#05
エルズバーグ村に、いつものように陽が昇る。いつもと同じ朝。いつもと違う朝。あたしが、この村で迎える、最後の朝。あたしの、旅立ちの朝――。
昨日ミロンが言ったとおり、騎士団の一人が、一台の馬車と四頭の馬を連れて帰ってきた。飾りっけのない地味な馬車とやせ細った馬だった。陛下を乗せて首都まで行くには、あまりにも粗末なものだけど、贅沢は言っていられないのだろう。騎士団の人からすれば、こんな警備の整わない小さな村にとどまり続けるよりも、早くお城に戻った方がいいに決まっている。
騎士団は今日、都に帰る。あたしも、一緒にこの村を出るつもりだ。王様の側室になるために。イサークのお母さんを救うために――。
アルバロ様は、今すぐでなくてもいい、と言ってくれた。一、二ヶ月して改めて迎えをよこすので、それまでゆっくり準備をしてもいい、と。
でも、あたしにはそんなに時間をかけるなんて考えられなかった。決心が鈍ってしまいそうだから。
二ヶ月もイサークと一緒にいたら、あたし、絶対に気が変わる。やっぱり、イサークと離れるなんてできない! と、言い出すに決まってる。だから、今すぐに旅立つ必要があるのだ。準備はすでにできている。準備と言っても、大したものは持っていない。数日分の着替えだけだ。なんせ、城に行けば何でもある、と、アルバロ様は言うのだ。それは言葉通り、本当に、なんでも用意できるのだろう。何といっても、お城なのだから。
それに――。
あたし自身、あまり多くのものを持って行きたくないのが本音だった。この先、思い入れのあるものを、身近に置いておきたくなかったから。この村は、あたしが生まれ、育った村。この家、この診療所で、あたしは育った。二十五年間、この家で暮らした。あたしの人生のすべてが、この家の中に詰まっている。
でも、あたしはすべてを捨てる。
二十五年間のすべてを捨てて、お城に行くのだ。
家も、思い出も、そして、イサークも――。
あたしはもう二度と、この村には戻らない。戻りたくない。
この先、どんな生活が待っているのだろう? 想像もつかない。でも、今までの生活より楽しいとは思えない。こんな田舎村での暮らしとは比較にならないほどの、裕福な生活が待っているのだろうけど、それでも絶対に、この村の生活よりも、満たされるとは思えない。
でも。
あたしはもう二度と、この村には戻らない。絶対に。
だから、何も持っていかない。この村の思い出を持って行くのは、あまりにも辛いから。
イサークには会っていない。このまま、何も告げずに行くつもりだ。あたしが村を出た後、騎士団の人が、すべてを伝えてくれる。あたしがお城に行き、もうこの村には戻らないこと。代わりにジェシカさんの手術をしてもらうことを。アルバロ様は約束してくれた。都から新しい医者を派遣し、ジェシカさんに適した心臓が見つかれば、すぐに手術をする、と。これでジェシカさんは助かる。イサークも喜ぶだろう。
陛下が診療所から出てきた。ケガはまだ癒えていないけど、右足を引きずりながらも、自分の足で歩いている。鬼女が馬車の扉を開けた。
「多少不都合があるかと思いますが、ご容赦ください」
鬼女は頭を下げた。陛下は、「かまわぬ」と、短く言って、馬車に乗り込んだ。
いよいよ出発だ。
「エマさん、よろしいですか?」
鬼女が言った。あたしは頷いた。
馬車は二頭の馬で引き、アルバロ様が操るようだ。残りの二頭にはウィン様と鬼女が乗る。他の人は歩きだ。もちろんあたしも。これから陛下の妻になるとは言え、今はまだ、ただの村娘。馬や馬車に乗るのは気が引ける。
先頭を鬼女。その後を馬車が続き、その周りを騎士団が囲む。あたしは馬車の後ろについて、最後尾がウィン様だ。
「では、行くぞ!」
鬼女がみんなに号令をかける。
――お別れだね、イサーク。
心の中で呟いた。
「待ってくれ、リュース」
そう言ったのはウィン様だった。鬼女は、何事かと振り返る。
