13.
十日町のこと。
ミカさんのこと。
アリアはぼくらから聞いた話を、ニレイさんにもサキさんにも伝えなかった。
「それはわたしの領分じゃない。話すか話さないかは、セイさんが決めればいい」
アリアはそう言った。
その通りだった。
まず谷さんへ、報告をしなければならない。
そして、彼からアリアに頼まれた雑誌のコピーをもらう。
その受け渡しが、ここでの最後の仕事になるかもしれなかった。
作家・五島万を、影ながら守るのが仕事だったはずだった。
しかしコウガミの騒動も含めて、アリアにすべてを打ち明けた。
谷さんは、その役目からぼくらを外すことになるだろう。
谷さんを”こちらの仕事”で呼びだすためには、手順を踏む必要があった。
決められた電話番号にかけ、予め決められた言葉で伝言を残す。
それで返事をくれるかは、谷さんの気分次第だ。
今回は、すぐに連絡が返ってきた。
あの人に全部を見透かされているような、そんな気がした。
翌日、ぼくと草四郎は谷さんに呼び出された。
場所は方城社近くの、小さなバーだった。
ぼくらが案内されたのは、常連客専用の小部屋だった。
抑えられた照明、控えめなボリュームで流れるピアノトリオ。
騒々しさとは無縁の、落ち着いた空間だ。
そこに異質な存在がいた。
谷さんだ。
「セイくんとは昨日ぶり、草四郎くんは久しぶりだな」
馴れ馴れしい挨拶だ。下の名で呼ばれるほど、この人とは親しくもない。
谷さんは、この前とは違うウサギの面を付けていた。今回は黒ウサギの面だ。
額、目、鼻は隠れている。しかし口はみえる。顔の上半分を覆うタイプの面だ。
彼の前に置かれた細身のグラスは、鮮やかな青のカクテルで満たされている。
面のせいで、その表情が伺いにくい。
その唇が奇妙に生々しくうつった。
「なにを飲む?俺のおごりだ。何でも頼んでくれ」
グラスを持ち上げ、谷さんがいった。
ぼくらは酒を断り、コーヒーを頼んだ。
「コーヒーです」
注文の品を運んできたウエイターは、谷さんの異様な姿を見ても表情を動かさない。
ここで話したことが外に漏れることはないと、谷さんは言った。
「それで?きょうは何の話しかな?」
にこやかな口ぶりで、谷さんは尋ねた。
ぼくらがことの顛末を説明している間、谷さんは終始上機嫌な態度を崩さなかった。
彼が笑い声をあげるたびに、こちらは嫌な汗をかいた。
「けっさくだな。子ネズミが二匹。小娘に尾っぽを踏んづけられて、泣きながら逃げてきたのか」
ミスをしたのはこちらの方だ。言い返すこともできない。
「で、例の掲載誌のコピーが必要なんだっけ?来週までには用意しておく。社まで取りに来てくれ」
「冗談でしょう……?笑いごとで済む問題ですか」
草四郎が椅子から立ち上がる。
叱責をうけるつもりできたのに、拍子抜けもいいところだ。
「きみらの代わりは外にはいない。こんなことでめげるな。失敗したと思うなら、次は頑張れ」
安い教師ドラマのようなセリフ。
この男から発せられると、ただ不気味なだけだった。
「そうさ。たいしたことじゃない。きみらが何をしでかそうと、どうせ何も変わらないんだ。ぜんぶ予め語られたことだ」
谷さんの視線は、ぼくの肩口を捉えている。
そんなわけはない。
彼にはミカさんはみえないはずだ。
「……それはどういう意味ですか?」
「言葉通りだよ。ぜんぶ、元から分かっていたことだ」
「十日町が事件を起こすことを、あなたは、いやコウガミは知っていた……そういうんですか?」
唖然と呟いた草四郎に、谷さんは笑いかける。
「順番に話そうか」
そしてはじめて谷さんの口から、十日町という男の背景を聞くことになった。
「もともと十日町は、Uの人間だった」
Uはとある地方都市を拠点に活動する、新興宗教団体だ。
Uの源流はPという寺にある。
Pは今や郷土史に名を残すのみの、失われた宗派だった。
「外部の者は知らないだけだ。PはUの中で生き続けていた……十日町は、失われたその神に見入られた狂信者だった」
コウガミとPには、数代前から続く因縁があった。
