#08
ターラ駅を出発して翌日の夕方、あたしたちは、エンフィールドの街の駅に降り立った。ターラ駅と比べると格段に小さく、人通りも少ない駅だった。駅から一時間ほど歩き、さらに人通りの少なくなった街はずれに、クローサーの隠れ家はあった。あたしたちは遠くの物陰に隠れ、その様子をうかがう。表向きは食料倉庫とされているらしい。しかしよく見ると、ただの食料倉庫にしては警備している人の数が多く、みんなやたらと殺気立っている雰囲気だ。
「さて、エマ様。本当に、正面から行っていいんですね?」クレア、律義にあたしの出した条件を守って、かわいいメイド口調で言う。
「ええ。もちろんよ」緊張を隠すように、あたしは力強く答える。
「一応言っておきますけど、ここはクローサーの秘密の隠れ家です。ブレンダの人に知られるわけにはいきません。エマ様たちが中に入って、無事に帰してもらえるとは思えませんよ? 人質にされるか、その価値もないと判断されれば、殺されるだけです」
口調はかわいらしいけど、言ってることは物騒だ。そして、それは脅しではなく、その通りなのだろう。
「そうね。でも、やるしかないわ。そうでしょ? シャドウ」
シャドウを見る。無言で頷いた。
クレアは、やれやれ、といった表情で首を振る。彼女は彼女で、できればあたしたちを連れて行きたくないのだ。騎士団に隠れ家の情報を漏らした、と思われたら、せっかく恩赦で死刑は免れたのに、今度は仲間に殺されかねない。
でも、クローサーのナンバー2と交渉するには、彼女に取り次いでもらうしかない。あたしは、お願い、と、目で合図した。
「判りました。じゃあ、行きましょう」
クレアを先頭に、あたしたちは倉庫の入口に向かった。入口の前には二人の男。あたしたちが近づくと、警戒感をあらわにし、腰に携えている剣に手を当てた。クレアが二人に話しかける。あたしたちは少し離れた場所でそれを見守る。少しもめているように見えた。やはり、問答無用で捕らえられてしまうのだろうか? シャドウを見る。殺気立つのが判った。いつでも戦闘できる状態だ。空気が張り詰め、息がつまった。
やがて、クレアが戻って来た。
「とりあえず、会ってくれるそうですよ。良かったですね、エマ様」にっこりと笑う。
あたしから言い出したことだけど、緊張感のないクレアの口調に気が抜けた。でも、とりあえず良かった。あたしは気を取り直し、男たちに連れられ、倉庫の中に入った。
広い建物の中には、所狭しと木箱や麻袋が積み上げられていた。お米や麦、トウモロコシなど、穀物が主だ。それらの間を縫うように奥へ進み、小さな部屋へ通された。簡素なテーブルとベッドなど最低限の家具があるだけの狭い部屋だ。中には三人の男。うち二人は護衛で、部屋の隅に武器を携えて立っている。もう一人、テーブルの向こう側に座っている、がっしりした体格で髭もじゃの男が、おそらく目的の相手だ。部屋に入るなり、あたしたちをギロリと睨んだ。
案内してくれた男が、その髭もじゃ男に耳打ちする。髭もじゃ男は、面白いおもちゃを見つけた子供のように、にたりと笑った。
「これはこれは。ブレンダ王の側室、エマ・ディアナス様。ようこそいらっしゃいました。私はここの管理人、ルーファス・アクロイドです。まあ、おかけください」
手前の椅子を勧められたので、あたしは遠慮なく座った。そばにシャドウが立ち、クレアは後ろに控えている。
「それで、今日はどのような御用で?」舐めまわすような、不快な目であたしを見るルーファス。
「ブレンダ王妃・エリザベートを殺害した犯人、イサーク・バーンを引き渡してほしいの」
あたしが単刀直入に言うと、ルーファスは驚きと呆れを混ぜ合わせたような複雑な顔になる。まあ、ムリもないだろう。敵地に乗り込んで、いきなり自分の要求を突き付けたのだから。こういった交渉の場合は、まず相手の話を聞いて出方を見たり、世間話で性格をつかんだり、あるいは相手の弱点を探って突いたりするのだろう。相手もそう来ることを予想していたはず。でも、残念ながらあたしにそんな技術は無い。ヘタな小細工などムダだろう。ならば、正面からぶつかる方が効果的だ。と、言うより、それしかできないのだ。
