#04
夢を、見た。
あたしと鬼女が、言い争っている夢。
あたし、何だか判らないけど、ものすごく腹を立てていて、感情的になり、叫んでいた。「あなたは……なぜそうなの……? あなたが彼を追い詰めて……あなたが彼を殺したかもしれないのに……なんでそんな風に言えるの!」
…………。
あたし、なんでこんなに怒ってるんだっけ?
えっと……。
……何かものすごく悲しいことがあったような。
あたし、ものすごく怒ってるけど、その裏には、とても悲しいことがあったんだ。
そうだ。思い出してきた。
とても悲しいことがあったけど、鬼女、それが何? って感じで、そっけない態度を取って、それであたし、怒ったんだ。
感情が高ぶり、叫ぶことでしか怒りを表現できないあたしと対照的に、鬼女は極めて冷静だ。「私はミロンに騎士としての適性の無さを指摘しただけ。それで彼が自殺したというのなら、それは彼の心が弱かっただけのこと」
…………。
ミロン?
そうだ。ミロンだ。
ミロン、あたしの大切なお友達。その彼が、自殺したって連絡が入って、でも、そんなのは事件に関係ないって、冷たくあしらった鬼女に、あたしは怒ってるんだ。
あたしがこんなに怒っているのに、鬼女は冷静で、それがますますあたしの神経を逆なでし、挙句に今の言葉。あたしは鬼女をひっぱたこうと、右手を振り上げた。でも相手は、熊みたいな大男を片手でのしてしまう鬼女。あたしの渾身の一撃をあっさり受け止めると、そのまま後ろにひねり上げ、あたしを壁に押し付ける。
「エマ様。お願いです。これ以上、私の邪魔をしないでください」
鬼女のうんざりした口調。あたしは叫ぶ。
「あなたは仲間を何だと思ってるの!? 仲間が自殺したのに涙の一つも流さず、心が痛まないの!? あなたには心が無いの!?」
「私には――国を護る使命があります」
「国を護る使命? はん! それがあれば、何をしても許されると言うの? 仲間を自殺に追い込んで、それで平気な顔しててもいいってわけ!? ずいぶん立派なのね、国を護るって。あなたみたいに、心も持たない冷たい人間に、護ってほしくなんかないわ!」
これ、特に何か意味があって言ったわけじゃないんだよね。
ひっぱたこうとしたけどそれができなくて、壁に押し付けられて、相手を非難したいのに何もできない自分がみじめで、それで出てきた言葉だ。相手に何か訴えかけようとか、そういった気持ちは一切なく、ただ悔し紛れに出ただけ。それがまさか、あの鬼女の感情を揺さぶることになるなんて。
「あなたに私の何が判るの!! 私はあなたとは違う! あなたみたいに同情したり慰めたりできれば、そりゃあ気が楽でしょうけどね、そんなんじゃ、国は護れないのよ!!」
あたしは、そこで目を覚ました――。
…………。
イヤな夢見たな。
夢と言うよりは記憶だ。二年前の、レイラ・エスタリフの事件。あたしと鬼女が一緒に捜査したときの記憶。
まさか鬼女があんなに感情を乱すとは思わなくて、あたし、逆に冷静になっちゃたんだ。
鬼女、「仲間が死んでも涙一つ流さない、心を持たない冷たい人間だ」って言われたのが、よっぽどイヤだったんだろうな。あんなに怒って。あれから二年も経ったのに、まだ根に持ってるみたいだったし。後で謝っておいた方が良いかな……。
…………。
なんて場合じゃない!
あたし、クレアが拘束され、そのことでまた鬼女と言い争いになって、鬼女にお腹殴られて、それで気を失ったんだ! あれからどうなったの!?