ウィン様はあたしのそばに来て、馬から降りた。
「エマ殿、本当に、このまま行くつもりか?」
「――――」
予想してなかった言葉に、あたしは何と答えていいか判らなかった。
「君が側室になると決意したことについて、何か言うつもりはない。君には君の事情があり、よく考えた上での決意なのだろう。しかし君は昨日、『心に決めた人がいる』と言った。その人に、何か告げておくべきだと、私は思う」
「いいんです。あたしは――」
「良くない」ウィン様はあたしの言葉を遮り、まっすぐに見つめた。「逆の立場ならどうだ? もし君が、何も告げられずに、恋人に去られたとしたら――」
「それは――」
想像してみる。
突然、何も告げずに、イサークが消えたとしたら。
…………。
きっとあたしは、待ち続けるだろう。必ず帰ってくると信じて。決して戻らないとしても、いつまでも待ち続けるに違いない。
あたしはそれでもいいだろう。待ち続けていられると思う。
でも、イサークにはそうなってほしくない。
あたしは、決してこの村には戻らない。そう決めた。そんなあたしをずっと待ち続けるなんて、あまりにもかわいそうだ。
でも、今彼に会うと、決心が鈍るのは目に見えている。それではダメなのだ。ジェシカさんを救うことはできない。
会いたい……でも会えない……ゆれる心。
と、ウィン様があたしの両肩に、そっと手を置いた。
「会うべきだ――」
そう言って、ほほ笑んだ。その笑顔が、あたしの背中を押してくれた。
「判りました……会ってきます」
「それがいい。我々はここで待っている」
あたしはイサークの家に向かった。
トントン。ドアをノックする。何度も通った、イサークの家。何度も叩いた、このドア。でも、これが最後になる。
しばらくして。
がちゃり。ドアが開き、イサークが現れる。
「おはよう、イサーク。ゴメンね、まだ早いのに」あたしは、なるべく笑顔を作る。
「おはよう、エマ。いいんだ。俺も、会いたかった。昨日はすまなかった。つい取り乱して、なんか、食ってかかっちゃって、ホント、悪かったな」
イサークは、照れたように鼻をかき、そして、笑顔。
ずるいよ、イサーク。あたしがあなたの笑顔に弱いの、知ってるんでしょ?
決心が鈍りそうになる。あたしがお城に行くなんてことは、考えてもいないのだろう。
だめだ。言わなきゃ。
彼の笑顔はいつもと同じように見えるけど、いつもと同じではない。あたしには判る。笑顔の裏には、隠しきれない影が見える。母親を失うことに対する悲しみが見える。
あたしは、今さら引き返せない。ここで引き返すのは、ジェシカさんを見捨てるということ。イサークを悲しませるということ――。
だから。
「あのね、イサーク。あたし、アルバロ様にお願いしたの。ジェシカさん、すぐに手術してくれるように。そしたら、OKだって」
「ほ……本当か?」イサークの笑顔から影が消えた。希望が戻ってくるのが判る。
「うん。都から、すぐに心臓移植手術の名医が来てくれるそうなの。移植する心臓も、本当なら何年も待たなきゃいけない所なんだけど、特別に、見つかり次第すぐにジェシカさんに回してくれるって」
「そんな? 本当か?」
「うん! 約束してくれたよ」
「そうか……良かった……本当に良かった……」
イサークは、昨日と同じように泣き崩れた。でも、それは昨日とは違う涙。絶望に支配された涙ではない、笑顔とともに出る涙だった。
――あたしは、あなたのその笑顔のためなら、何だってできる。
「イサーク、でもね……」
「ん?」
「あたし、お城に行くことになったの」
イサーク、キョトンとする。何を言ってるのか判らないって顔。
「お城に行くって、なにをしに?」
「――――」
一瞬、言葉に詰まった。
ただ、お城で働くことになった、ジェシカさんの手術と引き換えに。そう言うこともできる。王様と結婚するなんて、わざわざ言わなくてもいい。この村からあたしがいなくなることに変わりはない。二度と会わないのだから、ウソがばれる心配も無いだろう。
