大陸暦1526年――任務
低い咆哮と共に、クマにも似た大きな黒き獣は緑の大地に伏した。
死骸と化した黒き獣を見て、全く同型である三体の黒き獣たちが、殺気立つように次々に吠え始める。それは今まさに黒き獣たちの仲間を屠り、退路を塞ぐように回りを取り囲んでいる人間たちに向けられている。
立てば四メートル近くにもなるであろう黒き獣を包囲しているのは、屈強な軍人でもなければ熟練の冒険者でもない。十代半ばの少年少女たちだ。
その誰もが一様に、真新しい青が基調の制服を身にまとい、これまた見るからに使い込まれていない剣を構えている。そして青い詰襟には、剣と翼の生えた馬に五つの星――部隊章が縫い付けられている。
それは少年少女たちが、星王国センルーニアが保有する星ルーニア騎士団、第五騎士隊に所属する証だった。
若き騎士たちは、黒き獣と一定の距離を保ちながら好機を覗っている。
その顔は、誰もが真剣そのものだ。
それもそのはず、目の前にいる黒き獣が持つ大きな四本爪は、人間の肉を軽々と引き裂く程度の威力がある。そのことを、若き騎士たちは学び知っている。
たとえその爪を受けてしまったとしても、怪我を治せる治療士が後方に待機してはいるが、それでも誰だってその一撃をもらいたくはない。怪我とは負うときはもちろんのこと、治療魔法で治す際にも痛みを伴うものなのだ。それは訓練で生傷が絶えなかった若き騎士たちも、身に染みるぐらいに体験している。
黒き獣は低い唸り声を鳴らしながら、取り囲む若き騎士たちを睨んでいる。
黒き獣が一歩踏み出せば、若き騎士たちも一歩下がり、黒き獣が一歩下がれば、若き騎士たちも一歩踏み出す。そんな駆け引きが何度か繰り返されたあと、この硬直状態に痺れを切らしたのか、黒き獣の三体のうちの一体が咆哮をあげて駆けだした。
「アクセラ!」
若き騎士の誰かが緊迫した声をあげた。
黒き獣は一直線に茶髪の少年騎士――アクセラに向かっている。
アクセラは向かってくる黒き獣に『かかったな』とでも言うように、にっ、と白い歯を見せて笑うと、後方へと飛んだ。鋭い四本爪が、彼の目の前を上から下へと通り過ぎる。そして、その勢いのまま爪は地面へと突き刺さった。
その大きな黒い手にすかさず、アクセラが剣を突き立てる。
「今だ! エルデーン!」
言うが早いか、アクセラの横を少女騎士が通り過ぎた。
エルデーンと呼ばれた彼女は、金色の長い髪をなびかせながら素早く黒き獣の懐に潜り込むと、剣を左から右へと薙いだ。深々と胸を斬られた黒き獣は、悲鳴のような咆哮をあげて前のめりに倒れる。
「よっしゃ!」
アクセラが喜びに拳を握っていると。
「ごめん! そっち行った!」
と彼の右方向から声があがった。
アクセラがそちらへ顔を向けると、黒き獣の二体のうちの一体が、対峙していた赤毛の少女騎士を振り切って四つん這いで駆けてきている。その目標は、今まさに仲間を屠ったばかりのエルデーンだ。
黒き獣の接近には当然、エルデーンも気づいていた。だが、そばには地に伏した四メートルもの黒き獣の死骸があり、後退することができない。横に逃げようにも、向かってくる黒き獣との距離が近すぎる。アクセラも加勢しようと動き出したが、黒き獣の死骸が邪魔で間に合わない。
「エルデーン!」
アクセラに呼ばれた彼女は、なぜか敵を目前にして剣を鞘に収めている。
黒き獣はそんなエルデーンの前で立ち上がると、四本爪で彼女の頭を刈り取るように左腕を横に薙いだ。
その瞬間、エルデーンは身を低くすると、右斜め前に飛び込むように前転した。それからすぐに立ち上がると、その勢いで半回転しながら剣を抜き、黒き獣の脇腹を斬りつける。黒き獣は唸りながら少しよろめきはしたものの、倒れない。
踏み込みが甘かったことに気づいていたエルデーンは即座に黒き獣の背後へと移動する。黒き獣は彼女を追うように後ろに向き直ると、右腕を振り上げた。それを彼女は逃げるでもなく、応戦するでもなく、肩で息をしながら見上げている。その表情には焦りも恐れもない。それどころか小さく微笑みさえも浮かべている。