ここはどこ? 見回すと、すごく狭い部屋だった。飾りっ気のない、簡素なベッドと机があるだけ。入口は一つ。これも飾りっ気のない扉だけで、壁には窓すらない。あたしの部屋とは対照的な地味さ。でも、見覚えはあった。確か、地下の避難所だ。お城で緊急事態があったとき、ここに避難するようにと言われていた。
がちゃり。ドアが開いた。入ってきたのはメイド。クレア!? と叫びそうになったけど、もちろん違った。でも、見覚えはある。普段は陛下の身の回りの世話しているメイドだ。名前は確か……アメリア・レインだったかな?
「エマ様。お目覚めになりましたか?」アメリア、にっこりとほほ笑み。「何かお飲み物をお持ちしましょうか?」
「いえ、大丈夫よ。それよりあなた、アメリア、だったわよね?」
「はい。エマ様の身の回りのお世話をして差し上げるようにと、リュース様よりご命令がありました」
「あれからどうなったの!?」
訊いてみる。拘束されたクレア、もう一つの爆弾、そして、鬼女。訊きたいことはいっぱいだ。
「ご安心ください。爆弾はリュース様たち第八隊が爆発前に発見し、処理されました。非常事態も間もなく解除されると思います」
良かった。被害は無かったみたい。それはひとまず安心だけど、クレアの方は?
「クレアはどうなったの? 真犯人は見つかった?」
「……あ……えっと……」言い淀むアメリア。
何だろう。イヤな予感がする。
「何? 犯人はまだ捕まってないの?」
「いえ……ですから、その……クレアが、自供したのです」
クレアが自供?
いったい何を自供するって言うの?
自供っていうのは、自分から罪を認めること。クレアに、何の罪があるって言うのよ?
「……つまり、クレアはクローサーの内通者であることを認めたのです。自分が爆弾を設置したことも」
「――――」
何言ってんだろう、この人は。
判らない。あたしには判らない。
クレアが、クローサーの内通者?
クレアが、爆弾を設置した?
クレアが、陛下を暗殺しようとしたの?
クレアが、ライノさんを殺したの?
クレアが――。
――――。
その先は、考えない方がいい。
考えるな!
考えちゃダメ!
――――。
どんなに言い聞かせても、思考は止められない。
クレアが――あたしを殺そうとした!?
あたしの部屋に爆弾を仕掛け、あたしを殺そうとしたって言うの!?
「そんなのウソだ!!」
叫んだ。
叫ぶことで、今の言葉を否定したかった。
否定できると思って、ただ、叫んだ。
「――エマ様、落ち着いてください。お気持ちは判りますが、本当のことなのです」
「ウソだ! ウソだ! そんなウソだ!! 信じない! あたしは信じない!! あたしは認めない!!」
それは呪文だった。
世界を呪う言葉。
クレアが内通者で、お城に爆弾を仕掛け、陛下を殺そうとし、ライノさんを殺し、あたしを殺そうとした。
こんな世界は、あり得ない。あってはいけない。
だから呪う。
こんな世界、消えてしまえばいい。消えてしまうべきだ!
あたしが呪えば、この世界は消えてしまう。この世界は存在しない。
クレアはあたしのお友達で、いっつもおしゃべりして、ゲームで遊んで、時々口うるさくて、イジワルで、でも憎めない娘。
それが、あるべき世界。あたしの望む世界。
その世界を手に入れるため、あたしは叫ぶ。叫び続ける。叫んで、叫び疲れて。
でも、世界は消えない。
そして思い知る。これが現実なんだ、と。
今あたしがいるこの世界は、まぎれもない現実で、あたしの望む世界は、決して存在しないのだ。
何で!? 何でよ!?
何でこんなことになるのよ!!
