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#04

 翌朝。

 押しかけの身としては、少しでも早く起き、朝の支度の一つでもしないと、と思い、あたしはイサークとジェシカさんより早く起きた。窓を開けると、眩しい朝日とさわやかな鳥の鳴き声。向かいの我が家の前には、相変わらず槍と鎧で武装した騎士が数人仁王立ち。ああ、今日中に帰ってくれればいいんだけど……なんて、言っちゃだめか。我が家を占拠されたとはいえ、彼らのおかげでジェシカさんの病気を治す希望を持つことができたんだ。むしろ、感謝しなきゃいけないかも。

 ……でも、あの鬼女だけには感謝したくないかな。

 ま、それはいいや。あたしは台所に行き、朝食の準備に取り掛かる。麦がたくさんあったので、それでおかゆを作ることにした。鍋に水と麦を入れてフタをし、火にかける。イサークは今日も狩りに行くだろうから、お弁当も作ってあげよう。作り置きのパンと、この前の野ウサギの肉を薫製にしておいたものを用意。それだけだと味気ないから、サラダでも作ろうかな。野菜野菜、と。

 そうこうしているうちに、イサークが起きて来た。寝ぼけ眼で台所に入ってくる。

「おはよ、イサーク」

「ん、エマ。そうか、昨日は泊ったんだったな」

「もうすぐごはんができるから、顔を洗ってきて」

「ああ、ありがとう」

 イサークは裏口から外に出て、井戸の方へ歩いて行った。うーん、なんか、新婚さんみたいだね。ふふ。

 おっと、そろそろおかゆ、できるかな。お鍋のふたを開ける。うん、いい感じ。

 ジェシカさんはもう起きてるかな? あたしは火を消し、ジェシカさんの寝室へ行く。

「ジェシカさん、おはようございます」

「ああ、エマ。おはよう」

「どうですか、体調は?」あたしはジェシカさんに手を添え、身体を起こすのを手伝う。

「うん、今朝はかなりいいみたい。ありがとう」

 確かに、ジェシカさんの顔色、いつもよりいいみたい。

「すぐ朝ごはん、持ってきますね」

 あたしは台所に戻ると、お皿におかゆをつぐ。イサークも戻ってきたので、彼にも手伝ってもらい、三人分部屋に運んだ。

「いただきまーす」

 三人で手を合わせ、朝ごはんの始まり。あたしはおかゆを一口パクリ。うーん、おいしい。みんなもおいしそうに食べてくれる。ああ、なんだか幸せだな。本当に家族みたいだ。あたしはイサークの顔をじっと見つめ、昨夜のことを思い返す。

 ――母さんを任せられるのは、君しかしない。

 そう言ってくれたイサーク。うふ。ああ、本当にあたし、この人のお嫁さんになるんだなぁ。いろいろあるけど、あたし、幸せだよ、うん。

「――なんだ、エマ?」イサーク、怪訝そうな顔であたしを見る。

「ううん、なんでも」

 ただ、幸せを満喫してただけだよ――と、心の中で言って、あたしはまた、おかゆをすすった。

 朝食が終わった後、イサークにお弁当を渡し、見送る。今日も頑張ってね、イサーク。

 ……さて、これからどうしようかな? 普段ならお仕事だけど、家はいまだ占拠されている。あの人たち、いつまでいるんだろ? ちょっと聞いてみるか。あたしは外で警備をしている騎士の中からミロンの姿を見つけ、声をかけた。

「おはよ、ミロン」

「エマ様。おはようございます」ミロン、あたしの姿を見るなり最敬礼。

「もう、恥ずかしいから、そんな、かしこまらなくてもいいよ」

「あ、はい。すみません」今度は深く頭を下げる。もう、そういうのがいいって言うのに。

「ところで、王様の容体はどう?」

「はい。おかげ様で、特に問題はないようです。今、隊の者が近くの街に馬車を調達しに行っています。明日の朝には戻るとのことなので、もうすぐ出発できそうです」

 ふむ、明日の朝か。できれば今日中に家を返してほしかったけど、ま、王様の容体を考えると仕方ないかな。さすがにあの傷で首都まで歩いてもらうわけにはいかないし、それ以前に王様だ。怪我が無くても首都まで歩いたりはしないだろう。でも、この村には馬車なんてないし、調達しようと思ったら隣街まで行かなきゃいけない。丸一日は掛かるだろうな。

「そう。良かった。今度は無事に帰れるといいね」

「はい、ありがとうございます」

 あたしはミロンと別れ、イサークの家に戻った。今日はイサークの家の掃除でもしようかな。よし。気合を入れて、ピカピカにするぞ!