が、結果としてあたしの言葉は、相手の意表を突いたようだ。かなり戸惑っているのが判る。あたしはさらに言葉を継いだ。
「彼が今、ここにいるのは判ってるのよ」
もちろんウソだ。クレアが「イサークはここにいる可能性が高い」と言っただけで、それには何の根拠もない。冷静に考えれば、クローサーの一員であるクレアが、本当にイサークがいる場所に案内するかは疑問だ。それも、ブレンダ国内でクローサーの活動拠点となっているような、重要な場所に。でも、今さらそんなことは考えてもしょうがない。クレアはあたしの友達なのだ。あたしにウソを言うとは思えない。だから、クレアのことを信じる。
……これをリュースが聞いたら、また怒るか呆れるかのどちらかだろうな。
と、ルーファスは、突然おかしくてたまらないというように、大声で笑った。
「……いや、参りましたな。あれこれ小細工なしに、いきなり正面からぶつかってくるとは。エマ・ディアナス様。気に入りましたよ」ルーファスは、笑うのをやめた。「では、こちらも小細工なしに行きましょう。はい。イサークは我々がかくまっています」
お? あたしの適当作戦も、なかなか捨てたもんじゃないな。イサークがいると、相手にあっさり認めさせたぞ。自信が沸いてくる。「では、引き渡してくれるわね?」
「それは、少しばかり都合が良すぎる話ですな。彼は、憎きベルンハルト王の妻を葬ったのです。まあ、本来はベルンハルト自身を葬るために差し向けたのですから、失敗と言えば失敗ですがね。しかし、彼がこの国に大きなダメージを与えたことは間違いない。言わば彼は、我々にとっての英雄なのですよ。引き渡せと言われて、はいどうぞ、と、いうわけにはいきませんな」
「英雄? 彼が、クローリナスの?」あたしは、あざ笑うように言った。「とんでもない。彼はクローリナスを危機におとしいれた男よ」
その瞬間、ルーファスの目つきが変わった。「どういう意味です?」
「王妃が殺され、ベルンハルト王は怒りに我を忘れているの。全戦力をもって、クローリナスへ攻め込むと言ってるわ」
精一杯高圧的な口調で言う。これは脅しではなく、本当のことだぞ、と、目で訴える。あたしみたいな、普段のほほんとした人間が頑張ったところでたかが知れてるだろうけど、言ってることは本当なのだから、それなりに真に迫ってるだろう。そう思いたい。
あたしの意図が通じたかどうかは判らない。ただルーファスは、フン、と、鼻で笑う。「面白いですね。ですが、我々を侮ってはいけません。反撃する手段は、我々にもあります。そちらが我が国に攻め込むと言うのなら、我々も戦うまで」
「我が国に勝てると? 魔導大国として全世界に名を轟かせた、ブレンダ王国に」
「そこまでは言いませんがね。しかし、我々には我々の戦い方があるのです。戦争になれば、そちらの被害も甚大なものになるでしょう。それは騎士団だけでなく、罪もない一般人にも及ぶのですよ?」
ギロリ、と、ルーファスはあたしを睨みつけた。
その瞬間。
「――――」
継ぐべき言葉を失った。
その視線に、射すくめられてしまう。
いや、視線ではない。
彼の言葉だ。
さっきあたしは、相手を脅すために、精一杯虚勢を張った。迫力があったとは思えないけど、言ってることは本当だった。
そして、今ルーファスが言ったこともまた、本当のことなのだ。
確かに、ブレンダ騎士団は優秀だ。この大陸中に名を轟かせ、恐れられる存在だと言っていい。
でも、クローリナスでは、日々、多くの騎士が命を落としている。
どんなに優秀な騎士たちであろうと、どんなに魔法技術に長けていようとも、いざ戦争になれば、死者を出さないことは不可能なのだ。
ましてクローサーは、隕石を我が国に落とす計画を立てている。その被害は、何万人、何十万人にもなりかねない。
そして――。
その、罪のない何十万の人の命が、今この瞬間、あたしと、ルーファスの言葉一つにかかっているのだ。