「エマ様……」
何か言いかけたアメリアを押しのける。「会わなきゃ、あたし。クレアに」
「ダメです! まだ外に出ては!」
「邪魔しないで! クレアに会うの! 何でこんなことになったのか、聞かなくちゃ! 何か理由があるはずだから! あたしが聞いてあげなきゃいけないの!!」
止めるアメリアを振り払い、あたしは部屋を飛び出した。地上へ続く階段を駆け上がり、尋問室のある区画へ走る。城内はまだ厳戒態勢だ。すれ違う騎士に呼び止められたけど、無視した。ひたすら走り、尋問室へ。部屋はたくさんあるけれど、どの部屋にクレアがいるのか、すぐに判った。アーロンさんたち第八隊の騎士が数人立っている部屋があったから。
「エマ様!?」アーロンさんがあたしに気付く。「何故ここへ? まだ外に出ては駄目です」
あたしはそんな言葉は無視し、「クレアに会わせて。ここにいるんでしょ?」
「それはできません。まだ尋問が残っていますから」
「もう爆弾は見つかったんでしょ!? だったら、これ以上何を尋問するって言うの!?」
「クレア・オルティスはクローサーと繋がっていたのです。追求すべきことは、まだまだたくさんあります」
「そんなの知らないわ! とにかく会わせて! そこをどいて!!」
冷静に考えればあたし、とんでもなく無茶なこと言ってるけど、今はそんなこと考えてる余裕なんか無くて、無理矢理尋問室のドアを開けようとする。
「いけません! 隊長の命令です!」当然のごとく、アーロンさんたちは止める。ここで鬼女なら、もう一度当て身であたしを気絶させ、避難所なり医務室なり牢屋なりに送るところなんだろうけど、さすがにアーロンさんたちはそんなことはしない。だからと言ってあたしを部屋に入れてくれるわけもなく、あたしはみんなにがっしり押さえつけられ、身動きが取れない。でも口は動くから、叫び続ける。
「放して! クレアに会うの! 放してったら!!」
ガチャリ。尋問室のドアが開いて。
「何の騒ぎ?」
不機嫌そうな顔で、鬼女が顔を出す。
でも、あたしの目に、鬼女は入らない。
わずかな隙間から、部屋の中にいるクレアの姿が見えたから。
部屋の中のクレアは。
簡素な椅子に座らされ、両手は後ろに縛られ、うなだれている。
その顔、うつむいているから全ては見えないけれど、目の周りとか、頬とか、顎とか、いたるところに、赤黒いあざが見える。擦り剥け、あるいは切れて、血を流してさえいる。
それだけでなく、彼女の左腕。
顔と同じように、赤黒く染まっていた。そして、木の棒が巻きつけられている。
あれはどう見ても、副木――骨折の応急処置だ。
避難所でアメリアから爆弾は見つかったと聞いたとき、心の片隅で思ったことがある。あまりに早く解決した、と。
あたしがどれくらいの時間気を失っていたかは判らないけど、そんなに長い時間ではなかっただろう。わずかな時間で、いったいどうやって、爆弾の設置場所を聞き出したのか。
今、それが判った。
信じられない。
こんなこと、人のすることじゃない。
鬼女は、クレアを拷問したのだ!
「エマ様。まだ避難命令は解除されていません。すぐにお戻りください」
淡々と言う鬼女の言葉など、もちろんあたしには届かない。
「放して……放せえぇ!!」
あたしの身体のどこにそんな力があったのか。
叫ぶと同時に、アーロンさんたちを振りほどく。
「――クレアを、拷問したの?」精一杯の怒りを込め、鬼女を睨む。
でも、鬼女は動じない。
「エマ様には関係のないことです」冷たく言い放った。
――――。
あたしは今までの人生で、人を「憎い」と思ったことは無かった。
エルズバーグ村での生活は平和そのもの。人とのいさかいなんて、ほとんど無かった。
このお城に来て二年。嫌がらせをされたり、誰かと対立したり、危険な目に遭ったりもした。それでも、人を「嫌い」とは思っても、「憎い」と思ったことは、無い。
――あたしは今初めて、心の底から、鬼女を、「憎い」と、思った。
「クレアと話をさせて」
あたしは静かにそう言った。
今まで何度も、あたしと鬼女は、言い争いをしてきた。さっきまでのあたしなら、今ここで、また言い争いを始めたかもしれない。
でも、もうそんなことはしない。
今までは、鬼女に対する怒りで、言い争いをしてきた。
今はもう、鬼女に対するあたしの気持ちは、怒りを通り越し、憎しみ。
