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第二章:蠢動

お待たせしました。お楽しみいただければ幸いです。

 ぽつりぽつりと落ちていた雫は、ほどなくしてバケツをひっくり返したような豪雨へと変わる。

 アルンヘムの侵攻は、この雨を見越してのものなのか、少なくとも冬期の冷たい雨は、ディミトールにとっては恵みの雨だった。

 体温が下がる。士気が下がる。軍としての運動能力が下がる。条件は同じでも、ただ耐え忍べばいいだけのディミトール王国軍と、そうなった中でも敵を攻撃しなければならないアルンヘム国軍。被る被害は、両者では大きく異なる。

 シュルス砦――ディミトール領の北端。ミレーネ山脈はカストロ山とポルクス山の間を埋めるように建設された白亜の長城。その外は、豪雨を以てしても雪げない程に、血と死肉に穢れていた。

 されど、そこは戦場ではない。

 そこに正しく、ヒトと呼べるものは居ないのだから。

 咆哮が轟く。肉と肉、骨と骨とがぶつかり合う音が雨音に混じる。

 狼が猪の喉に喰らい付き、虎がクマに躍り掛かり、突進してきた犀の頭に、山羊の蹄が振り下ろされる。

 敵味方の二極に分かれていたのは、開戦したほんの僅かな時間だけ。

 獣同士が生き残りを賭けて喰らい合う場は、戦場と称するべきではない。

 凍える程に冷たい雨を意に介する様子も無く、ミカエラは喰い合いを俯瞰していた。

「やはり『憑獣兵』だな。一度「敵」を投入するだけでこうも乱れる」

 数の不利を覆せたことがせめてもの、か。そう呟く彼女の眼下では、アルンヘムの『憑獣兵』がその数を減らしていっている。彼女の言葉通りに、同属同士の喰い合いが生み出している死者数は、相当なものに見えた。

「――あれが、件の『勇者』か?」

 顎に手を当て、ミカエラは怪訝な視線を、その一点へ注ぐ。

 長く尖った耳は明らかにヒトのものとは異なる。その耳にも、逆立った髪にも斑模様が浮かんでいる。

 手足の形にも人ならざる、獣の特徴が見て取れる。長い尾だけが、他の者と同じく炎のように揺らめく魔力によって形成されていた。

『人狼』伝承にのみ語られる怪物に、黒い肌の青年の姿は酷似していた。

「確かに、力だけを見れば一線を画していますね」

 ゲルハルトが眼鏡に着いた水滴を払う。

『憑獣兵』となった者は、常人離れした身体能力を獲得する。超人が犇めき合う中に在って尚、青年の膂力は、内から発せられる魔力は、他を圧倒していた。

 相当の修羅場を潜り抜けてきたミカエラたちの目でさえ、一瞬見失う程に速く、腕の一薙ぎはアルンヘムの『憑獣兵』が纏う鎧の隙間に滑り込み、確実に致命傷を与えている。

 荒々しくも、無駄の一切が省かれた洗練された立ち回りは、いよいよもって伝説を再現していた。

 そんな彼に限らず、ディミトールが放った『憑獣兵』は質に於いてアルンヘムのそれを凌駕している。共喰いはあくまで要因の一つに過ぎなかった。

「…………一騎、足りませんね」

 ゲルハルトの呟きは、激しい雨音に掻き消された。

「――やはりこちらにおいででしたか」

 不意に掛かる声。ゲルハルトは横目でそちらを一瞥しミカエラは耳だけを傾けた。

「魔術師か。如何様か?」

 そこには一羽の鴉が羽ばたいていた。瞳は紅く、羽ばたきとふわふわと宙に滞空する様子とが一致していない。それは鴉の形を借りた使い魔であった。

 慇懃な、どこか癇に障る声をミカエラは煩わし気に冷たくあしらう。彼女はずっと、戦場だけを凝視している。

「こちらをお渡ししておくのを、忘れておりましたので。中将殿よりは、貴女がたの方が適役であると思ったものですから」

 鴉の足が鈍く輝いた。鋭い鉤爪を備えた足は、角の取れた長方形の金属の板を数枚、鎖で一繋ぎにして掴んでいる。

身分証(タグ)ですか。わざわざご丁寧に」

 受け取ったゲルハルトはその一枚いちまい、そこに刻まれた名前を確認していく。

「……魔術師殿」

 一通りの確認を済ませた彼は、戦場を一瞥して、未だそこに留まっている鴉を呼んだ。

「六名と、我々は中将殿より聞き及んでおりました。身分証も確かに六つある」

 もう一人は何処へ?魔術によって加工された金属に血を数滴垂らして作る『身分証』は、当人の生死を知らせるためのもの。そしてそれが、六枚全て揃っているということは、ディミトールの『憑獣兵』は未だ一人も欠けていないことを意味している。

 未だ見えない六人目の存在を、ゲルハルトは無表情のままに訝る。

「――もうじき。そちらからも観測出来ると思われます」

 勿体つけた言い回しは、企み事をしている子供のよう。やはりどこか癇に障る。

 刹那――

 自身を思わせる揺れが、その場に居合わせる誰しもの腹に重く、おもく響いた。

 砦か約三十(ヤード)の位置。ヒトよりも大きな石が半ばほどまで、ぬかるみ始めた土に埋まっている。

 ゲルハルトの手中のタグの一つが、瞬く間に錆びて、粉々に砕け散った。

「投石⁉本体はまだ先なんじゃ⁉」

「俺が知るか!こっちも撃つぞ、備えろ!」

 蜂の巣を突いたように、砦は困惑と怒号交じりの指示げ溢れかえる。如何な強行軍か、高性能な兵器を用いたか。ディミトールの優位性は今、確かに揺らいでいた。ゲルハルトは更に一枚、タグが減っていることに気付く。

 ミカエラは、守衛の兵数名は、煙る雨の中、雲より山より黒い、丸い影を見留める。

「――っ、また……!」

「――撃ち落とす‼」

 戦慄に呻く兵の声を、ミカエラの裂帛の気合いが、雨音よりも鮮烈に掻き消した。

 同時、暗い空に毒々しいまでの紅色が閃く。

 投擲の挙動によって彼女の右手から放たれたのは、魔力によって編み上げられた槍。流星が如き一条の光は狙い過たず、飛来する岩石を打ち砕き、周囲を紅い光の雨で照らした。

『…………』

「闇雲に動くな!魔導部隊、直撃に備えて防壁を張り直せ!投石部隊は撃てる状態を保ちつつ待機!無駄弾はこちらの正確な位置を知らせるだけだ!」

 突然の出来事に一瞬、時間が止まる。呆然としている兵達を、ミカエラの喝が動かした。

『――、はっ!』

 誰からともなく上がる、了解の応え。あれは誰だ?そのような疑問は、彼女が放つ気迫の前では些末事だった。

「ゲルハルト」

 名を呼ばれ、彼は無言のままにタグを腰に提げ、両手を空ける。

 間を空けず、また宙空に黒い影が浮かんだ。今度は二つ。別の位置から立て続けに。

「左を!」

 端的にそう指示を飛ばし、ミカエラは槍を構える。投擲しようとした、その刹那。

 鼻先を風圧が掠める。砦壁面から、何かが打ちあがった。

 壁の()()を強く蹴り、それは飛来する岩石へ向かって跳躍する。

「人…………?」

 不意を突かれたことで集中が途切れ、彼女の手中で、槍は霧散してしまう。修羅場であれば致命的な隙。しかし彼女はそれから目が離せなかった。

 一対の脚に、一対の腕。それがヒトと同じ形をしていることだけは見て取れる。頭から伸びる一対の角も、兜だと考えれば有り得ること。その手が掴んでいるものが、武器ではなくヒトであったとしても、まだ凝視するには値しない。

 歴戦の猛者の視線を釘付けにしたのは、その身から発せられる、吐き気さえ催しかねない程の毒々しい魔力。

「――諸共、墜とします」

 本能的な危機感から、構えたゲルハルトの前に、鴉が慌てた様子で飛び出した。彼は眉一つ動かすことなく、両手に魔力を収束させていく。

「お待ちを!あれこそが『勇者』です!」

 その一言でようやく、魔力の高まりが止まった。射出の機会を、渦を巻く魔力はゲルハルトの手中で待ち構えている。

「あれが…………?」

 呆然と呟くミカエラの顔は、やや青褪めている。声にならなかった言葉の続きが、彼女の胸中で蟠っている。

 あれが人間なのか?と。

 量と質、両面に於いてあのような魔力を発する人間を、彼女は聖騎士内でさえ見たことがない。

「あんなものが…………」

「あれこそが、当代二人目のディミトールの『勇者』!虫害の厄神『アバドン』の適合者!」

 詩人のように朗々と、鴉は謳う。

 純粋な脚力のみで、岩石まで接近した『勇者』は、その手に掴んでいた虎の『憑獣兵』を乱雑に叩き付けた。

 全身の発条(ばね)を総動員した身の捻り。生じた膂力と遠心力の全てを纏った『憑獣兵』の体は、いっそ喜劇のように、一つ目の岩石を粉砕した。

『…………』

 無惨に散っていく、岩石だったもの。残るもう一つに至っては、何をしたのかも分からないままに、同様に砕け散った。

 石に混じって、麦一粒程の大きさの『勇者』が森へ着地する。ミカエラ達は魔力の反応から、それが砦から離れていくのを感じ取った。

「――っ!追うぞ!」

「――――!」

 鉄面皮にほんの僅かに浮かんだ思考は、一瞬後には消える。ゲルハルトは即座にミカエラを追従する。

「引き続き、迎撃の準備は崩さず防御に徹するよう!動ける者は続け!」

 言うが早いか、彼女は砦のへりに足を掛けた。そしてそのまま飛び下りる。続けざまにゲルハルトが跳んだ。

「先行する!」

 鋭い声が尾を引いて落ちていった。驚き、慌てて兵達が身を乗り出すと、そこには着地を決め、早馬もかくやという速さで、投石のあった方角へ駆けていく二人の騎士の姿が。その後をディミトールの『憑獣兵』が、あらかた敵を殲滅し終えたようで追従していく。

