10.
また一週間がたった。
その後、不審者がホスピタルに現れることはなかった。
ぼくらは、ただ警戒を続けることしかない。
十日町の線から、今回の侵入者を辿ることは禁じられていた。
サキさんに十日町のことを尋ねたのも、実はルール違反だ。
ぼくらが十日町を探ることは、コウガミの恥部をつつくことだ。彼らが黙っていない。
それがバレれば今回の任務からも、外されてしまうだろう。
十日町がコウガミのどの社に属していたのかも、凶行にいたった経緯もなにも知らされていない。
彼について、ぼくが知るのは名前と年齢だけだ。
そして顔を潰され、無残な姿で横たわる写真一枚。
ぼくは生前の顔すらも知らなかった。
「近くにいるんでしょう?顔くらい見せに来なさい」
草四郎を通して、母親から伝言が届いた。
ホスピタルから、電車でわずか20分。
同じ沿線に、僕の実家がある。
「一度、先生にお目にかかりたいわ。愚息がお世話になっているのだから、挨拶をさせていただかないと」
「先生は、お忙しいんだよ」
母親のその申し出は、却下しておいた。
ならばせめて、近況報告をしに来いと呼び出されたわけだ。
なぜ息子は、住み込みで書生の真似をしているのか。
母は、知らない。
ぼくの父は、ぼくと同じく術士だった。
父は18年前に亡くなっている。
アガミは父の系統だ。
父が死んだ後も、母とアガミとの付き合いは続いている。
しかしミカさん絡みの話は、母とは無関係のところにある。
母が切り盛りをしている店は、ぼくの実家から徒歩30秒の場所にある。
店の暖簾をくぐった。
草四郎といっしょに暖簾をくぐった。
『小料理 うめ屋』。
小料理屋と看板にはあるあ、気取りのない店だ。
昼には定食も出す。
ボリュームたっぷり、値段は抑えめ。地元の人間にご愛顧いただいている店だ。
本日は日曜日。しかも開店直後の早い時間。
客の入りはまだ五部といったところだった。
「いらっしゃいませー……あらあら、二人そろって」
出迎えてくれたのは、ホールに出ていた草四郎の姉さん。
僕の叔母さんだ。
草四郎はこの姉さんより、十以上年下の末っ子だ。
このうめ屋は、草四郎にとっても馴染みの場所だ。
「ご無沙汰してます」
「…………」
草四郎も、ぺこりと軽く頭を下げる。
「なによ、営業中に来て。ゆっくり話も出来ないじゃない」
そう言われたが、笑ってごまかす。
家族の気遣いはありがたいが、少々煙たい。
顔を見せるという義理を果たして、さっと帰りたい。
というわけで、店のやっている時間を選んだのだ。
「食べていくんでしょう。ふたりとも、日替わりでいい?」
カウンターの椅子に腰かける間もなく、尋ねられる。
この店の人たちはみんな、ハキハキ受け答え、クルクルとよく働く。
多少のせっかちが玉に傷だ。
「定食二。ご飯大ー!」
叔母さんは良く通る声で、厨房に向けて注文を伝える。
三分もしないうちに、定食が出てきた。
そのタイミングで、厨房で働いていた母親が顔をこちらに向けた。
まず母は僕の肩口に目をやって、微笑む。
母は術師ではない。
けれど、息子のぼくを通してアガミに繋がる人だ。
ミカさんが見える。
ミカさんは母に会うのが嬉しいらしい。
いまも、ばっちり姿を現していた。
心なしかはしゃいで見える。
しかし草四郎の姉さんは、ミカさんの姿をみることができない。
「ちょっと太った?」
いきなり母はこういった。
図星である。
ホスピタルに住み込んで、二、三キロ増加した。
五島万のところには、編集からの差し入れが良く届く。
大抵は甘いものだ。
貧乏性の僕は腐らせまいと、つい食べ過ぎる。
「お菓子ばっかり食べないで、お米を食べなさい。お米を」
目の前にドンと出されたごはんは見事な山盛りだ。
「草くんは、相変わらず細いわね。ひとり暮らしは大変でしょうけど、ちゃんと毎日ご飯は炊きなさいね」
草四郎に出されたご飯も、またてんこ盛りである。
この店に来たら、かけつけ3杯。
とにかく食え食え言われる。
体は大柄。
