#2
そんなクリエイター気取りのニート期間を満喫していれば直ぐに四月も終わりが顔を見せてきた。動画も十七本も今月だけで上げた。毎日動画の編集をして、飯を食ってオナニーして風呂に入って寝る。ひたすらニコチンを摂る。本当に時間の浪費でしかなかった。かなしい。俺は何がしたいんだ。何が悲しいのかすら分からない。ただ、かなしい。でも生きていく為の日銭を稼ぐ為にあくせくバイトをしなくても良いというのは、精神的には良かったのかもしれない。
が、結局ハルちゃんに俺の動画を見てもらえる事は無かった。いや、もしかしたらツイート等のリアクションをしていないだけで見てはいるのかもしれない。分からない。そういえば一週間ほど前、初めてハルちゃんとコラボした別事務所の子が居たが、俺がそのコラボの様子を切り抜いてアップした告知のツイートをその子にリツイートされてしまう始末。だが彼女はリツイートもいいねも押してくれていない。それでもいつか、その内、俺の動画もされんじゃねぇかと淡い期待を毎日抱く。
『未だ俺はアナタに見て貰えなきゃやってる意味が無い、なんてどうでもいい事に固執してしまってんだ』
まるでメンヘラ女が何かを匂わせる様な主語も中身も無い文章をツイートしてしまう。今月一ヶ月こんな生活をしただけでもう金が無い。哀れな人生だ。働くか……。本当、何の為に生きているんだろうか。か。かなしい。い。生きづらい。ロックラがいいねを押した通知が来る。
そうこうしている間に五月に入り、まるで夏の様な日差しが刺さる。一月から三月はあっという間に過ぎる、という諺か慣用句かがあった気がしてGoogleで調べる。『一月往ぬる二月逃げる三月去る』か。うーん、これだった様な気もするが、いまいちしっくりと来ない。気付けば四月も通り越してしまった今、言葉に『四月失せる』とでも追加しておいて欲しい。
いつの間にかファミリーマートの店員さん、“ナガミ”さんが居なくなっていた。ここ数日、いや一週間以上見ていない。病欠だろうか? 引っ越した? 辞めた? 俺には何も言わずに。今流行りのウィルスにでも罹ってしまったのだろうか。
まさか俺が毎日このコンビニに現れるからナガミさんは辞めた? 俺の所為? まるで俺がストーカーしていたみたいじゃないか。いや、実際そう思われていたのだ。もう嫌だ。
店を出て煙草をポケットから取り出し吸おうとする。が、灰皿が無い。灰皿が置かれていた店の端のガラスには『新型ウィルス感染拡大防止の一環として灰皿を撤去しました』の張り紙。そういえば店内のトイレも使えなくなってた。何でもかんでもウィルスの所為にしやがって、自分らの仕事を減らす為の口実だろ。俺はお構いなしにセブンスターに火を点け、そのまま家まで住宅街を歩いた。
少し近道しようと公園を歩いた。その時、ふと足元を見た時に蟻が行列を成しているのを見つけ列を飛び越えた。もしかしたら俺は無意識に土の上の蟻を踏み潰しているかもしれない、殺しているかもしれない。普通の人間は気付かないままそこを歩き去る。だが踏みつけてしまった蟻を見てしまったら、たちまち罪悪感の様な憐れみな様な感情に呑まれるだろう。無意識に、無邪気に人は命を殺している。
ガキの頃、地元の夏祭りのくじ引きでエアーガンを当てた。それを持って後日遊びに出掛けた。そしてふと目についた。電線に泊まり、他の仲間達とちゅんちゅんと言葉を交わしている小さなツバメ。そのツバメへ、俺は理由もなく引き金を引いた。途絶える鳴き声。バサバサと一斉に電線を飛び立っていくツバメ達。一つ、落ちる影があった。地面の草むらには一羽、ツバメが堕ちていた。殺していた。理由もなく。銃を構え引き金を確かに俺が引いたのに無意識だった。殺意なんてこれっぽっちも無かった。好奇心さえも。これも踏み潰されて死んでしまう蟻と一緒なのか? 消えていくべき運命の命だったのか?
ネット上でも同じだ。相手は知りもしない他人。オブラートに包まれていない言葉が容赦なく飛び交う。俺は現実でもナガミさんという女性を傷付け消してしまったのか。
今にも降り出しそうな曇る空と湿度に押し殺されそうになりながら俺は這って玄関を登った。眠い。寝ないと、身体が持たないや。
倒れ込む様に玄関を上がり、冷凍庫からアイストレーを抜き取る。そして風呂場へ行き桶に氷を全てぶち撒ける。そしてシャワーから水をそれに注ぐ。そして四つん這いになりそこへ頭から突っ込む。
「あーー……アアッ!」
バサと頭を上げ、髪から滴る冷水も気にせず風呂場の片隅に力無く座り込む。靴も脱ぎ捨て、引き寄せた桶に両足を突っ込む。
五月も中旬に入り、流石にまずいと思いまたワイユーワークで仕事を紹介してもらった。夜勤の倉庫での仕分けのバイトだ。昔やった様な冷凍庫の中の作業でない分少しは楽、とも思っていたが物量がひたすらに多くて毎日足の裏の皮は剥け、タコも出来て足の裏全体が常に痛む。腰も手首も痛い。ひたすらにカゴからカゴへ荷物を分けていく単純作業。やる事は送り先の住所ごとに分けて行くだけ。それ故にきつい。毎朝十時頃家に帰ってくる頃には体力を出し切りへとへとだ。それに徐々に暑くなってきたこの時期。深夜作業とはいえ汗が止まらない。帰ってきたらすぐにシャワーを浴びなければと分かってはいても数日に一回は帰宅後そのまま気絶する様にソファに倒れ、泥の様に十八時頃まで爆睡してしまう。限界だ。毎日が。なんでこんな事までして東京都の最低時給で働いているんだろう。かなしい。当然VTuberの配信も見れなければ動画なんて編集してアップする事も出来ない。金曜の夜と土曜の夜は休みだ。だがしかし、休みの日も何もする気が起きずひたすらに惰眠を貪る。寝て体力を回復させておかないと身体が保たないのだ。三十を超えた男を体力の低下が容赦無く出迎える。かなしい。その間にもV WINDの子達はどんどんと羽ばたいていく。三月までの現場がどれだけ楽だったか。そして何より先月のなんちゃってクリエイティブ月間がどれだけ楽しかったか気付かされる。
腐るほどの金さえあれば、こんな事しなくてもいいのに。本気で編集マンでも目指すか? だが嘗て普通の会社員として働いていた頃の様な社畜に戻るのも嫌だ。働きたく無い。他に仕事に活かせる能力もない。起業するなんてもっての外。だからこうして単純な肉体労働で稼ぐ事しか出来ない。その思考の堂々巡り。かなしい。死ねたら、もういっそラクになれるのに。日本の数多の自殺者の一人となれば良い。年間何千人、何万人と逝く人間の内の一人と成れば良い。俺の様な人間達が自ら死を選ぶのだろうか。分からない。かなしい。
そのまま服を脱いで浴槽に雪崩れ込む。シャワーを浴びながら浴槽の中で膝を抱えて泣いた。声が出なかった。ただただ呼吸が苦しくて息を整えられない。俺はシャワーの落ちる水に溺れて泣いているのか、この人クソみたいな生に溺れて泣いているのか分からなかった。
七月。太陽に焦がされていた紫陽花が再び降る雨たちによって瑞々しさを取り戻し、生き返る。そしてまた枯らされようとしている。今年は梅雨が短かったらしい。例年の二週間も短いらしい。が、去年がどうだったか、一昨年はどうだったかなんて覚えてなんかいない。今日もまた夜勤を終え家を目指していた。が、気付いたら途中にあるセブンイレブンに寄り缶酎ハイを手に取っていた。木陰にあるベンチに座り蝉達の声に押し潰されながら俺は一口飲んだ。強い炭酸と喉にへばりつく甘さを感じる。あぁ、うめぇ。道端でワンカップ酒を飲んでいる老人達もこれを味わっているのだろうか。外で飲むというのも良いもんだ。俺はスニーカーを脱ぎぬるい風に足を晒した。背もたれに身体を任せる。このまま眠ってしまいそうだ。俺はiPhoneを取り出しYouTubeを開いた。そこで『鳩行為にキレる三葉ピース』とサムネイルに描かれた切り抜き動画をタップしてしまう。それはマインクラフトというゲーム内で他のV WINDメンバーへドッキリを仕掛けようとしていたピースが、ドッキリの準備をしている事を他のメンバーに鳩された事について配信内で言及していた箇所の切り抜きだった。
『鳩行為』というのは伝書鳩から文字って取られたネットスラングである。例えばAという配信者がBという配信者について配信内で言及した際に、裏で配信を行っているBの配信内で「AがBの事話してたよ」等と告げ口する行為である。この行為はよく配信者がNGを出していたりするのだが、この行為の厄介なポイントはファンもアンチも加担してしまう点だ。ファンは面白いと思って、良かれと思って鳩をして、アンチは配信を冷めさせようと鳩をする。『伝書鳩は仕事で言葉を運んでいるのに、鳩行為する人間を鳩と呼ぶのは伝書鳩に失礼だろ』という言葉を見た時には膝を叩いたものだ。
ピースちゃんの言っている内容はもっともな事だけで、単純につまらないし、相手、鳩をされた側(今回の場合は荒巻ユイ)はそれを知らされて逆に申し訳なくなるという訳の分からない状況になる。事実今回こうやって彼女が発言していたのも、裏でユイちゃんに謝られてしまったからであった。彼女が後輩思いである一面が見れて少し嬉しくもあるが、いずれにしろ不愉快だ。それをやめろと言っているだけなのに、信者は過剰に反応し鳩行為をする人間を袋叩きにし、アンチの人間達は『じゃあコメント読まなきゃいいじゃん』等と相手を逆撫でする様な事しか言わない。いつものVTuber界隈で見られる光景。クソだ。俺の左手に持たれていた缶は汗をかき、中身の液体は既にぬるく不味い物体へ変貌していた。
雨の染みた茶色の土と乾いた白い土がマーブル模様を描き、それらが熱い日差しを照り返している。暑く湿気も気持ちが悪いのに、たまに吹く風が異常に気持ちよく感じる。普段悪態をついている人間に急に優しく接して来られた時の様な落差。さわさわと揺れる木の漏れ日が音が涼しさを与えてくれる。クーラーの効いた部屋より、今はここに居たいと思えてくる。誰も子供が遊んでいないアザラシを模した黄色い遊具の上に鎮座していたカラスがバタバタと羽音を立てて飛び立った。
「オオガキ、さん……?」
「え?」
右から声を掛けられた。一メートル程離れた隣のベンチに座っている女性からだった。
「お久ぶりです、あの……」
彼女が言葉を続けようとした瞬間。
「あっ……!」
俺の曇っていた心は一瞬にして晴れ渡った。純白のワンピースに涼しげな麦わら帽子。この雨上がりの湿った空気も、熱く苦しい喉を焼く空気も清涼な秋の風の様にさえ感じる。ナガミさんがそこに居た。
「ナガミさん……。お久ぶりです」
「覚えて下さっていたんですね」
彼女の優しく微笑む顔が何故か涙腺を緩ませる。涙がボロボロと落ちる。
「え、どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
「……いや、ホントすいません。キモい事言いますけど、もう一生会えないと思ってました……。何があったんだろうってナガミさんをお店で見かけなくなってから数週間はその事ばかり気にしていたのに、新しい仕事やら……自分の事ばかりを考えてあなたの事を頭から消してしまっていたんです。ごめんなさい、でも嬉しくて……」
「そんな、大袈裟ですよ! でも、嬉しいです。あの、これどうぞ」
彼女が膝の上に抱えていたメッセンジャーバッグを手に立ち上がり、中からハンカチを取り出し俺に差し出してくれる。つばの広い帽子から覗く彼女の心配する様な儚げな表情が益々俺を泣かせる。女神だ。彼女が好きだ。俺はその事実を漸く分かった。
「ありがとうございます」
ハンカチなんて要らないのに、でもありがたく借りて涙を拭う。彼女はそのまま俺の隣に座る。
「今日は何されてたんですか?」
彼女が話題を変えてくれようとしている。
「ずっと家でPCに向かって作業してました。なので外の空気でも吸おうと……すぐ近所なものですから」
「そうだったんですね〜。こんな暑いのにわざわざ」
彼女が涼しげに笑う。それに釣られて俺も笑ってしまう。
「ナガミさんは?」
「私はこの先のカフェを目指してたんですけど、ちょっと木陰で休憩しようと思って」
パタパタと手のひらで顔を仰ぐ仕草をする。
「そうだったんですね。今日もめっちゃ暑いですから気をつけて下さいね」
「ですね〜。ありがとうございます」
一瞬の間。お互い何も言えずもじもじと間伸びする。
「……あー、すいません。引き止めちゃって、俺帰りますね」
「あ、いえ全然! 私もぶらっと散歩ついでに行こうとしてるだけですんで……。あの、大垣さんもよかったら一緒に行きません?」
「え」
突然の問いにフリーズする。
「すいません、忙しいですよね! すいませんこちらこそ引き止めて……」
「いや、俺は全然良いですけど、その……俺なんかと一緒に行ってもその……」
再び間。
「じゃ、じゃあ! もうちょっと涼んだら行きましょう……か?」
「なんで疑問系なんですか! そうしましょう」
彼女の微笑む顔が俺を見てくれていた。
ふたりとも特に会話を繰り広げる訳でもなく、偶に「こっちです」等と道順を言うくらい。だが沈黙で居ても辛くない、不快に感じない。ずっと隣に居たい歩いていたいと俺は感じていた。公園を抜け住宅街を抜け、環状線と大通りとの間にある隣駅の近所まで十分程歩いた。空は益々晴れ渡り健気に太陽が咲いていたが、何故か汗もそんなに滲まず心地よい気分のまま着いた。
「あ、ここです!」
「お〜……」
緩やかに坂道になっている二車線道路に面したその二階建てのカフェレストランは、一・二階どちらにもベランダ席が設けられたコンクリート造りの東南アジアの風を感じさせる建物だった。
「私初めてなんですよココ。テンション上がりますね!」
「当然、僕も初めてですよ」
さっきの女神の様な表情とは違う、五歳児の様に目をキラキラさせている彼女も素敵だった。
さっそく店内に入るが「折角なので外の席行きたくありません?」という彼女の言葉に乗せられ、店員に申し付け石と木板で構成された落ち着いた雰囲気の店内から再び外へ出た。空いていた時間帯か、皆店内の冷房を望むお陰か、二・三人掛けのソファが向かい合った席に案内して貰えた。とりあえず俺はアイスティーを頼み、彼女はアジアンな店らしくココナッツのチャイを頼んでいた。
「良いですね、この席」
「ですね〜」
運ばれてきた冷たいグラスで乾杯して、周りを見ながら言う。扇風機と、店内からの冷風も少し流れてきて、そして今日は風も少し吹いていてベランダに居ても気持ちが良かった。
「お昼ってもう食べました?」
「いや、まだです」
「私もまだなんですけど、折角なんで何か食べません?」