「俺達、要らねぇんじゃねぇか……?」

 一人が呆然と呟く。それは雨音に溶けて消えてしまった。


「――投石部隊、次弾準備、急げっ‼」

 予期せぬ雨にもめげることなく、アルンヘム軍は進攻を続けていた。

「くそ!どうなってやがる……?」

 本体の総指揮を任された将軍、トルクは独り悪態を吐く。本来なら、もっと簡単に、輝かしい功績を上げられる筈だった。それによって、自分は、家は、もっと――

「――伝令!伝令――――!」

 悔いる時間さえ、状況は与えてくれない。軽鎧に身を包んだ伝令兵が、彼の下に駆け込んできた。

「何事か!」

「敵襲の報せ!ディミトール方の『憑獣兵』と思しき兵が単騎で接近中!迎撃を試みていますが勢いは止まず、真っ直ぐにこちらへ向かってきます!」

 何卒退避を!伝令兵がそう具申するより先に、前方から悲鳴が、トルクの居る本丸まで届いた。

 まだ相当の距離がある。それは分かっている。それでもなお感じられる、悍ましい魔力反応。胸の奥の何かを鷲掴みにされたような、錯覚に襲われる。

「――牽制しつつ後退!森を抜けて平原へ!投石部隊!砦への攻撃を継続、注意を逸らせ!」

 トルクは声を張り上げ手綱を振る。方向転換した彼の背に、声にならない悲鳴と、先の魔力が追い縋る。

「後退だ!体勢を立て直すぞぉっ‼」

 怖気づく軍馬をなんとか宥め、恐怖と重責から逃げ出したくなる心を、使命感で繋ぎ止め、彼は叫ぶ。

 角笛の音色が、森に点々と轟いた。


 熱中、夢中というものを、彼は知らない。

 彼の意識には常に『それ以外』が混在している。もう一人の彼が、常に状況を、冷ややかに俯瞰している。

 いつからか、などもう憶えていない。ずっとそうだった。まるで『自分』などというものは、存在していないかのよう。一つに統合されない。それが彼にとっての普通だった。

 それは今も変わらない。

「――お前()はこんなことを望んでたのか?」

「分かり切ったことを、敢えて問うかよ。(お前)

 体が軽い。疲れも、悩みさえも、面倒事の一切から解き放たれたかのよう。

 跳ぶように走る。その速度は自動車よりも速く、景色が、風が、前から後ろへ流れていく。

「――――」

 視界に不意に飛び込んできたのは、揃いの簡素な鎧に身を固めた兵数名。兜で表情は窺えずとも、驚いているのはよく分かる。

――十何メートル。ものの数じゃないか。

「――――っ!」

 木々の間を縫うように駆け抜ける黒い躯。一人が剣を抜こうとしたが、刀身の半ばが見えるより早く――――

 それは兵達の間を駆け抜けた。

「な…………?」

 吹き抜ける風に、不穏な魔力が残り香のように尾を引いている。助かった?一人が安堵の息を漏らしかけ

 仲間が信じられないものを見る目を、自分に向けていることに気付く。

「……お、ま、え…………」

 喉が絞められたように、言葉がつっかえた。きっと自分もまた、同じ顔をそいつに向けている。兵士は次の瞬間に、全てを悟ったような息を吐いた。

『見たら死ぬ』伝承の怪物に遭遇した。してしまった。

 仲間の胴には、横一文字に真黒な線が引かれている。その線を境に、腕が途中から無くなっている。

「…………」

 殺された。そう理解した兵士は、悔いることも恨むことも、怒ることも、まして喜ぶこともないままに、ただその場に崩れ落ちた。

――なんで殺した。

「他に方法が?」

 真っ黒な痩躯の表皮が、うぞうぞと悍ましく蠢いている。忌々し気に問う穣に対し、()は冷ややかに応えた。

――大将墜とせば済む話だろ。

「で、その大将を殺して、またお前は同じことを考えるわけだ」

 一人、また一人、相手国の兵は森の中を散会した状態で進軍しているらしい。

 これまでの喜多島穣ではなくなった、穣はそれらすぐ傍を、ただ駆け抜けていく。諸手は空。その両腕は、走る以外の動きに使われていない。

「――――っ!」

 幹の影から姿を現した兵士が一人、慌てた様子で剣を突き出す。それを危な気なく躱した穣の躯から、すれ違うほんの一瞬の間だけ、鎌のような湾曲した刃が伸びた。

 躯と同じく真っ黒なそれは、彼が横を素通りする拍子に、、まるで鉛筆で線を引くかのごとき気軽さで、兵の胴を切り裂いた。

 刹那の間の出来事は兵に、痛みさえ感じさせない。毒々しい魔力で編み上げられた刃は、その毒々しさそのままに、体を瞬く間に死で蝕みつくした。

「見ろよ。戦争やってんぜ、人間がよぉ」

 拓かれた路が木々の向こうに見えた。そこを埋め尽くす、揃いの鎧で武装した大軍も。

 穣は嗤う。異なる世界にあって尚、ヒトを殺したがるヒトを、その性質、その業を。

 転がるように方向転換。穣は本隊へ突っ込み、その勢いのまま人の間を駆け抜けた。

「――う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ⁉」

 遅れて発せられた悲鳴を背に浴びる穣は、既に森の中で二撃目の準備に入っていた。

 混乱が波及する中で、幾らか冷静な者達が、森へ向けて弩を構える。矢が射られるのと、穣が踏み込んだのは、ほぼ同時だった。

「は!存外激しいな!」

 穣は走りながら、器用にも笑って見せる。身を捻り、難なく矢を躱す中で勢いは死なず、躯は踊るように軽快に力強く、本体への距離を縮めていく。

「――怪、物、め…………!」

 肉迫した、その刹那の一時、穣は地を這う虫が如き姿勢で動きを止める。背から腕から脚から、幾重もの刃が屹立し、炎を封じ込めたように双眸は紅く燃えている。その目尻に届くほどまで裂けた、同じく紅く燃える口は、兵の一人が呻いた通りに、到底人には見えない。

「気付いてくれました?」

 冷たく、けれど楽し気に穣は笑う。四つん這いのまま、身を捻る。その腰から尾が伸びた。

 脊椎に似た数多の関節によって成り立つそれは、蜈蚣の胴に酷似していた。

『――――――――――――――‼』

 遠く、全隊へ向けて発せられた命令が耳朶を打つ。穣は構わず、全身の発条を用いて尾を振り抜いた。

 道端いっぱいまで届く一撃はただの一振りで、数十名の命を奪う。その凶悪さに反した、あまりに静かな攻撃の直後、角笛が高らかに鳴り響いた。

「……こ、後退……!後退――――――っ!」

「指揮官より勅命!牽制しつつ  平原までこうたいせよ!」

 矢が飛んでくる。槍を向けられる。怪物を前に恐慌に陥った兵達は、助かりたい一心で穣を攻撃する。

 それらを何でもないことのように躱しながら、命令通りに後退していく軍を眺めていた。

「誰を殺しても誰かが傷付く。どんな屑でも大概、死ねば涙を流す奴が居る」

 それは誰に向けたものでもない。自分自身へ向けた、糾弾の言葉。

――ああ、そうだ

 自問自答であろうと、多重人格の主権争いであろうと関係ない。所詮は思考の整理に過ぎない。

「――もう面倒臭え」

 考える。考えて、考えて、考える。そうして辿り着く答えはいつも一つ。後はそれを実行するかしないか。出来るか出来ないかだけ。

 今は出来る。それだけの力を、今、穣は有している。

「全員殺せばいい。生かすも殺すも、選んでいるだけ馬鹿馬鹿しい。所詮は人間。――滅ぶべき種族だ」

――全員殺す。俺が唯一絶対の悪になる。

 ならば後は、やるかやらないかだけ。二つの口で、二つの視点で、穣は同じ答えを出す。

 ずっとそうしたかった。

 スーパーマーケットのゴミ庫を見たことがるか?そこには、否、スーパーマーケットにはヒトの世の、全ての悪性が揃っている。

 忘れられるわけがない。あの日常の姿を借りた地獄を。

 鬼になりたいと願った。十年前、ヒトになどなりたくないと、そう思った。

 滅べよゴミ共。命の重みを忘れたお前等に、明日など、未来など、高尚が過ぎる。

 呪った。ヒトの全てを。自身も例外なく呪った。

 穣はあの日、自らの、ヒトとしての、得られる可能性のあった全ての幸福を、未来を、自らの手で断った。

――ヒットアンドアウェイなんて体力の無駄だ。

「やっとやる気になったかよ。お前()

――ああ。まったく、とんだアップだった。

 目前にまで飛来した矢を、穣は難なく叩き落とす。一歩、彼は前へ出た。

「押し通る」

――全部、叩き潰す」

 ぞわり。その身に纏っていた魔力がより一層毒々しく、膨大になる。アルンヘムの兵には一回りも、二回りも彼の体が大きくなったように見えたことだろう。

 出し惜しみなどと馬鹿馬鹿しい。どうせ尽きる命なのだ。

 死にたい、と。その望み、今こそが叶えるときだろう。


「――――!」

「…………」

 どちらからでもなく、ミカエラ達は足を止めた。それに倣って、彼女達に追従していた部隊も停止する。

 貿易の為に拓かれた道、そこには見慣れた者でさえ眉を顰める惨状が広がっていた。

「………………っ」

 人、ひと、ヒト。ほんのついさっきまで人として活動していたその残骸が。街道の端から端までまでを埋め尽くしている。

 遺骸の損壊の程度はまちまちで、殆ど外傷の見られないものもあれば、ヒトであるかどうかさえ判別が難しい程に壊されているものもある。

 女か男か。若者か老人か。身分にさえ、区別を付けず、この虐殺を行った者は、ただ人を殺している。

 道を挟む森の木は、一本も倒れておらず、血糊の一滴も付いては居ない辺りに、その執拗さを如実に感じられる。

「これを全て『勇者』が…………」

 ミカエラは一人ごちる。降りしきる雨を以てして尚、雪ぎ切れない独特の不穏な魔力は、、間違いなく彼のものだった。

――――――――――――――――――

「…………!」

 それを感じ取れる者達は、全身が総毛立つ不快感と、悪寒に襲われた。遠く離れていても尚、はっきりと感じられてしまう魔力の迸り。本能が近付くなと警鐘を鳴らしている。

「――これは、予想を遥かに超えている……」

 頭上では鴉が興奮を隠しきれない様子で囀っている。

「皆様方、これより先へは、進む必要は無さそうです。高みの見物を決めこんでみては?」

 などとふざけた調子で続ける。或いは、今自分が見ているものを、誰かに見て欲しいのかもしれない。

「――如何いたしましょう、アマン卿」

 ミカエラに判断を仰いだのはゲルハルトではなく、兵の一人だった。平静を装ってはいるものの、その様子は進軍にあまり前向きではない。

「――ぅぐあぁぁぁあぁぁ…………!」

 考える、その幾許の間に呻き声が響いた。視線を浴びる中でピューマ達『憑獣兵』の体から、纏っていた魔力が剥がれ落ちていく。変身が解け、やがて全員が気を失い倒れてしまった。