この人に言うことは、何も無い。
何を言っても無駄なのだ。
あたしとこの人は、決して、相いれない存在だったんだ。
お互いが理解しあえる可能性が少しでもあるのなら、言い争うのもいいだろう。
でも、あたしとこの人は、決して、理解しあえない。
あたしはこの人を、決して、認めない。
だからもう、話すことは、何も無い。
話したくない。
だから。
「クレアと話をさせて」
もう一度言う。感情も何も込めず、ただ、ひとり言のように。
鬼女は腰に両手をあて、大きく息を吐いた。
そして。「――判りました。五分だけ、時間を差し上げます」
「隊長!?」アーロンさんたちが驚く。意外な言葉だったのだろう。
でもあたしは、多分こう言うだろうと思っていた。
鬼女も、あたしと同じなのだ。
お互い相いれない存在。鬼女もそのことが判り、あたしに何を言ってもムダだと、理解したのだ。
「ありがとう」言葉だけのお礼。
部屋の中にはアランさんともう一人第八隊の騎士がいたけれど、鬼女が目で合図をすると、二人とも部屋を出た。二人きりで話をさせてくれるようだ。
「では、五分だけですよ」
鬼女の言葉にあたしは頷かず、後ろ手にドアを閉めた。
椅子に縛られる格好のクレアを見つめる。
クレアが顔をあげた。
「――――!」
言葉が、出てこなかった。
どれだけ強く殴られたのだろうか。あざと傷が、あまりにも痛々しかった。あのかわいかったクレアの顔は、今は見る影もない。
鬼女に対する憎しみの炎が、さらに燃え上がる。
いったい何故、こんなことができるのだろう?
まともな人にできることではない。
少しでも良心があるならば、こんなひどいことはできないはずだ。
かわいそうなクレア……。
知らず、涙を流していた。
クレアがこんな目に遭っているのに何もできなかった自分が悔しくて、何より、こんな目に遭わされたクレアが可哀想で、でも、ようやくクレアに会えたことが嬉しくて、あたしは泣いた。
うつろな表情のクレア。あたしと目が合うと、わずかに微笑んだ。「エマ様……?」
ああ、クレア!
駆け寄り、抱きしめようとした。
でも、思いがけない言葉が、あたしを止めた。
「何の用……?」
クレアが、冷たくそう言い放ったのだ。
それは、あたしがなぜここにいるのか判らない、という意味で出た言葉ではない。
――あなたと話すことなんて無い。さっさと出て行って。
そんな意志が込められた言葉。
クレアは、あたしを拒否していた。
でも、どうして――?
クレアとあたしは、友達のはずだ。なぜ、拒否されるのだろう?
「……あ……えっと……」
混乱して、うまく言葉が出てこない。何を話せばいいんだろう? 話したいこと、聞きたいことがいっぱいあったはずなのに、今のクレアの一言で、全てがどこかへ飛んで行ってしまった。
そんなあたしに、クレアはさらに追い打ちをかける。
「あたしのことを、笑いに来たの? 任務に失敗してみじめに捕まったあたしを、見物しに来たの?」
「あ……あたしはただ、クレアのことが心配で……」
「心配? あなたなんかに心配してもらう必要は無いわ」
――――。
どうしたんだろう? 何かがおかしい。クレアらしくない。クレアは、こんな冷たい言い方はしない。こんな、悲しいことは言わない。
「いったいどうしちゃったの、クレア……あなたらしくないよ……」
「はあ? あたしらしさって何? あなたにあたしの何が判るっていうのよ?」
「判るよ! だって、あたしたち、友達でしょ!?」
「あなた、まさか聞いてないの? あたしがクローサーに情報を流していて、今回の爆弾騒ぎも、全部あたしがやったことだって」
「聞いたけど……でも、それって何かの間違いなんだよね? 何か、理由があるんだよね!?」
訴えかけるように言うあたし。
クレアに否定してほしかった。
これはすべて、何かの間違いだ、と。
あの鬼女が、あたしを強引に犯人にしようとしているんだ、と。
あたしは何もしていない、と。
でもクレアは。
突然、笑い始めた。
声をあげて。
おかしくてたまらない、と言うように。
「あなたバカじゃないの? あたしはベルンハルトを殺そうとして、あなたも殺そうとしたんだよ? この城を吹き飛ばそうとしたんだよ? それなのに、何かの間違い? あなた、どこまでめでたいの?」
いったい、何が起こっているの?