そのことに苛立つかのように黒き獣は大きく唸ると、右腕を振り下ろした――が、それがエルデーンに届くことはなかった。
エルデーンが黒き獣の左側を見る。そこには黒い粒子と、四本爪がついたままの腕が宙に舞っている。そして、そのすぐそばには空中で剣を振り下ろしているアクセラの姿――。振り下ろされる前に、彼が腕を切り落としたのだ。
アクセラは黒き獣の死骸に着地して体勢を崩しながら叫んだ。
「フレイヤ!」
「分かってる」
呼びかけにすぐさまそう答えたのは、赤毛の少女騎士――フレイヤだ。
エルデーンが黒き獣を引きつけている間に背後に回り込んでいた彼女は、手前の死骸を飛び越えるように跳躍すると、黒き獣のうなじへと剣を突き立てた。そして剣を残したまま黒き獣の背中を蹴って後転する。その際、左下に視線を向けた。そこには小柄な金髪の少年騎士がいる。
「オクト」
「う、うん」
金髪の少年騎士――オクトは自身なさげに頷くと、首筋の剣に気を取られて隙だらけになっている黒き獣の左脇を剣で貫いた。
それがトドメとなり、ついに黒き獣は苦しげな唸り声をあげながらその場に倒れ込んだ。
「おおー」
黒き獣と若き騎士たちが交戦する様子を、少し離れた場所で眺めている二人の人間がいた。
一人は星王国の士官の証である、白が基調の騎士服をまとっている金髪碧眼の男性。
年齢は二十代前半。彼は左手を腰に当て、右手で額前に日差しを作り、見るからに軽薄そうな笑みを浮かべている。今、緊張感の欠片もない声を出したのも彼だ。
そして、その隣には腕を組み、男性とは対照的に真剣な表情を浮かべている女性。
男性よりも見事な魔紋様――魔法の発現に必要な紋語を用いた様々な効果を得ることができる紋様――と、装飾が施された白が基調の騎士服をまとった女性は、その出で立ちだけでも指揮官だということが分かる。
年齢は十代後半。花浅葱の髪を後ろで一つに結い、右にだけ垂れ下がっている横髪が春風でなびいている。若き騎士たちの勇姿を見守っているその瞳は薄い灰色をしており、その色を持つことはこの世界ではある種の特別だった。
「今のはいい連携でしたねーイルスミル隊長」
金髪碧眼の男性――星ルーニア騎士団、第五騎士隊副隊長ウーデル・ヘルデンは軽い口調でそう言うと、隣の女性を見た。
視線を向けられた女性――星ルーニア騎士団、第五騎士隊隊長レイチェル・イルスミルは、前を向いたまま「ああ」と答える。その視線の先ではまだ若き騎士たちと、最後の黒き獣の戦いが続いている。
今日は今年、第五騎士隊に入隊した新人にとっては初めての黒き獣――瘴魔の討伐任務だった。
瘴魔とは空間の歪み――瘴裂から漏れ出る瘴気が顕現した異形の生物のことだ。
それは人間のみならず野生動物や家畜など命あるものならなんでも襲い、瘴竜大戦でその存在が確認されてから一五〇〇年以上経った今でも、まさに生きとし生けるものの天敵となり続けている。
瘴魔は出現したら最後、討伐されるまでは本能のままに命を刈り取り続ける。
放っておけば防壁がない村々だけではなく、都市間を移動する商人や旅人などにも甚大な被害をもたらすことになる。そうさせないためにも、瘴魔の出現が確認されたら迅速に討伐するのが、星王国の治安部隊である星ルーニア騎士団の役目の一つだった。
瘴魔は様々な外見や体格をしており、その危険度に準じた分類がなされている。
今日、討伐対象のクマのような見た目をしている瘴魔は、獣型の下級瘴魔だ。
分類はC。通称は四本爪。四段階評価である瘴魔分類では最下の評価となる。
評価だけで判断するならば危険度は低いということになるのだが、それは退治するにあたって魔法や特別な武器などを必要としないことも踏まえてそう格付けがされている。凶暴さと殺傷能力に関しては、上位評価の瘴魔とそう大して変わりがない。
だからたとえ最下評価といえど侮ってはいけない。もし戦う術のない人間が襲われでもしたら、いとも簡単に大きな四本爪で体を引き裂かれてしまう。そして、それは戦闘訓練を受けている騎士だって例外ではない。新米であろうと歴戦であろうと、一歩間違えれば誰だって命を失う危険性はある。