「あー、いいですね」
二人でパラパラと机の上に広げたフードメニューを一緒に眺める。朝から何も食っていないはずなのに空腹を感じていなかったが、“折角なので”一緒に何か摂ろうと思った。
「ガパオおいしそ〜」
「自分全然こんなオシャレなお店来ないんで、何を選んでいいやら」
俺が苦笑しながら正直に言う。
「いや私も全然わかんないですよ。写真見て美味しそうって思ったモン頼んだらいいんですよこんなの」
「スゲー……!」
彼女のその大雑把で大胆な思考に笑いながらも感嘆するばかりであった。
「じゃあ僕はトムヤムクンにフォー追加で」
「いいですねぇ〜。私はキーマカレー……いや、やっぱりガパオと、生春巻き食べます?」
彼女がメニューを指差しながら言う。
「シェアしましょ、シェア・シェア」
「あ、はい」
彼女に乗せられるがまま同意する。彼女が店員を呼びそのまま注文した。
「いやーこういうお店に来ても麺類選んじゃいますねぇ」
「麺好きなんですか?」
「好きですねぇ〜。近所のラーメン屋には週二、三でお世話になってると思います」
「この辺りにあるんですか?」
「あー、さっき通ってきた道を戻って、もう少し大通りを下っていくと黄道家って家系のラーメン屋があるんですよ」
「え、そうなんですか? 知らなかった〜、今度行ってみます」
「是非是非。ナガミさん一人でラーメン屋にも普通に入れちゃう系の人ですか?」
「全然行きますよ。一人焼肉は流石にまだハードル高いですけど」
「スゲー。女性で一人でそう行動出来るのめっちゃカッコいいすね」
「いやいや、友達が居ないだけですから」
「……俺も同じです」
「同じですね!」
ゆるく笑い合うこの時間がとてつもない幸福に思える。そして良い香りと共に料理が運ばれてきた。
「おぉ〜」と二人して眺める。
「あ、あの、一口貰ってもいいですか……?」
彼女が照れ臭そうに言う。
「え、全然。どうぞどうぞ」
俺はトムヤムクンの入った深皿を彼女の方へ押す。
「あはー。ありがとうございます」
彼女が箸を皿へ突っ込み一口啜る。
「んー! おいしい!」
「よかったです」
別に俺が作った訳でもないのにそんな事を言う。
「私のガパオも食べっちゃってください」
「え、いいんですか」
「そりゃあもちろん」
「あ、じゃあ頂きます……」
カトラリーボックスからスプーンを一つ取り出す。そして彼女から受け取ったガパオライスの皿の端っこの方を掬い取る。
「ん〜! おいしい!」
「この店一押しだけありますねぇ〜」
じゃあ、と彼女もガパオを食べる。
「おいし〜〜〜。今日ここに来れて良かった」
幸せを噛み締める様に彼女が言う。俺もだ、と強く同意する。俺も自分のトムヤムクンへ手を伸ばす。
「ナガミさん、その……一人でここ来たかったんじゃないんですか?」
「あーまぁ一人の方が楽なんで良くこうやってカフェ巡りとかしてますけど」
彼女が口に含んでいた物を呑み込んで話を続ける。
「今日はまぁ……何となくです!」
彼女の微笑みに、俺の何かが赦された様な気さえした。
するとそこへ、一羽のツバメがテーブルへ遊びに来た。可愛いそのツバメと目があった。まるで俺を何かへ誘う様な、つぶらで美しい瞳。そして次にナガミさんの方を見る。彼女がスプーンを口に含んだままにっこりと笑顔を返すと、周りをキョロキョロと少し見渡し、再び空へ旅立って行った。
「かぁわいぃ〜。一口でも啄んで行けばいいのに」
笑いながら言うナガミさん。あなたの方が可愛いですよ、とクサい台詞の一つでも言えれば面白い奴だなくらいには思われるかもしれないのに。
「……ホント、何て喩えたら良いのか分からないですけど、ナガミさんには数千年ぶりに再び会えた友人の様な、そんな感覚を覚えるんです」
独白の様に俺の口から言葉が溢れてくる。
「考え方が似ているというか、俺が一方的に気が合うなって思ってるだけなんですけど……。本当ごめんなさい、どう言い表せば良いか分からなくて」
彼女はポカンとしている。そりゃそうだろう。引かれてしまった。
「んー、深く考えたらそういう事なのかもしれないですね」
予想外に答えが返って来た事に驚く。
「というと……?」
「なんとなく勢いで大垣さんを私の一人で楽しもうとしていた時間に招いた訳ですし、別に義務感とかでもなく。だから多分私も無意識にあなたの事が苦にならないというか、気が合うと思ったんだなぁって今改めて思いまして」
そういう事か、と思うと同時に、彼女が“あなた”と呼んだ事に少し恥ずかしくもなった。
「……何だか不思議な関係ですね、僕ら」
「まぁ、そういうのもアリなんじゃないですかね?」
「アリですね……!」
二人してこの意味不明な会話を笑い合う。素の俺という人間を、初めて他人に受け止めてもらえた様な安らぎを感じ、そんな気持ちと共に摂る食事も最高においしかった。好きな人と一緒に食べるごはんってこんなに美味しいんだ。
赤く染まる空の下を大通りに沿って造られている公園の中を二人歩き帰る。こんなコンクリートだらけの街でもひぐらしは鳴き、涼しげな風と優しい空気の匂いが秋の様な雰囲気を醸し出す。
「あ」
彼女がポツと呟き、数歩大股でスキップする。そして陰から出た彼女は西の空を見る。
丁度ビルと首都高速の高架路の隙間から太陽が覗き、スポットライトの様に彼女を照らす。
「綺麗ー……」
左手を翳しながら太陽をキスしたそうに見上げる。
「あの!」
俺は思わず声を掛けてしまう。
「はい?」
「……よかったら、また一緒にどこかカフェとか行きませんか?」
「……はい!」
こちらを振り向いた彼女の右頬が太陽に照らされる。その眩い笑顔に俺は生かされている気分だった。
彼女と別れ朝居た公園へ戻り、同じベンチに座っていた。靴を履き、そして立ち上がりいつも通りの道順で家を目指す。
玄関を上がり、改めて今日の仕合わせな時間を噛み締める。俺はいつからか、今日一日持ち歩いていたのか、その酎ハイの缶をゴミ箱へ放り投げた。そして急にドッと疲れが押し寄せて来た。あれ、彼女に借りたハンカチはどこに仕舞っただろうか。返しただろうか。分からない。脳味噌は溶け出し、俺はソファでいつもの様にドロドロとした睡魔に呑み込まれ昏睡した。
『飲み疲れて大股開いて寝てるサラリーマンのおっさん。デカい声で話し続ける化粧の濃いおばさん連中。汗臭いデブ男。イヤホンから音を漏れ流している馬鹿みたいな大学生。Fuck you everybody.』
俺は必死に目を閉じた。この通勤時間さえも地獄だ。なんでこんなに生き辛いんだ。ツイートしてそいつらへ文句を言ったつもりになる。
暑苦しい電車内で目につく全てが不愉快で仕方ない。死んでくれ。そう願いながらイヤホンを流れる音に集中するしかなかった。毎日毎日こんな電車に揺られて。数ヶ月前までよく毎朝満員電車に乗って出勤出来ていたものだ。今はもう他人の存在が苦痛でしかない。今の仕事内容もだ。体力的にキツい。それが精神的な辛さにもなってきている。
無理だ。辞めてしまおう。もう三ヶ月程頑張ったじゃないか。この仕事はおれに合っていなかった。それだけだ。また別の仕事でも探そう。そうしよう。俺は丁度停まった駅で電車を降り、向かいのホームから出る電車へ乗り換える。家へ帰る方向へと。
家へ帰ってTwitterを開いてスラスラとタイムラインを遡っていると、『八月二十二日(土)にこちらのライブに参加させて頂きます! もう緊張で吐きそう』とハルちゃんが引用リツイートしていた。そういえば最近全然V WINDの子達の配信見れてなかったな。と思いつつ引用元のツイートを見る。八月二十二、二十三日の二日間に渡り、様々な事務所やグループ、個人勢のVTuberまで合わせて五十名以上の出演者で贈るオンラインライブの告知であった。V WINDからは六聞ミズホ、一ノ瀬マリー、それに七海ハルの三人が二十二日、三葉ピースと涼咲カイ、荒巻ユイが二十三日に出演となっていた。何故この組み合わせなのかは謎だが。出演する日は違えど、V WIND一・二期生揃って全員で同じ舞台に立つのは今回が初だ。何より二期生の子達が遂にステージに立つのだ。彼女達の晴れ舞台を観ておかなければ。俺の心に僅かに残っていたオタク魂がそう言っている。既に販売開始されているネットチケットの購入ページへ迷わず進んでいた。両日通しチケットをチェックし、コンビニ支払いを選択し確認ページまでもう行っていた。こんな事に糸目をつけたくない。今回はネット上でのみの開催だが、
一期生の子達のライブを現地会場で観れなかった悔いが未だ残っている。現地組といえばロックラだ。アイツは未だTwitterのアカウント名にそのライブの現地組だと誇る様に書いている。彼の名前を見る度に俺はその敗北感の様な気持ちを植え付けられる。もうその思いはしたくない。俺はそのまま確定ボタンをクリックした。
仕事をバックれて数日経ったある日、ロックラからメッセージが届いていた。
『お疲れ様です〜 土曜仕事で渋谷行くんですけど、よかったら夜ご飯でも行きません?』
突然のメッセージに少し驚いた。最近はTwitter上で彼のツイートを一瞬見かける事はあっても、特に絡む事も無かったのでこうやって話すのがいやに懐かしく感じた。昔はよくVTuberについて情報交換したり、推しについて語ってオタク話に花を咲かせていたのに。
『この配信めちゃ良かったから見てくれ』
『この○○ちゃんと××ちゃんの絡み尊いですよね……』
少し前の会話を遡ればそんな話題ばかりだ。この頃が一番Twitterをやっていて、VTuberを追っていて楽しかった時期だったのかもしれない。
そして勿論何もする事がない俺は行くと答えた。
わざわざ会うなんて何か理由があるのだろうか。仕事関連の話? 俺の出来る事なんて少し編集とプログラミングが出来る位だし、何か映像でも作ろうとしているのだろうか。それか単純な人手不足でアルバイトでも探そうとしているのだろうか。いずれにせよ何か仕事に繋がれば良いな、と勝手に思ってしまっていた。……いや、普通の人は特に理由が無くてもこうやって気軽にメシに誘ったりするもんなんだろうか。友人、と俺達が呼び合える仲なのかは分からない。Twitter上だけでの関係。
毎日延々とYouTubeを見ながら惰眠を貪ればあっという間に数日数週間なんて過ぎてしまう。
「あ、ジンさんー!」
渋谷駅を出て北西に進めば、奥渋などと呼ばれる俺の様な人間には無縁の大人で洒落た店の並ぶ道へ繋がる。ロックラから指定された店はダイナー風のカフェで、アメリカ様式の店内は人で一杯だった。店に入り周りを見渡していたら彼の声が聞こえてきた。窓際のボックス席から身を乗り出し手を振っていた。
「ロックラさん、お久しぶりです〜」
俺は平静を装い気軽に挨拶を返す。
「お久しぶりです〜」
ニコニコと爽やかな笑顔を振り撒く彼は相変わらずオタクっぽくない。
「とりあえず何か飲みましょ」
彼はメニューを取り俺にも差し出してくれる。どうも、とそれを受け取った。
「ここ来てみたかったんですよ〜」
「めっちゃお洒落な店ですね」
「こういうアメリカンなお店好きなんですよ〜」
「ロックラさん、もっと落ち着いたバーとか好きそうというか、似合いそうな感じですけど」
「いやいやーハードル高いっすよ〜」
こんなどうでも良い話をしながら二人ともジョッキビールを頼み、アメリカンらしくこの店の売りにしている巨大なバーガーも一緒に頼む。すぐにビールがテーブルへ届く。
「かんぱーい!」
「かんぱーい」
マスクを取って気持ち良さげに一口目を飲む彼は、本当に顔の整った良い男だった。何故俺の様なオタク人間に関わってくれるのだろうか。劣等感から疑問が生まれる。
「かァ〜〜〜! この一杯の為に生きてるわー!」
「いやー美味い」
労働をしていなくてもビールは美味かった。
「ジョッキじゃなくて、この店だったら瓶のまま飲むのもおつですねぇ」
「本当にアメリカって感じ好きですね」
「海外かぶれのミーハーなので」
彼が照れ臭そうに笑う。
「そういえば再来週のライブ楽しみですねぇ」
「ですね。V WINDの子全員が同じライブに出るのは初ですもんねぇ」
「いや〜二期生の子達が遂に舞台に立つのほんと嬉しい」
「ほんとソレ」
「アニクラの子達も出てて、そっちも個人的には楽しみです」
「良いですねぇ。自分はアニクラは全然追えてなくて、あんずちゃんとリコちゃんを少し知ってるくらいで」
「あんリコはほんと尊いのでこの前のコラボ見て欲しいっす!」
と、こんなお洒落な店でもこんなオタク話しか出来ない。他に話せる共通の話題も無い。彼が意気揚々とYouTubeを開き、その配信のURLを俺のTwitterのメッセージボックスへ送りつける。
運ばれてきたバーガーに舌鼓を打ちつつ酒は進んでくる。フードメニューは少し高めの値段設定だが、飲み物、酒類は意外に安価で久々の他人と飲みという事もあり既にお互い三杯目へ口をつけ始めていた。追加で頼んだチップスとピクルスもよく合う。
「そういえば、この前言っていたコンビニの人と偶然会ってメシに行ってきたんですよ」
「あ、あのファミマの店員さんですか?」
「そう……クソバイト終わりに公園でだらーっとして居る所を見られてしまって。彼女はカフェに行く途中だったみたいで、そのまま一緒に」
「えーめっちゃいい感じじゃないですか!」
「まさか二回も偶然会うなんて、変なカンジですよね。ストーカーかと思われてそう」
「運命、なんじゃないですか?」
「ロックラさん意外にロマンチストですね」
「いやいや、それはそう思わざるを得ないでしょう。それに自然とデート出来るなんて」
「いや、僕らは多分そういう関係には成れなくて、ただの友達でしか居られないんです」
「えー、ジンさんはその方の事どう思ってるんです?」
「そりゃあ……素敵な人だとは思っていますけど。僕より三、四つは年下だろうし、俺みたいなオタクが接して良いような人じゃないんです」
「恋人みたいな目じゃなくて、推しを見るように思えているんですね」
「それが近いかもしれないですね」
「なるほどなぁ〜」
「そういう意味じゃ、ロックラさんとりっき〜さんはどうなんです?」
「え、どういう脈略ですか!?」
ロックラは慌てた様な顔をする。
「いや、お仕事で一緒した方で、彼女の推しだと言っていましたけど、そういう関係でもあったのかなって」
「いやー、同じ様な事を返しますけど。僕も彼女はすてきな、人としても異性としてもそうだと思います。けど流石に結婚してる人に手を出そうとは思いませんよ」