「コウガミは千年の昔から続く大社だ。維新と二度の大戦も乗り越え、力を増すばかり。いまや醜いほどに肥え太っている。コウガミがきた道は、敵味方の流した幾多の血で固められている」
それが大社というものだろう、と谷さんは言った。
「Pからしたら大事だろうが、コウガミにとっては、踏みつぶしてきたアリの一匹だ」
小さなものの名前など、いちいち覚えていない。
「だから警戒してないところを、ぐさりとさされた」
だがその企みも終わった。
十日町を失い、Pは今度こそついえた。
しかし、なにも終わっていないと谷さんはいった。
「例の禁呪は、何のために編まれたものだ?」
「…………!」
ぼくらは絶句した。口に出すことを本能で恐れていた。
その呪言は、底知れぬ悪意と闇をたたえている。
それは禍々しい、人ならぬ何かを呼びだすための呪文だ。
「怖がっちゃいけないよ。すでに場に出ているカードだ。ゲームに勝つためには、よく見ておかないと」
幼子をあやすような口調で、谷さんは笑いかける。
「しかし、十日町条が晒した呪言は、不完全なものだったはず……」
その得体の知れない化物を、呼び出すことは叶わなかった。そのまま十日町は死んだ。
しかし谷さんは、その草四郎のよりどころを一蹴した。
「一点、つき刺すだけで十分だ。ほころびた穴は広がり続ける」
それにと、谷さんは続けた。
「引き金をひくのは、十日町でも誰でも良かった。誰でもあり得たんだ。予め決められていたということはそういう事だ」
振り返れば、十日町いやPも、もっと大きな意思によって動かされていたのかもしれない。そう谷さんは言った。
もうその巨大な者の手は、こちら側に届こうとしている。
「止めることはできないんですか?」
その災厄の出現を。
「できない。予め語られたことだと言っただろう」
「予言……まさか……」
「そう教えてくれたのは、君たちのカミサマだよ」
そして谷さんはまたぼくの肩口に目をやった。
彼にはミカさんが見えてない。
でもそこにいることを確信している目だった。
ぼくも草四郎も、咄嗟に言葉が返せなかった。
ミカさんの予言の力のことまで、この人は知っているのか。
「アガミの誰が、それをあなたに伝えたんですか?」
ミカさんの歌を聞き、読み解くことができるのはアガミの術師だけだ。
「さてね」
谷さんは答えなかった。
ミカさんは未来を見る力をもつ。
しかしアガミが、ミカさんから伝え聞いたその言葉を、外部の人間に漏らすことは絶対ない。
予言が成就するときまで、一族の中だけで抱えていく。
予言は、人を超えた力だ。
人ならざるものを利用しようとすれば、必ずそこにひずみが生まれる。
そして争いが巻き起こる。
避けることのできない悲劇。
それを人が知ったところで何になる?
「俺はアガミのみなさんと親しいんだ。だから守り神サマの歌を教えて貰えた」
「…………」
そんなはずはない。アガミ裏切るような真似をするものが、一族の中にいるとはおもえなかった。
「信じられないって顔をしているね。でも本当だよ。例えば、さきほどのアリアさんの話だ。なぜ彼女は、お宅のカミサマをみることができたんだ?」
なぜアリアにミカさんが見えるのか。
先ほど谷さんに説明した際、ぼくはもっともらしい理由をつけて、うまく誤魔化した。
誤魔化せたつもりだった。
谷さんはくつくつと笑い声をたてた。
「良かったなぁ。美人の嫁さんが来てくれることになって」
認めるよりなかった。
この人は、ミカさんが未来を見る力を持つことを知っている。
目の前のコーヒーはすっかりぬるくなっていた。
飲み干すと、口の中に錆臭い味が広がる。
胃がきりきりと痛んだ。
「谷さんは、怖くないんですか?」
ぼくは尋ねた。
ぼくは恐ろしい。
そのときがくることを待つことが。
闇の中から生まれ出る、それと対峙することが。
「恐ろしいさ。だから君たちの守り神の力を借りたい」
そのために俺は、きみたちを呼んだ。そう谷さんは言った。
「ミカさんの力を?どういうことですか?」
聞き返した、草四郎の顔をまっすぐに見つめ谷さんは答えた。
「君たちのカミサマの予言の歌には、きっと続きがあるはずだ。それを聞き、解き明かしてくれ」