判っていたはずのことだったけど、ようやくあたしは、そのことの意味を理解した。
あたしの言葉一つで、何十万の人が、命を落とす。今座っている席は、そういう場所なのだ。
交渉の技術など無い。相手の心理を読むこともできない。相手の弱点を突くような強さもない。
そんなあたしが、座って良い席ではなかった。
だめだ。気持ちで負けてはいけない。何か言わないといけない。
そう思っても。
あたしの口から、言葉が出ることはなかった。
あたしには、荷が重すぎる。
気力が萎えてしまったあたしは、それからは、一方的に攻められるだけだった。
ルーファスは語る。自分たちが、いかに正当であるかを。そして、ブレンダが、いかに非道であるかを。
正しいことではない。相手の一方的な言い分だ。受け入れることなど到底できない。
でも、反論することができない。
どんなに相手が間違っていても、どんなにあたしが正しくても、反論する術がなければ、間違っているのはあたしの方だ。この席では。
あたしはうつむき、みじめに、相手の言葉を聞いているだけしかできなかった。
「――そちらが我が国に攻め込むと言うのなら、それも結構。我々は、最後の一人になるまで戦いますよ。勝てるかどうかは問題ではない。これは、我々クローリナス人の誇りの問題です。国を護るためならば、国民は喜んで命を落とすでしょう」
ルーファスは、全てを語り終えた満足感からか、あるいはあたしを言い負かした征服感からか、最後に大きく頷いた。
「……そんな、悲しいことは言わないでください」震える声で、あたしは言った。
「は? なんですか?」敗者を見下す目のルーファス。
「ルーファスさん。こんなことはやめましょう」あたしは再びルーファスの目を見た。「戦争などしても、クローリナスにも、ブレンダにも、利点などありません。お互い、傷つくだけです。それは、決して癒えることのない傷になるのです」それまでの口調を改め、訴えかけるように言った。
あたしには、交渉する技術なんて無い。民の命を背負う器も無い。何も無い、ただの女。
あたしにできることは、ただ、お願いすることだけだ。
だから、言う。
「お願いです、ルーファスさん。勝てないと判っていて、戦うような真似はしないでください。国を護るために命を掛けるのは立派なことです。でも、喜んで命を落とす人なんて、いるはずがないのです。みんな、生きたいはずです。戦争なんて、したくないはずです」
「そう言われても困りますな」ルーファスは、髭を撫でながら言う。「そちらが攻めてくる以上、我々としても、反撃しないわけにはいかない。そもそもこの戦いは、そちらが我が国に侵攻して来たから始まったのですよ?」
「侵攻なんて、とんでもない。あたしたちはただ、クローリナスに平和を取り戻してほしいと願い、騎士団を派遣したのです」
「それが、余計なお世話なのです。我が国のことは、我が国で行います。他国の介入など、不要です」
「――――」
この瞬間。
私は知ってしまった。なぜ、ブレンダとクローリナスが争っているのかを。何故、この戦いが起こったのかを。
四年前の大戦で、滅んでしまった国、クローリナス。国は荒れ、多くの死者が出た。
ブレンダは、ただクローリナスを平和にしたいと思い、兵を派遣した。その気持ちに偽りは無い。ただ純粋に、平和を願っての行動だった。
しかし、クローリナスは、自分たちの力で復興したいと思っていた。
お互いの思いが、ほんの少しだけ、すれ違っていたのだ。
そのわずかなすれ違いが。
今の、この状態に繋がっている。
ブレンダ、クローリナス、双方に多大な被害を出しながら、二年間も続く小競り合い。
王の命は狙われ、王妃は死んだ。
そして、国土に隕石が落とされることを黙認し、それをきっかけに、反撃しようとしている。
失われた命は、そして、失われる命は、一体、どれだけに上るのか。
その発端は、ほんのわずかな、お互いの思いのすれ違いでしかなかったはずなのに。
なぜ、こんなことになってしまったのだろうか?