「え、そうだったんですか」
「あ、すいません……。Twitter上だと私生活は出さない様に彼女しているのに」
「いや、謝るなら彼女にして下さいよ! 『すいません、あなたの個人情報をキモオタに流してしまいました』って!」
「ハハハ! 確かに。でもまぁ、ジンさんになら言ったと言っても許されるでしょう」
「本当ですか」
「多分ですけど」
僕らはお互い落ち着く様にまた一口ビールを煽る。
「はぁ……」と一息つき彼が落ち着ける様な仕草を見せる。
「実は、今日会いたかったのは……GinGinさんの事が最近分からなくなって来たからです」
バーガーの皿に盛られていたフライドポテトを摘みながら急にロックラは切り出す。俺は眉を顰めながらジョッキをまた煽り、続けて、と目で言う。
「最近のジンさん、何か変です。発言が刺々しいし、誰に何を言ってるのか分からない事もある。もしそれが僕の事なら直接言って欲しくて」
「え」
全くの無自覚に言葉が漏れる。
「僕がV WINDにハマり始めた時からよく絡んでくれて、他のVTuberさんを勧めてもらったり色々してくれたのもジンさんなんです」
酒のお陰か彼も饒舌に喋る。
「こうやって直接会って話せば紳士的で穏やかな方だと分かるのに、Twitter上に居るあなたは別人の様で、正直あまり好きになれないです」
「はぁ……」
無自覚、というのは嘘だったかも知れない。俺は性格上思った事をツイートせずには居られない。ネット弁慶、等というスラングもある様に、ネットの上でなら自由に発言して泳ぐ事が出来ると思っていた。それを妨害される様な、ストレスを感じた。
「まぁ……俺の愚痴っている事にロックラさんを含んだ事は一度も無いです。それに俺は思った事を呟かずには居られないタチなので、余り気にしたことも無かったんですが……」
汚い言葉達が脳裏を埋める。勝手に俺のフォローを外すなり、ブロックするなり好きにしたら良いだろ。一気にテンションはマイナス値を振り切り、話す気が失われてくる。何か他人に不快な事を言われたり指図される様な事があった時に表れるいつもの行動だ。その相手に俺から関わる事を断つ。関わられない様に無視する、繋がりを切る。そうでもしないと何かが心の蟠りとなって深く沈澱し続ける気がする。何より相手に構うのすら時間の無駄にしか思えなくなる。俺はこいつに何て言えば良いのだろうか。
「まぁ、そう、ですよね……。ジンさんのスタンスは変わってないんですよね……」
何か自分に言い聞かせる様に彼は言う。コイツは何にそんな深く悩んでいるのだろうか。
「ジンさんは大切な友人と思っているんです。だから僕はどうしたら良いか分からなくなって来たんです。すいませんこんな事言う為にわざわざお呼びたてして」
何なんだコイツは。友人、という言葉がいやに引っ掛かる。こう他人から言われると上辺だけの薄っぺらい言葉にしか聞こえなくて困る。コイツは俺に何を求めているんだ。分からない、面倒臭い、会話を終わらせたい、帰りたい。
「まぁその……俺の事が不快ならブロックするなり、自由にして下さい。ネット上での人付き合いなんてそんなものじゃないですか?」
俺は平坦な言葉を返す。
「そう……ですか」
「ええ、勝手にどうぞ。俺も勝手に呟いているだけなので」
俺は財布を取り出し五円札をテーブルの上に置き席を立ち上がる。深刻そうな顔をして下を向く彼を見下し、俺は店の出口へ足を進めた。
はぁ、電車内の冷房で頭を冷やしながら漸く分かる。彼は俺に出来ない事をやって退けたのだ。相手に直接嫌いな所を言える。そういう男だったのだ。わざわざあんな席まで設けて。会社を経営する人間としてそういうハッキリと自分の意見を示す、芯のある心を常に持っているのかも知れないが、年下の奴にこんな事を言われてしまった。情けない。車内で自分に呆れた様な、自分に諦めを感じる様な苦笑いが流れる。何やってんだ俺。
気持ちよくほろ酔いになっていた所をこうも一気に素面に戻されてしまうと気持ちが悪い。酒に酔いたい。そんな気持ちが早る。先程までの渋谷とは打って変わって土曜の夜だというのになんとも物静かで活気のないいつもの駅に降り立ってしまった。改札を出て家の方へ歩き出す。少し歩くと二階の窓にGIRL'S BARと青とピンクで下品に輝くネオン管が目に入る。その一階、階段の入り口前にはバニーガールのコスプレをしたやる気のなさそうな女の子がスマホをいじりながら立っている。そういえばガールズバーなんてこの駅前にもあったな。看板を見て漸く思い出した。俺はいそいそとその子に近づく。
「こんばんはー」
「あ、こんばんは」
急いで彼女がスマホを仕舞う。
「よかったらどうですかー」と彼女が手に持っていたチラシを渡して来ようとする。
「あ、今空いてます?」
「空いてますよー。初めてですか?」
「はい」
「どうぞ〜」
彼女の表情は既に営業のスマイルを纏っていた。それで良い。バイトなんてそんなもんだ。
「お客様ご案内です〜」
「いらっしゃいませ〜」
とカウンター内に立っている三人の女の子達も息ぴったりに返してくる。好きな席にどうぞと案内されるので俺は先程のネオンが輝く駅前通り沿いの窓側に座った。点滅を繰り返すネオンの灯りが窓を反射し、そして店内にも明暗と色を配っている。
「どうぞ〜」
小柄な童顔の子がおしぼりを広げて渡してくる。ピンクのバニーガールのコスプレをしていた。それを両手で受け取り手を拭った。暖かいおしぼりが電車内で冷やされた指先に気持ちが良い。
「こちら時間制になってまして、四十分で三千円の飲み放題になってます。それでこちらのメニューが飲み放題で、単品メニューはこちらから――」
とシステムについて説明される。とりあえずその飲み放題だけ付け、ビールを頼む。ポケットからiPhoneとセブンスター、Zippoを取り出してカウンターに置いた。
店の中はL字にカウンター席が設けられており、窓側のカウンター席は俺一人で独占していた。中程のカウンターには常連らしい四、五十代の男二人が大声でカウンターの中の子達と話している。
「おまたせしました〜」
グラスに注がれたビールを受け取る。煙草に気付いた彼女が灰皿をカウンター下から取り出し置く。
「はじめまして、ハルと申します〜」
「はじめまして〜」
「お兄さん、お名前は?」
「勇気です」
「ユウキさん、と」
彼女が脳内にインプットする様に復唱する。
「あ、よかったらお姉さんも」と酒を飲む様にジェスチャーする。
「え、ありがとうございます〜!」
なんとも嬉しそうに返事する。彼女がグラスを持ってくるまで待つ。
「あ、すいません〜! かんぱーい!」
「かんぱーい」
俺は何とも気持ちの悪い笑みを浮かべているのだろうと思いながらもニヤついた口のままビールを煽る。
「今日はお休みですか?」
どこの店に行っても聞かれる様な開口一番の言葉を受け取る。
「ええ。さっきまで渋谷で少し飲んでました」
「えーそうなんですかー! いいなぁ〜」
「まぁ……色々あってすぐに帰って来ちゃったんですけど」
「この辺りに住んでるんですか?」
「大通り超えた向こうなんで、区は変わっちゃいますけど」
「そうなんですねー! え、で、渋谷でデートでもしてたんですか?」
俺が口に含んだビールをグラスに吹き出しそうになる。
「あ、ごめんなさい!」
「いや、大丈夫ですよ。なんでデートなんですか」
「え、今の反応は図星なんじゃないんですか〜?」
「いやいや、男の友人、ですから」
友人。そう言った時に少し言い詰まり違和感を覚える。俺も彼のことを友人だと思っていたのだろうか。
「いやいや、今の時代、愛に性別は関係アリませんよぉ〜」
ニヤニヤと彼女が言う。可愛い。
「いやいや違いますから!」
「まぁまぁ、色々あったんですね」
「まぁ、色々です」
俺も笑って返す。彼女の色々訳ありなんですね、私は分かってますよ。と演技する様な笑みが面白くて可愛かった。
「で、ストレス発散の為にここに来たと」
「まぁ……もう少し飲みたいと思っただけです」
「へぇ〜……」
彼女が後ろを振り返り。何かゴソゴソと漁っている。
「はいコレ!」
「え」
と、彼女がカラオケ用のタブレット端末とマイクをカウンターに置く。
「うちカラオケもあるんで、どうぞ叫んじゃって下さいよ」
「えぇ〜」
「ユウキさん、なんか歌うまそうじゃないですか」
「いやいや、全然そんな事ないですから」
カラオケも良いなと思いなんとなくタブレットを弄り始める。
「普段何聴いてるんですか〜?」
「特に好きなアーティストとかジャンルは無くて……。気に入ったらその曲だけ買ったりとか」
「まぁ今はネットで一曲ごとに買えますからねぇ〜。便利!」
「いやいや、いつの時代の人ですか」
「女性に年齢のハナシはNG!」
「ごめんなさい」
「そういう勇気さんこそ幾つなんですかー?」
「えー……ヒミツ」
「なんなんー! じゃあお互い秘密で!」
彼女のトークに乗せられ楽しくなってきてしまう。仕事とはいえ、俺の様な男に付き合わされて大変だろうに。俺は特に理由もなく海外のロックバンドの名前を入れて検索していた。このバンドを知ったのも涼咲カイのお陰だった。オルタナロックというジャンル名すらこの歳になって初めて知ったのだ。推しに感謝するしかない。ページを送りながらこの曲は入ってるのに、あの曲は入ってないのか等と思っていると彼女が覗き込んでいた。
「え、チリペッパーズ聴くんですか!?」
「あ、いや、まぁ」
「いいですよねー! 私去年のサマソニで観ましたよ!」
「えーいいなぁ〜」
「めちゃカッコよかったですよ! はい、じゃあ歌ってくださーい!」
「ええー」
そう声では否定しつつも俺はライブで一曲目によく演奏される定番の曲を送信していた。
チープな打ち込みのベースとドラム音源が響き始め、俺の左上の方のカウンター内に設置されたモニターを見上げる。出だしからスっと入り歌い始める。英語歌詞の上に表示されるカタカナ振仮名を必死に目で追いながら歌う。カウンターでぎゃあぎゃあと騒ぐおっさん達の声がうるさくてカラオケ音源が聞こえない。俺は立ち上がりモニター近くのスピーカーに近付き歌う。舌が絡まり難しい発音の所は適当に誤魔化しながら歌う。ラップ調の歌詞は多少誤魔化しが効くと思う。気付けば彼らのボーカルがステージパフォーマンスする様な身振りをしながら頭を揺らし最高に気分に浸って曲を歌い終えた。
「だァーーー」
俺はカウンターの上で汗をかいていたビールを一気に飲み干す。そしてどかっと席に座り直す。
「えーユウキさんすごーい!」
「お兄さんめっちゃ上手〜!」
他の子からも賞賛を受け俺は益々気分良くなった。
「いやいや、何となく誤魔化しながら歌ってるだけですから」
「いやめっちゃ良かったですよ! おかわりビールで良いですか?」
「あ、お願いしますー」
「はーい!」
彼女が暖簾の奥のキッチンに消え、俺はカウンターの上に置いていたiPhoneを触る。つい何時もの癖でTwitterを一番に開いてしまう。そして、なんとなくロックラのアカウントを検索してみる。が、検索結果の予測アカウントに上がってこない。ダイレクトメッセージのタブを開いて彼とのメッセージ履歴を開く。すると『ブロックされている為今後メッセージのやりとりは出来ません』と表示されてしまった。そこから彼のアカウントに飛んでみると、そこでもブロックされています、という表示。悲しみに近い感情と同時に、何か呪縛を解かれた様な気さえした。俺は俺の言いたい事をネット上に垂れ流す。不快なら見ないでくれ。『嫌なら見るな』というのはインターネット上での常套句だ。俺は清清した気持ちと共に逆上した感情を文字に込める。
『俺は言いたい事を素直に呟いちゃう人種なので、嫌ならブロックするなりフォロー外すなり自由にして下さい』
強がりの開き直りだ。やっぱり悲しい。数少ない気軽にオタク話が出来る人間すら失ってしまった。
「ユウキさーん?」
ハルちゃんの声が暗闇の中で遠くから聞こえた。
「ビールどうぞ?」
「あ、すいません。どうも」
俺はグラスを持ち大きく一口飲む。セブンスターに火を点け一息吐く。ビールと煙草はどうしてここまで合うのだろうか。
「あぁ〜〜、美味い」
「やっぱり今日はデートだったんですか?」
彼女はしつこく訊いてくる。
「うるさい! はいじゃあこれ歌って!」
「なんで〜! これあの映画の奴ですっけ」
「そうそう、分かるでしょ?」
「まぁー少しは」
「はい、ハルちゃんも歌おう!」と俺はその曲を入れ、余っていたもう一本のマイクを彼女に突き付ける。
二時間程歌って飲んで気持ちよく酔っていた。女の子達に酒を進め過ぎて会計すれば既に二万円を超えており多少ビビったが、会社員時代に作って未だ使えているクレジットカードで支払い事なきを得た。
「また来て下さいね〜!」
「あぃ〜」
階段下まで見送ってくれた彼女に軽く手を振りふわふわと浮かぶ身体を家に向ける。彼女の名前もハルちゃんかぁ、とふらふらと思う。
今度のハルちゃん達が出演するライブのタイムテーブルを見たくてGoogleで検索していた。その検索結果の中に何で引っ掛かったのか、VTuberの推定年収や配信の視聴者数について語っていたネット掲示板のスレッドのまとめブログがヒットする。Twitter以上に勝手な邪推やアンチ発言で溢れるそういう類の掲示板は見たくもないので避けていたが、何の気なしに開いてしまっていた。
勝手に集計され格付けされた配信内でのスーパーチャットの総額や同時視聴者数でのランキング。
『○○の裏でこのコラボやってたんだから視聴者少なくても仕方ない』
『○○は完全に××の配信に被せてこの時間にした』
『○○アンチ必死だなw』
『>>116 事実だろ涙拭けよ』
等と予想通りのオタク共の言葉の応酬に吐き気を催す。やはり見なければよかった。だがしかし、そのランキングにV WINDの子が居れば嬉しく思ってしまう自分も居る。それはコイツらと同類だと認めてしまっている様なものなのだろうか。
しかし推定月収の金額を見れば恐ろしい額だ。ランキングトップの連中となれば一回の配信で数百万円分のスーパーチャットが当たり前の様に飛んでいる。YouTubeに、事務所にどれだけ彼らが搾取されるのかは知らないが、いずれにせよ凄まじいし、正直に言えば羨ましい。カラオケしたり、ゲームの配信をするだけでそんな金が稼げたらどれだけラクな人生か。裕福な人生か。
そう考えれば、一般人でも多くの人に見られる機会があれば人気になれるのでは? カリスマ性、芸、技能というのも必要ないのではないか?