だからこそ新人の周囲には経験豊富な部下を数人、控えさせていた。
その部下たちは時折、檄を飛ばしながら、瘴魔を倒しきれなかった場合や負傷した場合に備えて、いつでも動けるように新人たちを見守っている。
レイチェルがこうして離れた場所で安心して見ていられるのも、そのためだった。
「さーて。あと一体は誰が倒すかなー」
とはいえ、新人が命のやり取りをしていることには変わりない。それなのに副長のウーデルときたら、まるで闘技大会でも観戦しているかのように楽しげだ。
彼の人となりはまだ半年あまりの付き合いでしかないレイチェルもそれなりに理解してきてはいるが、それでも呆れるような視線を向けずにはいられなかった。
そのときだった。
「隊長! 副長! 後ろ……!」
新人の一人がこちらに向かって叫んだ。
レイチェルとウーデルは肩越しに背後を見る。そこにはまさに今、新人たちが相手にしている同型の瘴魔――四本爪が二人を見下ろすように立っている。
「こいつら意外と知性ありますよねー」
「気配の消しかたは知らんようだがな」
低く唸り今にも襲いかかりそうな雰囲気を醸し出している瘴魔を尻目に、二人は慌てるどころか、まるで世間話でもするかのように会話をしている。それが忍び寄ってきていたことはウーデルは先ほどから、レイチェルはかなり前から気づいていたからだ。
そんな様子の二人が癇に障ったのか、瘴魔は咆哮をあげると二人の間を裂くように腕を振り下ろした。
二人は瞬時に左右へと飛び退く。瘴魔は一瞬、迷いを見せたあと、レイチェルを獲物に選んだ。たとえ生物を見境なく襲う瘴魔でも、世間一般的には男よりも力のない女子供を優先して選ぶ程度の知能はある。だが今回、瘴魔にとってその選択は裏目以外のなにものでもなかった。
斜め上から振り下ろされた四本爪をレイチェルは軽くかわすと、剣を抜いた。
次の瞬間、四本爪が右手ごと切り離される。瘴魔はそれに怯むことなくすかさず、もう一方の四本爪を振り下ろす――が、それも結果は同じだった。レイチェルは左手も切り落とすと、素早く瘴魔の懐に入り込み、剣を横に薙いで両足を切り離した。支えを失った瘴魔は前へと倒れ込む。それをレイチェルは右横に避けると、剣を左手逆手に持ち替えて瘴魔の背中をひと突きした。そして、そのまま瘴魔ごと剣を地面へと突き立てる。
四肢を失った瘴魔は為す術もなく、剣で地面に磔にされた。
「お見事です」
拍手をしながら歩み寄ってくるウーデルを、レイチェルは半眼で迎える。
「上官が危険に晒されていたというのに、いいご身分じゃないか」
ウーデルが剣も抜かずに観戦していたことは、レイチェルも戦闘の合間に見ていた。
「またまたご冗談を。こんなの隊長には危険の『き』にも入りませんでしょうに。それに」ウーデルが横に顔を向ける。「新人に隊長の実力を見せておくのも、部隊を円滑に回すためには必要なことですよ」
ウーデルの視線の先では、新人たちがレイチェルに向けて剣を持った手を掲げている。どうやら先に決着がついた新人たちに、今度はこちらが観戦されていたらしい。
「もっともらしいことを言いおって」
そう言い捨てながらもレイチェルは口許を緩ませた。流石に健闘を称えてくれている新人の前で仏頂面はできない。それにウーデルも、その場しのぎであのようなことを言ったのではない。あれは新米隊長に向けて、経験豊富な副長としての助言だ。それぐらいはレイチェルも理解している。だとしても、すぐに助勢できない距離で観戦するのはどうかと思うが。
「ほら副長」レイチェルはため息交じりに言った。「仕事してくれ」
「了解です」
ウーデルは軽く拳を握った右腕を胸の前に真横に掲げ、騎士の敬礼をすると、軽い足取りで交戦跡へと向かった。
そのウーデルと入れ替わるように三人の新人がやってくる。三人はレイチェルの前に立つと一様に「お疲れさまです」と敬礼をした。レイチェルは答礼をする。