目の前で笑うクレアを見て、何が何だか判らなくなる。
これは……誰?
あたしの知っているクレアじゃ、ない。
あたしの知っているクレアは、この人じゃ、ない。
「おバカなあなたに教えてあげるわ。あたしはクローリナスの人間なの。ロルカ村出身なんてウソ。出生を偽って、この城にやってきたの。クローサーに情報を流すためにね。あなたがこの城に来るずっと前から、情報を流していた。あの隊長から聞いて、全部知ってるかと思ってたけど?」
混乱するあたしに、クレアは容赦なく現実を突きつける。
現実――。
そうだ。これが現実なんだ。
どんなに目を逸らそうとしても、現実は変わらない。
クレアは、この国に敵対する組織のメンバー。
国の情報を流し、城内に爆弾を仕掛け、陛下を、あたしを、国民を、殺そうとした。
それが、クレア。
鬼女は、正しかったのだ――。
「……もう判ったでしょ? だったら、あたしの前から消えて。あなたと話すことなんて、何も無いんだから」
「……なんで……」
「あん?」
「……なんで……こんなこと……したの……?」
「なんでって……あなた、あたしの話聞いてる? あたしは、最初から今日みたいなことをするのが目的で、送り込まれたの。そりゃあ、あたしだって、こんな危険なこと、できることならやりたくはなかったわよ。潜入して情報を流すだけでも十分危険だったのに、王の暗殺だもんね。やめときゃ良かったって、今は思ってるわ。失敗して、捕まって、痛めつけられて、割に合わないことこの上ないわ。報酬に目がくらんだあたしがバカだった」
「報酬……?」信じられない言葉を聞き、あたしはさらに愕然とする。「お金……お金のために……やったって言うの……?」
「そうよ。もともとクローサーになったのも、お金が目的。情報を流すだけでもそれなりの報酬だったんだけど、今回の件、それまでと比較にならないくらいの報酬がもらえるはずだった。ま、成功すればの話。失敗しちゃったから、全部パーだけどね」
「……そんな……お金のため……? ウィンは大ケガをした……ライノさんは両足を吹き飛ばされて死んだのよ!? それが、お金のためだったって言うの!? そんなもののために、あなたは――」
「そんなもの、ですって?」クレアが睨む。「言ってくれるわね。お金が、そんなもの?」
「だってそうでしょ!? お金と人の命と、いったいどっちが大切だって思ってるの!?」
「綺麗ごと言わないで!!」
クレアが、突然吠えた。
それまで比較的冷静に話していたクレアの感情が、突然乱れた。
「お金と人の命、どっちが大切かですって? 教えてあげるわ。お金の方が、ずっと大事よ! だって、この国は、お金で人の命が買える国なんだから!!」
「な……何を言って……」
「あたしの母さんは、病気なの。重い、心臓病」
「――――」
心が凍りついたかのような錯覚。
クレアの母親が、重い心臓病?