大手のアイドル事務所から新しくデビューするグループが発表されれば勝手に注目される様に、無名の新人役者がいきなり映画の主演を務めれば話題になる様に。
VTuberも今となってはそんな芸能界と同じ様な構図に思える。有名な事務所、グループからデビューするから最初に勢いがついてそのままネット上で話題となる。結局それ以外は本当に何かたまたま偶然ネット上でバズりでもしないと軌道に乗れる機会は無くネットの海に沈んでいくのだ。
『あー俺も来世はパパ活しながらVTuberやって適当に彼氏とウハウハしながら暮らしてーわ』
またクソみたいな事をツイートした。
だが来世に託そう、という想いは本物かもしれない。
別に彼らを馬鹿にしている訳では決してない。現に俺は何人ものVTuberの推しを持っているオタクだし、彼女らが裏で歌やダンスの練習もし、ゲームにしたってひたすらに練習をしてから配信している事も分かってはいる。
基本的に自分の家から配信しているであろうから、そういった裏でやっている事も含めて仕事とプライベートの境界も曖昧だろう。
『在宅ワークと一緒で、Vってほんと休みと仕事の境界曖昧だよな』
『それに中の人として別にチャンネル持って配信したりしてる人とか本当すごい』
素直に彼らへ敬意も表する。
俺もVTuber始めてみるか? と阿呆みたいな意見が浮かぶ。結局彼らを馬鹿にしているのではないか? いつか編集をやってみるかと思い立った日の様に。男のVTuberも腐るほど居るし、最近では男が女の子のアバターを使って配信する者も多いし。
無理無理。次の瞬間にはやっぱり自己否定だ。良い声も歌声も無い。トークスキルも無い。ゲームが上手い訳でも無い。ゲームや普通に配信をしようにも高スペックのPCを用意する金も無い。VTuberとして使うアバターを作ってもらう金も勿論。どこか事務所にでも入れればそれらの問題も関係無いが、俺がオーディションやらを受けても雇われる訳が無い。無い無い尽で笑えてくる。それでも俺がもし女だったら、そういうチャンスを掴める可能性はまだゼロより上だったのだろう。オンナというだけで特別扱いされ、持ち上げられるこの国で、羨ましいと思うのは当然なのではないか。
俺はこういう人間だと開き直って、自分に言い聞かせてる良い歳こいた人間なんて腐るほど居る。俺もまた……。
結局俺は自己解決という名の自分の目で測って作っただけの簡単な物差しで他人を見て、内省出来ている様な振りをしているだけのピエロに過ぎない。ああ、本当に俺は何の為に生きているんだ、生かされているんだ。
こうして俺はネットを閉じ、世界と断ち、自分の世界へ閉じ籠った。
そうして待ちに待った、訳でも無い二十二日はあっという間にやって来る。そのイベントは実際の音楽フェスの様に一日を通してずっと様々なVTuberが音楽を奏でていた。朝十時から配信開始され、予定では二十三時までタイムスケジュールが一杯だ。更に二十三時から朝三時頃までDJ系のVTuber達によるクラブミュージックパート。そしてまた翌日も朝から丸一日音楽漬けという訳だ。
今日のハルちゃん達V WINDの子らは十七時から登場予定になっていた。朝からその配信を開いてずっと音楽を流していた。皆上手で、ステージ上で輝いている。名前を聞いたことが無いVTuberも多く、思わず数人のYouTubeのチャンネルを検索しとりあえず登録するという刺激も貰っていた。
『リハ終わりました! みんな待っててね!』
というミズホちゃんのツイートへ『楽しみにしてるよミズリン〜〜〜!!!』と同じステージに上がるハルちゃんがリプライしており久しぶりにミズホオタクぶりを発揮していた。
その二つをリツイートした瞬間、『この子も私と同じステージに出ますから!』とハルのリプライを引用リツイートし、ミズホちゃんがツッコミを入れていた。こういう推し同士のやりとりを見ているだけで楽しい。
『草』『ミズホオタク君さぁ…』とオタク共が送る寒いリプライを見て冷める。他人のどうでも良いリプライを表示出来ないようにしてくれTwitter。
俺はまた流れるVTuberの子の歌声に耳を傾けハイネケンを一口飲む。煙草も一度吸い込み悦に浸る。良い土曜日だ。窓から差し込む日が美しい。最近日の入りが少し早くなった様な気がする。そんなもう日が消えて行くのを予兆させる空。夕方の空気。
画面が切り替わり、次のアーティスト紹介の映像が流れ始める。三人のイラストが表示され最後に『V WIND 六聞ミズホ・一ノ瀬マリー・七海ハル』と画面一杯にその文字が表示されたその瞬間、全身の鳥肌が立ち、涙が眼球を覆う。そして画面は暗転する。そしてギターとドラムの音が乗る。暗いステージにスポットライトの光が射し込み、一気に彼女らの声が爆発する。
「止まらないこの波 世界の一部になる」
「倒されたって 目を覚ませ」
「死ぬんじゃない メッセージを世界に残せ」
一期生の曲だった。その曲を二期生のハルが一緒に、憧れのミズホと共に歌い上げている。俺の愛する人達がステージで歌っている。コメント欄も大いに盛り上がり、高速で流れていく。
圧倒的なパフォーマンスでスタートを切った三人。完全に視聴者達を惹きつけている。その怒涛の勢いのままアップテンポな曲を三曲続けて披露しMCに入る。だが、ハルちゃんの様子が変だった。
「ハルちゃん大丈夫?」
マリーが訊く。
「すいません、先輩達と舞台に立てた事に今更実感が湧いてきて……」
「ハルちゃん」
優しくハルを庇う様にミズホは肩を抱いてやる。その美しい光景を目にして、再び泪は溢れ出て来る。
『ハルちゃん、本当におめでとう』と、その時抱いた本心をツイートした。このフェスのハッシュタグ『#VmusicFES2020』も付けて。そのハッシュタグをクリックすれば様々な感想や告知のツイートが流れていく。関連ユーザーに七海ハルも出て来る。彼女のプロフィールを見れば既に十万人を超えるフォロワー。彼女のYouTubeチャンネル登録者数も既に二十七万人を超え、名実共にトップVTuberの一人と成っていた。V WINDの中でもトップの登録者数を抱える理由としては、六月に行った配信の切り抜きがバズり、海外人気も出てきたお陰だろう。
VTuberになってから始めたというFPSゲームでもメキメキと頭角を現し、かなりの腕前を度々披露している。活動当初に行っていたゲーム配信等を見ていても飲み込みが早い人だとは思っていたが。今ではVTuberに限らず一般のYouTuberやプロゲーマーとも一緒にFPS大会に出場したりとその方面で名を馳せている。例のその配信の中でオンラインで対戦していた他プレイヤーのボイスチャットが入り込み、そのプレイヤーが放った『FUCK!!!』という叫び声に釣られ彼女も『Oh...FUCK!』と呟いた一言が何故か海外ファンの心を掴み、コメディ動画やミーム動画と呼ばれる動画のテンプレートネタとして流行り、動画の途中に挟み込まれたりオチに使われた動画が海外の掲示板やYouTube、TikTok等で大量発生した。まさにミーム的伝染力だった。普段全く英語を話さない彼女が突然その様な汚い言葉を放ったから、というギャップも大きかったのだろう。
それが流行ったお陰か、彼女は最近では何ヵ国語か話す事の出来る他事務所のVTuberと英語の勉強配信コラボや、一人でも英語教材を使った練習配信も行い、海外ファンへ近付こうと努力していた。
改めてもう遠くに行ってしまった存在だと思った。インディーズから推していたバンドがメジャーデビューして心の距離が離れてしまうバンギャもこんな気持ちなのか。俺も当初はV WIND以外のVTuberをあまり知らなかったというのもあり彼女らに熱を上げていたが、今となって多く居る推しの中の数人に過ぎない。今はもうそれこそ毎日の様に多種多様なVTuberが生まれている。勿論彼女らをどこか特別視している自分も居る。『最初の頃のバンドが好きだった』『メジャーに行ってから攻めた事しなくなってつまらない』『ファンサしてくれなくなった』等と云うが、それは事実でもあるかもしれないが言い訳の様にも聞こえてしまう。七海ハルに置き換えて言えば、当初のミズホオタクっぷりはもうあまり見ないし、俗に云う『陰キャ』オタク的キャラも影薄く、普通に話してトークを回して視聴者を楽しませるプロになっている。そんな当初のキャラをずっと持ち続けるのも大事だろうが、それだけで押していくというのもまるで一瞬で消えていく一発屋のお笑い芸人の様で嫌だ。そんな最初期の頃の彼女が好きだったという人はその頃の配信のアーカイブでも延々見ていればいいし、他にも居るであろうそういう同じ様なキャラのVTuberを新たに推していけば良いのだ。そう言うのは簡単だが。
彼女らはしっとりとしたオリジナル楽曲を歌い上げ、美しいハモりと優雅な踊りを我々に魅せつけ、持ち時間の五十分は過ぎようとしていた。
「今日は本当にありがとうございましたー!」
「明日もV WINDから他の子が出るので見て下さいねー!」
そう言い残し、舞台は暗転しあっという間の時間は終わってしまった。再びこのイベント告知や、協賛企業のCMが流れ次のステージまでの待機時間となった。フェス公式アカウントが呟いていたタイムテーブルを見れば、この後二十時からはロックラが楽しみにしていたアニクラというグループだった。彼も見ているだろうか、呟いているだろうか。どうでも良い事を思う。
俺の切り抜きチャンネル用のTwitterアカウントに切り替えれば彼のツイートを覗くことは出来るだろうが、彼が普通にツイートしている様を見たくない。俺という人間一人切り捨てて何も無かったかの様に生きている様を見せつけられたく無い。なんて小さい人間なのだろうか。ほとほと自分という人間にうんざりする。
×××
九月、十月、十一月……。光陰矢の如く時は流れ、だが残酷な程正確に流れ。世間は既に年末と新しい年を迎える雰囲気に包まれていた。
そして二〇二〇年十二月初め。涼咲カイの初オリジナル楽曲『The lights are gone』、及び同名のミニアルバムがリリースされ、ネットストリーミング数、CD売上でもランキングトップに躍り出ていた。彼女の大手レーベルからのメジャーデビュー作でもあった。俺の職場の有線放送でも頻繁に流れている。
このアルバムは五曲から構成されている。全曲作詞・ボーカルは彼女。そしてギター、一部ピアノも彼女が演奏したものだ。
私は進み続ける、という激しい意志とパンクを感じるアルバム一曲目に相応しい『Don't Die』。
全編英語歌詞でサーフミュージックをリスペクトした『Wave to us』。
ラップ調の歌唱とオルタナ味全開の音が醸す『Stray cat(s)』。
渋いベースが気持ちいいジャジーなロックナンバー『Swing with the ghost』。
そしてアルバム表題曲の『The lights are gone』。この歌は兎に角暗い。ネガティブなんて一言で片付けて良いモンじゃあない。比喩的で曖昧な表現の多い歌詞だが、彼女の立場に置き換えてみると分かり易い。現実世界では決して認められない自分。それとは反対にどんどんと評価され人気が出て私から離れていく仮初の姿(≒涼咲カイ)。最後に彼女に残るものは何なのか? と自問している風にも、他者へ問い掛けている様にも取れる歌詞。それらは彼女の元から持っている作詞才能と今までのVTuber活動の経験が合わさり生まれた最高の詞達かもしれない。歌詞の一部『You're my sunshine But you wanna kill me』『Darkness are my last piece of mind』と自己否定と反証、肯定。自分の闇の部分へも踏み行り手に入れたパワーのある言葉達だった。さらに深読み、否定的解釈で捉えれば、今のVTuber界隈の陳腐さ、虚無感をディスった様な、警鐘を鳴らす様な歌詞とも取れるかもしれない。そしてその歌詞に合わさり、エモ感の強い歪みまくって泣くギターに冷たいピアノの旋律とが合わさり無条件に涙腺を緩ませる。
彼女の才能と“良さ”を最大限に引き出し、彼女のロックミュージックに対するリスペクトと造詣の深さを体現した、他のVTuberのアイドルっぽさや可愛らしいキャラクターを全面に押し出した楽曲達とは一線を画す名曲、名盤となった。プロデューサーには今まで数々のロックバンドを手掛けて来たクゥイ・ディーンを迎え、その他スタッフ陣も本格的な面子を揃えた力の入れようだった。大袈裟かもしれないがVTuber界の歴史の一部に輝かしく、だが不気味に輝くページの一枚となっただろう。
『Vと現実の乖離というか、Vとして評価されすぎてる事への葛藤が聴いていて辛い…けど最高にエモい』
『社会に対する批判を描いても、俺は違う、俺の子供は違うと勝手に思い込んで自分を顧み無いんだ』
アルバム販売開始と共にYouTubeにアップされたThe lights〜のミュージックビデオのURLと共に俺は呟いていた。俺のTwitterフォロワー数はもう七千人を超えていた。俺のツイートは瞬く間に拡散される。五十リツイート、百リツイート、二百リツイート……。
つらい、殺してあげたい。俺は素直にそう思った。VTuberなんて辞めてしまえばいいのに。鬱になり易い人は、人前ではごく普通に明るく他人に接し、その様な事で悩んでいると周りに知られない。本能的に隠してしまうらしい。歌に乗せられた言葉達が彼女の本音なのだとしたら、本当になんて辛いのだろう。V WINDの人達は、同期は、一期生の子達は分かってあげられているのだろうか。
先日俺は机の上に置いた黄色い袋と一緒にそのアルバムの写真をiPhoneで撮りTwitterに上げていた。タワーレコードで購入したLP盤だ。このアルバムはCDを買いたい、物理的に持っていなければならないと俺の中の何かが囁いた。アナログレコード盤が受注生産で発売されると聞いた時には既に予約してしまっていた。美しい青、青すぎるほど青い海が一杯に広がり、そこにギターを右手に握りしめ赤い大地に立ち尽くしこちらを振り向いて見て悲しげな儚い顔をした彼女の哀愁漂う姿。これもまた何とかという有名な絵師が描いたものだ。普段の3Dキャラクターっぽくない、リアル寄りの彼女の姿が三十センチメートル四方のジャケットを埋めている。美しい。これは今棚の上に置き壁に立て掛けている。目に入る度に溜め息の出る芸術品だった。レコードプレイヤーも安い物は一万円台から販売されているらしい。今月の給料が出れば買いたいものだ。自分へのクリスマスプレゼントか。
俺はiTunesでも購入しiPhoneへダウンロードしていたアルバムを聴きながら一人休憩室で目に涙を浮かべていた。午前三時二十五分。そろそろ休憩も終わりか。
俺はイヤホンとペットボトルの五百ミリリットルの水をロッカーへ放り込み職場へ戻った。
俺はカートに積まれた大量の缶酎ハイの箱を一つ取り、床に置く。箱を開け商品棚に並べていく。なんとも単調な作業だ。ここの仕事にも一週間も掛からず慣れた。ここで働き始めてもう二ヶ月経ってしまった。毎日同じ事の繰り返し。出勤して最初にする事は十トンの大型トラックで届く深夜便の荷卸し。それから俺は主に豆腐やら麺類コーナーを延々と品出しして並べていく作業。そして次はこうやって飲料の補充。時間が余れば菓子の補充……。ロシアの収容所で壁のシミを数えていた方がマシな気がする程時間が進まない単純作業。朝六時の終業時間を待ち望みながらダラダラと身体を動かす人形。世の中のまともな会社で生きている人間というのは、仕事にやりがい等というものを感じているのだろうか。少なくともシステムエンジニアとして働いていた時の俺は全く感じていなかった。そもそも何故エンジニアを目指したのだろうか。IT系と呼ばれる職業に漠然と憧れて、安定した職種と思い込み、他に何の意志もなく勉強していた気がする。
「あッ」
思わず声が出る。そんな事を考え上の空だったか、補充しようと手に取った缶を床に落としてしまった。すぐに拾い上げる。大丈夫、漏れたりはしてない。俺は飲み口が不細工に凹んだその缶をそのまま棚に差し込む。他の従業員も見ていない。この酒コーナーに今は俺一人、孤独だ。俺は深夜のディスカウントショップでバイトをしていた。丁度その時だった。か細いギターの音色が聴こえてくる。店内のスピーカーから流れる『The lights are gone』だ。そのイントロを聴いただけで涙腺が緩む身体にされてしまった。俺は不織布マスクの下でひとつ鼻を啜る。涙が溢れそうだ。彼女の歌が聴こえる。先ほど休憩室で聴いたばかりなのに新鮮に脳裏に響いてくる。
「お疲れ様です、手伝います……」
ポツリと声が聞こえた。一人の男の子が俺の所を手伝いに来た。
「おつかれ〜、こっちのはもう終わってる奴だから」
「はい……」
俺が入ってきて一ヶ月後くらいに来た大学生の子だ。確か二十歳。細身だが一八〇センチメートル程あり、肌も真っ白い。この近辺の大学に通っているそうだ。俺が言うのもなんだが、陰気で元気が無くて、若い子がそんなんで大丈夫なのかと思ってしまう程、彼はか細く、消えかかっている蝋燭の炎の様な男だった。
彼は盲目的に必死に仕事する。今も慌てている様に必死に酒缶を箱から取り出してババババっと棚に詰めていく。ちゃんとしなければいけないという意識からなのだろうか。それとも何かしらの強迫性障害の様な一種の病気なのだろうか……。現代では何か他人と違う所があれば『病』とされてしまう。普通なんて、基準なんて他人が決めただけの事なのに。俺はそんな彼が別に嫌いじゃない。無駄に喋らないし、真面目に働こうとしている。むしろ勤務態度的には俺の方が適当にサボっている。昔会社で働いている時に云われた『Work smarter, Not harder.』。それは俺の一つの行動倫理となっているだろう。彼が俺のやっている麺類のコーナー等でも手伝いに来れば、棚に何十個と並ぶ商品の賞味期限を一つ一つ全てチェックし、日付順に前から丁寧に陳列していく。そこまでしなくても、昼間の人間もチェックするし、何より時間の無駄だ。他にも大量に品出ししないといけない商品があるのに、彼はずっと黙々ときちんとチェックしていく。だがそれで良い。それが彼のやりようなのだ。適当な仕事をする奴よりよほど良い。むしろ彼の方が「大垣の野郎、適当な仕事しやがって」と内心で思っているかもしれない。まぁそんなのお互い様だ、許しておくれ。
その時、バシャアと派手な音がする。
「あああすいません……すいません……」
彼が誰かに言いながら床に転がるビール缶を拾い上げる。そしてすぐに走ろうとする。
「走らなくて良いから。破損品の置き場分かる?」
「あ、ハイ……。分かります」
「じゃあ流しで中身捨てて、そこに置いといて」
「わかりました……」
右手で缶を持ち、左手で皿を作っているがボタボタと床に溢れていくビールを引きながら彼はバックヤードに下がっていく。仕方ない、そう思い俺は空いたダンボールを広げ、その酒が広がっている床に被せる。俺も裏に行き、雑巾を二枚取って売り場に戻る。彼がトイレの流しで缶を洗っているのが分かった。俺は一枚目の雑巾で酒を一通り拭き、二枚目の雑巾で乾拭きする。若干酒臭いが、大丈夫だろう。
「あの、すいません……」
後ろから彼が申し訳なさそうに言う。
「いや大丈夫よ。俺だってたまにやっちゃうし」
「すいません……」
「慌てなくていいから、ゆっくり品出ししよーぜ。俺らなんてバイトなんだし、そんな頑張らなくても良いよ」
「は、はい……」
頑張らなくても良い。そう言われて、彼はどう捉えるのだろうか。逆にプレッシャーになってしまったりするのだろうか。彼の必死さは宮沢賢治の小説の登場人物の様な、痛みを感じさせる。鬱で苦しんでいる人に「頑張れ」と声を掛けてはいけない様に、彼にはもっと別に掛けるべき言葉があったのだろうか。分からない。
翌朝、というか昼。職場から帰りシャワーを浴びて昼過ぎまで寝るのが最近の日常だ。寝ている間にV WIND公式から突如告知ツイートが流れてきた。『THE WIND TO 2021』と題されたそれは、今月末三十一日から翌一日、つまり二〇二一年への年越しカウントダウンライブを開催する告知であった。オンライン配信限定のライブ。八月に見たライブ以来だ。V WIND一期生、二期生全員で行う初のワンマンライブ。楽しみ。……楽しみ?