 日が暮れて。

 家中の掃除を終えたころ、イサークが帰ってきた。今日は何とイノシシを一頭仕留めてきた。かなりの大物だ。うーん。見事な腕前。村の人におすそ分けしても、しばらく肉には困りそうにないかな。よーし。今日も腕によりをかけて、特製シチューを作りますか。そうだ。騎士団の人の分も作ってあげよう。王様は、鎮静剤を飲ませただけでひっぱたかれるくらいだから、食べてもらえそうにはないけど、ミロンなら大丈夫だろう。ミロン、今日一日ほとんどずっと、外に立っていた。何も起こらなかったけど、さぞかし疲れただろう。警備の仕事も大変だな。よし。がんばろう。

 あたしはイサークにお肉の下準備を任せると、特製シチューの準備に取り掛かった。

 トントン。と、玄関をノックする音。誰だろ?

 あたしは玄関を開ける。ミロンが立っていた。

「あら? ミロン。どうしたの?」

「恐れ入ります。アルバロ様がエマ様にお話ししたいことがあるそうなのです。申し訳ありませんが、お越し願えませんでしょうか?」

 ん? あの魔術師兼お医者様が? 何の用だろ? 

「用件は直接お話しするそうです。よろしいでしょうか?」

「うん、判った。ちょっと待ってね」

 あたしはイサークに出かける旨を伝え、ミロンとともに診療所へ向かった。

 部屋に入ると、中には医者兼魔術師のアルバロ様と、例の鬼女、そして、昨夜ベルンハルト陛下のそばに立っていた背の高い騎士の三人がいた。王様の姿は見えない。ベッドも無いから、奥の部屋に移動したのだろう。その方が警備しやすいのかもしれない。

 と、部屋を見回していると、背の高い騎士と目が合った。

 ――――。

 あたし、不覚にもドキっとしてしまった。

 昨夜は王様に会うということに緊張しすぎていて、こんなことまで気が回らなかったのだけど、改めて見ると、その背の高い騎士、すごく、その……何と言うか、つまり、イイ男なのよ。うん。

 背はイサークよりも少し高い。細身ではあるけれど、ひ弱な印象は受けない。良く磨かれた銀の鎧の下に、鍛え抜かれた身体を想像できる。顔は、あたしがこれまでの人生で見たこともないくらいの美形。目が合った瞬間、お酒に酔ったような感覚がしたくらい。ベルンハルト陛下もハンサムだったけど、この人も決して負けてない。隣の鬼女だって、性格はともかく、外見だけは本当に美人だ。うーん。身分の高い人って、やっぱりそれだけで美男美女になるのだろうか。なんか、不公平だな。

 …………。

 いやいや。あの騎士、確かにイイ男だけど、イサークはもっとイイ男だ。これは、負け惜しみでも何でもないぞ。うん。

 そんなどうでもいいことを考えていると。

「急に呼び出してすまぬな、エマ殿」アルバロ様が口を開いた。「わしと、リュースはもう知っておるな?」

 言われ、あたしはこくんと頷く。鬼女は、眼だけで礼をした。

「彼はウィン・アスティル。近衛騎士団の隊長をしておる」

 アルバロ様は背の高い騎士を紹介した。騎士ウィン様は深々と頭を下げる。実に優雅な動作だった。その姿に、あたしは思わず見とれてしまった。

「お呼びしたのは、他でもない。そなた、陛下の世継の問題を知っておるか?」

 は? と、思わず声をあげそうになった。あまりにも予想外の言葉だった。

 世継とは、陛下の後継ぎのこと。次の王様になる人だ。つまり、現陛下の子供(いるのかいないのか知らないけど)になるんだろう。でも、それがあたしと何の関係が?