それは……それはもしかして……。
クレアは続ける。「心臓移植でないと救えないと言われたわ。あなた、心臓移植にどれだけの費用がかかるか、当然知ってるわよね?」
もちろん知っている。普通の人には、一生働いても用意できないほどの額。
「この世界に、何人の心臓病患者がいると思う? そのうち何人が、移植を受けられると思う? 移植を受けられる人なんて、一握りしかいないの。みんな、助かりたいと思ってる。周りの人も助けたいと思ってる! でも! 助かる人はほんのわずかしかいない! その違いは何! お金よ! お金を持っているかいないかの差が、助かるか助からないかの差なの! 助かりたいと思う気持ちはみんな同じなのに、助かるか助からないかはすべてお金が決めてしまう! それが現実なの! あたしには、お金が必要だった。お金でしか母さんを救うことはできなかったんだから! お金を稼ぐには、クローサーに入るしかなかった!」
「…………」
「あなたはいいわよね! こんなことしなくても良かったから!」
クレアの言葉が、あたしの心に突き刺さる。
そう。クレアは知っている。あたしがなぜ、このお城に来たのかを。
あたしは、クレアに全て話している。
婚約者がいたこと。
婚約者の母親が、重い心臓病だったこと。
母親を救うためには、心臓移植手術をするしかなく、そのためには、側室になるしか無かったこと。
母親を救うために、婚約者と別れるしかなかったこと。
それが、どれだけ辛かったかを、あたしはクレアに、これまで何度も話したのだ。
でも。
あたしがどれだけ甘えていたかを、クレアの言葉が教えてくれる。
「あなたはたまたま側室に選ばれ、それで手術を受けさせることができた。後は、婚約者と別れた悲劇のヒロインを演じていればいい。はっ! 楽なものね。あたしだって、できればあなたと同じ方法を取りたかったわよ。人を殺さずに母さんを救えたのなら、そうしたわよ。誰も殺したくなんてなかったわよ! でも、やるしかなかった。これしか方法はなかったの! 他にどんな方法があったって言うのよ!? 教えてよ!!」
「それは……その……」
その……。なんだろう。あたしは、何を言うつもりなの?
続く言葉を見つけられない。
クレアの行動を、短絡的と非難するのは簡単だ。だけど、どうしてあたしに、それができるだろう?
あたしは知っている。愛する人を救う方法があるのに、それができないことが、どれだけ悔しいかを。
あたしは知っている。愛する人が苦しんでいるなら、人は、何だってできるということを。
こんなとき、あの鬼女ならきっと、こう言うに違いない。
『どう言い訳したって、あなたのしたことは許されることじゃない。それは判ってるわよね?』
もし今これを目の前で言われると、また言い争いになるだろうけど。
でも、これは当然のこと。
どれほど同情できる事情があろうとも罪は罪だ。見逃すことはできない。
理屈ではそうなのだと、あたしもよく判っている。
でも、あたしは鬼女とは違う。
どんなに理屈が通り、正しいことでも、感情が許さなければ認めない。
二年前のことを思い出す。
イサークの母親が重い心臓病で、移植が必要だと言われた。その手術に必要な費用は莫大で、とてもあたしたちに用意できる額ではなった。しかも、母親の命は、もって一年だと言う。
残酷な現実を突きつけられ、嘆くイサークの姿を見て、あたしは側室になることを決意し、代わりに心臓移植をしてもらえるように頼んだ。
もし、あのとき。
側室になるという選択肢が無かったら、あたしはどうしただろうか?
お金を稼ぐ手段が、クローサーの手先となってお城に潜入するしかなかったら、あたしはどうしただろうか?
陛下を殺せばイサークの母親を救えると言われたら、あたしはどうしただろうか?
…………。
あたしは、運が良かっただけだ。
側室になる。たったこれだけのことで、イサークの母親を救えた。イサークと別れ、村を捨て、苦しんでいたけれど、そんなの、クレアの苦しみに比べたら、取るに足らないことだったんだ。
「……ごめんなさい」
自然と、謝罪の言葉が出てきた。
それが、意外な言葉だったのだろうか。クレアは目を丸くして驚いている。「別に……謝ってもらっても……」
プイッと、横を向くクレア。あたしは謝り続ける。謝ることしかできなかった
あたしは、クレアの苦しみに気付けず、悲劇のヒロインのつもりでいた。自分がどれだけ幸運だったかにも気付かずに。
あたしは、なんてバカだったんだ。
「……いいですよ、もう。エマ様に謝ってもらっても、どうなるものでもないですし」
そんな悲しいこと、言わないでよ、クレア。
あたしはクレアを傷つけた。なのに、それを謝罪することもできないの?
