの行動には、おかしな点がいくらでもあった。
先日アリアにそうしたように、追及されればニレイさんにもをすべてを話すつもりでいた。
けれどニレイさんはそれ以上、何も尋ねなかった。
カーラジオから、二時の時報が流れた。
今夜は長い夜になった。
そういえば、とニレイさんが言った。
「このまえアリアくんに聞いてみたんだ。セイくんと、仲良くやってるか?って。そしたら何て答えたと思う?」
ニレイさんは、クスクス思い出し笑いをした。
「『上手くやってる。たぶんね』……アリア君はそう言った」
たぶんと付けたのがアリアらしい。
そしてアリアは続けてこういった。
「『セイさんは変わり者だけど、いいひとだよ』……だってさ」
「変わり者ですか」
思わずぼくも笑ってしまった。
変人のアリアにだけは言われたくない。