 限界か。魔力、体力が回復するまで『憑獣兵』は戦えない。ミカエラは息を吐く。

「騎馬隊、彼等を回収し砦へ引き返せ。恐らくもう投石の心配はないだろう。――魔術師!」

 彼女は馬の数確認した上で指示を飛ばす。ここから先へは、きっと馬は進みたがらない。気を失った『憑獣兵』共々、足手まといにしかならない。彼女は次いで、頭上の鴉を呼ぶ。

「貴殿のもの身に付き合ってやる。適した場所へ案内を。――残りの者達は私に続け!」

『勇者』の力に限らず、指揮を預かる身として、彼女には戦の趨勢を見極める責務がある。笑うように鴉は一鳴きし、道を外れ、丘のある方角へ飛んでいく。一行はそれに、黙々と付いて行った。


『良くない』力を増幅させるのに必要なものは当然、『良くない』ものに他ならない。

 悲鳴が聞こえる。慟哭が聞こえる。怒号が聞こえる。恐怖が、敵意が、殺意が、侮蔑が、嫉妬が、遍く悪意が、一身に向けられる。

 この躯は、それを燃料に、より毒々しくなる。それを材料により増大していく。

 それは戦争と呼ぶにはあまりに一方的だった。

 それは戦争と呼ぶにも、あまりに悪辣だった。

 片や軍勢。数は数万からなる大軍であったが、今はその数を半分以下にまで減らしている。幾らかは早々に逃げ出し、そして大凡大半は、ただヒトであるというだけで殺された。

 残されたある者は同じ末路をただりたくなくて、またある者は誰かを護りたくて、懸命に武器を振るっている。

片やケモノ。形容しようのない毒々しい黒色の、巨大なケモノ。龍というにはあまりに醜悪。虫というにもあまりに悍ましく、そしてそれは、決してヒトなどではない。

 無造作に腕を、尾を振るうだけで多くのヒトを死に至らしめる――否、そこにあるだけで、それはヒトに害と死を齎す。

 矢は頑堅な躯を貫くには至らず、剣も槍も鎚も、必殺の一撃足り得ない。どころか、巨躯に反した俊敏さの前には、そも攻撃を当てることさえ困難を極めた。

 攻城戦用の兵器が、そんな相手に通じる筈も無い。攻撃距離を、文字通り飛躍的に上昇させた投石機も、その殆どが兵と共に纏めて破壊されてしまった。

「…………」

 平原に出れば、掩蔽物が無くなれば、そう考え戦線を引き下げさせた指揮官トルクは、ただ兵が鏖殺される様を見ていることしか出来なかった。

 退くべきだろう。これ以上兵を失うわけにはいかない。評価が下がる。無能の烙印を押される。

 そうでなくとも、人が死ぬのは哀しいことだ。

 しかし、指揮権を持つ者として、撤退の命が、彼には出せなかった。

 この怪物からは逃げられない。逃げればきっと、どこまでも追ってくるだろう。国境の砦までも。

 砦まで退いて、そこで迎え撃てば、そう考えていられた頃はまだ、あの怪物は幾らか小さかった。

 今となっては断言出来る。万一あれが、アルンヘムの国土に踏み入れば、国民の一切が、ここに居る、居た兵達と同様に、無造作に殺される。

 国が為、元も少ない犠牲で以て最大の利益を得るには、彼に考えられたのはただ一つ。

 ここで、アルンヘムとディミトールの、両国の中間となる平原で、怪物と共倒れすること。それだけだった。

 尤もそれさえも、策というにはあまりに運任せなお粗末なものだった。『怪物は全軍を壊滅させる頃には、力を使い果たしていることだろう』と、そうあってくれればいいという、希望でしかないのだから。

「――残存兵力、三割を切りました。何か策は――⁉」

 側近が切羽詰まった声で指揮を仰いでくる。彼にさえ、トルクは玉砕の考えを打ち明けてはいなかった。しかし、それももう限界だろう。

「――貴殿は確か、アルマーニ公の嫡男であったか」

「…………は、はい」

 瞼を閉じる。そのほんの一瞬の間に、彼の頭には初陣から今までの、戦いの日々が思い起こされた。

「あの御方には若き頃お世話になった。――至急王都へ戻り報告を」

 ディミトールは神話か、それに比肩しうる怪物を怪物を手に入れたと。トルクはひとりごちて後、側近へと向き直り、命を下す。最後の命を。

「指揮官殿は……」

 視線に命令の意図を察した側近は、しかし困惑に顔を歪める。或いはそれは、迷子の子供のようにも見えた。

「兵に戦えと命じている長が、一人おめおめと逃げ出すわけにもいくまいよ。――ああ。覚悟は出来ているとも」

 彼とのやり取りの中で、思い出せたことが幾つもある。何故戦場に立つのか。それさえも思い出せたトルクは力無く、しかし晴れやかに笑った。ならばもう、進む道は一つだと。

「行け!すべては民が為、国が為だ!」

「――――…………っ!」

 返答は是の一声ではなく、手綱を振るう乾いた音だった。地を蹴る蹄の音はすぐに、雨音に溶け消えてしまった。

「…………」

 抜かずに戦を終えられると高を括っていた剣を、トルクは抜き放つ。手から伝わった魔力が、磨き上げられた刀身を淡く輝かせた。

 軍旗の如く剣を掲げ、彼は地獄に高らかに声を上げる。

「敵は故国に仇為す不倶戴天の獣!背には幾万の民!われらは此処で!生きて砦となる!」

 持ち堪えよ!雨音などものともせず、激励の言葉は同じく地獄に立つ者の背中を叩き上げた。

 ただ逃げる機会を逃しただけの者が居た。故郷の為に命を賭すと、腹を括った者が居た。ここで手柄をと、意気込む者が居た。その誰しもの心が折れ掛けていた。

 トルクの発した、偽りの無い覚悟の言葉は、残酷にも、その誰しもの心を奮い立たせた。

――――――――――――――――――!!!

 生きて帰る。勝って帰る。命の換えても護り抜く。心に再び灯る炎。鬨の声は波のように、怪物の巨躯を攫う。

 意志の力というものは偉大で、絶大だ。時に不可能さえも可能にしてしまう。

 燃え上がった希望に光に、まるで眩暈を起こしたように、ぐらり、怪物の体が傾ぐ。

 誰が言うまでも無く、アルンヘムの兵達はそれを好機と見、これまでにない勢いで、怪物へ喰らい付いた。

『――――――――』

 意志の力というものは偉大で、絶大だ。時に不可能さえ可能にしてしまう。

 挑んではならない相手にさえ、勝機を錯覚させてしまう。


 汚い。気持ち悪い。吐き気に呼吸さえ儘ならない。

 穣は舌を噛み切りたくなる衝動を堪えながら、向かってくるヒトを殺し続けていた。

 自分は本当に、『良くないもの』になってしまったらしい。浴びせられる負の感情に、心ばかりか躯の調子さえ上がってきている。巨大化し、変じて尚、躯は軽く感じられる。思ったことが思った以上に出来ることなど、彼のこれまでの中では一度として無かった。

 しかしその一方で、心が、精神が嫌悪感にぐずぐずと蝕まれていっていることもまた、彼は感じていた。

 彼を苛み蝕むもの。それは彼の、自身に対する嫌悪感に他ならなかった。

 ヒトをごみのように無造作に殺している自分に、殺すという行為に、闘争に、愉悦を感じている自身に対する嫌悪感だった。

 殺してくれ。もう一秒だって、生きていたくはない。

『――――――――』

 指揮官らしい人間の声に、軍全体が活気付く。

 希望とやらが穣の目には、実際に光を放っているように見えた。

 眩い光。温かな光。穣は眩暈さえ覚える。

 それは、自分がどれ程望んでも、手にすることの叶わないもの。

 殺してくれ。どうかその光で。

 俺を――――

――――――…………

……………………

…………

「――――これほどとは…………」

 ミカエラは呻く。歴戦の兵の目にさえ、それは類を見ない一方的な鏖殺として映った。それほどまでに、『勇者』の力は絶大だった。――異様とも言い換えられる。

 龍を模したかのような醜悪な巨躯に、ヒトであった頃の名残はほとんど見られず、発せられる魔力は初見の頃より一層毒々しさを増して、人の顔など碌に判別出来なくなる程離れた彼女達をさえ威圧する程。追従してきた兵の内数名が、その異様と魔力に()てられて、嘔吐した。

「…………」

 ミカエラは戦慄し、しかし同時に、屍の平原を、至極冷静に観察していた。傍らでゲルハルトが眼鏡を直し呟く。

「『漂流者』が『憑獣術』との相性が良いことは、幾つもの文献からも明らかになっていたことですが、私も今回のことで、事実として実感することが出来ました」

『勇者』ではなく『漂流者』と称したことに、どれほどの意図が含まれているのか、しかしミカエラにとっても、その呼称の方がしっくりときた。

 ただの呼称、記号であっても、あの怪物を『勇者』と称することは躊躇われた。

 空気を読むということを知らない鴉が、さも楽し気に囀る。

「『憑獣術』は対象の身に『ケモノの霊』を降ろす術。そして『勇者』とは世界の境界を跨いだ者。彼等はこちらへやって来る折に、死を経験している。故に、ただ生きている者よりも「この世ならざるもの」「ヒトならざるもの」との親和性が高く、より強大な力を引き出し易い――というのが、我々の見解です」

「それで、その漂流者はどうなった?」

 ミカエラ達は敢えて、鴉の語りに反応を示さない。鴉がそれに気を悪くしている素振りは見られない。ゲルハルトはタグを取り出す。残るタグは四枚。内一枚から、微かではあるが怪物と同質の魔力が発せられていた。刻み込まれた名は、異国の言語によって綴られている。