あたしはクレアのために、何もできないの?
「あたしは、来月の十八日に、死刑になります」
「そんな……死刑なんて……そんな……!! クレアはただ自分の母親を救おうとしただけ。他に方法が無かったから、しょうがなくやっただけ。なのに、なんで死刑なんかに!?」
「しょうがないですよ。あたしは、陛下を暗殺しようとしたんです。いくら失敗したとはいえ、許されることではありません」
「でも……だからって……!」
「いいんです。この国に来たときから、覚悟はできてましたから。エマ様、一つだけ、お願いがあるんです」
「何? あたしにできることなら、何でも言って!」
「お母さんのこと、お願いしたいんです。今までクローサーからもらったお金、かなり貯まってるんです。今回の陛下暗殺も、失敗しちゃったけど、前金でたくさんもらってて、全部合わせれば、多分、移植手術、できると思うんです。だから、手術の手配を、お願いしたいんです」
「判った。 任せて! もしお金が足りなくても、あたし、絶対に何とかするから!」
力強く、そう宣言した。
クレアが、あたしを頼ってくれている。
あたしはクレアを傷つけて、そのことに全然気付けなかった。クレアと友達のつもりだったけど、とんでもない思いあがりだった。あたしは、友達失格だ。
でも、そんなあたしでも、クレアは頼ってくれる。
絶対に、クレアの気持ちを無駄にしない。あたしは、必ずクレアのお母さんを救ってみせる。
そんなあたしを見て、クレアはわずかに微笑んだ。
それは、昨日までの、優しいクレアの笑顔に見えた。
「それと……伝言をお願いしたいんです」
「――――」
「あたしはもう帰れない。あたしは、来月の十八日、死刑になる、と。理由は……王妃様のお気に入りのドレスにお茶をこぼしてシミを作ってしまった……とか、適当に言っておいてください。本当のことは言いたくないんです。お母さんは、あたしがクローサーだって、知りませんから。まあ、隠しても、どうせすぐに判ってしまうでしょうけどね」
「……判った。伝えるわ」
そしてあたしは、クレアから母親の住んでいる家の住所と、貯めたお金の預け先を聞いた。
「あと……このことは、できればリュース様には内緒にしておいてほしいんです」
「うん、判ってる。あの鬼女に知られたら、絶対邪魔されるもんね」
「もう、エマ様ったら、ヒドイこと言うんだから。でもまあ、今ならあたしも、あの人のこと、鬼だって思いますよ」
「でっしょー? 絶対鬼女だよ! あいつ!」
二人で笑いあった。
昨日までは何でもないことだったけど、それが今は、妙に懐かしく。
そして。
明日からはもう、こうして二人で冗談言って笑いあうことはできないと思うと、自然と、涙が出てきた。
「……もう。エマ様ったら。泣かないでくださいよ」
「だって……だって……」
「お母さんのこと、お願いします」
「……判った」
離れたくない。
これで最後だなんて、信じられない。信じたくない。
でも……。
クレアは、あたしに母親を託したのだ。
いつまでもこうしてはいられない。
「じゃあね、クレア」
「はい、エマ様」
あたしは、部屋を出た。
部屋から少し離れたところで、鬼女と第八隊のメンバーが待っていた。あたしは、終わったわ、と、目で合図を送った。鬼女が来る。
「何を話したのですか?」
「別に……」
ふてくされたようにそう答えた。いろいろ聞かれると面倒だ。早く行った方がいいだろう。
そのまま尋問室を後にする。何か言われるかと思ったけど、鬼女、特に何も言わなかった。
さて、どうしようか?
まだ夕方前だ。クレアの母親の住む場所は、それほど遠くない。今からお城を出れば、夜までには帰ってくることができるはず。伝言は早い方がいい。
よし。
あたしはクレアに教えられた住所に向かうことにした。