11.
軽度の捻挫。
おまけの擦過傷。
慌てて担ぎ込んだ、近所の形成外科。
アリアは、湿布をもらって帰ってきた。
足首の痛みは、二、三日もすれば、引くだろうとのことだ。
だが、軽症とはいえ彼女にケガをさせてしまったということには変わりない。
奥の部屋に引っ込んでいたサキさんも、騒ぎに気づいて出てきた。
「部屋に出現したゴキブリに驚いて、裸足のまま飛び出して、あげく階段から転がり落ちたんだって?マヌケだな」
アリアのケガが軽かったせいだろう。
心配二割、呆れ八割といった口ぶりだ。
ゴキブリに驚いて云々というのは、アリアが創作したもっともらしい嘘だ。
何を言い出すんだ?と、驚いてぼくと草四郎はアリアに目をやる。
すると鋭い一瞥が返ってきた。
『いいから、黙っていろ』
アリアはそう言っていた。
ケガの原因を作ったのは僕らだ。
仕事をクビになり、この家を追い出されたとしても、文句など言えない。
そう思っていたのに。
アリアの考えていることは分からない。
なぜか、ぼくらを庇ってくれた。
「その足じゃ階段が辛いだろ。治るまでこっちに泊れ」
「分かった」
サキさんの提案に、アリアは頷く。
このホスピタルの母屋には、いくつもの空き部屋がある。
そして、ぼくはアリアから用事を言いつけられた。
「練習室から、仕事道具を取ってきて。机にあるもの全部。辞書にノート、書きかけの原稿と筆記用具も」
「えっ……入っていいんですか?」
「仕方ない」
椅子に腰かけたアリアは、ケガをした方の足を軽く持ち上げて見せる。
はじめてアリアの暮らす練習室へ、足を踏み入れることになった。
アリアはよほど慌てていたのだろう。
外へと続く扉は、開きっぱなし。
明かりもつけたままだ。
そこは芝居の稽古場として作られた、板張りの部屋だ。
広さは15畳もあるだろうか。
片側の壁には鏡がはられている。そのせいで室内は倍も広く見える。
ダンススタジオのような一室だった。
寝起きするには、不向きな部屋だ。
寒々しい。落ち着かない気持ちになる。
アリアはよく我慢しているものだ。
想像していたよりも、きれいだった。
部屋の中央には、ニレイさんの衝動買いしたものだろう、引き出しのたくさん付いたアンティークな文机が置かれていた。
彼女はこの机の前にちょこんと座り、原稿にいそしんでいるんだろう。
家具の取り合わせは、はちぐはぐだった。
ベッドは間に合わせに買ったのだろう、安手のパイプベッドだ。
そして、オフィスにあるような実用第一で大きなスチール製のキャビネットが、ドンと文机の脇に置かれていた。
僕が出版社にFAXした後の完成原稿は、この部屋に運ばれ、このキャビネットの中に保管されている。
文机の上では、マグカップが横倒しになっていた。
ミカさんに驚いたアリアがこぼしたのだ。
書きかけの原稿が、紅茶でグッショリ濡れている。
「あああ!ぞうきん、ぞうきん……」
慌てて見渡すが、そんなものは見つからない。
やむを得ない。
僕は慌てて、練習室の入り口に備え付けられたトイレに入った。
トイレットペーパーを掴んで、濡れた原稿をぬぐう。
たまたまボールペンで書かれた原稿で良かった。
万年筆などだったら、インクが滲んで読めなくなってしまったところだ。
本棚や箪笥といった、最低限の家具がない。
アリアの服や私物は、床に置かれた、いくつかの段ボールに無造作に放り込まれていた。
ミカさんは常に僕の傍にいる。
けれど今は姿を見せない。
先日の呪符のような悪いものは、この部屋に存在しないと言うことだ。
机の前、いつもアリアが座る位置に正座をしてみる。
薄い座布団が一枚。
絨毯もないもない、板張りの床。
腰が冷えそうだ。
くるりと後ろを見てみれば、大きい鏡に白々といまの自分の間抜け面がうつる。
その時、電話のベルの音が鳴り響いた。
後ろめたいことをしていたわけではないのに。
思わず、ビクっとなる。
「もしもし」
「……どう?」
内線をかけて来たのは、アリアだった。