「最初から説明しよう。陛下は十八歳のときにご結婚された。今から十二年前になる」

 陛下はご結婚されてるのか。知らなかった。エルズバーグは田舎村だ。都の情報なんてほとんど入ってこないから、仕方ないけどね。

「結婚と同時に、我らは子供の誕生を期待した。王妃には、早く子供を産んでもらわねば、と、皆思っていたが、何年経っても、お二人の間に子供はできなかった。そこで、医者が王妃の身体を診察し、大変なことが判った。王妃は、子供ができぬ身体だったのだ」

 重苦しい口調で話すアルバロ様。あたしは何と言っていいか判らず、ただ黙って聞いていた。

「我らは焦った。世継の問題は、国の存亡にも関わる。それが、産まれない、ではすまぬのだ。そこで我らは、側室制度を作った」

「側室?」

 聞きなれない言葉に、あたしは首をかしげた。

「王の本来の妻を、正室と呼ぶ。それ以外の妻を、側室と呼ぶのだ」

 …………。

 なんか今、さらっと説明されたけど、とんでもないこと言わなかった?

 本来の妻以外の妻?

 何なの、それ?

 妻って、普通、一人でしょ? 何でそれ以外に妻が必要なのよ? 意味わかんないよ。

「そなたが怪訝に思うのは無理もない。このブレンダは、一夫一妻の制度が根付いておる。しかし、世界的に見れば一夫多妻制、つまり一人の夫に多数の妻、という制度は、さほど少ないことではないのだ」

 ……そんなバカな。

 一人の夫に多数の妻?

 冗談じゃないよ、それ。

 例えば、イサークにあたし以外の奥さんがいるってことでしょ?

 あたし、イサークのそばにあたし以外の女の人が寄り添う姿を想像する。あたし以外の女……なぜか、目の前にいる鬼女の姿が思い浮かんだ。

 …………。

 ……ああ、腹立ってきた。イサークのヤツ、美人だからってデレデレしやがって。帰ったらひっぱたいてやる。

 なんて想像でヤキモチ妬いてしまうくらい、腹立たしいことだよ、それ。

「まあ、側室の制度に関しては城内でも否定的意見はまだ多いが、それでも、それを設けねばならぬほど、王に子供ができぬというのは深刻な問題なのだ」

 うーん。まあ、あたしの道徳観で判断しても、しょうがないかな。この人たちと、あたしじゃ、価値観がずいぶん違うのだろう。たしかに、王様に子供ができないとなると、国としては一大事だ。

 でも、何でそんな話を、あたしにするんだろう? 話が見えてこないんだけど?

 なんて思ってると、アルバロ様、あたしが予想だにしなかったことを言い出す。

「そなた――陛下の側室になる気はないか?」

 …………。

 …………。

 …………。

 ……はぁ?

 何言ってんだ、このジジイ。ボケてんのか?

 ……と、言葉が乱れた。失礼。

 何をおっしゃるのですか、このおじい様は。痴呆になられたのでしょうか?

 …………。

 ……なんか違うな。

 っていうか、言葉遣いはどうでもいいのよ。えーっと、何だっけ?

 …………。

 …………。

 …………。

 あたしが、王様の側室になる?

 …………。

 何言ってんだこのジジイ、ボケてんのか?

 ……だめだ。これじゃ無限ループだよ。

 えーっと……。

 …………。

 …………。

 …………。

 ダメだ、何言ってるのかわかんないや。もう寝よう。おやすみ。

「大丈夫か? エマ殿?」

 アルバロ様に声をかけられ、正気を取り戻した。なんか今、あたし、別世界に行ってたような。

 …………。

 正気を取り戻したけど、事態が把握できない。うーん、と……。

「すみません、もう一度言ってもらっていいですか?」

 訊いてみる。ホントはなんて言ったのか、心の奥では理解してるんだろうけど、どうにも、それが受け入れられない。もしかしたらあたしの聞き間違いってこともあるから、今度はしっかりと聞いておこう。