カイが世に解き放ったあの曲を思い出す。彼女の問い掛けは俺に対しても有効だった。ネット上でしか人に見てもらえない、話す相手もいない。ネット上ではそこそこ人気になったVTuberの切り抜き師、Twitter上で歯に衣着せぬ物言いをするVTuberの御意見番の様な評論家の様な地位を持っていても、現実ではこんな深夜に品出しのバイトをしている敗北者だ。ネット上での活動が何か仕事に繋がる訳でも無いし、金になる訳でも無い。虚構だ。
ダメだ、何もしたくない。四月のほぼ一ヶ月無職で生きてからというもの、本当に働く気が失せてしまって、今のバイトも全く身が入らない。
そういえば、四月頃に大炎上して解雇されていた元大手事務所所属のVTuberの“中の人”が別の事務所から再デビューしていた。ガワと所属を変えても声・喋り方を全く隠すそぶりも無く、あっという間にバレて中の人が別事務所に“転生”したと話題になっていたのだ。軽い炎上を巻き起こして注目を集める炎上商法しか出来ない道化だ。惨めだ。元々彼女のファンだった人間達がまたその転生した姿を喜び出迎え推している理由が分からない。彼女を本気で好きだと思い込んでいるガチ恋勢等という気味の悪い奴らだ。そんな気色悪いニュースも目から食べてしまい益々気分が悪くなった。
その晩。俺は冷たい空気の中、気怠く自転車のペダルを漕ぎいつもの職場へ到着した。タイムカードを押し、前掛けを着け客も殆ど居ない店に出る。俺は零時出勤、いつもの大学生の子、たしか名はイワタニ君……だったか。彼は一時出勤だ。だがその日、一時になっても彼は現れなかった。他のおじさんおばさん従業員連中は黙々と自分の仕事をしている。俺もたらたらと仕事する。寝坊だろうか。病欠だろうか。ぼうと考える。
三時過ぎ。一通り麺類コーナーの品出しを終え俺は休憩に入った。この職場では休憩時間は特に決められておらず、各々で好きなタイミングに入って良い。そこだけは好きなポイントだった。俺は裏口の外にある灰皿へ向かった。
「あ、お疲れ様でーす」
「おつかれ〜」
スキンヘッドの五十超えた位のバイトリーダーのおじさんと一緒になる。俺は一人で冷たい空気の下煙草を吸いたかったのに。セブンスターに火を点けて一息吐く。男二人きりで会話が無いのも気持ちが悪い。俺は適当に会話を考える。
「そういえば、今日イワタニ君休みなんですか?」
「あ〜彼ね、なんか昨日急に辞めたらしいよ」
「え」
「理由は特に言わなかったらしいんだけど、ほぼバックれだよね〜。ホント最近の若い子は分からんわ」
彼が煙草を吸い終え、また新しい一本に火を点ける。まだ立ち去らないのか。
「あーそうだったんですね……。店長も大変っすね」
「いや、店長も店長よ。もっとちゃんと引き止めたり叱るなりせんとナメられるよそりゃァ」
「まぁそうっすねぇ」
「ほんとこの店は新米店長ばっか回してくるからダメになんだよなぁ。俺が六年前に来た時からよォ……」
彼の愚痴は止まる事を知らない。俺は一本を早々に吸い終え、シレっと休憩室へ逃れた。そして二十分程机でうつ伏せとなり仮眠を取る。また彼女の歌を流しながら。
「あーーーー」
また吐き出る声と共にソファに飛び込んだ。無理だ。彼が辞めてしまったのもきっと俺の所為だ。昔ナガミさんが消えた時の事を思う。ロックラにブロックされた時の事を思う。もう嫌われ者で居るのは嫌なんだ。俺の様な社会の最底辺に存在しているだけで迷惑になる人間。何故こうも人を傷付けてしまうんだ。最低だ。やっぱり死んでしまおう。俺が生きている理由も特に無い。俺が死んでもバイトには新しい人間が補充されるだろうし、この部屋にも別の入居者が現れるだろうし、V WINDの切り抜き動画なんて何人も上げているし、俺が呟かなく成っても誰も気付きはしないだろうし。
どうせ死ぬなら。誰かと一緒に死にたい。独りはもう嫌だ。最後くらい。好きな人と逝きたい。
俺は仰向けに身体をなんとか転がし、ポケットの中で潰れたセブンスターを取り出す。一本咥える。指先が震えている。死。今自ら死を迎え入れようとしている。ソファを飛び起き、火を点ける。
すぅ、はぁー。……七海ハルを殺したい。一緒に死にたい。殺してあげたい。アイツを殺すにはどうしたら良いか? 考えろ。知恵を振り絞れ。空となったセブンスターの箱紙をゴミ箱へ投げる。入らない。クソが。
思考回路が無茶苦茶だ。落ち着こう。俺はイヤホンで耳を塞ぎ、七海ハルの配信アーカイブを流しながら近所のローソンを目指した。
再生して三分程で動画の途中に挟み込まれたCMが流れ始める。クソが。うるせーな。俺はポケットから取り出したiPhoneの画面を見て、右下のスキップボタンを押そうとした。「クリスマスイベント開催中! 一周年記念ガチャも実施中!」萌え声の気持ち悪い声優の声が流れる。不快だ。よくあるユーザーに課金させる事が主目的なアプリゲーム。気持ち悪い。このCMは十五秒間スキップが出来ない部類のものだった。クソが。クソクソクソ。俺はイヤホンを引き抜きiPhoneを閉じる。そしてポケットに乱雑に突っ込みまた歩き出す。真黒な雲が朝の空を覆う。眠気は無い。ただ無性にかなしい、心に巨大な穴が開いたまま俺は歩く。
ローソンに入り適当に五百ミリの酒缶を三本取る。アルコール度数の高い酎ハイ達だった。
「袋にお入れしま……」
「お願いします」
レジで店員の声を遮る様に言う。
「あと、セブンスターを一つ」
「ソフトとボックスが……」
「ソフトで」
俺の苛立ちに同化し二十代後半位の天然パーマの丸眼鏡の店員も少し不貞腐れた顔をして煙草を棚から取る。
「お会計八百六十四円に」
「あ、あとLチキ二つ」
「レギュラーでよろしかったで……」
「レギュラーで」
「……かしこまりました。お会計千百八十四円になります」
俺は丁度の金をトレーに置く。レジに置かれたセブンスターをポケットへ仕舞う。
袋を受け取りすぐ立ち去ろうとする。
「あ、お客様! お金が不足しています……」
言い辛そうに、表情だけ申し訳なさそうに言う。トレーの金を見れば十円玉と思って置いた一枚が五円玉だった。たった五円くらい……。俺は大きく舌打ちし、溜息を吐き出して財布から出した十円玉をトレーに投げ捨て店を後にした。余った五円玉を受け渡しに俺を引き留めようものなら、殴り殺してやろうと本気で思った。
家に着くなり、俺はチキンに齧りつき酎ハイで流し込んだ。YouTubeを開き、適当に七海ハルが昨日やっていたゲームの実況配信のアーカイブを再生する。相変わらず可愛い。落ち着いた声が好きだ。初見のゲームでも論理的な思考を以て着実にゴールを目指す、そのプレイスタイルが好きだ。サバサバとした考え方も話し方も好きだった。それなのにリスナーには優しく、思い遣れる心が好きだった。高速で流れて行くコメントも律儀に拾って繰り広げるリスナーとのプロレスも好きだった。Twitter上でもリプライやファンアートに反応してあげる所も好きだった。ただ、俺の作る動画には触れてくれなかった。そこだけが嫌いだ。どうして、他の奴らの作品は見るのに、俺のは見てくれないんだ。何故俺を見てくれないんだ。俺が作った動画より下手くそな編集をしている奴のを見てあげるのに、リツイートまでしてあげているのは何故なんだ。初めてあなたに送ったリプライに返してくれたのは、何だったのか。
調理されてから時間が経っていたであろうチキン達はパサパサとしてなんとも言えない不味さだった。もう一瞬で空き缶が二つ出来上がっていた。
「んぁ……」
惚けた声をあげ、目が覚める。突っ伏していたソファ横の床に落ちていたiPhoneは二十時五十五分を映していた。寒い。いつもの様に泥の様に眠っていた。もう二時間もすれば出勤しないといけない。はぁ……。今朝買った開けてない酎ハイの一本がちゃぶ台の上に置きっぱなしだった。缶のかいた汗が水溜まりとなっている。とりあえずシャワーを浴びよう。押入れの引き出しから一枚タオルを持って浴室へ入る。
さっと身体を洗い終え出る。ドライヤーで適当に髪を乾かし仕事用の服に着替えようとする。何故かサーっと落ちる水の、シャワーの様な音がする。玄関を開けて外を見れば雨が降り始めていた。華の金曜日に雨か。はぁ……。また溜息を出してしまう。もう自分のやりたい事、やらないといけない事全てが上手くいかない様な錯覚に陥る。俺は湯を沸かし急いでカップ麺を作る準備をした。
雨なので自転車ではなく歩いて行かないといけない。当然少し早く家を出ないとならない。溜息を我慢する。玄関の鍵を閉め、イヤホンで耳を塞ぎ、傘で雨を遮りながら歩き出す。だが家を出て五分と経たない内に腹が悲鳴を上げ始める。最悪だ。何でこんな時に限って。溜息を吐く。ヤバい。あのファミリーマートに行くか。毎日の様に通っていたあの店へ。足を早める。
傘立てに傘を投げ入れ、店に入りすぐに左折し奥のトイレへ駆ける。そこで絶望する。ああそうだった、クソコロナの所為でトイレは閉鎖されていたのだ。……ナガミさん。あの時もこの腹痛の所為でトイレを借りる羽目になり、だがそのお陰で出会えた、俺の天使の様な人。俺はトボトボと店の出口へ向かう。もう嫌だ。帰る。
雨の中ひたすら泣く。ボロボロと涙と雨が混ざったモノが頬を伝い顎の先から落ちる。漏れる嗚咽も気にせず俺は住宅街を一人歩く。ずっと一人で暗い路を。
零時を回り、三回職場から電話が来ていた。うるさいので着信拒否して、iPhoneの電源を切った。
雨で濡れたまま廊下に膝を抱えて座り込み、真っ暗な部屋の中でぼけと思考を放棄していた。二階からギシギシと軋む音と女の喘ぎ声が漏れ響く。ナガミさん……七海ハル……。俺は夏のあの日、何故ナガミさんの連絡先を手に入れていなかったんだ? いや、俺は確かにカフェの帰り際LINEを交換したはずだ。メッセージのやり取りはしてなかったが。相手にブロックされたりしたらこちらの連絡先からも消えるのか? 分からない。ここ数ヶ月彼女の存在をまた忘れていた。彼女とまるで話した事が無い様な程、俺の記憶の中に彼女の像が無い。そういえば彼女の下の名前も知らないや。もういい、もういいよ。忘れてしまおう……。
寒い。もう一度シャワーを浴びよう。そう思ってはいるのに身体が動かない。悲しい。部屋の暗闇に身心を呑み込まれた様な感覚に陥る。無重力の中なのに何か足枷でも繋がれているかの様な、ふわふわと、だが自由ではない痛み。
今は何時だろうか。帰って来てから何時間経ったのだろう。傘ファミマに置いたままだ。今日はどれくらい商品入荷したのだろう。どうでも良い思考が働き始める。それから漸く身体が動いたと思えば、する事は窓から差し込む街灯の灯りを頼りにポケットから煙草を取り出す事。取り出した一本は暗闇の中で触れると、雨に濡れしけておりボロボロと崩れた。それを床に放りもう一本取り出す。こちらは乾いている。Zippoで火を点ければ暗闇の中に赤い点が浮かぶ。いつの間にか部屋は静けさに包まれていた。暗闇。俺は暗闇が好きだった。心が落ち着く。無駄な情報が目から入って来ない安らぎ。暗闇の中では全ての人間が平等だ。見るという重要な感覚器官を失い、人は平等になる。中学生に上がった頃、視力が低下し始め親に眼鏡を買わされた。
「すごい、全部がはっきり見える」
そう素直に感想を母に呟いた。
「家が汚いのバレちゃうなぁ」
と母は呟いた。何故かそんな会話を突然思い出し、また涙が溢れた。
冷たい部屋の空気と合わさり煙草の甘い香りに目が覚めていく。そうだ、俺は死のうとしていたんだった。漸く思考が現在地点に戻ってきた。そうだ、七海ハルと一緒に死のうとしていたんだった。中の人と呼ばれる、七海ハルの演者と。彼女の正体は売れない声優だろうか、役者志望か。それともバズらなかったYouTuberか。どうだって良い。彼女に一目会いたい。そして最期を与えてあげたい。彼女に会う為にはどうしたら良い? 何かライブでもやる時に、スタッフ用の入り口に張り付いておくか? いや、相手の顔が分からないのだ、通りすがる人間にいちいち「七海ハルの中の人ですか?」と訊く訳にもいかない。ネットを調べれば、阿呆臭いまとめサイトやらで七海ハルの中の人を調べた結果みたいなページがヒットする。結果はよく分かりませんでした、やら、この地下アイドルに、あのYouTuberに声が似ている、位の何の価値も無い情報。こんな駄文を書いて広告収入を得られるんだから本当に良い身分だこいつらは。つまり今のところはっきりとは中の人が特定されていない。本当に素人の、芸能活動やらネット上での活動経験も無い人間なのかも知れない。そうなると中の人と会っている人間から経由して探すしかない。ぱっと思い付くのは運営しているV WIND、ウィンド株式会社の人間達。撮影、録音スタッフ。彼女達の歌や踊りを教えている人間。あとは……。
その時、ロックラと会った時の事を思い出す。アイツは有名な絵師と、推しと一緒に仕事をしていた。仕事経由でなら繋がる事が出来る。そうだ。仕事だ。俺は直ぐに立ち上がりちゃぶ台の前に座り煙草を灰皿で揉み消し、PCを立ち上げる。暗い部屋いっぱいにモニターの映し出す白い光が溢れる。
今VTuberがよく企業案件で関わっているもの。……ゲームだ。家庭用ゲームにしろ、スマホ向けゲームにしろ様々なゲームとコラボレーションし、ゲーム内に登場したりしてそれを宣伝する配信をしている。そうとなれば、今話題で既にVTuberがコラボした実績のあるゲームを探す。『VTuber ゲーム コラボ』等と検索すれば大量にヒットする。ご丁寧に検索結果に基づいたそのゲームの広告も一緒に表示される。その中で特に人気のゲームに絞る。オメガジェネシス、グランドスラム・レジェンズ、シング・エスペランザ……等、サービス開始から数年経った今でも人気で且つ既にVTuberとコラボ経験のあるゲームをピックアップする。その中のオメガジェネシスというゲームについて調べ始める。YouTube等で見かけるウェブ広告で見て名前くらいは聞いた事があった。
運営している会社は株式会社リリエンコム。ゲームの開発も自ら行なっている大手企業だ。オメガジェネシスとはリリエンコムが運営するオンラインRPGの一つで、サービス開始から三年以上経っているが未だ人気の衰えない長寿コンテンツだ。過去に一ノ瀬マリーが視聴者参加型でプレイする様子を配信していたのを思い出す。
リリエンコムのウェブページを見ていく。部門のページを開けば、ご丁寧に部署ごとのリーダーの人間達の名前が羅列されている。その中で営業担当の人間の名前で再びネットを検索すれば、三年前にオメガジェネシスのサービス開始時に開発担当、プロデューサー達へ行われたインタビューの記事も出てきた。コイツだ。俺は直感的にそう思った。
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初めまして。私、株式会社リリエンコム営業の木下大輔と申します。
いきなりで不躾なのですが、現在弊社で運営しております『オメガジェネシス リヴァレーションストーリーズ』とV WINDさん所属キャストの『七海ハル』様にゲーム内キャラクターとして登場して頂くコラボレーション企画を考えておりまして、一度お話だけでもと思い筆を取らせて頂きました。
是非一度ご連絡をいただけないでしょうか。
ご多用の折恐れ入りますが、ご検討くださいますよう何卒お願い申し上げます。
株式会社リリエンコム
営業一部
木下大輔
〒108-XXXX
東京都港区港南X-XX-XX
TEL(携帯):
TEL:03-****-**** / FAX:03-****-****
URL:http://www.***.co.jp
Mail:
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ビジネスメール等というクソ程回りくどい日本語を打ち込み、下書きに保存した。
何とも言えぬ満足感と高揚感が身体を満たす。シャワーを浴び、冷蔵庫に残っていた缶酎ハイを取り出す。ごくごくと喉を鳴らしながら一気に飲む。キンキンに冷えた液体が高揚した身体を冷ますが、俺は笑みを溢さずにいられなかった。
そしてもう一つウェブページを開き、とある予約を一件入れた。
翌朝。四時間も寝ていない筈なのに晴れやかな気持ちで起き上がる。俺の気持ちに呼応するかの様に昨日の雨空は晴れ渡っていた。さぁ、今日から忙しいぞ。俺は顔を洗い、カミソリで髭を綺麗に落とす。髪も綺麗に寝癖を直し、額が出る様に左右に流して軽くワックスで固める。白いワイシャツに紫の細めのネクタイ。ライトグレーのスーツと黒のコートを羽織る。SEIKOの小さな腕時計を着け、ビジネスバッグを持つ。革靴を久々に磨いてやれば未だ美しく輝いている。足取り軽く俺は家を後にした。
昼前に予定通り品川駅に着いた。そういえばロックラも品川の人間だったな。とふと思う。今更どうでも良い。俺は鼻で自分を笑いiPhoneを取り出す。目的地へのルートをもう一度Googleマップで確認し歩く。向かう途中、雑貨屋が目に入る。今日は土曜日だ、人に溢れ活気がある。その店頭に並んでいた安い伊達メガネが目に入ったので、べっ甲柄の物を一つとり試しに着けてみる。うんうん、こういうヤツだ。インタビューの記事で彼が着けていたのもこういうタイプだった。そうしてレジへ運んだ。
「いらっしゃいませ〜」
初老の男が出迎える。
「あ、すいません予約していた吉岡と申します」
「ああ、リリエンコムさんのね。いつもどーも」
俺は一瞬硬直する。いつも? 怪しまれない様に会社の近くのこの店を選んだが、まさかいつも本当にここで頼んでいたのか。怪しまれるか、止めるか。
「お世話になってます〜……。あの、それで名刺の方なんですけど」
「はいはい、営業の木下……さんのね。百枚。出来たらまた会社宛に送っといたら良い?」
「あ、えーっと……」
「ああ、会社のロゴの素材くれてはったね。デザイン変わった訳ね」
「いや、そうではなくて……。なるべく早く欲しいんですが、今日直接受け取りとか可能ですか?」
「ああ、そういう。部署とかも変わってないですかね?」
「ああはい。急な打ち合わせで追加が欲しいらしくて」
「ちょっと待って、前のデータが〜……残ってるね。今からだったら二十分位で出来ますよ。じゃあ直接受け取りで」
「すいません、お願いします」
「領収書もいつも通り書いとくね」
「ありがとうございます」
なんとか会話を合わせられたと安堵する。
「お兄さん、いつもの人じゃないね?」
何気ないそのおじさんの言葉が不安にさせる。
「ああ、ええと……僕先月から中途で入った者で、まだ色々覚えてる途中でして」
「ああ、それでわざわざあんな時間にメールしてくれてたのね。お兄さんも大変や」
「いえいえ……。これからよろしくお願いします」
「うん、よろしく〜。じゃあ急いで作るからちょっと待ってね」
「はい、お願いします!」
俺は気持ち良い返事をなんとか絞り出しその名刺屋を後にした。何とか切り抜けられた。咄嗟にあんな嘘がベラベラと出るもんだと笑う。そして次の目的地へ向かう。
用事を一通り済ませ、近場にあったマクドナルドへ入る。注文を受け取り二階のテーブル席に座る。氷抜きで頼んでいたスプライトを一口啜り、渇いていた喉を潤す。
俺は鞄から出来立ての名刺を取り出す。綺麗な物だ。名前と右下に会社のロゴが入ったシンプルな名刺。だが白い紙は薄らと模様が入り、厚手の紙で高級感が漂う。それは再び仕舞い、次にiPhoneの横の蓋を開け、SIMカードを抜き出す。そして先程買った使い捨てのカードを入れ直す。設定画面を開き、新しい電話番号に変わった事を確認した。下書きのメールを開き、携帯番号の欄にこの取得した番号を入力する。
そして偽のドメインも取得し、それを使用してメールアドレスも作成する。こちらも下書きのメールに書き足す。マクドナルドのフリーWi-Fiに接続し、遂にウィンド株式会社宛にメールを送信した。さぁ、これでどう出る。
俺はビッグマックを貪りながら画面を眺める。ウキウキして久々に感じている高揚感に笑顔が溢れてしまうのを抑えられない。
マクドナルドを後にし、もう一度駅方面へ歩く。長い遊歩道を渡り、一つの巨大なビルを前に立つ。リリエンコムの入っている巨大なタワービル。本当にデカいビルだ。田舎人の様にビルを阿呆みたいに見上げて「おお……」と声を上げてしまっていた。
エントランスを抜けると、中は三階まで吹き抜けとなっており、カフェやコンビニ、企業が出店しているブース等が並びショッピングモールに来たのかと錯覚する様な光景が広がっていた。だが土曜だというのにスーツやオフィスカジュアルな格好を纏った人間ばかりで、ビジネスの地であることを認識させた。右手にあったエレベーターに近づく。一から三十階まで用のものと、三十一階以上の階にしか行かないものがそれぞれ四台ずつ並び、それらに向かって人々が吸い込まれて行く。横の金地のパネルには各階に入っている企業名が羅列されている。リリエンコムは四十五から四十九階までを使っていた。俺は空いたエレベーターに乗り、四十五階を押す。
静かに不気味な程速く登るエレベーターを降り、エレベーターホールを抜ければリリエンコムの巨大な屋号の掲げられた受付カウンターに直面した。二人の女が座り待っている。
「いらっしゃいませ。どちらへご入用でしょうか?」
一人の四十代位に見える女が云う。俺は後ろにガラス越しに広がる事務所をすっと盗み見た。
「あ、あれ? すいません、階間違えました! 失礼しました」
と俺は大根演技をかまし、再び乗ってきたエレベーターに駆け込んだ。
なんとも気恥ずかしい思いだけした。少しでも会社を、事務所の中でも覗きたいと思ったがそう簡単には行かなかった。まぁ良い。雰囲気くらいは分かった。再び一階で降り、周りを歩く。
先程入ってきた北側のエントランスとは別に、中央にこれまた巨大なメインエントランスがあった。こちらにもカフェとコンビニが並び、更にレストランまでもが並んでいた。そのメインエントランスを入ってすぐ左側のカフェが気になった。如何にもこういう場所にありそうなオーソドックスで簡単な打ち合わせ等にも使われていそうな店。何気なしに入ってみればやはり端の方の東側の窓に面したテーブル席では数人で打ち合わせらしき事をしていた。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「あーはい」
「こちらへどうぞ」
案内された席へ座る。空いている時間だからか、四人座れるテーブル席へ招かれた。先程の打ち合わせしているグループとは反対端の窓側の席だった。
「紅茶をホットで」
「砂糖とミルクはお付けしますか?」
「いえ、ストレートで」
「かしこまりました」
店員が下り、俺は周りを見渡す。ざっと数えて十六程のテーブル。全て黒のテーブルと椅子に統一され、隣の席との間にあるすりガラスの白がアクセントとなっている。今俺が座っているボックス席のソファも黒だ。通路を挟んで向かいにあるテーブル上には『RESERVE』と書かれたプレートが置かれている。予約も出来るのか。もし七海ハルをこちらへ招くなら、このカフェが良いかもしれない。当日席を予約しておいて先にこの席に居る。そして奴を出迎える。……いや、初対面の人間相手に端からカフェで打ち合わせをするというのは失礼に当たるのだろうか? 面倒臭いビジネスマナーなんて知った事じゃないが、怪しまれるだろうか? 隣のレストランの個室でも予約した方が良いのか? ……いや、逆に考えるんだ。打ち合わせをした後うちのビルにあるレストランで食事をしませんか。食事を奢らせて下さい……と言うのは下手に出過ぎな感はあるが、つまりはそういう風に運べば自然とこちらへ誘導させる事が出来るだろう。ウィンドの入っているビルで打ち合わせをしようと言われればそれに従うしか無いが。何せこちらが企画を持ち掛けている側なのだからして、普通ならこちらが相手に出向くのが礼儀である。が、こちらは超が付く大企業だ。むしろ恰幅の良さを見せても良いだろう。こういう人気が多くて、相手に隙の生まれる空間。何より俺が相手のペースに乗らないで居られる環境が大事だ。人目のつかない場所で静かに完全犯行に及ぼうなどとは思ってもいない。彼女を殺した後、俺は自らの首も切るか、その場で取り押さえられるか、その後の事なんて知ったこっちゃない。
夜になっても特にウィンドから連絡が来ることはなかった。電話もメールも。家に帰り待ち続けて既に二十時を回っていた。もうこの時間に連絡が来る事は無いだろう。フッと緊張の糸の様な、何か期待していた線が切れた。はぁ。一息つき煙草に火を点ける。キッチンの棚の扉を開ければ中にはレトルトの味噌汁しかなかった。コンビニにでも行くか。煙草を咥えたまま財布とiPhoneを持ち鍵も掛けずに家を後にした。
大通り沿いのファミリーマートへ足を向かわす。煙草は道の側溝に投げ捨てた。落ちた瞬間、火花が辺りに散る。こっちのファミマはナガミさんが居た店ではない。別にそっちの店に行っても良いのだが。
その時、脇道から自転車が突っ込んで来る。「おわっ」と間抜けな声を漏らしてしまうが、その自転車は何事も無かったかの様に大通りへ向け突っ走って行く。クソ野郎が。あのデカいバッグを背負ったメシの配達バイトが。『自転車も一旦停止!』とデカデカと書かれているこの標識が見えないのか。あいつらはどうせハンドルに括り付けられてナビを表示しているスマホにしか目が行っていないのだ。クソ野郎が。ハァ、と大きく溜息を吐きまた道を歩く。
数分歩いていると後ろに気配がする。ヘッドライトに照らされ、真後ろにピッタリ着けられているのが分かる。俺は少し振り向くと、ハザードを上げながら『早く退け』と言わんばかりに気怠そうにこちらを見遣っているドライバーと目が合った様な気がした。軽自動車のよくいる宅配業者の車だろう。歩行者相手に煽って幅寄せして恥ずかしくないのか。俺は一旦立ち止まってみる。轢けるものなら轢いてみろ。するとそいつはクラクションを鳴らしてきやがった。クソが。俺はそいつの車の目の前に痰を吐いて大通りへやっと出た。
角を曲がり店内へ入る。物色し適当にチキンステーキ弁当と缶酎ハイを取る。レジへ行くと、『隣のレジをご利用下さい』と書かれたプレートがあり二つあるレジの一つが塞がっていた。俺はそのもう一つのレジへ運ぶ。「いらっしゃせ〜」と気怠そうにダサい色の抜けかけた金髪の若い長身の男が云う。少しレジを操作した後、「こちらのレジでも大丈夫ですか?」と、何故か隣のレジへ移動させられる。
隣に移動し、何故かその店員と目が合う。商品を隣のレジの置いたまま移動させない店員。「あ?」と思わず声が出てしまう。怪訝な目を向けるとまたも怠そうに隣のレジから俺の弁当と酎ハイをやっとこさ移動させレジを打つ。そっちの都合で移動させたんだろ? 何故俺は今そんな態度を取られたのか理解ができなかった。俺が現金を出しレシートを受け取ろうと手を出す。受け取ろうとした瞬間、そいつはレシートを小銭受けに置きやがった。本当に何なんだコイツ。ぶっ殺すぞ。俺はレシートをそこに置いたままに舌打ちして睨みながら店を後にした。
小道に戻ると、先程の宅配の車がまだ停まっていた。盗もうと思えば今盗めるな、等と思いながらそいつのナンバープレートをiPhoneのカメラで収める。そしてその配送業者のWebページを開きメール問い合わせフォームを開く。
『杉並 ○ □ XX-XX 歩行者を煽るんじゃねぇカス 今日の二十時台のドラレコきちんと上に提出しろよ』
その一文だけ書き殴り送信した。
あ〜〜、たったこの十数分の間でどれだけ俺にこの世界はストレスを与え給うのか。「温めますか?」と当然の様に訊かれなかったので俺の弁当は冷たいまま袋の中に眠っている。俺は歩きながら殺意に満ち溢れていた。あのクソ店員を殺す。阿呆な大学生かフリーターか知らねーが、お前も死んでも特に誰にも迷惑掛けないし、必要ともされてない俺と同類の人間だろ? 俺が殺してやるよ感謝しろよ。
家に帰り弁当を温めながら酎ハイをひと啜りする。そして考える。あの野郎の出勤スケジュール、殺せる場所、それに殺す方法も考えなくちゃあなぁ。
俺はチキンステーキを平らげ、少し残った酎ハイ缶を手に再び外へ出た。そしてまた八分程歩き先程のファミマへ行く。窓から店を覗けば、まだあのクソ店員は居た。怠そうにレジで接客している。俺はそれを確認すると、この店が入っているビルをぐると一周する。
マンションの一階に入っているその店は、東側の大通りに向かって入口があり、北側の細道沿いにゴミ置き場と、スタッフの出入り口と思われるドアがある。西側は住人の駐車場へと繋がっており入れない。今はまだ二十一時。奴は何時上がりだろうか。コンビニで働いた事なんて無いから分からないが、アイツが夕方から出ているのだとすれば零時上がりか? とりあえず零時まで待つ覚悟をしよう。奴は店のどちらの出口から出てくるかも分からない……。その時、店の前に停めてあった自転車に気付く。しまった、アイツのか? 自転車であれば都合が悪い。アイツの家付近に先回りし待ち伏せなければ。かと思えば店から出て来た客の男が乗って去って行った。よかった。いやバスや電車に乗るというのも当然あり得る。まぁ良い。とりあえずアイツが上がるのを待とう。そう思い酎ハイをまた啜り、店の反対側へ大通りを渡った。
空いた酎ハイの缶に煙草の吸い殻を落としつつ歩道橋下の暗闇で息を潜め俺は店を見つめていた。眠い。酒と満腹、それにただただ暇というのが身体に眠気を齎す。もし俺が一瞬目を離した瞬間に消えていたら。奴が朝までのシフトだったら。そんな思いが生まれては消え、殺意の波を穏やかにしていく。もはやこれは衝動的な殺意ではなく計画的な殺し。七海ハルを殺す前の予行演習。俺は何をやっているんだろう。暗闇が俺を呑み込み、心の闇の部分と融合し共鳴し始める。
だが零時二十分過ぎ頃、奴が出て来た。やはり北側の裏口からだった。遠くから見ても分かるあの金髪に間延びした背の高さ。遠くから見ただけで不快に思える。奴は歩いてそのまま住宅街の方へ繋がる北側の道へ姿を消そうとした。俺は慌てて歩道橋を渡り奴の背中を追う。
ファミリーマートの前を通り過ぎ、俺も細道へ足を踏み込もうとする。一旦角で止まり、そっと道を覗き込む。奴はのらりくらりと歩いていた。俺はそのまま静かに後をつける。
「いや今日はムリだって! 今バイト終わったんやって! いや、そうだけどさぁ〜」
馬鹿みたいにでかい声で夜中の住宅街を通話しながら歩いていた。さっきまでの気怠そうな職務態度とは真反対のテンションの高さ。本当に存在するだけで苛つかせる男だ。男は俺の家のある方角と全く同じ方へ歩みを進み続けていた。まさか近所の野郎だったのか。この辺りには二校大学があり、学生も多い。その為住宅街に混ざり安アパートも乱立しており、俺もその恩恵を受けている一人だ。ソイツは途中にある公園に入った。細道二本に挟まれた道路に沿って設けられている公園。そしてそいつは木製のベンチに座り延々と話を続けている。俺は細道の自販機の陰に隠れ監視を続ける。ああ、思い出した。そのベンチ。俺が夏に死にかけていた時、ナガミさんが話しかけてくれた聖域だった。この野郎。俺の思い出までも穢しやがって。数時間で眠っていた殺意がメラメラと再び火を起こす。