「――まだ使えるようです」

「そうか」

 簡潔な報告にミカエラは眉一つ動かさない。遠くを見つめるその顔にも、『勇者』を慮る気色は見られない。

「戻るぞ。陛下に良い報告が出来そうだ」

「残党は如何いたしましますか?」

 立ち上がり踵を返す彼女の背に、ゲルハルトの声が掛かる。彼はまだ平原を俯瞰していた。

「何時も通りだ。生き残りが居れば、の話だがな」

 幌を潜りながら、ミカエラは思い出したように足を止める。

「それと、『厩舎』に話を通しておいて欲しい」

 その言葉が意味するところを、ゲルハルトは知っている。故に彼は、変わることを知らない声音でただ端的に応じた。

「畏まりました」

 その一声を背中に受け、ミカエラは今度こそ、幌を潜る。雨はいつの間にやら、随分と小降りになって、西の端の空からは、陽光が梯子のように、雲間から降って来ていた。

「…………」

 息を吐く程に美しい光景を視野一杯に収め、しかし彼女は真剣な面持ちで虚空を睨んでいる。

 幌から出てきた兵達が、驚いたように足を止め、彼女のわきを通り過ぎていった。


 死にたい。

 もう何度目になるかも分からない願いを、穣は呟いた。

 雨水を吸った衣服は、自己嫌悪と罪悪感を代弁しているかのように、重く彼に纏わり付く。

 凍える程の寒さに、手足は痺れて動かない。心地良い筈のその感覚さえ、今はただ不快だった。

 一方的な蹂躙に快楽など欠片ほども存在しない。――否。あれは間違いなく爽快だった。

 そうだ。穣を苛む感情は、他者を傷付け殺害したことに、悦楽を見出してしまったことに起因する。

 無感情に、機械的に、ヒトを虐殺できていたなら。或いはただ、それを愉しめていたなら、こんな思いは抱えずに済んだだろう。

 正義感に陶酔出来ていたならば、或いは。

 しかし、穣というものの在り方、性質が、絶対にそれを赦さない。

「…………ばけ、も、の、め…………!」

 掠れた声が足下から這い上がってきた。裾を、泥に汚れて青褪めた、指の欠けた手が掴む。

 それは彼の罪の象徴。運悪く死に損なった、余命幾許もないアルンヘムの兵士。屍肉に埋もれた男は右手と頭だけを覗かせて、その目も、今は正しく穣を映してはいない。

「ありがとうございます。それがずっと聞きたかった」

 届かないことを知った上で、穣は兵に囁く。虚ろな哀しみを湛えたその表情は、虐殺者のそれにはおよそ似つかわしくない、葬儀の参列者が浮かべるもの。

「我われ、は……護り、ぬい、た。あ、ルンヘムは、かな、ら、ず…………」

 お前を討ち滅ぼす。途切れながらも、兵は確かにそう告げた。怨念の類は声からは感じられない。いっそ誇らしげでさえあった。

「その時はよろしくお願いします」

 生きて故国の土を踏む、それを望んでいた者は皆絶えて、生き残ったのは己の死を望む者唯一人。死者と遜色のない青褪めた顔で、彼はただ一人、息をしていた。

 万の軍勢をただの一人で壊滅させたにしては、その手はあまりに綺麗なまま、全身を覆っていた不吉な黒色は、今はその身体の内へ潜ってしまっている。

 もう誰も、何も言わない。言ってくれない。

「死にたい」

 何もかもを壊し尽くして、残されたものは残骸が敷き詰められた大地だけ。

 息苦しさも、窮屈さも、増しているようでさえある。そんな中で、穣はまた願った。

 自分の存在しない未来を。

 立ったまま、彼の意識は沈んで消えていった。


「――そ、そうですか。ご苦労様でした」

 謁見の間にて、玉座に座る男は弱々しく、そしてそわそわした様子で、労いの言葉をミカエラに掛ける。

 その容貌はミカエラよりも幼く、そして元来であれば妃が座っているべき隣には、少年に似た面持ちの、彼より幾らか年上の女性が、聖母像のような穏やかな微笑を湛えたまま座っている。

 少年王、アレクサンダー。そしてその母、エウロペ。義理の弟と母に対し、ミカエラは平伏したまま端的に返した。

「痛み入ります」

 ですが、そして彼女はそう繋いで。

「此度の戦、真の功労者は『勇者』であり、それを『憑獣術』によって我が国に繋ぎ留めた魔術師アルター卿に他なりません。真にその言葉を賜るべきは、彼等にありましょう」

 その肝心の魔術師、クロード・アルターと『勇者』は、ミカエラの隣にも後ろにも、謁見の間の何処を見回しても居ない。

「そのように謙遜なさらないで。アマン卿。貴女もこの国を守ってくださったことに変わりはないのですから」

 優しい声で、エウロペはころころと笑う。その様は愛らしく、元服した子を持つ母だとは到底信じ難い。ミカエラは黙したまま、少し頭を低くした。

「――それはそれとして、どうしていらしてくださらなかったのでしょう?直接お会いしてお礼を申し上げたかったのですけれど」

「『勇者』は療養と検査を。アルター卿はその責任者ですので、今は……」

 あれらを二人の前に出すとどうなるか。『勇者』の力の危険性と、クロードの人格面での問題、それらを危惧したミカエラは、両者を当面の間合わせないつもりでいた。

「そう、そうですよね。我々に代わり戦って下さっている方々ですもの」

 心底残念そうに、エウロペはしゅんと、小さくなる。妾の子であるにも拘らず実の母娘のように愛情を注いでもらった手前、心苦しさに苛まれながらもミカエラは半ば強引に話の流れを変える。

「――陛下。褒美、などと申すつもりは無いのですが、一つ、聞き入れていただきたいことが」

「は、はいっ!なん、でしょう、か…………?」

 急に声を掛けられ、気弱そうな少年王は素っ頓狂な声を上げる。即位からまだ二年と経っていない彼にとって、まだ「陛下」と呼ばれることに馴れていないようだった。まして相手が、義理の姉とあっては尚更。

「此度遣わされし『勇者』の力はあまりに強大が過ぎ、軍に加えるには危険が過ぎます」

 ミカエラ・アマン。先王と側室のあいだに生まれ彼女には、王室内でまことしやかに語られる一つの噂がある。彼の態度の一端は、そこに起因しているのかもしれなかった。

 ミカエラ・アマンは、王位の簒奪を目論んでいる。と。

 故に、彼女の一挙手一投足には常に多くの視線が向けられる。彼女への期待、信頼、猜疑、嫌悪。清濁を問わず。

「…………」

 幼少期からずっと、共に在ったアレクサンダーにとっても、今の彼女は、ただ憧れていた「姉」ではなくなっていた。唾を飲み込み、彼は言葉の続きを待つ。

「彼の、『勇者』の指揮権を、どうか、私に預けていただきたく」

『――――⁉』

 言葉を向けられたアレクサンダーのみならず、その場に居合わせた誰もが、その発言に目を剥いた。

「アマン卿!貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか⁉」

 真っ先に声を上げたのは、少年王の傍らに侍っていた初老の男だった。神経質そうな目尻の上がった鋭い目つきに、高い鼻は上を向いて、先の物言いからも、高慢な印象を受ける。

 アレクサンダーを王位に推し、自身はその側近を買って出た宰相、リックマン・サンダーバードだった。

「理解しているからこそ、お願い申し上げているのですが」

 面は伏せたまま、ミカエラは応える。口調こそ変わらないものの、その声音はひどく冷たく、硬く鋭い。

「『鉄血』の次は『勇者』!如何に貴様が先王陛下の血を引き、聖騎士であるとはいえ、貴様!あまりに出過ぎであろう!」

 或いは今玉座に座しているのは、アレクサンダーではなく彼女であったかもしれない。しかしそうはならず、母譲りの武才を発揮した彼女は、今は聖騎士の一員として戦場に立っている。

 特別扱いをされない点については、リックマンの態度は彼女にとって心地良くさえあったが、それでも、王の傍らに侍るこの男を彼女は警戒し続けていた。

「国が為、民が為なれば、いくらでも出過ぎましょう」

 間髪を入れず、ミカエラは声を張り上げる。さしものリックマンもその剣幕には面食らった様子だった。水を打ったように静まり返った謁見の間に、彼女の落ち着いた冷たい声が、荘厳ともいえる響きを以て木霊する。

偏頗(へんぱ)ではなく、生贄とお考え下さい。陛下。私をはじめ、聖騎士であれば万一の『勇者』の暴走にも対処が可能です。単騎、或いは少数で活動する我々であれば、被害を最小限に留めることも可能です」

「軽々に言ってくれる。聖騎士は我が国の要。一人の喪失でも、被る痛手は相当なものだ。それを――」

「なればこその私です。サンダーバード卿」

 リックマンはその一言に口を噤まざるをえなくなる。アレクサンダーを除いて、この場で最も有力な王候補たるミカエラに、彼はこれ以上、力と発言力を持たせたくはない。

 しかし、その持たれては困る『勇者』の力は暴走の危険と隣り合わせの爆弾、らしい。

 被害規模にもよるが、少なくともミカエラの殉職は彼にとっては、単なる不幸ではないのだ。

 自らその危険を冒すと言っているのだ。本来のリックマンの立場としては、「ぜひそうしてくれ」もまた、発する言葉の候補の一つであった。

「――如何でしょう。陛下」

 反論してこないリックマンを捨て置いて、僅かに顔を上げ、ミカエラは王に差配を問う。

「了承致しかねます。アマン卿」

 惑うアレクサンダーに代わり口を開いたのはエウロペだった。優し気な眼差しは変わらず、彼女は厳しい面持ちと声で待ったを掛ける。

「亡きマリアローズ様に、私は貴女の母となることを誓いました。献身、自己犠牲、それらは確かに尊いもの。しかし、軽はずみに自らの命を捨てるような言動については容認できるものではありません」

 一為政者としてではなく一人の母として、エウロペはミカエラの提案に待ったを掛ける。

「有事の際には致し方ないのでしょう。しかしそれは、今ではないはず。――ねぇ、アマン卿――」

「――今なのです。エウロペ様」

 優しく諭そうとするエウロペの言葉を、ミカエは身を切る想いで振り切った。

「きさ――――」

「昨日の戦がそうであったように、有事というものは今こうしている間にも起きうるもの。常在戦場と。故に我々防人はそれに備えなければなりません」

 不敬であると、誰かが噛み付こうと声を上げた。それを重く覚悟に満ちた声が、切り伏せる。

「私は母になったことはございません。しかし子であり、姉ではあります。子として愛してもらった恩を親に返したい。姉として、弟の行く末を照らしたい。とは思うのです。――みすみすこの命を捨てるつもりはありません。ですが、ですから。どうか!」

 淀みなく紡がれたその言葉に嘘偽りは一片たりともありはしない。彼女が聖騎士たる由縁はそこにあり、『勇者』の力を求める由縁もまた、そこにあった。

 先王の急逝を機に不正、悪政に手を染めた議員が、この王宮には相当数存在する。

 そんな輩にとって、学問としてでしか政を知らぬ、歳若く気弱なアレクサンダーと、巫女であり正しく、優しくはあれども、政には疎いエウロペは、傀儡としてさぞや魅力的に映っていることだろう。