「陛下は、そなたのことが大変気に入られたようなのだ。そなた、陛下の側室になる気はないか?」

 …………。

 ダメだ。何度聞いても同じだ。

 でも、もう現実逃避するのはやめよう。あたし、ちゃんと理解できてるから、今の言葉。ちゃんと対応しないとね。行くよ、エマ。心の中で気合を入れる。せーの。

「ええええぇぇぇぇ!!!!」

 あたしはこの身体の中のどこにそんな力があったのか、と思うくらい大きな声で叫んだ。アルバロ様もウィン様も鬼女も耳をふさいでいる。

「大きな声を出すでない」アルバロ様、呆れた口調。

「だ……だ……だ……だって、王様の、奥さんですよ? あたしが、ですか?」

「そうだ」

「そっ、そんな! 冗談はやめてください!」

「冗談ではない。わしは本気だ」

 アルバロ様は、そう断言した。

 なんて言ったらいいのかな。王様の奥さんだって。あはは。もう、笑うしかないよね。

「突然のことで驚くのも無理はない。こう言うと失礼ではあるが、そなたは一介の田舎の娘。城に迎えるような身分ではない」

 ……それは認めるけど、そうはっきり言わなくてもいいじゃないか。

「しかし、陛下はもともと身分であるとか地位であるとか、そう言ったものを気にしないお方。そなたのような出の者も、城には多くいるのだ」

「でも、よりによってあたしなんか選ばなくても、って、思うんですけど。あたしなんて、何もできない、ホントにただの田舎娘なんですから」

「そんなことはあるまい。そなたは医学の知識があり、容姿とて、そう捨てたものではない。今朝、向かいの家の猟師に聞いたが、料理もうまく、気立てもいいそうではないか」

 ……イサーク、そんなこと言ったの? 彼がそう思ってくれてるのはうれしいけど、なんかこの場合、余計なことを言ってくれたような。

「そんなことないです! あたしなんて、薬草煎じるくらいしか能がなくて、薬草より、料理に使う野草を探すほうが好きなくらいだし、料理だって、薬か? って思われるくらい、マズイ物しか作れないんですよ。あはは」

 苦笑とともに、あたしはそう言った。

「エマさん――」鬼女があたしを見た。「突然のことで動揺されるのは判りますが、アルバロ様は、真面目な話をしておられるのですよ。そちらも真面目に答えていただかないと、失礼ではないですか?」

 なんだか怖い顔をしていた。ちょっとふざけすぎたかな。まあ、この人はもともとあんな顔のような気もするけど。でも、確かに鬼女の言う通りかもね。冗談みたいな話だけど、本気なんだったら、あたしも本気で答えなければいけない。

「判りました。申し訳ありません」

 とりあえず謝る。鬼女は、特に何も言わなかった。

「うむ。まあ気にするな。――で、どうだ?」

 アルバロ様の言葉に、あたしは、まっすぐに眼を向け、そして、言う。

「申し訳ありませんが、お受けすることはできません」

「――――」

「あたしには心に決めた人がいるんです。その人と、もうすぐ結婚します。向かいの家の、イサーク・バーン。あたしの幼馴染です。小さい頃から、ずっと一緒にこの村で育ちました。だから、いつの間にかあたしたち、二人で一人の存在になってたんです。あたしは彼のためなら何だってできるし、彼がいないと何もできません。ベルンハルト陛下も素敵な方だと思いますが、あたしにとっては、イサーク以外は考えられないんです。それに、お城の事情も判りますが、あたしには、奥さんが何人もいる、なんて、我慢できそうにないです。だから、申し訳ありませんが、そのお話は、お受けできません」

 そう言って、あたしは深く頭を下げた。

「しかし、陛下の側室だぞ? 大変名誉なことなのだぞ? そなたには、それが判らぬのか?」

 アルバロ様はあたしの言葉に納得がいかない風だ。でも、何と言われようとも、あたしの思いは変わらない。

「名誉なのは判りますが、何と言われても、あたしにはできません。申し訳ありません」

「だが――」

「アルバロ様、仕方がないではありませんか」そう言って、老魔術師を制したのは、あの背の高い騎士、ウィン・アスティルさんだった。「エマ殿は断ると言っているのです。彼女にはすでに心に決めた人がいる。それは、名誉などで変えられるものではないのです」