十分程続いた何の内容も無い下ネタと飲みに行く約束を取り付けただけらしい会話が終わった。男はまた怠そうに立ち上がり歩みを進める。公園を出て益々俺の家と同じ方角へ歩いて行く。一時前で静まり返った道。他に誰も居ない道。男の後ろ二十メートル程離れ、街灯が作り出す電柱の陰に身を潜めながら静かにつける。そして男は家へ上がっていく。なんという事だ、俺の家、の向かいにある建物に入って行った。俺の住んでいるアパートは二棟あり、そのもう一棟の方の住人だったのだ。たまに夜中下品な大声を上げながら女を連れ込んでいる声が聞こえて居たが、コイツだったのか。いいぜこの数年の恨みも込めてお前に死をくれてやろう。
俺は自分の部屋に入る。考えろ。あいつの部屋に入るには。あのアパートは、俺の部屋と同じ構造であるならばインターホンが付いている。チャイムを鳴らせば姿を見られ怪しまれて出てこないかもしれない。昼間、何か配達員の格好でもして行くか? いや、今だ。今やるのだ。アイツが寝る前に。ノックを執拗にすればアイツでも出てくるだろう。そうだ、そうしよう。それで玄関まで誘き寄せる。ドアが開く。次はどうする。何も言わずすぐに何かで殺す。大声でも上げられたら困る。開いた瞬間、顔にタオルを押し付け、そのまま押し倒す。そして殺す。手頃な武器は……。バイトで使っているカッターナイフ位しか思いつかない。よしそれだ。忘れるな、ナイフは切る為の武器ではなく刺し殺す為の武器だ。短く刃を出し、それで思い切り、何度も刺す。あの部屋でアイツが死んでいても誰も気付かないだろう。……フッ。俺が死ぬと想像した時と一緒だ。お前も家まで誰か来てくれる奴がいるか? いつも連れ込んでる女か? お下品な会話が出来るお友達か? ファミマの店長が来てくれるか? お前はそこで腐乱死体となって数ヶ月、数年後に見つかるんだ。いい最期じゃあないか。だが万一を考えろ。俺が行ったという証拠を極力残してはいけない。七海ハルを殺すまでは。指紋はバイトで使っていた手袋を付けて行けば良い。足跡は……そうだ、靴の裏にガムテープでも貼ろう。あ、刑事ドラマとかで見た様な、靴を覆う様な袋。ビニール袋でも履いて行くか。いや、それだと薄いビニールを貫通して靴底の模様、サイズが分かってしまうかもしれない。二重に履いたとしても破れるかもしれない。やはりガムテープを二重にでも貼っておこう。踏ん張りが効かないかもしれないのを念頭に置いておく必要がある。忘れるな。
俺はすぐに準備に掛かる。黒いシャツとパンツに着替える。Adidasの黒いキャップも被る。マスクもすればもし誰かに見られたとしても印象に残らないだろう。黒なら返り血も少しは目立たないと思った。そしてガムテープを棚から取り出し、スニーカーの裏に貼る。バイトにいつも持って行っているバッグを開き、グローブとナイフを取り出す。行こう。やれる。ヤレ。
俺は静かに玄関のドアを開け外へ出る。改めて冷たく澄んだ綺麗な空気だ。肺一杯にそれを吸い込み、そして吐く。緊張も動揺もしていない。恐ろしいほど冷静だ。
足音を忍ばせ、そいつの部屋の前へ着く。大丈夫。誰にも見られていない。ドアに耳を近づけると音楽と、水の音がする。爆音で音楽を流しながらシャワーを浴びているらしい。クソ、この状況じゃアイツを呼び出せない。少し時間を置いて出直すか。俺は一応ドアノブへ手を掛ける。カチャ、と静かにドアノブは降り、手前にドアが開く。運命だ。神よ。俺はマスクの下で破顔せずにはいられなかった。俺は静かに慎重にドアを開け玄関に上がる。
乱雑に脱ぎ捨てられた服や靴が廊下に転がっている。奥に見える部屋には、グレーの布製ソファが左に見え明るいベージュのフロアマットも見切れている。俺は浴室の前に立ち、ドアノブを回す。そしてそっと開け覗き見る。トイレとバスユニット一体の部屋。俺の部屋と全く同じ構造だ。まるで俺の部屋に別人が居るかの様な錯覚を覚えさせる。そしてモザイク柄のシャワーカーテンがトイレとを仕切っている。鏡の前にカミソリや歯ブラシが並び、そこにiPhoneも置かれ音楽を垂れ流している。男は上機嫌に鼻歌を歌いながら身体を洗っている。気持ち悪い。俺はそう思った時には勢い良くドアを開け侵入していた。男も違和感に気づいたのか、カーテンをバッと開ける。俺と目が合う。男の目が見開き、あッっと男が声を上げそうになった瞬間、俺は左手に持っていたタオルを男の顔面に押し付けそのまま壁へ頭を激しく叩きつける。そして、右手に握られていたカッターナイフがソイツの左胸に突き刺さる。が、男は未だマスクの下で呻き声を上げジタバタと抵抗してくる。浴槽に足を掛けもう一度ナイフを突き立てる。その衝動で濡れていた足元が掬われソイツへ倒れ込んでしまう。そいつの左拳が一度俺の顔面にヒットする。俺も必死になってそいつの胸へ何度もナイフを突き刺す。大量の血液が溢れ出、浴槽を染めていく。落ちてくるシャワーの湯に流され、どろどろといっぱいに。次第にソイツの抗う力が弱まっていく。力なく手は上がらなくなり、足はだらと浴槽いっぱいに伸ばされる。
iPhoneから流れる音楽と、シャワーの音と夜の静寂。俺は漸く筋肉の緊張を緩め、左手の力を抜きそいつの顔を覆っていたタオルを取る。男は白目を向き、だらと口を開けたまま果てていた。右手を見れば、延々と血を出し続ける胸部と一体と成ったかの様に赤く染まっていた。震える右手をカッターナイフごとそいつの身体から引き剥がす。フー、フー、と荒く、頑張って深呼吸し息を整え、思考を整える。そのまま浴槽で右腕全体に付いた返り血を洗い流す。スニーカーの裏も流し、持って来ていたタオルで丁寧に拭く。クソが、俺までずぶ濡れになっちまったじゃねーか。まぁ良い。むしろ音をかき消してくれただろう。俺は慎重に浴槽から出る。色白く細長いそいつの四肢を見る。汚い金髪に今の阿呆面がよく似合ってるぜ。少しだけ筋肉質で腹筋も綺麗だ。少し羨ましい。更に下を見遣れば粗末なモノが付いている。俺のより小さくないか? ヤリチンの癖によ。それとも恐怖で縮み上がってんのか? 心の中で嘲笑が止まらない。男の裸体をこうまじまじと視るのなんて初めてだ。この殺し終わった後の爽快感と脳内で分泌されている快楽物質の所為で完全にハイになっていた。俺のモノも何故か勃起してしまっていた。何だ、ヒトを殺すのって簡単じゃん。
俺はシャワーと音楽を止め、浴室を後にする。俺は浴室の電気と、いつか腐臭が外に漏れるかもしれないとも思い換気扇のスイッチも切った。そして改めて奴の部屋を見る。ベランダの濃紺のカーテンが開いていたので閉める。そして俺の欲しかった物を見つける。部屋の鍵だ。俺と同じ様に玄関横の靴棚の一つを小物置きにしており、そこに財布と鍵。香水の瓶やブレスレット等も一緒に雑に置かれていた。まぁ金は興味ない。そんな蛮族みたいな事はしないよ。それにゴミ袋もそこに置いてあったので一枚拝借し、濡れてしまったシャツとタオルを入れる。よし、帰ろう。切り替え良く俺はそう思う。まるでバイトに行く時に自分の部屋を出る時の様に部屋の電気を消し、外へ出る。鍵を閉める。
翌朝。この日もよく晴れた冬の空だった。窓から差し込む日差しが気持ちがいい。ああ、洗濯でもするか。寝ぼけたまま歯ブラシを咥え、洗濯物を洗濯機へ放り込む。洗剤も放り込み回す。ケトルを沸かせこの前近所のスーパーマーケットで買った安い紅茶を淹れる。暖かい紅茶を一口飲み、セブンスターを燻らす。ぼーっとしていればあっという間に洗濯が終わったサインの音が流れ、ハンガーに通しベランダの物干し竿へ掛けていく。冷たい空気と煙草。これまたどうしてこうも美味い組み合わせなのだろうか。俺は洗濯を干し終え、歩いて近所のマクドナルドへ向かった。
朝のメニューを注文し二階のテーブル席を陣取る。フリーWi-Fiに繋ぎ、借りているサーバーへログインする。するとウィンド株式会社からメールへ返信が来ていた。
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木下様
お世話になっております。ウィンド営業の高杉と申します。
この度はこの様な提案を頂き誠に有難うございます。
現在弊社でもタレントの露出を増やして行こうと考えており、是非参加させて頂ければと思います。
つきまして――……
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ハハ! 奴ら食い付きやがったぞ! 俺はiPhoneを眺めたまま、口元を抑え笑う。こうも簡単に引っ掛かるものか? あいつら、ウィルスが仕込まれてるメールでも簡単に開いてしまいそうな程容易いぞ! それでも大手のIT企業かよ! クハハ、この店内で笑い叫びたい気分だ!
「お待たせいたしました」
拒食症なのかと疑ってしまいそうな程痩せ細った無愛想な初老の女の店員がトレーを持ってきた。俺は真顔に戻る。そしてテーブルの上に置いていた番号のプレートをさっと取り下がって行った。ハッシュドポテトに齧り付き、もう一度メールを読み返す。笑える。バーガーも貪りながら返すメールを考える。何と返すべきだろうか。とりあえず七海ハルに会って企画を説明したい、と言いたい所だが。何か企画書みたいな物でも作るべきか。スプライトのストローを噛みながら考える。まぁ、たまにはそういう事もするか。とりあえず返信する内容を考えビジネスメールの書き方なんてクソみたいな事をググりキーボードをタップしていく。
俺は気分良く家に帰った。ベランダを覗けば優しい日差しのお陰でタオルくらいならもう乾いていた。嗅げば太陽の香りがする。良い匂い。はぁ。俺は小便をしようと浴室のドアを開ける。
浴槽に血まみれの男が白目を剥き倒れていた。俺は思わず腰を抜かし、そのまま便器にゲロを吐き出す。食ったばかりのバーガーと僅かな胃液たちが出て行ってしまう。灼ける様な喉の痛みを感じながら涙目で再び浴槽を見る。そこには何もない。昨日シャワーで浴びた時に落ちたであろう二、三本の俺の髪の抜け毛がへばり付いているだけ。随分伸びたな、とどうでも良い感想を思う。アイツの部屋の鍵、上手く処分しなければ。
その夜、何の気無しにYouTubeを開くと七海ハルが雑談配信していた。久々にリアルタイムで見た気がする。いつの間にか衣装がアップデートされていた彼女は、可愛らしいふわふわとした青を基調とした冬服に変わっていた。髪型もロングヘアに変わり、それもまた似合っていた。
俺は取り込むのを忘れこの時間まで放置されていた洗濯物を仕舞い終え、冷蔵庫からハイネケンのロングネックを取り出し、煙草も一本咥える。
「あ、そういえば今日のサムネイル、元ネタ分かった人居ます? 開始前のコメント見てても分かってる人居なさそうだったんですけど〜?」
彼女がどこか不満げに笑いながら言う。彼女が結構な映画知識を持っていて、毎回配信のサムネイルを映画のポスターやDVDのジャケットをパロディーして設定しているのは周知の事だった。今日のサムネは背景が白と黒で中央で区切られ、真ん中にハルが佇んでいる。俺も当然分からない。
『わからんー!』『オセロ?』『The Hives?』
「正解は〜スカーフェイスのポスターでした! わかる人?」
『まさかのアル・パチーノw』『南米からヤク仕入なきゃ…』『わかんねーよ!』とコメントも続いていく。
「まぁ今日の配信タイトル『12月』ですけど、もうハロウィン終わってからずっとクリスマスみたいな雰囲気ですよね、ほんと、気が早いというか何というか」
『わかる』『クリスマスが今年もやってくる(絶望)』『メリークルシミマス』
「今年もクリスマス・年末商戦に気軽に流されて生きましょうね。とりあえずどうせボッチのクリスマスに観る映画でもリストアップしときますか。『天使のくれた時間』? 『ホーム・アローン』? 『ダイ・ハード』?」
『チョイスの癖が強いんじゃあ』『ハルちゃん何歳?w』『ハルちゃん、俺達とクリボッチを過ごそうぜ』
「ん〜、クリスマス映画同時視聴とかいう傷の舐め合いでもやりますかね」
淡々と言葉を続けていく彼女のトークは軽快で相変わらず面白い。
「え、結局なんでスカーフェイスだったのかって? そんな理由なんて無いですよ。カッコいいからですよ」
この飄々とした態度。黙らせてやりたい。驚く声も上げる暇も無いほどあっという間に、抵抗する隙も無いほど瞬殺で。いつものこの喋り、中の人はどんな奴なんだろう。根暗そうなオタクっぽい女だろうか。見た目だけは一般人っぽいガワをしている女か。声質的に太っている様な感じはしない。いや、オンナの作る声なんて分からない。マイクの設定、配信ツールの設定を弄れば声質なんて幾らでもどうとでもなる。もし中の人が男だったら笑える。俺は笑いながらお前を刺し殺す。
「あ、ギンギンさんありがとうございます〜〜。何その無言の赤スパ? クリスマス傷の舐め合い同時視聴しろっていう圧ですか〜?」
俺はYouTubeのスーパーチャットの上限である五万円分のチャットを投げる。これはそんなモンじゃない。好きなあなたに対する餞別だ。もっとも、旅立たせるのは俺の役目であるが。
『ナイスパ〜』『無言の圧w』と俺のスパチャに対してオタク共も反応する。気持ち悪い。
翌日。近所の床屋に向かった。駅通りにある小さなカットショップだ。
「すいません、予約してないんですけど今から出来ます?」
「大丈夫ですよ〜」
可愛らしい俺より少し年上に感じる少しふくよかなお姉さんが応じてくれる。椅子に案内されカットクロスを被せられる。
「今日はどうします?」
「横と後ろを刈り上げて貰って、全体的にボリュームを減らして下さい」
「分かりました! 先にシャンプーしますね〜」
数ヶ月ぶりに髪を切った。カットだけなら千円でやってくれる、俺にはそんなもんで十分だ。髪を切るだけに六、七千円も掛けたくは無い。頭が随分軽く感じる。スッキリとした気分だ。俺はそのまま電車に乗り込む。特に行く宛は無い。目的はある。
渋谷駅から代々木公園方面へ北上して行く。山手線沿いに神宮通りを歩く。タワーレコード、そういえば最近来たな。そうだ、涼咲カイのレコードを受け取りに。アルバムが出た当初はあんなに没頭して聴いていたのに、今は……。更に歩き進み、原宿のもうすぐ手前の所まで来る。人通りの少ないこの辺りで良いか。俺はポケットから一つの鍵を取り出す。アイツの部屋の鍵だ。俺は徐にしゃがみ込み道路脇の用水路の蓋の隙間からその鍵をポトリと落とす。まぁ、これで暫く見つかる事も無いだろう。はぁ、今日も汚い街だ。平日でも人で溢れかえる汚い街。適当に街でもブラブラして帰るか。
少し駅の方へ戻りつつ神南のアパレルショップの並ぶエリアへ足を運ぶ。人で溢れると言っても、土日に比べればマシな量だ。逆に、全く客の居ない店に足を踏み入る程の勇気はオタクに無い。なんとなく一つのショップへ入る。割とカジュアルでリーズナブルな俺でも着れそうな服が並ぶ。無駄に店員が鬱陶しく絡んで来ないのも良い。俺がそんな服を買いそうな人間に見えないから最初から諦めてるだけかもしれないが。一階をふらっと一周見た後、店の中心にある二階へ繋がる階段を昇った。二階はもう少し大人向けで、少し値段の張るブランド品を展開している様だった。階段を昇って左手のマネキンに着せられていたコートに目が止まる。ダブルのコートで、大きめの八個のボタンが可愛らしくも格好良い。膝上ではなく膝下くらいまであるクラシックなタイプ。綺麗なウールの黒で、裏生地の手触りの気持ち良い。横にこのマネキンが着ている服達の商品名と値段がプレートにまとめて書いてある。コート、十二万か……。いつの間にやらそのコートが気になっていた。良いな。ファッションに疎い俺でも良いと思った服がそれなりの値段のする物だと、一応物を視る目はあるのだなと思わせてくれる。俺は物惜しくそのコートの袖ももう一度撫で、静かに階段を降りた。