 目に見える程の不具合は、まだごく僅かではあれど、この国を機能させる歯車は、先王の崩御をきっかけに確実に、軋みを上げ始めている。

 力が必要だった。王宮に湧く虫を一掃するためには、知力も、暴力も。

 アレクサンダーが王権を手放したいと願った際に、その重責を肩代わりするためにも。

 血の繋がりを母と弟を、それでもミカエラは愛していた。

 受けた愛と恩を返す術を、彼女は母が亡くなるまでに授けてくれた武と矜持以外に持たない。

「あ……マン、卿………………」

 少年王はひどく困惑していた。先王が病に倒れてから、彼を取り巻く人、環境は激変してしまった。中でもとりわけ顕著だったものが、義姉ミカエラの態度だった。

 彼にとっての彼女は、感情を表に出すことが苦手な、しかし温かく優しい人だった。

 それが突然、冷たく、それこそ剣のようになってしまった。公の場では勿論、私的な交流の中でも、固い口調のまま。挙句の果てには王位の簒奪を目論んでいるという噂まで流れ始めた。

 最後に一緒に食事をしたのは、果たして何時のことだったか、偽りの無い笑顔を見たのは何時だったか。彼にもはっきりとは思い出せなくなっていた。

 姉の本心が分からず、アレクサンダーは呆然と呟く。

「――陛下!」

 差配を仰いできたのは、傍らに立つリックマンだった。政についてはまだまだ分からないことだらけではあれど、彼が腹に何かを蠢かせていることは、彼にも分かっていた。

 何とかしなくてはならない。責任が重く圧し掛かってくる。投げ出したい。やむなく即位してから、ずっと願い続けていた。

「…………」

 目だけを動かし、彼は膝を着き俯いたままの姉を見る。彼女はこちらを見てくれない。声を掛けてはくれない。彼女はただずっと、そうして彼の言葉を待っている。

「難しいようであれば、後に議会を設けましょう。そこでじっくり話し合い、適任者を決めるのです」

 家庭教師よりも優しい声でリックマンはそう提案してくれる。何と魅力的なことだろう。この場で、独りで、或いは国の行く末を左右する重大な決断をしなければならないなんて、今にもお腹が音を立てそうだ。

「…………」

 ミカエラは動かない。リックマンはすり寄って来る。アレクサンダーはその一瞬、固く目を瞑り、そして開いた。

「――分かりました。アマン卿。暫定の『勇者』殿の世話役に、貴女を任命します」

 首を絞められているようだった。少年王は背中を嫌な汗に濡らしながら、膝を着いたままのミカエラにそう告げた。

「陛下――――っ⁉」

「感謝いたします。謹んでお受けいたします」

 素っ頓狂な声を上げるリックマンを他所に、ミカエラは粛々と頭を下げた。どよめきの広がる中で、リックマンの声が響く。

「お待ちください陛下!性急と身贔屓が過ぎます!お考え直し……議会を設けて――」

 食い下がるリックマン。まくしたてるその圧にアレクサンダーは圧し潰されるように、背中を丸め小さくなる。しかし彼は意見を変えなかった。

「信頼がおけるというのなら、私にとっては彼女こそがそうです。アマン卿であれば、正しく『勇者』殿を扱って下さるでしょうし、暴走もきっと食い止めて下さいます。だって……」

 それが出来るから、ミカエラ・アマンという女性(ひと)は聖騎士の一席に名を連ねているのですし。

 たどたどしくも、アレクサンダーは確かに、自身の言葉で意見を示した。

「しかし…………」

「僕も、見学ばかりしてはいられませんから」

 アレクサンダーは、未だ得心していないリックマンへ顔を向ける。母譲りの整った顔に引き攣った笑顔を貼り付けて、彼はそう嘯いた。

「それに、アマン卿の仰る通りでもあります。有事は今こうしている間も、何処かで起こっているかもしれません。それに『勇者』殿の力を今最も知っておられるのは彼女と、その直属の部下であるウォーマン卿、『憑獣術』の施術者、魔術師アルター卿、そして『勇者』殿ご本人。暫定的に指揮権を貸与するにあたってアマン卿が尤も適任であることは紛れもない事実です」

 数度、彼は深呼吸し、補足をやはりたどたどしく、付け加える。

 感情ではなく、少年王はこれまで座学で培ってきた知識に基づいて、決断を下していた。

 それでもまだ、リックマンは納得し切ってはいない様子だった。そんな彼にアレクサンダーは駄目押しをする。

「あくまで暫定です。正規の指揮権についてはこれからの議会で決定しましょう」

 勉学の答え合わせを教師に求める生徒のように、彼はそう首を傾げた。唸ること暫し、リックマンは観念したように静かに息を吐いた。

「御意に――」

 彼はあくまで側近に過ぎない。ミカエラに自重を迫っておいてこれ以上公の場で王に意見することは彼自身の評価を著しく下げる恐れがあった。アレクサンダーの、理にかなった弁を前にすれば尚更だった。

「――ではアマン卿。暫しの間ですが『勇者』殿をよろしくお願い致します」

 名を呼ばれ、ミカエラは顔を上げ、そして再び深く頭を下げた。

「ご期待にお応え出来るよう尽力致します」

 下がって良いとの指示に彼女は立ち上がり、そして部屋を後にする。廊下を歩くこと暫し、何時の間にか、彼女の後ろにはゲルハルトが追従していた。

「アルター卿より、目を覚ましたとの報せがありました」

 冷たい声で囁かれたそれは、ミカエラが待ち望んでいたものだった。

「陛下より許可は頂いた。このまま回収に向かうぞ」

「御意」知らず弾んでいた声に、顔色一つ変えることなく、ゲルハルトは応じる。二人は足早に、白の地下へ向かっていった。


 笑い声が聞こえる。

 誰かを嘲うような、――否、そうでなくとも――ああ、ヒトの笑う声というやつは、どうしてこう癪に障るのだろう。 神経を逆なでしてくる、不快な音。

 その中でも、それは聞き覚えがある。――ああ。そうだろうな。

 俺が笑っている。

 何がそんなに可笑しいんだ。

 何でまだ生きてるんだ。

 あれだけことをしておいて、何で。

 何でまだ、生きて、笑ってるんだ。

「…………」

 見慣れない天井が橙色の光に照らし出されている。目を覚ました穣は、それを陰鬱な心持ちでぼんやりと見ていた。

 何となく動かした指先で、彼は未だ脈打っている心臓の存在を感知し、陰鬱は一層昏さを増す。

「――気分は如何かな?『勇者』殿?」

 それともミノルと呼んだ方が良いかな?低い張りのある声が、視界の外側から掛けられれば、穣は意識の切り替えを余儀なくされる。

「このまま昏睡状態に陥るかとも思ったが、予想以上にお早いお目覚め、私も嬉しく思うよ」

 朧気に記憶に漂うその声は、神殿での儀式の最中に聞いたものであったか、男の顔に覚えはなかったが、ローブには既視感があった。

「…………」

 穣は応えない。視線さえ動かさない。ただゆっくりと目を閉じた。

「あれからねぇ、ずっと考えてたんだ。『勇者』以外の呼び方を。けれど駄目だ。さっぱりだね。ねぇ、ミノル。君の希望としては何が良い?」

 魔術師は子どものように、穣の周りを忙しなく動き回っている。暗澹とした気持ちは、否応無しに晴れ渡っていく。彼の中には、いつかに交わしたらしい会話の記憶は、はっきりとは残っていない。

『――やかましいな。ヒトのこと散々調べ尽くしといて、まだ足りねぇのか』

「――⁉」

 口が勝手に動き、悪態を吐く。穣が普段、決して口にすることのないようにと、気を付けていることが、他でもない彼自身の口から零れ出た。耳に馴染んだ、彼自身の声で。

「おや、その声は――」

 魔術師は口を滑らせた『彼』を知っているようだった。平静を装いつつ、穣は口を塞ぐ。

『異常なんて何も、どこにも無かっただろう?さっさと次の所に行かせてくれ。こんなことやってる時間が惜しい』

 にも拘らず、『彼』は流暢に嫌味を垂れ流す。それもやはり、彼が胸中に秘めて口外しないように努めているものだった。

「それについては申し訳ない。我が国は積極的には他国と構えないようにしているんだ。条約もあることだしね。何処かが攻めてこない限りは、君達はずっと待機するしかない」

『そんなお優しい国に、俺達が何体も必要ですかね?』

「優しい国でも奴隷は奴隷ということだね」

「ああ。なるほど」

 皮肉気に笑う『彼』に、魔術師は皮肉を返し、そしてかれは得心した。

『死んで問題のない人間』を優先的に死地に送り出せば、処分する手間が省ける。『なるべく死なせたくない人間』は生き残り、共通認識として『不幸なもの』と『どうでもいいもの』の死は悼まれず、後には国民から国家元首への厚い支持だけが残る。

 なるほど、確かに合理的で優しい。

「まぁ、先王サマは奴隷制度の撤廃を目指していたみたいだけどねぇ?」

 流石に貴族や豪商の反発が凄かったらしい。魔術師は大仰に肩を竦めてみせる。穣もまた、肩を竦めて応じた。

「他人の苦痛をおかずに喰う飯は、美味いらしいですからね」

 それは過たず、彼の言葉だった。魔術師は虚を突かれたように目を丸く、瞬かせる。その一瞬後、彼は破顔した。悪そうな人相が、一層悪者顔になる。

「ははっ!そうらしいね」

「俺は胸やけがしますが」気怠げにそう返すと魔術師はくつくつと笑い、そして胸に手を当てた。

「クロード・アルター。魔術師だ。初めて見えた『勇者』が話せる奴で嬉しく思う」

 クロードは胡散臭く笑う。美しい顔の青年だと、穣は思った。美しく、そして蟷螂や蜘蛛のような毒々しさを纏う青年だとも。

 差し出された手を彼は取らない。それをするには、まだ何もかもが足りていないように穣には思われた。

 勘といえばそれまでのこと。例えばそれは、切れ長の双眸を縁取る、濃い隈であったり、妖しい紫の瞳であったり、眼前の青年に穣は、誘蛾灯のような、迂闊に近付いてはならない危うい気配を感じていた。或いは『彼』の言動も、そんな危機感に裏打ちされたものであるのかもしれない。