朴訥とした目鼻立ち。
澄ました表情は似合わない。
いつも大口開けて笑っている。
ぼくは、そんな母に似ている。
死んだ父は、線の細い美男だった。
弟の草四郎とうり二つ。
アルバムを見ると、ハッとするほどよく似ている。
定食は豚コマと三つ葉の玉子とじ、春菊のゴマ和えの小鉢がふたつ。主菜はアジフライ。ボリューム満点だ。
「今日はハンサムさんがいるから、サービスね」
デザートにりんごも付けてくれた。
さてハンサムの草四郎は、痩せの大食いだ。
すでに2杯目の山盛り飯にとりかかっている。
「あんたは成績が悪かったのにねぇ……作家先生のお手伝い、ちゃんとできてる?」
ぼくと話しながらも、母は調理の手を止めない。
「どうにかやってるよ。ワープロも打てるようになったし」
ため息をつきながら、近況報告だ。
その作家先生が三人組であることは、面倒くさいので説明しない。
「あらワープロ、それはいいわね。今度この店のチラシも、作ってちょうだい」
「はいはい。承知しました」
生返事を返しておいた。
五島先生の食卓に、ぼくの作る飯があがることもある。
それは内緒にしておいた。
驚かれ、嘆かれ、怒濤のような指導が入るに決まっている。
食べ終わった頃には、店もボチボチ混みあってきた。
母からも叔母からもみやげを、たんまり持たされた。
なにせ、店の一歩裏は実家だ。
僕らが来ると聞いて、山ほど準備しておいたらしい。
タッパーに詰められた惣菜に、梅干し、乾麺に缶詰……
どれも、食卓で即戦力になりそうで嬉しい。
五島先生は焼き鳥が好きなのだと話したら、次は必ず用意しておくと言われた。
みやげの中でいちばん重量があったのは、段ボールひと分の栄養ドリンクだ。
「どうしたの、これ?」
「エイ君が置いてったのよ」
エイ君。
渋沢 英 (しぶさわ えい)。
僕の年子の弟だ。
これは、エイがどこかでもらってきたものらしい。
栄養ドリンク1年分。
ひと箱二ダース入り、それが20箱。
この店に全部押しつけていったらしい。
来る客に1本ずつ配っても、まだ余る。
「疲れがとれるんだって。ひと箱もっていって、五島先生に飲んでいただいて」
草四郎とふたりで、腕をつりそうになりながら山ほどの荷物を運ぶ。
そうしてホスピタルにたどり着いたわけだが、草四郎は玄関で止めておく。
入場許可をとらないと。
アリアを驚かせてしまっては大変だ。
母屋の裏手に回ってみれば、夕方の練習室には明かりがともっている。
アリアは仕事中だ。
僕だけ先に家の中に入り、練習室へと内線をかけた。
草四郎を招いていいか、アリアに尋ねる。
「べつに構わない」
アリアはそれだけ言うと、内線を切った。
自分はここに閉じこもっているから、勝手にしてくれ。そういう意味だ。
「いちどその方にも、お会いしたいんですが」
冷蔵庫に惣菜のタッパーを詰め込みながら、草四郎が言った。
いま、キッチンにいるのはぼくらふたりだけだ。
ニレイさんは外出中。
サキさんは、奥の部屋で仕事中だ。
「女の子と聞いて、興味が湧いたか?」
アリアの概要については、草四郎に話してある。
15歳、女子。極度の人見知り。
「ふざけないで下さい」
草四郎に軽口を叩くと、いつもこうなる。
「孝三叔父は、僕らになんと言ったか覚えてますか?」
キッとまなじりを釣り上げて、真剣に怒る。
融通の聞かない野郎なのだ。
「僕らの仕事は、五島万を守ること。そう言ったんです。その女性も五島万の一員だ……守るべきその人の顔すら、知らないなんて」
草四郎は、そう主張する。
「この家には、ぼくが張り付いてるんだ。それで十分だろう」
少しは、信用して欲しいものだ。
「少しは僕にも関わらせてください」
この家に埋もれていた呪符。
それをぼくはひとりで処理した。
それを、草四郎は根に持っているわけだ。
「いまはあせっても仕方ないだろ」
「少しはあせるべきだと、俺は思います」
草四郎は、自分のナップザックを開ける。
ナップザックの中には笛のケース。
草四郎は常にそれを持ち歩いている。