ぼくの戻りが遅いので、様子を尋ねてかけてきたのだ。
「仕事の道具は、机上にある分だけでいいんですか?他に必要な資料なんかは?」
「大丈夫」
「今夜から母屋に泊るんですよね。この部屋から、何か持っていった方がいいものはありますか?」
「別に」
機嫌が悪い。
本当に悪いことをした。
両手に荷物を抱えて、キッチンに続く勝手口から母屋に戻る。
「戻りましたー」
「しーっ、静かに」
サキさんが、人差し指を口にあててみせた。
その顔がにやついている。
そして待合室の方を、あごをしゃくって示す。
ぼくらが隣の部屋からみているのに、ふたりはそれを気にする余裕などないようだ。
アリアは待合室のソファに腰掛けていた。
そして草四郎は、そのアリアの足もとにひざまづいている。
「ジッとしていてください。すぐ終わりますから」
そう言った草四郎の声は、ガチガチに緊張している。
アリアの右の足首は、すでに医者の手によって湿布と包帯が施されている。
草四郎が手当を試みているのは、膝小僧の擦過傷だ。
そこにペタペタと膏薬を塗りこめている。
その膏薬はアガミ特製、非売品の品である。
あっちを切った、擦りむいたといえば、これと決まっている。
ヤンチャ揃いのアガミの子供らは、この軟膏をペタペタ塗られて育つのだ。
草四郎は、その軟膏を常に持ち歩いている。じじむさいのだこいつは。
「も、もう大丈夫だから」
くすぐったそうに、アリアは身をよじる。
「しっかり塗っておかないと、傷が残ったら大変です」
草四郎は、責任を感じている。
あくまでも生真面目に治療に当たってる。
だが、なかなかに際どい。
現在のアリアの服装も、まあひどい物だった。
医者も目を丸くしていた。
上はTシャツにピンクのカーディガン。下はブカブカのトレパン一枚。
例によって彼女はブラジャーを着けていない。
少しは気にした方がいい。
「あ、もどってきた」
アリアがぼくに気づいた。
ちょうど草四郎も、アリアの両足にクスリを塗り終えた。
「ありがとう」
小さな声だったが、アリアは律儀に草四郎に礼を言う。
「じゃあ仕事をするから」
と、ソファから立ち上がろうとする。
すると、草四郎はアリアに背を見せる形でしゃがんだ。
「おぶさってください」
「……え?」
「そこまで、お連れします」
仕事道具を置いたのは、続き部屋のキッチンのテーブルだ。
そこまでアリアをおぶさっていくつもりらしい。
「少しひねっただけ。あんまり痛くもないし」
草四郎を安心させるために、アリアは立ち上がってケンケンなぞをしてみせる。
年期の入った安物の、Tシャツの襟元は伸びきっていた。
中身がはみ出しそうだ。
しゃがんでいる草四郎は下から、アリアを見上げる恰好だ。
「…………………!!」
ようやく草四郎は気づいた。
アリアが際どい恰好をしていることに。
草四郎は、よろめいて尻もちをついた。
積んであった本がどさりと倒れる。
「あっ、その、この、あの……!」
ふるえ始めた草四郎を見て、アリアはようやく自分の服装に問題があることに気づいた。
「セイさん、台所にあるの貸して」
アリアが指さしたのは、キッチンのフックにかけられたエプロン。
赤いギンガムチェック。
ぼくのエプロンだ。
「これでいい?」
エプロンを着て淡々と草四郎に尋ねる。
照れの一つもない。
こくこく、と草四郎はうなずく。
おんぶは却下。
折衷案として、草四郎はアリアに肩を貸すことになった。
「うわ、シミすごい」
紅茶のたっぷりかかった原稿を見て、アリアが小さく声をあげる。
しかし読むのに支障がないと分かると、黙々と作業に取り掛かる。
先ほどの騒ぎなど、忘れてしまったように集中している。
「それでは、これで失礼させていただきます。大変、お騒がせいたしました。申し訳ございません」
草四郎がサキさんに、挨拶をする。
「ふふふ……また、おいでな」
含み笑いで、サキさんは応える。
草四郎がなぜ、こうして詫び言を述べているのか?