「戦ってどうなりました?」

「軍隊は君がほぼ全滅させた。見ていた限りだと、生き残った人間はかなり少ない。アルンヘムには、今のところ動きはない」

 まぁ昨日の今日だからねぇ。声の調子は終始一貫していたが、そこに籠もる熱量は、前と後とではかなりの差が感じられた。クロードという人間にとって、国家間の趨勢などはどうでもいいのだろう。尤も、それは穣にとっても同じだった。

「そうですか」

「心は痛むかい?」

 天気でも尋ねているかのようだった。嫌味を感じさせない辺りが、いやらしい。

「痛むから、きっとあれだけの力が出せたんでしょうね」

 対する穣の声もまた、言葉ほどの重みが無い。事故を達観した言動に、クロードは唇の端を歪める。

「やはり君は『勇者』らしい。常人には知り得ない何かを捉えている」

「それが冗談を仰ってる時の顔なんですね」

 辟易したように眉を八の字に曲げる穣。クロードは愉快そうに喉を鳴らした。

「なら、もう少し楽しくなれる冗談を言おうか」

 切れ長の目が三日月のように細められる。一挙手一投足が、どことなく鼻につく。さしたるものを期待しているわけでもなし、穣はただ黙している。

「二年以内に、君はきっと死に至る」

 やはり、驚愕に値するものではなかった。

 けれど、成程確かに、楽しくなれるものではあった。

 やはり鼻には付くけれど。

「起きられそうかな?」

『縛っておいて、よくもまぁ』

 嘆息しながら、彼は戒めを引き千切った。魔術による拘束は、感触も、音さえ伴わず破綻していく。彼はやおら身を起こす。

「二年……随分猶予をくれますね」

 見下ろした指先は、病的に黒ずんでいた。爪先にも同様の変化が認めらる。可動を確認しつつ、彼は呟いた。

()()()()のことを考えれば、きっともっと短いだろうね。国内外を問わず、誰も君を放ってはおかないだろう」

 一緒になって手の動きを確認しながら、クロードが声を弾ませる。

「――やっぱり、分かってた?」

「安全に手っ取り早く強くなれる方法なんて、あるわけないでしょう」

「『魂の過重積載』に『人格の剥離』おまけに『肉体の変容』。一度でも、一時的でも、行ってしまえば肉体と魂、どちらにも深刻な瑕がつく」

 特に肉体にはね。指を一本いっぽん、どこか艶かしい所作で揉み解しながら、クロードは得意げに講義を展開していく。

「それで、貴方がたはそんな技術で何をなさろうと?」

 視線は手指からそのまま虚空へ、クロードの言動など意にも介していない様子で、穣は尋ねる。

「兵力増強。それ以外にあると思うかい?」

 双眸は不敵に細められたまま、歪んだ口元は舌なめずりでもしそうだった。

「少なくとも貴方にとっては、戦事はあくまでついでのように思えます」

 一瞥した美貌はただ黙して、続きをねだるような目で穣を見ている。

「それに貴方も、他人を傷つけて悦ぶようなタマじゃないでしょう?」

「――そう思う根拠は?」

 いやらしい目に対し、穣は思ったままを口にした。

「勘です」

「――ふむ?」

「貴方が腹に抱えているものは、そんな安いもんじゃない。もっと質が悪いものだ。そう直感したんです」

 一時丸くなった目が再び、細められる。クロードは今になって、口元を隠した。

「…………」

「それで、貴方は俺を使って何がしたいんです?何を見ようとしているんです?」

 俺も興味があります。向けられる視線に真っ直ぐに向き合い、穣は最後にそう囁いた。

「…………ふむ?」

 目がまた、丸くなり、そしてまたゆっくりと、細められた。その様は月が、満ち欠け移ろうようだった。

「神が如何にして生まれるか、かな?」

 さも嬉しそうに、しかし恥ずかし気に、クロードは告白した。

「――神?」

 その単語が持つ重みは、穣が元居た世界で頻繁に使われていたものとは、まるで違っていた。しかしそこに、畏敬や崇拝の念が感じられるわけでもない。

「不思議だと思わないかい?この世界は星と星とのぶつかり合いによって生まれたのだという。日の出も、月や季節の移ろいも、天候も、命さえ全てはただの現象に過ぎず、何者の意思も介在しないのだと」

 教会関係者の前でそう嘯いて、異端として処刑された者もいるらしいがね。クロードは謳う。朗々と。狂的な光を目に宿すその様は、穣の思い描く魔術師そのものだった。

「私はそうは思わない!なぜなら私の目は魂を認識しているのだから。肉体の誕生は現象であったとしても、そこに宿る命は、ただの現象では決してない。であるからこそ、人は神の姿を夢想するんだ!」

 土壁に吸収されても尚、彼の歌はよく響いた。警戒は薄れていき、穣はそれに聞き入る。

 そんな彼に、クロードは不意に向き直った。

「そして君だ!そんな中に君が、ただの『力』に過ぎなかったアバドンと直接繋がりを持った!」

 浮かべた笑みはこれまでと変わらず、しかしそこからは、いやらしさも邪悪さも感じられなくなっていた。あるのは、ただ純粋な喜色だけ。

『俺はそんな大層なもんじゃねぇ』

『彼』がすかさず否定する。

「そうとも!君はあくまで『アバドンの力の一部』であって、アバドンそのものではない。だからこそさ!」

 クロードは穣の――『彼』の手を握る。『彼』は渋面を作った。

「他の『憑獣兵』のように霊魂を宿したのではなく、力だけを宿したんだ、君は。それが君の一面を基に一個の人格を獲得した。――君は『かつてこの世界に存在していた者』ではなく、『新たに生まれた何者か』なんだ!これがどういうことか、どれほどの奇跡か、分かるかい⁉」

 穣はいつの間にかのけ反っていた。天井の手前、息が掛かりそうな位置には、クロードの顔がある。

「――そこにこそ、神は在る…………」

 気圧されながらも穣は、彼の興奮の原因を導き出した。

「そうだ!君は、私の前で生まれてみせてくれた」

 ただの現象などではない。そこには何者かの意思が介在しうる。神とでも称すべき何者かが。穣は、穣達は、クロードにとってまさしく『勇者』だったらしい。

「『意思ある現象』、新たなる神よ!君は、如何な奇跡を現世に齎す?」

 ぐるりと回り、詠う様は道化めいていた。弾んだ声はまるで、次の演目を発表するかのよう。

 差し向けられた掌に穣は一瞥もくれない。彼の視線はただ虚空にある。

「…………」

 無視しているわけではない。そう出来る(きのう)も、彼は有していない。

 答えるつもりも無かったが、自身に対して明言できる解も、彼は出せずにいた。『彼』もまた、その時を待っているかのように沈黙を貫いている。

「俺は…………」

 そこまで吐いて、しかし言葉は詰まった。抱え続けていたそれを、敢えて言葉にする必要は無い。必要とあらば、望むのならば、彼はただ実行すればいいだけなのだから。律義な性格が、浮かんだ言葉を敢えて言葉にしようとする。

 その時だった。

「――――⁉」

「早かった。――いや、遅かったのか?」

 唐突に生じた気配に、穣は弾かれたように周囲を見回し、クロードは肩を竦めた。

 天井の上、壁の向こう、この部屋の何処かに人が居る。その人間の放つ気配、存在感が、どういうわけか穣には感じ取れていた。

「今君が感じているものは、魔力というものだよ」

 落ち着かない彼の様子に気付いたクロードが囁く。魔力。聞き慣れた、しかし何ともファンタジーな響きの言葉だった。

 その魔力はみるみる、穣達の元へ近付いてくる。煙のように曖昧だったそれは、近付いてくるに連れ次第にはっきりとした形を、穣の中で帯びていく。彼がそれを、二人分のものだと知覚した、その直後――

「――『勇者』の意識が覚醒したと聞き及んだ。調整はどこまで進んでいる?()()()()()

 重厚に見える扉が軽々と開け放たれる。ずかずかと入ってきた女性は挨拶も無く、威圧的に要件のみを口にした。

 上背のある均整の取れた体躯に、幾重もの部品を繋げた、甲虫を思わせる精緻な甲冑を纏った姿は、特撮ヒーローもかくやの威容。体系が分かり難いこともあって、穣は顔を見、声を聴くまで、相手が女性であることが分からなかった。

 赤みがかった黒い髪は後ろで縛られ、鼻梁の通った面貌は作り物のように美しく、強い意志を感じさせる双眸は苛烈な印象を穣に与えた。女性はまさしく『女騎士』だった。

「おや、アマン卿にウォーマン卿。お早いお付きで。陛下のご機嫌は如何でしたか?」

「御託はいい。どうなっているか簡潔に答えろ」

 アマンは最初(はな)から、クロードとの会話を放棄していた。気持ちは分からなくもないが、穣の中の彼女の印象は、苛烈さをより増していく。そんな彼女と、不意に目が合った。

「君が――……貴様が…………!」

 その刹那、冷たい美貌に一瞬の揺らぎが生まれた。しかし次の瞬間には元の気配を取り戻す。その視線が刃となって、穣の喉元に押し当てられ、穣は息を呑む。

「ご覧の通りです。今ならば、ただ連れて歩くだけならば問題ありません」

 面白がっているのだろう、クロードの声は弾んでいた。

「力の扱いについては?」

「昨日の今日ですので何とも。ただ一つ言えることは、一般の『憑獣兵』と同様の()()は、彼には適応出来ないということくらいでしょうか」

 そう答えた声には喜悦の色が滲んでいる。アマンは眉を顰める。当の穣にも、その言葉の意味するところはなんとなく察せられた。

 暴走すれば止められない。そんなものは使いようがない。

「――それで、貴様は私に何をさせるつもりだ?」

 苛立ちから、言葉の端々に混ざる棘。アマンはそれを隠そうともしない。隠そうが晒そうが、それが相手に何の意味もなさないことを、彼女はきっと理解している。

クロ―ドは笑みを深めた。アマンの眉間の皺も深くなる。

「勿体ぶるな。お前も暇ではないだろう」

 剣呑な声音は今にも斬り掛かりそうなほどに重く、冷たい。

「…………?」

 居心地の悪さに息を潜めていた穣はふと、あることに気付く。

 二人の騎士はいずれも、武器を所持していなかった。

「簡単な話ですよ、卿。魔術を修めた貴女様であれば、すでに考え付いておられるのでは?」

 邪悪が一変、けろりと、クロードは首を傾げてみせた。アマンはその一拍後、盛大にため息を吐いた。彼女が纏う剣呑さは幾らかなりを潜め、穣は空気が軽くなったように感じられた。