 そう! そうなのよ! あたし、ウィン様のセリフに思わず頷く。田舎村の狩人と大国の王様。誰がどう見たって、王様の方が立派な身分。でも、結婚って、そんな問題じゃないんだよね。あたしはイサークが好き。それしかないんだよ。うん。

「ウィンの言う通りですよ、アルバロ様。無理強いすることではありません」鬼女も、ウィン様に同意した。「エマさん。お手間を取らせましたね。もう下がってよいですよ」

「あ、はい。判りました。じゃあ、失礼します」

 あたしはもう一度頭を下げ、部屋を出た。

 …………。

 って言うか、ここはあたしの家だぞ。何が「下がってよいですよ」だ。あの鬼女め。

 あたしはすっかりブレンダ騎士団に占拠されてしまった自分の家を出て、向かいのイサークの家に向かった。

 ふう。それにしても、驚いたなぁ。王様の奥さん、だって。あたしみたいな女を、正規ではないとは言え、お妃にしようなんて、何考えてるんだろう? あの人たち。

 …………。

 お城での生活って、どんなんだろうな?

 あたしみたいな田舎者には想像もつかないけど、きっと、仕事なんて何もせず、毎日お茶会や舞踏会みたいなパーティー開いて、一日優雅に暮らせるんだろうな。うーん。それはそれでうらやましいかも。

 なんてね。

 ま、今のあたしにはそんな生活必要ない。あたしに必要なのは、イサークだけ。彼以外の人と結婚するなんて、考えられないよ。うん。

「ただいま、イサーク」あたしは笑顔で玄関を開けた。

 ――と、あたしの目に飛び込んできたのは。

「母さん! しっかりしろ!」

 叫ぶイサークと、ベッドの上で苦しそうに胸を押さえるジェシカさんの姿だった。

 一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。ただ、呆然と玄関に立ち、母の名を叫ぶイサークの姿を見つめているだけ。

「エマ! 母さんが!」

 呼ばれ、我に帰った。自分が医者であることを思い出し、あたしはジェシカさんに駆け寄る。

 ジェシカさんは胸を押さえ、目を閉じ、歯を食いしばって、痛みに耐えていた。額には玉のような汗が浮かんでいる。手を当てると、信じられないくらいの高熱だった。

「イ……サーク……」

 名を呼ぶ声は、やがてうめき声に変わり、胸を押さえる手はかきむしるような動作に変わった。まずい、と、あたしは思った。思ったけど、何もできなかった。鎮痛剤や解熱剤なんかでは、対応できない状態だった。

 どうしたら――?

 思い当たったのは、アルバロ様の顔。

 あたしは家を飛び出し、診療所へ駆けこんだ。

「アルバロ様! ジェシカさんが! お母さんが!」

 ドアを開けた瞬間、あたしは叫んでいた。


「――眠ったようだ。今日のところは、もう大丈夫だろう」

 アルバロ様の言葉に、あたしとイサークは体中の力が抜ける。立っていられなくなり、二人して床に座り込んだ。

 あたしは、アルバロ様の手がちぎれるくらいに引っ張り、彼を部屋に連れてきた。アルバロ様は苦しむジェシカさんに、昨晩と同じ右手の青い光を当てた。その後アルバロ様が何かつぶやくと、その光は薄い赤色に変わり、それをかざされたジェシカさんの顔から徐々に苦悶の表情が消え、安らかになっていった。痛みが引いたのだろう。今は静かに寝息を立てている。

「あ――ありがとうございました」イサークが頭を下げた。

「礼には及ばぬが――昨日も言ったが、母君の容体は良くない。今は魔法で痛みを抑え、眠らせたにすぎぬ。根本的に治療するには、やはり心臓移植しかない」

「――――」

 言葉を見つけられず、あたしもイサークも、ただ黙って顔を見合わせた。

 心臓移植。首都ターラでのみ行える、特別な治療。その方法でしか、ジェシカさんの病気は治せない。でも、それには莫大な費用が必要で、移植可能な心臓が見つかるのにも長い時間がかかる。

「母は……このままだと、どれくらい生きられるのでしょうか……?」

 イサークが、目に涙を溜めながら訊いた。アルバロ様は、言いにくそうな、硬い表情になる。いやな予感がした。聞きたくない。耳をふさいでしまいたい。でも、聞かないわけにはいかなかった。アルバロ様は、ゆっくりと口を開いた。

「もって、あと一年か――」

「――――」

 彼の言葉は、容赦なくあたしたちを打ちのめした。

 あと、たった一年?