「お疲れ。アクセラ、フレイア、オクト。先ほどはいい連携だったぞ」
それをフレイアとオクトは「ありがとうございます」と謙虚に受け取り、アクセラは両手を腰に誇らしげに胸を張った。
「伊達に士官学校からのダチじゃないっスからね! あ、もちろんエルデーンも」
アクセラが口にしたもう一人の同期は今、ウーデルと話をしている。
「ってあれ?」アクセラが意外そうな声を出した。「こいつまだ生きてるんスか?」
レイチェルの剣により地面に磔にされている瘴魔を見ている。
「ああ」
「今回の任務って瘴魔の討伐と研究棟への死骸引き渡しですよね?」オクトが訊いた。「トドメを刺さないんですか?」
「可能ならば生きたのも欲しいそうだ」
だからレイチェルはわざわざ瘴魔の四肢を落とし、致命傷にならない形で動きを封じたのだ。
「なんだーそれならそう言ってくれれば手加減しましたのにー」
不服そうにしているアクセラを、フレイアが窘める。
「馬鹿。初めての相手に手加減なんてしたら危ないでしょ」
「あ! 今、馬鹿って言ったか。フレイア!」
「言ってないわよ。空耳じゃない」
「なんだ空耳か」
素直に納得するアクセラに、レイチェルとオクトは目を合わせて温かに苦笑する。
新人が入隊して一ヶ月半。このやり取りはレイチェルも何度か目にしていた。
オクトの話では二人は幼馴染だという。その言葉に特別、郷愁を覚えてしまうレイチェルにとって、二人の関係はなんとも微笑ましい気持ちになるのだった。
「それにしても、こんなに間近で生きた瘴魔を見たのは初めてかも」
オクトは遠巻きに怖々と瘴魔を見ながらも、その顔には興味を滲ませている。
「さっきも見てたじゃん。目の前で」アクセラが言った。
「先ほどはそんな余裕なかったよ」オクトは泣きそうな顔で答える。
「ビビリだなーオクトは」
「えぇ? アクセラは怖くなかったの?」
「ぜーんぜん。こんなのうちの母ちゃんに比べたら可愛いもんだぜ」
アクセラは無造作に瘴魔に近づくと、かがんで顔を近づけた。すると、それまで大人しくしていた瘴魔が突然、威嚇するように口を大きく開ける。
「うおっ!!!」
それに驚いて飛び退いたアクセラが、体勢を崩して尻餅をついた。それを見てオクトとフレイアが笑う。アクセラはそんな二人を下から睨みながらも、なにも言わず恥ずかしそうに口を尖らせている。強気なことを言った手前、言い返すことができないのだろう。
全く仕方のないヤツだ――レイチェルは苦笑すると、アクセラに手を差し伸べた。
「不用意に近づくと、私のような灰目になるぞ」
そして、注意も踏まえて冗談を口にする。本当は下級瘴魔ではこうなりようがないのだが、そんな細かいことまで気にしていたら、この冗談は使いどころが限られてしまう。
「反応に困る冗談、言わないでくださいよー」
その言葉通りアクセラは少し困惑した表情を見せると、手を取り立ち上がった。
「それが冗談って分かるだけでも大したもんだ」
この場の誰でもない声に、四人は声が聞こえた方向へと顔を向けた。交戦跡からウーデルがこちらへと歩いてきている。
「大抵の人間は冗談と分からず気まずそうな顔するからな。なのに懲りないんだーこれが」
ウーデルはレイチェルの前で立ち止まると、やれやれ、とでも言うように肩をすくめた。
「自分から触れといたほうが気兼ねしないだろ」レイチェルは眉を寄せる。
「人によると思いますけどねぇ。とまぁそれはさておき」ウーデルが上半身を傾ける。「研究棟の回収班が到着しましたよ」
背後を振り返ると、遠方に小さく数頭の馬にまたがった人間と荷馬車が見えた。
「副長。あとは任せていいな」
レイチェルは腰に下げた鞘を剣帯から外すと、ウーデルに投げた。
「ええ」それを受け止めながらウーデルは答える。「現場仕事なら喜んで」
その意気揚々とした様子にレイチェルは息をはくと、アクセラに向き直った。
「アクセラ。新人を馬のところに集めてくれ。星都に戻るぞ」
「了解!」
アクセラは元気よく敬礼をした。