「『使い魔』の契約か…………」

 満足気に頷くクロード。一方のアマンは、答えを導き出したにしては浮かない顔をして、額に手を当てていた。そして、考え込むようにゆっくりと目を閉じる。

「――君、名前は?」

 アマンは不意に、閉じていた目をそっと見開いた。鋭い視線を向けられ、穣は反射的に背筋を伸ばす。突如として降り掛かった緊張に、彼はアマンの言葉を聞き取り損なう。

 おたおたする穣に、アマンは一歩歩み寄って胸に手を当てた。

「私はミカエラ・アマン。陛下より聖騎士と称号と『荊姫』の二つ名を戴いている。――こちらは私の部下『鉄血』ゲルハルト・ウォーマン。

 これまで一言も発することのなかったもう一人の騎士は、やはり何も言わないまま、胸に手を当て小さく頭を下げた。

「陛下の勅命により、暫く君の身柄を預かることとなった。君の名を聞かせて欲しい」

 鋭い目つきに硬い口調。しかしそこに抱いた印象は、威圧や傲慢ではなく、真摯さだった。きっと根が真面目なのだろう。不快感は感じなかった。

「…………」

 改めて言を聞き、その上で、穣は言葉を、自らの名を引っ込めた。彼は知っている。

『誠実さ』と『正しさ』は時に乖離することを。

 彼は学問として魔術を知っているわけではない。しかし、ある程度の造詣はある。

 名を知られるということは、魂を支配されるということ。軽々に自らの名を明かすことは自殺行為に当たる。

 ミカエラ、ゲルハルト、そしてクロ―ドは、彼女達にとって『名乗っても言い名』ということなのだろう。『二つ名』も含めて。

 しかし『喜多島穣』もそうであるとは限らない。

「……言葉が分からないのか?」

 沈黙を訝り、ミカエラはクロードに尋ねる。彼は苦笑を浮かべ肩を竦めた。

「俺は――…………」

 再びミカエラの視線は穣へ向けられる。そう口火を切って、穣は言葉を詰まらせた。

 なんと名乗るべきだろう。『喜多島穣』に代わる、自分を表す名。

 自己嫌悪、人間嫌い。使えないもの。――――

「――――『天邪鬼』」

 そう答えたのは、穣自身か。或いは『彼』か。聞き慣れない言葉の響き故か、或いは聞き咎めてか、ミカエラは怪訝に眉間の皺を深めた。

「アマノジャク…………?」

「――極東の書物に似た響きの言葉がありました。意味は――」

「――滅茶苦茶。矛盾。正体不明。そういうものをひっくるめたものが『天邪鬼』です」

 ここへ来て初めて、ゲルハルトが口を開いた。無表情のまま、考え込むように顎に指を添えた彼の言葉を、穣は引き継ぐ。

「それが、貴様の名か?」

 怪訝な面持ちの、細められた双眸は穣の内側を見透かそうとしているかのよう。それを真っ直ぐに見詰め返し、彼はゆっくりと首肯した。確かにそれは本名ではない。しかし彼を的確に表してもいる。

 喜多島穣は確かに『天邪鬼』だ。そしてミカエラはそれを信用する。疑念は拭い切れないままであっても。

「……では、『勇者』アマノジャク、貴様はこれから――」

『その肩書は要らねぇ、俺はただの『天邪鬼』だ』

 声がミカエラの言葉を遮る。穣の耳と頭の両方を、『彼』の声は揺らした。

「…………?」

 視覚の端に映り込んだ黒色へ目を向ければ、そこには口だけが浮かんでいる。唇は無く、犬歯の発達した、獣のような歯だけの口だった。

「――何だ、それは……?」

 それはまるで、害虫でも見るかのような顔だった。

 信じられない、見たくもないものを見てしまった。見開かれた目は口の代わりに悲鳴を張り上げている。

 その目も、そこに宿る感情も、穣にとっては、向けられ慣れたものだった。

「『彼』がアバドンの力の本質です」

『今の俺はそうじゃないがな、兄弟(ブラス)

 楽し気に紹介するクロードは子どものように無邪気だ。『彼』は楽し気に、忌々し気に訂正を加える。

「…………っ」

 凍ってしまったように、ミカエラは穣と『彼』を凝視している。それを面白がるように、穣の内より滲み出た黒色で『彼』は血管や筋繊維、躯を編み物のように形成していく。その様は穣の目をして、嫌悪感を抱かせる。

 そうして出来上がったものもまた、禍々しいものだった。

 兜を被っているかのような、細い縦長の、線のような目。そこから漏れ出る紅い光には、激憤と蔑笑とが混在している。耳元まで裂けた、歯も唇もない口からも、同じ光が漏れていた。

 南瓜の角灯(ジャック・ランタン)に似た『彼』の顔には、およそ愛嬌と呼べるものは見受けられない。

『顔色が悪いな、騎士サマ。庭の石をひっくり返したのは今日が初めてか?』

 穣が思ったことを、『彼』は片っ端から言葉にしていく。悪い冗談を浴びせられたミカエラの、右目の目尻がぴくぴくとひくついた。

「――ミカエラ様」

 ゲルハルトのその一声が、凍っていた彼女をほんの僅かに溶かした。

「ああ、大丈夫だ……」

 目元を隠し、彼女は大きく呼吸を繰り返し行う。まるで息以外の何かを吐き出しているかのように、何度もなんども、執拗なまでに。やがて――

「――『アマノジャク』。わが父と母、『荊姫』の名に於いて貴様に命ずる」

 それでも彼女の顔には緊張が満ちており、或いは今にも吐きそうだった。数度呼吸を置いて、ミカエラ・アマンは告げる。

「我と婚い(くがない)、我が伴侶として、我を支えよ」

 その力、その命を我が故国、臣民の為に燃やせ。

「…………」

 命令はプロポーズだった。

 いみがわからなかった

「………………なして?」

 穣の口からは思わず、謎の訛りが零れ

『分からねぇな』

『彼』は憮然と首を捻った。

 少なくともその言葉は、そのような「嫌そうな顔」で発するものではないだろう。

 クロードが背を向けて丸くなる。小さく肩が震えている辺り、きっと笑っているのだろう。満ちる静寂は、何とも間の抜けたものであるように感じられた。

「――っ、応えろ『アマノジャク』!」

 意を決して放った言葉は霧散してしまった。「嫌そうな顔」にほんの僅かに朱を差し、ミカエラは声を荒げる。

 操られるような、惹きつけられるような、そういった精神的な拘束力は、穣には感じられない。視線とそこから感じられる意思だけは、頑ななまでに真っ直ぐで、礼に則る形で彼女を真っ直ぐに見詰め返し、そして彼は口を開いた。

「俺は魔術をなんとなくしか知りません。貴女は結婚すれば俺を縛れると思ってるんでしょうが、だとしても仕事の為に、致し方なくても、結婚をこの場に持ち出してくることには、感心できませんね」

 彼女が契約の形に結婚を選んだ理由はなんとなく察せる。穣の知る中世の、特に身分の高い人間にとっての結婚とは、概ね()()()()()だ。

 そしてそれとは別に、穣は結婚についてそこはかとない憧憬を抱いている。そこに加えて、穣は理解している。

 自分は死んでも、結婚など出来はしないと。

 それは彼の下らない意地だ。眼前の、まだは二十歳前後の少女が、使命だ責務だなどと、()()()()理由の為に、自らの幸福を、それを掴みうる未来をなげうとうとしている。断じて看過できるものではない。

「行くアテもなし、法もマナーも知らない。何をするにも金も無し。元より当面の間は従うつもりでしたし――ですので、こんなおっさん捕まえて、結婚とかまじで止めてください」

「…………?」

 自分を悪者に引き下げつつ、言いたいことをあらかた吐き出す。そして今度は穣が、首を傾げられる側になった。

「……おっさん?」

 ミカエラの中で引っ掛かったのはそこらしい。ゲルハルト、次いでクロードに何かを求めるように視線を向けた彼女は、その単語の一音いちおんを、確かめるように呟いた。

 穣は激昂されることを予測していた。「貴様如きに何が分かる⁉」と。しかし彼女の反応は違っていた。先程まで『彼』へ向けていたものとは異なる種類の「わけの分からないもの」を見る目を彼へ向ける。

「――失礼、君はいくつなんだい?」

 ミカエラからではなくクロードの口から、その質問は飛んできた。穣は隠す意味も必要もない、しかし幾許かの負い目を感じる年齢を応える。

「……?」

 ミカエラはますます首を捻った。『彼』への忌避感すら忘れてしまったかのように。

 二十代後半はおっさんと呼ぶには微妙なところだろうが、そこまでなるものだろうか。逆に失礼じゃない?ミカエラほどではないものの、クロードの反応もどこか釈然としない。彼は研究者特有の、興味深げな視線を穣へ向けていた。

『それがお高い身分の、お上品な振る舞いか?思ってることがあんなら、言やぁいいだろうが』

 部屋を満たす形容し難い気配に苛立った『彼』が三人に噛み付く。

「……いや、すまない。私よりも年下だと思っていたから、な。少し困惑していた」

 はっとし、ミカエラは気後れしながらも、そう釈明した。馴染みの無い人種の顔や年齢の識別は難しいとされているが、彼女達の態度はそれにしても引っ掛かるものがあった。訝る穣に、クロードが鏡をよこしてきた。

()()際に何らかの異常が生じたか、はたまた『勇者』の特権か。ちょっと確かめてみて欲しい」

 そう囁く彼は興味深げに、笑みを浮かべている。胸中に靄を晴らすべく、穣は鏡を徐に覗き込んだ。

「――…………び、みょうに、若い?」

 どこが具体的に異なっているか、問われて答えられるわけではない。しかし見慣れた筈のあまり好ましくない顔は、どことなく幼く見えた。年下と、ミカエラが発したことにも納得できる程度には。

 鏡か、彼自身の目に異常が無いのであれば、喜多島穣は実年齢より十歳ほど若返っている。

「――いや、こんなことはどうでもよくて!」

 なぜこんなことになっているのか、気にならないといえば嘘になるが、穣は鏡と一緒に若返り問題を脇へと追いやる。

「貴女方には従います。だからわざわざ結婚なんてしなくていいでしょう?それじゃ駄目なんですか?」

 少し高くなったように感じられる声を張り上げる穣。その様はどこか自棄を起こしているようにも見える。真っ直ぐに見詰められ、ミカエラの眉間にはまた、皺が寄る。それは嫌悪感や侮蔑以上に、別の感情に起因しているように見える。