ぶらぶらとショーウィンドウを眺めながら目的もなく歩く。革のジャケット一着くらい欲しいな。ミリタリーっぽいジャケットも良いな。綺麗なスニーカーも欲しいな。靴底が厚い今時っぽい、歩きやすそうなやつ。見れば見る程物欲は刺激される。
そして一軒の店の前でまた足が止まる。黒い木で造られた入り口が印象的なテーラーショップだった。美しい濃い青のスーツが飾られていた。ボーダーが入り、オフィスでもカジュアルでも着れそうな素敵なデザインだった。俺は一目惚れしてしまっていた。店のドアを開ける。
「いらっしゃいませ」
短髪でグレーに染められた髪に、小さな黒縁眼鏡が似合う俺と同い年くらいの男が出迎える。彼の着るスーツパンツも脚をすらりと見せて格好良い。小綺麗な白のシャツに深い青のベストも似合っている。
「すいません、表に飾ってあったブルーのスーツを見させて貰いたいんですが」
俺は素直に言う。店内は狭い店内に大量のスーツがハンガーに掛けられており、壁にも隙間なく並んでいる。他の客もおらず、店内のBGMも無い。街の喧騒がこの店の音楽だった。
「かしこまりました」
男は店内に所狭しと並べられたスーツ達から一瞬でショーウィンドウと同じ青いジャケットを見つけ出し、テーブルの上へ広げる。そして次にパンツも見つけ出し俺に見せる。
「こちらでお間違いないでしょうか?」
「はい」
「では、こちらへ」
俺は何も言っていないのに、店の奥のフィッティングルームへ案内される。そしてそのスーツに袖を通す。
「少し絞りますね」
そう彼は言いながら背に針を通し少し胴を絞る。
「こんなイメージですが、如何でしょう」
ジャケットの下は俺のダサいTシャツだが、上下の美しいブルーに身を包まれ引き締まった気持ちになる。袖を少し引っ張り、肘を曲げながら身体を翻らせ鏡で背後も見てみる。丈も尻の上まである由緒正しいスタイル。良い。これを俺の死装束としてしまおう。
「これが欲しいです。仕立てに何日くらい掛かりますか?」
「三、四日以内にはご準備出来ます」
「では、お願いします」
「ありがとうございます。では、採寸していきますね」
若々しい見た目に反して丁寧で紳士的な接客はとても気持ちが良く、俺はすんなり購入へ踏み切っていた。
「ありがとうございました。出来上がり次第ご連絡させて頂きます」
「よろしくお願いします」
「またお待ちしております」
店の出口まで見送られ、彼が綺麗なお辞儀をする。俺も引換用の紙を貰い軽く頭を下げ店を後にした。さっき見たコート、スーツと一緒に着たいな。俺は先ほど見たショップへ戻り、あのコートも買ってしまった。全てクレジットカード払いだ。支払いの請求が来る頃には、俺はもう居ないだろう。そう考えれば無限に金がある様な気さえしてきた。
俺はそのまま駅方面へ戻った。そして駅を通り過ぎ、北東側のビジネス街に行く。ウィンド株式会社。それが入っているビルも一度見ておきたかった。ウィンドの会社のWebページから住所を調べた。歩くと意外にも暑い。俺はジャケットの襟を人差し指で引っ掛けパタパタと冷たい空気を送ってやる。左手に持つコートの入った紙袋がいやに重く感じる。
そして漸くビルの前に立つ。目の前の広い歩道には時間制の駐輪場が広がっていた。七海ハルの中の人もこのビルに、ここから、この入り口から出入りしたりしているのだろうか。そんな事を思う。リリエンコムが入っていたビルに比べれば小さめのビルだ。入って真正面に受付があり、その奥にエレベーター。ベーター前には初老の警備員が立ち、部外者がふらと入れる雰囲気では無かった。俺は近くの立ち食い蕎麦屋で軽く腹を満たし帰路についた。
引き続きリリエンコムの人間として、ウィンドとも連絡を取り続ける。ネットで集めた資料を元にゲームの企画書をでっち上げ、コラボレーション企画内でどういう風に七海ハルを登場させたいのか、どういうキャラクターにしたいのかという様な事まで考え伝えてきた。そして直接彼女と会い、プレゼン出来る機会を勝ち取った。
暫くして出来上がった青のスーツを羽織り、部屋の姿見の前でニヤける。格好良い。服に着られているのかもしれないが、とても良い。新たに下ろしたシャツに、ネクタイも一緒に纏う。更に上からコートも羽織る。良いじゃないか良いじゃないか。
最期の衣装へ袖を通し心が浮つく。新品のおもちゃを買い与えられた子供の様に。だがする事と言えばまた近所のガールズバーに行って遊ぶ位しか思いつかなかった。
「ユウキさん、来るのめっちゃお久しぶりじゃないですか〜!」
「え、ハルちゃん名前覚えてくれたの?」
「そういうユウキさんこそ〜」
可愛らしいハルちゃんの笑顔に酒が進む。彼女にも酒を勧める。
「私自慢じゃないですけど、人の名前覚えるの得意なんですよ」
「えーすご。この仕事で身についたスキル?」
「いや、元々何か覚えるのは得意なんですよ。覚えるコツがあるんです」
「はぇ。どんな?」
「セットで覚えるんです。条件を付けるというか。私だったら人の顔と名前をセットで覚えます」
「へぇ〜。そんなん普通の事の様に思えるけど、違うんや」
「なんていうんですかねぇ……。私が昔読んだ暗記する方法みたいな本にあった例えなんですけど。ランダムに配られたトランプの絵柄・数字をその順番通りに覚えるとするじゃないですか。そしたらイメージするんです。例えば自分の部屋。玄関を上がり、右手にある玄関の照明ボタンの横にスペードの十。その先、棚の上の小物置き場にハートの二。次にキッチンのカウンターにダイヤのキングが置いてある。その情景セットで覚えて、後で思い出そうとした時に、そのイメージした部屋の中を歩けば部屋の中に置いてあるカードが自ずと見えてくるんです」
「えーすご。全然俺には出来そうに思えない」
「ユウキさんだったら、黒い艶のある髪。太めの眉。少し高い鼻。小さめの唇。少し頬骨の浮く輪郭。そういうのをセットで覚えるんです」
「すげー観察眼」
「ただ見た情報をそのまま頭に入れるんです。無駄な推察やらを挟まないで。少し練習すれば出来る様になると思いますよ。では何でユウキさんは私の名前を覚えていたんですか?」
「それは……」
俺は言葉に詰まる。それを察したかの様に彼女が言う。
「フフ、分かりますよ。元カレと同じ名前だったとか、好きだった子と同じ名前だったから、みたいな情報があったからでしょ?」
「まぁ……近いかな」と俺は誤魔化す様に笑う。
「そういう条件があるから私の名前も覚えておけたんですよ。だから物を覚えるのなんて簡単なんです。学校のテストとかだってこの方法をみんな知ってれば必要無いんですよ」
彼女があっけらかんと言う。
「なるほど〜」
「ま、そんな事より、はい!」
そう言って彼女はカラオケ用のタブレットとマイクを取り出しゴトリとカウンターへ置く。俺も数杯ビールを平らげ既に身体が熱くなっている。ジャケットを脱ぎ、壁に掛けているコートの隣のハンガーも使いそこへ掛ける。ジャケットの下に着ていた黒いワイシャツの袖を三度折り捲る。
「今日のユウキさん、めっちゃオシャレですね」
「え、そう?」
「うん、前に会った時は別人みたいに、素敵」
肘をついて彼女がぽうと言ってくる。
「何それ。ほら、歌おうよ」
俺はマイクの一本を彼女にも渡した。
翌朝。頭痛と共に目が覚める。店で朝まで飲み散らかした後、俺の部屋に俺はちゃんと辿り着いていた様だった。酔って何をやっていたのか、ロフトに放置されていたマットレスを下ろし一階の床に敷いて寝ていた。あれ。なんだこの布団の塊。俺はそっと布団を捲る。ヒトが、寝ていた。え。俺に背を向けて寝ている人の顔をそっと覗き見る。ハルちゃんだった。ブルと震える。寒い。俺ハダカじゃないか。彼女もまた……。
周りを見ると、店帰りに通りのコンビニで買ったのであろう酒の缶やコンドーム、レジ袋が床に散らばっていた。何かの酒が溢れているのだろう、甘ったるい匂いがどこからか漂っている。うわぁ……と俺の脳みそは理解を拒否し始めた。そして俺は布団にもう一度潜り、ハルちゃんの上に覆い被さる。
「えぇ……なにぃ……」
ハルちゃんがガサガサの声で言う。
「おはよ」
俺は短く言う。彼女は身体の向きを変えこちらを向く。化粧が落ち、多少不細工に見えて笑えた。「おはよ……」と彼女も返してきた。何か愛しくて唇を近付けた。そして首へ、肩へ、乳房へ顔を埋め、身体も重ね合わせる。温かい。そして布団の中から顔を出しもう一度接吻する。
床に転がっていたセブンスターに火を点け、一息吐く。ハハ、嘘だろ。俺は諦めた様な笑い声を出してしまう。
「もう、何わろてんの〜?」
彼女が俺の煙草を指の隙間から盗み取り一口吸う。壁を見れば、青のスーツは綺麗にハンガーに掛けられ壁に静止していた。もう一度笑う。
「何でも無いよ」
灰を空き缶に落とす。
「紅茶飲む?」
俺は布団を抜け出し、ソファに脱ぎ捨てていたスウェットのパンツだけ履く。
「うん」
「分かった」
俺はケトルに水道水を入れて沸かし始めた。
「人生最期の一杯に」
「どういう乾杯のあいさつなん」
「メメントモリだよ」
コツとマグカップを彼女のカップへくっ付ける。実際そうなんだ。君にもう会う事も無いだろう。
「冷たい朝の空気と煙草と紅茶。どうしてこんなに美味しく感じるんだろう」
「わかる〜」
「こんなどうでも良い感想を誰かと共有出来るのが嬉しいよ」
「ユウキ、何かキャラ変わった?」
「まぁ、多分。でも本質は変わってないと思うよ」
「そっか、じゃあ良いけど」
「ねぇ、ハルって本名?」
リリエンコムの入っている港区のビル。その一階に入っているカフェで打ち合わせを行う事となった。V WINDを運営しているウィンド株式会社の営業担当、そして七海ハルの中の人、そして彼女のマネージャーの三者と顔合わせという事となった。流石に全て俺一人では疑われると思い、打ち合わせには企画担当の“オオキ”も同行すると伝え説得力を持たせた。勿論この名前も会社のWebページに律儀に載せてくれてあった名前を頂戴した。
俺は明日遂にやってしまう。二度と俺の名前を呼ぶことは無いだろう。さようなら皆んなの友達、さようなら俺の愛した人。いや、でもまた名前を呼んで貰えたら俺は喜んで尻尾を振ってしまうかもしれないけれど。
あなたは俺に息をし、生きる理由をくれた。生きていたいと思わせてくれる唯一の光だった。俺は愛憎入り混じる心を落ち着かせる事に精一杯だった。
「どうも、初めまして。メールやお電話ではいつもお世話になっております、木下です〜」
流暢に口上を言ってのけ、今のご時世の営業マンらしくマスクを一瞬だけ下にずらし笑顔を彼らへ向けた。
「お世話になっております。ウィンド営業の高杉です」
「タレントマネージャーの奥山です」
二人と名刺を交換する。
「すいません、オオキが出席している別件の打ち合わせが長引いているみたいで……」
「いえいえ大丈夫ですよ!」
「あ、そしてこちらがウチの七海ハルです」
奥山が横に立っていた女を紹介する。
「はじめまして、七海ハルです。よろしくお願いします」
いつもの配信の時とは違う、落ち着いた声。外向けな態度に興奮する。マスクの下で酷いニヤけ顔を出してしまう。漸く会えた。お前を俺は今から一思いに天国まで送ってやるからな。そう思った。すると、俺の先ほどの挨拶に倣ったのか彼女もマスクを顎下まで下げ挨拶する。
“あの子”だ。全身が凍りつく。紛れもない、五月までファミリーマートに毎朝居た俺の天使『ナガミ』さんだった。運命だ。前から薄々感じてはいたんだ。何か、何かが俺と君を結んでいる。縁と云うヤツか。俺は神に感謝した。この様な素敵な出会いを、運命を作り結びつけさせてくれて。彼女は俺に気付いていないのだろうか? 眼鏡を掛け、髪型が変わっただけだというのに気付いてもらえないのは逆に寂しいぞ? まぁ、そんな事どうでも良い。
俺は名刺ケースを青のスーツの胸ポケットへ仕舞う。スルスルと生地同士が擦れる音すら心地良い。それと同時に、同じポケットに入っていたカッターナイフを親指、人差し指、中指で確かに握り、力を込める。カチカチカチッと静かに刃が伸びるのを感じる。
身体に爆弾を巻きつけた自爆テロリストが、スイッチを押す間際に見せる達観の様な目。無我の境地。だが恍惚とした何かが溢れ出て俺を浮き上がらせる。朗らかな表情のままナガミさんを見遣る。
『現場から中継です。こちらのビル内にあるカフェで打ち合わせ中だった二十代の女性が突如男に襲われ、数カ所をカッターナイフの様な物で刺され重傷を負い、搬送先の病院で死亡が確認されました。死因は出血とショックに依るものだと先程発表がありました。現場は未だ大量の血痕を拭き取ったであろう跡が生々しく遺っています……。被害者の女性はこのビルに入っている会社の社員で、事件時にはミーティングの為このカフェに来ていたそうです。現行犯逮捕された男は杉並区在住、無職の大垣勇気、三十一歳。犯人の男と死亡した女性との接点は今のところ見つかっておらず、同席していた二人も犯人との接点は無かったそうです。ですが男は犯行時『何故俺を見ないんだ』『こんなに愛していたのに』等と叫びながら――……』
大垣の脳裏に浮かぶ映像達。一人でカフェのカウンター席に座りフィナンシェを貪りながら紅茶を飲んでいる俺。一人レストランのベランダ席で飯を食っている俺。毎日通うファミリーマートの店員、ナガミさんは無表情でレジを打っている。次の瞬間、別の店員の顔に変わる。公園のベンチで一人酒に溺れて眠ってしまっている俺。
目の前に横たわっている血まみれの女の顔。知らない女の顔。……ハハ、嘘だろ。
「アアアア!? アアアギャアアアアアアア!!?」
男は叫び、慟哭の様な音を吐き続ける。再び真赤に染まった右手と綺麗な左手。両手で頭を抱え髪を掻き毟り、膝から崩れ落ちる。
「ナガミさん!? ナガミさァん!!! どうして、どうして……ああぁ」
ここに来て男は、自分を殺す意志も勇気も無くしてしまっていた。床に蹲る男の横腹に鋭い痛みが走り、男達に押さえ付けられているプレッシャーだけが身体の感覚に残った。
×××
二〇二一年三月二十六日。某県、某刑務所内。薄汚れた灰色の壁に囲まれ、長机が乱雑に並べられた食堂のテレビ前に座っていた一人の囚人の男が笑みを浮かべながらフォークで皿の食事を啄み居た。
『グランドスラム・レジェンズ、V WINDコラボ実施中! 毎日十連ガチャ無料!』
テレビCMで流れる彼女らの姿に笑みを零さずには居られなかった。だがおかしい。何故そこに七海ハルの姿があるのだ? アイツは確かに俺が殺したはず。中の人を変えて再デビューでもさせたのか? 最近のVTuber事務所のやり方らしい、姑息な手だ。気持ち悪い。俺はフッと溜息に似た笑いを漏らしてしまう。
「何笑ってんだオメー」
男の前で飯を食っていた体躯の良い男が云う。
「笑いたくもなるさ。カラスを喰った後味を思い出して……」
体躯の良い男は、虚な目で笑い続ける男を気味悪がり席を立った。男は再び笑いながら目の前に置かれた味のしない食事を見下す。
「ヒハハ……。俺はやってやったんだ。俺を見ないアイツを……俺を見ろ! 俺を見ろォォ!! フォオオハハーッ!」
刑務所の外界とを隔てる五メートル程の壁の上。そこに大きな黒い翼を持つ鳥が一羽止まっていた。鷲か、鳶か? それは男を見放す様に首を振り、目の前に広がる海原の方を見やった。そしてどこへともなく飛び立っていく。一瞬脚が三本ある様にも見えたが、それが脚だったのか尾だったのか。誰にも分からない。ただその烏は男を導かなかった。それだけだった。