――――。
簡単なことだ。
お互いが、自分の考えだけを押し通そうとしたからだ。
ブレンダは、あくまでも騎士団を派遣、駐留させ続けた。
クローリナスは、あくまでも、騎士団を撤退させようとした。
お互いが、お互いの考えを理解しようとせず、ただひたすら、自分の考えを押し通そうとしたからだ。
たったそれだけのことが、多くの命を失う事態に発展する。
こんなに、悲しいことは無い。
あたしの目から、自然と、涙が溢れ出していた。
「――泣いておられるのですか?」
ルーファスに言われ、あたしは慌てて涙を拭った。ホント、自分でも呆れるくらい、無茶苦茶な交渉だな。今度は勝手に泣いちゃったよ。
でもしょうがない。所詮、あたしはあたしなんだから。
――――。
そうだね。あたしは、あたしなんだよ。
あたしに他国との交渉なんて、ムリな話だ。あたしにできることなんて、たかが知れている。できないことをやろうとしても、ムダだったんだ。あたしのすべきことは、交渉なんかじゃなかったんだよ。
あたしは、まっすぐにルーファスさんの目を見つめ。
そして。
「ルーファスさん。あたしたちが、これまであなた方の考えを尊重しなかったことは、心から、お詫びします」
深く、頭を下げた。
突然のことに、ルーファスさんは、目を丸くして驚いたようだった。「……何の真似です?」
「何の真似でもありません。これまであたしたちの国が、あなた方の国の言い分を理解しようとせず、一方的に考えを押し付けようとしたことを、お詫びしたいのです」
「そのようなこと、突然言われても困りますな」
「そうですね。あたしなんかが謝ってもどうにもならないことは、よく判っています。ですが、あたしは今、謝らずにはいられません。本当に、申し訳ありませんでした」あたしは、もう一度頭を下げた。「ですが、これだけは判ってください。あたしたちは、決してクローリナスに攻め込んだわけではないのです。ただ、クローリナスを平和にしたくて、それで、騎士団を派遣したのです」
「ですから、そのようなことを言われても、困るのですよ」
「いいえ! これだけは聞いてもらいます! 聞いてもらわなければいけないんです!」思わず叫んでしまう。「本当なんです。ベルンハルト陛下が……ブレンダが、クローリナスに騎士団を派遣したのは、侵略のためなんかじゃない。平和を望んでのことなんです。今でもその思いに変わりはありません。彼は、とても立派な方なんです! 王という立場にありながら、危険を冒して、クローリナスを視察しようとしたことはあなた方もご存じでしょう? 普通の王様には、あんなことはできません。それだけじゃなく、陛下はみんなから慕われてます。王族の人にも、騎士団の人にも、メイドやコックたち使用人にも。あたし、エルズバーグってド田舎の出身なんですけど、そんなあたしにも、優しく接してくれて、故郷を離れて寂しかったけど、陛下はあたしを優しく慰めてくれました。本当に、心やさしい人なんです!」まくしたてるように言った。
気がつくと、ルーファスさんは完全に呆れ顔になっていた。あれ? あたし、なんかおかしなこと言ったっけ?
「……エマ様。あなたの話が見えてこないのですがね。結局、何が言いたいのですか?」
「それはつまりその、要するに、陛下は優しい人ってことです。あれ? 違うかな?」
「……つくづく、面白い方だ。結局あなたは、何しに来たのですか?」
「えーっと、なんだけ?」考える。少なくとも、陛下が素晴らしい人だと言いに来たのではなかったと思う。
「王妃を殺害したイサーク・バーンを引き渡せ、ではなかったですか?」
「ああ。そうそう。そうだった」ぱん、と手を叩くあたし。「それも、お願いします」
あたしが、ぺこりと頭を下げると、ルーファスさんは、大声で笑った。
「私もこれまでいろいろな人に会ってきましたが、あなたのような人は初めてですよ」
「はあ、どうもありがとうございます」褒められてるのかどうか判らなかったけど、とりあえずお礼を言う。
「話を元に戻しましょう。あなたは、イサークをどうしようと言うのです?」
ルーファスさんが真面目な顔になったので、あたしも表情を引き締める。
「彼には、犯した罪を償わせます。そしてそれで、ベルンハルト陛下には、戦争などやめるよう、説得します。今の陛下は、王妃を殺され、その憎しみで我を忘れてしまっています。クローリナスを攻撃するために、あなた方の隕石落下攻撃を阻止しない、などと言っているのです。本来は、そんな人ではないはずなのに。ルーファスさん。お願いです。陛下の目を覚まさせるためには、まずは何よりも、イサークに罪を償わせなければならないのです。ですから、どうか、彼をあたしに引き渡してください。このままでは、お互いの国が滅びてしまう。その前に、どうか!」
再び、深々と頭を下げた。
「あなたに、ベルンハルト王の説得ができると?」ルーファスさんが疑わしそうな目を向ける。
「それは――できるか、と言われたら、はっきり、はい、と言うことはできません。でも、できるだけのことはやるつもりです」あたしは、正直に言った。