 あまりにも突然に突き付けられた、あまりにも短い時間だった。

「そんな――なんとかならないんですか?」

 あたしはすがりつくようにアルバロ様に言った。

「すまぬが、移植以外ではどうすることもできん」

 アルバロ様はそう言い残し、部屋を出た。残されたあたしたちは、ただ、途方に暮れるしかなかった。

 ジェシカさんの命は、あと一年。

 治療には心臓移植しかない。しかし、移植する心臓が見つかるには、数年を要する。まして、手術するための費用を用意するには、何年かかるか判らない。

 ――あたしとイサークが一緒なら、お母さんの病気なんて、きっと、簡単に治せるよ。

 昨夜、二人で星空を見上げ、思ったことは、いったい何だったのだろう? 今思い返すと、滑稽ですらある。

 二人で力を合わせて、病気を治す?

 イサークは都で働いてお金を稼ぎ、あたしはその間、ジェシカさんのお世話をする?

 何年かかるか判らないけど、きっと、ジェシカさんを治すことができる?

 そんなことは、不可能だったんだ。実際にあたしたちに与えられた時間は、たった一年しかなかったなんて!

 なんで……こんなことに……。

「なんで……こんなことに……」

 あたしの心の声を、イサークが口にした。彼も、同じことを考えていたのだろう。

「なあ、エマ。なんでなんだ? なんで、母さんがこんな病気になって、でも、治療すらできないんだ? なぜだ! どうしてなんだ!」

 肩を掴まれ、激しく揺さぶられた。彼は泣いていた。記憶にある限り、彼が泣くのは、子供のとき以来だ。

 励ましてあげたかった。

 イサークは今、傷ついている。励ましてあげられるのは、あたししかいない。そう思った。思いたかった。

 でも――。

 かけるべき言葉が見つからなかった。

 何を言っても励ましにはならない。言葉では、彼の傷を癒すことはできないから。

 だから。

「ゴメン――ゴメン、イサーク」

 ただ、謝るしかなかった。

 イサークは床に伏し、嗚咽を漏らす。

 イサークが苦しんでいる。

 でも、あたしには何もできない。

 彼の苦しみを解き放ってあげられない。あたしには、イサークのお母さんを治してあげられないから。

 あたしは、無力だ。医者なんて言ってるけど、愛する人一人救ってあげられない。

 そっとイサークの肩を抱き、あたしも泣いた。

 ゴメンね、イサーク。

 あたしには何もできないの。ゴメンなさい。無力なあたしを許して。

 あたしは、何もできない自分が情けなくて、悔しくて、ただ、イサークを抱いて、声をあげて泣き続けた。

 …………。

 …………。

 …………。

 ……何もできない、ですって?

 そんなことは、ない。

 あたしには、できることがあるじゃないか!

 自分に言い聞かせる。

 …………。

 そうだよ。

 あたしには、イサークのためにしてあげられることが、ある。

 イサークのお母さんを救ってあげるために、あたしにできることが、一つだけ、ある。

 あたしは立ち上がり、そして部屋を出た。イサークは、泣き続けていた。

 ――さよなら、イサーク。

 涙をぬぐう。

 そして、向かいの診療所のドアを開けた。

 中にいるのは、ブレンダ騎士団。あたしはその中から、アルバロ様の姿を見つける。そのそばには、あの背の高い騎士ウィン様と、鬼女もいた。

 あたしはそばに歩み寄る。三人が、こちらを見た。

 大きく息を吐き出し、心を落ち着ける。そして。

「――アルバロ様。あたし、お城に行きます。ベルンハルト陛下の側室になります。だからお願いです。ジェシカさんを――イサークのお母さんを、助けてあげてください!」

 決意を込めて、そう言った。



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