笛を手に取る草四郎は、少々むきになっているようだ。
「まぁ、待て」
草四郎を止める。
そして僕はもう一度、内線電話を回した。
「……まだ、なにか?」
不機嫌そうな声のアリア。
駄目元で尋ねてみた。
「ぼくの叔父が、アリアさんにお目にかかって挨拶したいといっているんですが」
「……いらない」
がしゃんと通話を切られてしまった。
草四郎が横笛を取りだした。
今度は、僕も止めなかった。
これから草四郎のやることに、害はない。
低い旋律が空間を揺らす。
ゆらり。
その笛の音に応えて、ミカさんが現れた。
銀のたてがみの仔馬。
仔馬は草四郎に寄り添う、ミカさんの姿だ。
笛を奏でる草四郎を横目に、ぼくは清書前の原稿のチェックを始める。
この作業に、協力してやる気はない。
いま草四郎はミカさんの声を、聞こうとしている。
このホスピタルで起こっていることを、少しでも探れないかと思っているわけだ。
ミカさんは何でも知っている。
これまでのことも。
そしてこれから起こることも。
問題は聴き手側が、ミカさんの声を完全に読み解くだけの力がないことだ。
”ーーーー”
馬のミカさんはその黒く静かな瞳で、僕を見つめる。
お前は踊らないのか?
その声が聞こえない僕にも、そう言っていることくらい分かる。
草四郎は笛を吹き続けている。
けれどミカさんは、それだけでは不足のようだった。
前足を折り畳み、床に腹をつけて座る。
まったく歌う気はないらしい。
ぼくがなおも仕事を続けると、ミカさんは完全に諦めたようだった。
きょうはお祭りの日ではない。
これ以上待っても、踊りは始まらない。
やがて現れた時と同じく音もなく、ミカさんの姿は消えた。
「お茶でもいれるか」
草四郎に向かっていった。
それを飲んでとっとと帰れ。
そう続けようとした、その時だった。
「ーーーー!!」
閉めたガラス窓の向こうからでも、届いた悲鳴。
そして大きな物音。
練習室の方からだ。
ぼくらはくつをつっかけ、庭に飛び出した。
草四郎もそれにつづく。
「ーーアリアさん!!」
転がるように、アリアは駆けてきた。
彼女は裸足だった。
アリアは僕の胸にドンと正面からぶつかって、やっととまった。
うろたえるその肩を、そっと支えた。
アリアは泣いていた。
アリアの両のむこうずねから、血が流れている。
中二階といえる高さにある練習室の外階段は、けっこうな急角度だ。
あの物音は彼女が、その階段を踏み外して落ちる音だったのだ。
尋常じゃない。
「何が、あったんですか!?」
「おっ、おおお……」
お?
声が震えている。
「落ち着いて、深呼吸」
しゃくりあげながらも、アリアは言われた通りにする。
「おっ、おお……オバケが出た」
ようやくアリアは言葉を絞り出す。
「おばけ……ですか?」
まさか。
嫌な予感がする。
「オバケって……どんなオバケだったんですか?」
覚悟を決めて聞いた。
「馬……銀のタテガミの馬。急に目の前に出てきた」
案の定。
ぼくは天を仰いだ。
草四郎も青ざめる。
「「申し訳ございません!!」」
地面に付くほどの勢いで、僕らは頭を下げた。
アリアは涙を忘れて、ポカンとした顔になる。
アリアの目の前に現れて、彼女を驚かせた仔馬のオバケ。
間違いなく、ミカさんだ。
ミカさんは人の都合なんて気にしない。
好きな時に好きな場所へ現れる。
ミカさんは前からアリアを気に入っていた。
だからノックもせずに、彼女の部屋へとお邪魔したのだ。
「あの馬は……馬に見えるあれは、僕たちが連れてきたものです」
本当に申し訳ない。
告白して再度頭をさげる。
けれどアリアは首を横に振る。
「嘘……だって……」
そしてアリアは続いて言った。
「だってセイさんが連れているのは、鳥だったじゃない」
その言葉で確かになった。
「アリアさんには、ずっと見えていたんですね」
ミカさんのことが。
「あっ……!」
しまったと、アリアが顔を歪めた。
アリアにはミカさんが見えていた。
アリアはそのことを黙っていた。