サキさんは知らないはずなのだが。想像力豊かなこの人は、勝手な話を組み上げているのかもしれない。
「待って」
作業中のアリアから、声がかかった。
「笛。忘れ物」
そうだ。
草四郎は二時間前、キッチンで笛を吹いていたのだ。
笛もケースも揃って、流し台の上に置きぱなしだ。
こんな大事なものを忘れるとは。
草四郎は、まだ立ち直っていないようだ。
「ありがとうございます」
草四郎は頭を下げて、それを受け取る。
アリアが原稿から目を上げた。
「それ、吹くの?」
アリアは、いつも言葉足らずだ。
戸惑いながら草四郎はええ、と頷く。
そして、アリアは続けて言った。
「聴きたい」
再び、高く澄んだ音色が響く。
アリアは頬杖をついて、笛を吹く草四郎を見ていた。
そして、また影が揺らぐ。
「……!」
声をあげそうになったのは、僕だ。
現れた仔馬のミカさんは、アリアに歩み寄る。
けれど、アリアはもう眉一つ動かさない。
ミカさんには生き物のもつ、熱はない。
けれど、アリアはその姿が見えている。
「画になるねえ」
草四郎が一節演奏を終えると、サキさんはパチパチと手を叩く。
なにも気づいていないのは、サキさんだけだ。
今日、分かったことがふたつ。
アリアには最初から、僕に寄り添うミカさんが見えていた
しかし、見えない振りをしていた。
さすが女優の娘。今の今まで気づかなかった。
僕がホスピタルに入って、彼女と会うまで随分かかった。
避けられていたのは、アリアが人見知りだから。それだけが理由だと思っていた。
しかし他にもわけがあった。
アリアは、初めてみるミカさんに驚き、そして怯えていたのだ。
ミカさんはぼくらアガミの人間に、常に寄り添っている。
ミカさんは、実体をもたない。
アガミの外にいる人間は、ミカさんのことを見ることができない。
ふいに吹いた風。微かな息遣い。
ふつうの人間に感じられるのは、ミカさんの気配だけだ。
ミカさんは写真やビデオにも映らない。
谷さんのように、術士としての力を持った人でも同じだ。
谷さんは、ミカさんの存在を認識している。
しかし谷さんの目に映るのは、光のゆらぎだけだ。
ミカさんを形として捉えることはできない。
なぜアリアには、ミカさんの姿が見えるのか。
特別な霊感があるからではない。
ミカさんが見えるのは、ミカさんと縁がある人間だけだ。
アリアは、僕らと同じアガミの人間だ。
アリアはぼくの生き別れの妹だった。
……そんなわけはない。
直截的にいってしまおう。
日比野 亞璃亞は、いずれアガミの家に縁付く人だ。
将来彼女は、ぼくらの家に嫁に来る。
そしてミカさんのために、神楽を行う術士を産む。
ミカさんの時間は、過去から未来へと、まっすぐには流れない。
人間の時間の認識とは、だいぶ異なる。
ミカさんにとって、すべては、いま、そこにあるものだ。
アリアとの絆も、これから結ぶものではない。
予言なんて意識は、ミカさんにはない。ミカさんにとっては当たり前のことだ。
母も、草四郎の母(ぼくの祖母)も、ミカさんは見つけていた。
その配偶者よりも、よほど早くにだ。
草四郎が必要以上に、アリアを意識してしまう理由はこれだ。
潔癖、生真面目、朴念仁。
そんな草四郎が、女の子相手にあたふたするなんて。
笑うしかない。
アリアがうちに嫁に来る。
だが、それがどうした。
考えるだけ時間の無駄だ。
ぼくはミカさんの見える見えないで、付き合う女の子を選んだことなどない。
そもそもアガミの男すべてが、ミカさんを見る女性と結婚するわけではない。
ミカさんが見つけるのは、アガミの術士となる男児を産む女性だけだ。
女の子しか、生まれなかった家のお嫁さんは対象外。
生まれたその女の子にもミカさんは見えない。
そして、アガミの男児がすべて術士になるわけでもない。
ミカさんが見えてもみえなくても、どの夫婦もそれなりに幸せそうにやっている。
アリアの小指に結ばれたその赤い糸の先っぽは、どこに繋がっているのか?
いちばん肝心なところは分からない。
ミカさんは、アバウトだ。
アガミにいる独身の男は、草四郎だけではない。
将来ぼくは親戚のオジサンとして、アリアの産んだ子にお年玉をあげることになるだろう。
ぼくが花婿という線はない。想像もできない。
どちらにせよそれは、今日明日の話ではない。
アリアはまだ十五歳だ。
それも、なんだかんだと重たい事情を抱えた十五歳だ。