「それでは困るのですよ。我々としては、彼を引き渡す以上、絶対に我が国への侵攻を止めてもらわなければならない。そうでなければ、渡す意味がないのです」
「判りました。必ず説得してみせます」
あたしがそう言うと、ルーファスさんはまた豪快な笑い声を上げた。
「これじゃあまるで、私の方が、イサークを差し出すから我が国を攻めないでくれ、とお願いしているみたいだ」
あれ? 確かにそうだな。本来あたしたちの方が交渉に来たはずなのに。なんだかあたしもおかしくなり、つられて笑った。
「あなたには、意外と交渉の才能があるのかもしれませんね。あなたなら、王を説得できそうだ」
「では? イサークを?」
「まあ、いいでしょう。エマ・ディアナス。私はあなたが大変気に入りました。イサーク・バーンを引き渡しましょう」
「ホントですか? ありがとうございます!」あたしはルーファスさんの手を取り、ぶんぶん振ってお礼を言った。
「ただし、いくつか条件があります。まずは、先ほども言いました通り、必ずベルンハルト王を説得すること」
「はい。それはもちろん」
「そしてもう一つ。今後、クローリナスとブレンダで話し合いをするときには、必ずあなたが出てくること」
「は? あたしが?」キョトンとするあたし。
「はい。私はあなたが大変気に入りました。我々のリーダーにも話しておきましょう。きっと興味を持つはずです」
なんだか喜んでいいのかどうか判らないけど、まあここは、はいと言っておこう。
…………。
でも、正直に言えば、こんな席、二度とイヤだ。あたしには荷が重すぎるし、苦手だ。でも、しょうがない。
「よろしい。では、イサークを連れて来ます――彼をここへ」ルーファスさんは部下に命じた。しばらくして、部屋にイサークがやって来た。
「――――」
そこには、いつものイサークがいた。
いつものイサーク――当たり前だ。彼と別れたのは、ほんの数日前だ。変わりようがない。あたしの元婚約者。今でも愛している、大切な人。
でも。王妃を殺し、このブレンダと、クローリナスを、戦争の危機に導いた人。
そして。
クローサーのメンバーであることを、ずっとあたしに隠していた人。
いつからクローサーだったのだろう? それは判らない。少なくとも、あたしと村で暮らしていたときには、クローサーだったはずだ。彼は、そのことをあたしに隠していた。だからと言って、彼のあたしへの気持ちがウソだったわけではないだろう。そう思う。彼もあたしのことを愛してくれていたはずだ。でも、だったらなぜ、クローサーであることをあたしに話してくれなかったのだろうか? 彼の愛がどんなに本物でも、これでは、あたしは裏切られたことに変わりはない。
色々な思いが交錯し、あたしは。
ぱあん!
思いっきり、イサークの頬をひっぱたいた。
静寂が、部屋を支配する。
じっと、イサークを見る。きっとあたしの目には、涙がたまっていることだろう。
イサークは、頭を垂れ、小さな声で、すまん、と言った。
「……今さら謝っても、もう遅いのよ。シャドウ。彼を拘束して」
あたしが言うと、シャドウは拘束具を取り出し、イサークの両腕を縛った。
「じゃあ、行きましょう」
あたしは、彼に涙を見られないように背を向け、そして部屋を出た。
こうしてあたしたちは、イサークを拘束し、クローサーの隠れ家から、無事に出たのである――。
「ではエマ様。これでお別れですね」
エンフィールド駅に到着すると、クレアが相変わらずのかわいいメイド口調で言った。
「そっか。ここでお別れの約束だったね」
「ええ。そうですよね? シャドウさん?」
クレアがシャドウを見る。シャドウは無言で頷いた。
「じゃあ、もうこの喋り方、やめてもいいですか?」にっこりと笑うクレア。
「ダメよ。あたしの前では、ずっとそのまま」あたしは笑って言った。
「えー。それは無いですよ、エマ様」
あたしに構わずさっさとやめればいいのに、クレアは律義に続ける。この娘、実は結構気に入ってるんじゃないかな、この喋り方。
…………。
あたしは、そっとクレアを抱きしめた。「ありがとう、クレア。あなたのおかげで、たくさんの命が救えるわ」
心の底から、お礼を言った。
クレア、少し戸惑いの表情。「エマ様、判ってます? あたし、あなたを殺そうとしてたんですよ?」
「それは、悪クレアの方でしょ? 今のあなたはかわいいメイドのクレアだから、いいの」
「なんですか、それ。意味が判らないですよ」
クレアが笑ったので、あたしも一緒に笑った。
「じゃあ、これで本当にお別れだね、クレア」
「え? そんなことは無いですよ? だってエマ様、クローリナスとブレンダの話し合いには、必ず出席するんでしょ? だったら、また会えますよ、きっと」
「そっか。それもそうだね」
「はい」
「じゃあ、またね、クレア」
「はい! また会いましょう!」
お互いに手を振り、そして、あたしたちは別れた。
再び、鉄道に乗る。
イサークは捕まえた。後は、陛下を説得するだけだ。
きっと説得して見せる。戦争なんて、起こさせない。これ以上、無駄な血を流させたりはしない。
あたしの大きな決意を乗せ、鉄道は、ターラを目指す――。