でも、それは卑怯だと思った。
あたしは他の人と結婚する。どんな理由があれ、それはイサークを裏切ることだ。隠しておくことなんて、できない。
「あたし、王様と、結婚するの」はっきりと、言った。
「はぁ? 何バカなこと言ってんだ?」イサークはあたしの言葉を笑い飛ばす。
当然だよね。あたしだって、この話を聞いたときは、笑うしかなかったもん。誰も本当のことだなんて思わないよね。
でもね、イサーク。これ、本当なんだよ。
「イサーク。冗談じゃ、ないんだ。本当にあたし、王様と結婚することになったの。正規の奥さんじゃないけどね。側室、って、言うんだって。王様にはたくさんの奥さんがいて、その一人に、あたしが選ばれたの」
あたしはまっすぐにイサークを見つめ、そう言った。初めは笑っていたイサークの顔が、だんだん険しくなる。ウソや冗談ではないことを、感じ取ってくれたのだろう。
「――何、バカなこと言ってんだ」
イサークの顔から完全に笑顔が消える。その顔を見た瞬間、あたしの頭の中は真っ白になり、言葉が出てこなくなった。言わなきゃいけないこと、言っておきたいことが、たくさんあるはずなのに、何も言えなくなってしまった。だから。
「――ゴメンね、イサーク」
謝るしかできなかった。昨日と同じように。
「――まさか、それと引き換えに、母さんを手術してくれるように頼んだのか?」
イサークの言葉に、あたしは黙って頷いた。
「なんで――なんでだ? なんで――」
イサークも、言うべき言葉を見つけられない。昨日と同じように、なぜ、どうして、を繰り返す。
「本当に、ゴメンね、イサーク。あたし、もう会えないから――」
あたしはイサークに背を向けた。
「おい!」
イサークが叫ぶ。あたしの肩に手をかける。引き寄せようとするのが判るけど、あたしは。
「止めないで!」
叫んだ。心の底から。
イサークの手が、肩を離れる。
「お願いイサーク。止めないで。あたし、もう決めたんだから。今止められたら、それに甘えちゃう。でも、もうそれはできないの。だから、お願い」
あたしは振り返り、イサークの顔を見た。でも、よく見えなかった。いつの間にかあふれ出した涙で、彼の顔は曇っていた。止めようとしても、止まらない。涙は頬を伝い、地面を濡らした。
「――さよなら、イサーク」
あたしは歩き始めた。
ウィン様が迎えてくれる。
「行きましょう」
あたしがそう告げると、みんな、黙って、歩き始めた。
「エマ! こんなの、こんなのは! 俺は認めない! 絶対に! 絶対に認めないぞ!」
イサークが叫んでいる。
でも、あたしは振り返らない。
ゴメンね、イサーク。あたしはもう、あなたの元には戻れない。お母さん、大事にしてね。
そして、幸せになってね。
あなたはきっと、あたしがいなくても大丈夫。すぐに、素敵な人が現れるよ。あたしなんかより、ずっと素敵な人が。それを思うと、ちょっと妬いちゃうけど、でも、あなたには、幸せになってほしい。ホントだよ。
イサークは、まだ叫んでいた。
「いつか必ず……必ず! 俺はお前を迎えに行く! こんなのは認めない! 俺はお前を、絶対に! 絶対に! 離さないからな!」
――――。
ダメだよイサーク。そんなこと、言っちゃ。あたし、期待しちゃうじゃん。
いつかイサークが迎えに来てくれる――そのことを信じて、あたし、いつまでも待っちゃうよ。
でも、ムリだよ。
迎えに来るなんて、できるはずがない。王様の奥さん――王妃様になるんだから、あたし。できないこと、言っちゃダメだよ。あたし、本当に期待しちゃうから。
だからゴメン。あたし、今の言葉、忘れるね。
あたしは、あなたを待たない。もう二度と会うことはない。
だからイサーク、本当に――本当に、さよなら。
さよなら――。
(第1話・終)