「――――」

 引き結ばれていた唇が開く。何事か、ミカエラがそこから発する前に、飄々とした声が横から割って入った。

「――そういうわけにもいかないんだなぁ、これが」

 クロードが大仰に、眉を八の字に曲げ肩を竦めて見せた。

「例えば君は、猛獣が放し飼いにされていて、安全だと言われて、それを信用できるかい?」

 穣は首を横に振る。同時に、契約が誰の為のものであるかを察した。

「権力者というのは、特にその辺に過敏でね。君のようにとりわけ強大な力には首輪をつけておかないと気が済まないのさ」

 まぁ、その首輪が結婚指輪になるとは、私も予想していなかったけどねぇ。クロードは首を振る。ミカエラは今更になって顔を赤くした。

「――しか、たないだろう⁉それが、一番――……!」

「まぁ、それが貴女様にとって一番の『裏切らない関係』なのであれば、私は別にいいと思いますが」

 羞恥に震える声をクロードはあっさりと、肯定という形で切り捨てる。しかし、と彼は穣の顔を覗き込んだ。

「君にとってはそうではないらしい」

『結婚、裏切り、ねぇ……』

 呆れるような、嘲うような声だった。『彼』に穣は同意する。

「そういうのって、勘違いと願望で成り立ってるんですよ?」

 幼さの残る顔に、およそ似つかわしくない、達観した表情と声。独り言とも取れる呟きに、今度こそミカエラは喰らい付いた。

「そんなことはない!夫婦の心の繋がりはかくも尊いものだ!勘違いなどではない!」

『そうかよ』「さようで」穣達はほぼ同時に、小さく鼻を鳴らした。

「――まぁ、だから契約は成立しなかったんでしょうね」

「…………っ」

 追い縋ろうとしたところにクロードの声が割って入られ、ミカエラは唇を噛んだ。一方の穣は変わらない。

「俺としては好感は持てますがね。大事なものと優先順位がはっきりしてるのは。働くならあなたのような人の下が良い」

 彼は自身でも驚く程に饒舌だった。まるで蓋が外れてしまったように、『彼』が代弁するまでもない程に言葉が次々と出てくる。

「…………」

 真摯であるだけに、その言葉は皮肉るような響きを以て部屋を満たした。それを受けたミカエラは唾棄するように俯く。

「……では、貴方にとっての『裏切らない関係』とは?」

 このままでは話がまとまらないと見たか、ゲルハルトが口を開いた。問われた穣は一拍の間を置いてはっきりと答える。

「雇用契約、ですね」

「――は?」「ふむ?」「…………」

 ミカエラが素っ頓狂な声を上げた。クロードは愉快そうに唸り、ゲルハルトは黙したまま片眉を僅かに跳ね上げた。

「この世界にだってあるでしょう?労働内容と報酬、禁止事項とその罰則と、そのほかいろいろが書かれた紙に、納得したら署名と捺印をするってやつ」

……無いんです?余人の反応の薄さに、穣は目を瞬かせた。

「――せっかくの提案ですが、それは採用いたしかねます」

 真っ先に声を上げたのは他でもないゲルハルトだった。

「この契約は有事の際に貴方を止めるための鎖を付けるためのものです。貴方の提案にある、その方法は魔術の分野に於いては『血判(ギアス)』と呼ばれる、最も強力なものになります」

 しかし、ゲルハルトはそう繋いで

「我が国に於いては、不当な契約の防止の為に、対人での『血判』の行使は法によって禁止されています」

「――だそうだよ?」

「……それは、奴隷相手でも?」

 肩を竦め苦笑するクロード。穣の質問に、ゲルハルトは首肯する。

「奴隷相手でも、です」

「悪魔憑きの怪物で、戸籍を持たない『勇者』でも?」

「……それでも、です」

 一瞬の沈黙が、穣の目には逡巡のように見えた。『彼』が隣で、にたりと笑みを浮かべる。

『『鉄血』たぁ、ご大層な通り名だな。ならもっとらしく、非情になれよ』

 大義があるなら尚更だろ。然るべき表情と声音でその科白を発すれば、それは激励になるのだろうが、『彼』が発したそれは悪魔の囁きと呼ぶに相応しい。ゲルハルトは黙して表情を崩さず、ミカエラが庇うように前へ出る。

「言った通りだ。違法行為だと。私は聖騎士であり、彼は私の直属の部下だ。我々が法を犯しては民に示しがつかない。貴様の案は承諾しかねる」

 視線を外し、穣は肩を竦めるように。眉を動かした。

「なら、如何なさるおつもりで?貴女方の事情も、この国の命運も、俺にとってはどうでもいいものなのですが――」

 辟易したようなため息交じりの声。しかし穣は不意に言葉を切った。一息の間を置いて、口は再び動く。

「俺を殺して、力――これを取り出すというのは?これならヒトに該当しないでしょう?」

 妙案とばかりに声を弾ませて、彼は自らの死を提案する。そこに嫌味や皮肉は無く、自身の命に対する頓着さえ微塵もない。その「なんでもない」顔は、騎士二人の背を冷たく撫で上げる。

「興味深い、けど、それも駄目だろうねぇ」

 ただ一人、クロードだけがそれに、笑って応じる。

「それは君という土壌だからこそ芽吹いたものだから、簡単に植え替えることは出来ないだろう」

「…………」

 穣は眉を八の字に曲げ、「困った顔」を作る。その顔のまま、彼は黒ずんだ指を見やる。

「そう長くはありませんし、その方がお互い楽が出来ると思ったんですが」

 儘ならないことばかりですねぇ。やれやれと穣は『彼』と一緒になって首を振る。

「――待て、どういうことだ?」

 はっと我に返ったミカエラが一歩、身を乗り出す。聞き捨てならないと、彼女は目を見開き、穣とクロードを交互に睨む。

「そう長くない、だと……?」

「ええ。――ほら」

 黒ずんだ指先を、穣は掲げて見せた。見る者によっては、それはただ汚れているだけにしか見えないだろうが、それを『彼』は愉し気に指し囁く。

『これが健康な人間の色に見えるか?』

「…………っ」

 クロードを睨み付けるミカエラ。しかしその目はどこか、縋るようでもある。それを知ってか知らずか、彼は悪びれもせず応えた。

「あなたもご存知でしょう?『憑獣兵』となった人間の寿命は極めて短い。――故に外法なのですし」

 一つの器に二つの魂は、元来混在し得ない。例外はあくまで例外に過ぎない。

「彼等もまた『憑獣兵』です。そしてヒトの躯は、ヒトならざる力、理にやがて耐えられなくなり崩壊する」

『あと二年と保たねぇだろう。昨日みたいな変身は十回出来るかどうか、だな』

「…………」

 絶句するミカエラ。穣はやれやれと首を振る。

「だから申し上げたんです。非常になれと。死んでお譲り出来れば良かったのにと」

「……何故だ」

 一歩詰め寄り、ミカエラは唸る。『彼』への忌避感さえ、薄れてしまう程の何かが、穣を見下ろす双眸には揺らめいている。

 握った手に更に力を籠めるような、悲痛さの滲む押し殺した声だった。穣は怪訝に彼女を見上げる。

「何故そう、無頓着で居られる。貴様の命だろ…………っ!」

 苦しげな糾弾に穣は、唇の端が吊り上がるのを感じた。

「俺の元居た世界の馬鹿どもならいざ知らず、貴女がそれを問いますか。兵役に就く貴女が」

「違う!我々は命を擲つ覚悟を決めているが、それは自身よりも尊いと思うものの為だ。命を軽んじてのことではない!」

 貴様の言にはそれが宿っていない。ミカエラがそう突きつけるより先に、穣は疲れたように笑った。

「俺は俺が嫌いなんですよ」

「――――」

 それはどんな皮肉や嫌味、暴言よりも強く、ミカエラに口を噤ませた。

「生まれてくるべきじゃなかった。俺なんかが生まれたばっかりに、誰も彼も不幸になった」

 無意識なのか、穣は独白の最中、ずっと指を折って何かを数えている。十本しかない指はあっという間に全て曲がってしまった。黒ずんだ指先をぼんやりと見下ろし、彼は呟く。

「この世界でも俺はそういうものだ。俺は、死ぬべき命です」

 傍らの『彼』が、道化じみた大仰な所作で肩を竦める。

「申し上げた。俺は俺も、貴女方のことも、どうでもいい。俺は死ねればそれでいい」

 どうぞ、好きにご利用ください。指折り数えて拳になっていた手を開き、穣はひらひらと、それを振って見せる。

「――――」

 その姿はただただ憐れで痛々しい。どのような環境に身を置いていれば、ヒトはこうなるのか。奴隷の中にさえ、ここまで歪な精神を宿した者を、ミカエラは見たことがない。

「――――――――雇用契約、といったか?」

「――っ、ミカエラ様」

「手順を簡略化すれば、『血判』ほどの拘束力は失われる。そしてそうすればそれは、『血判』とは呼べなくなる。――だろう?アルター卿?」

「そうですね。()が保証いたしましょう」

 ましてそうなってしまった者への、正しい接し方など、彼女に知る由も無い。尤も、専門の医師にさえ、唯一絶対の正解を導き出すことは、きっと出来ない。壊れて歪んでしまったものは、目に見えないヒトの心に他ならないのだから。

「労働内容は、戦闘だ。私が指示する『敵』と戦ってもらう」

「吐き気にも似た胸のムカつきがミカエラを襲う。その不快感につく名前を、彼女は知らない。頑健なプレートアーマーが、胸を掻き毟りたいのを妨げる。

 ただ一つだけ、彼女が自覚出来ていることは――

「報酬は、衣食住の内、食と住の保障。一兵卒としての賃金。それと――、それと……」

 似ても似つかないこの怪物に、母を亡くして間もない頃の自分を重ねているということだけ。

 母上。義母上――

「死ぬまでの間の生に、理由を与えてやる」

――私は、まだこんなにも無力です。あなたがしてくださったことが、こんなにも難しいなんて。

 私は今、どんな顔で彼を見ているのでしょう。

 降りた沈黙は一瞬にも、数刻にも感じられた。何でもない顔で、怪物は首を傾げる。

「署名と捺印をする書類は、どこにありますか?」

 どのような条件を提案しようと、彼は是としか答えないだろう。それでいい。いまはそれで。

 かくて、契約は成された。

お楽しみいただけましたでしょうか?

もっとこまめに投稿できれば。そう思っていたのですが、切るところがいまいち上手く掴めず、結局このような形に……

頑張りたい。色々と。

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