#05
夜が明けて。
目が覚めると、寝室に陛下の姿は無かった。部屋の外にいた警備の騎士に訊くと、すでに政務に戻ったとのこと。これ、決してあたしが寝坊したわけじゃない。起きるには、まだ早すぎるくらいの時間なのだ。こんな早くから起きて仕事してるのか。陛下、大変だな。
あたしも部屋を出る。自室に戻る廊下を歩きながら、昨夜のことを思い返す。
クレアのウワサ通り、また、陛下本人が言った通り、本当に何も無い、形だけの夜だった。
でもまあ。
陛下が自分の考えを話してくれて、あたしはその考えの深さに心を打たれた。陛下は、国のことを心の底から考えている。国のことだけでなく、王妃や、あたしなんかのことまで。本当に立派な人だ。騎士団の人や国民から慕われるのも当然だ。あたしもお城に来た以上、何か陛下の役に立たなくちゃいけない。そう決心した夜だった。
でもあたし、陛下のために何ができるだろう?
うーん……。
あたしは側室としてこのお城にやってきた。側室の役目は、陛下の子供を産むこと。でも、陛下には子供を作ろうという意思が無く、また、あたしがこんなことを言うのは失礼極まりないけど、あたし自身、陛下の子供を産む決心がつかない。子供は愛し合った二人の間に産まれるもの。もちろん陛下は素晴らしい人だし、尊敬できるけれど、だからと言って子供を産むとなると話は別だし、陛下はあたしのことなんか何とも思ってないだろう。
となると、あたしが陛下にしてあげられることって、何だ?
あたしの仕事、医者。
でも、この国にはあたしなんか足元にも及ばない立派な医者がたくさんいる。あたしの出る幕なんて無い。
…………。
医者として役に立てなきゃ、あたし、他に何も無いじゃないか。
いきなり悲しい現実にぶち当たってしまった。うーん。
いやいやいや、そんなことないよ。あたしにだって、他に何かできることがあるはずだよ。えーっと……。
そうだ。あたしの特技、掃除、洗濯、皿洗い、つまり家事全般。これならあたし、お城のメイドにも負けない自信があるぞ。
とは言え、王様の部屋ともなれば、常に掃除は行き届いているだろうし、洗濯皿洗いも同じだろうな。あえてあたしがやる必要もなさそうだ。何より、クレアがやらせてくれないような気がする。
と、なると、やっぱりアレしかないかな。
アレとは……そう、エマの特製シチュー!
うーん、なんでもっと早く気付かなかったんだろ? あたし、医者としての技術より、こっちの方がよっぽど自信があるじゃないか。
もちろん、医者同様、このお城にも一流の料理人がいるだろう。一流料理人の一流料理には到底かなわないとは思うけど、でも、あたしのシチューにはあたしにしか出せない味がある。これは絶対。だから、ぜひ、陛下に食べてもらいたい。
よーし。じゃあ早速今日の朝ごはんに食べてもらおう。思い立ったらすぐ実行。うん、これはあたしのいいところの一つだ。とは言えナイトウェアのままウロウロするのはさすがにみっともないので、一度部屋に戻り、普段着に着替え、それから厨房へ向かった。
厨房は以前クレアに案内してもらったことがある。あたしの部屋がある区画とは反対側の、一階の奥だ。向かいながら、どんなシチューにしようか、と、思い描いてみた。どんな食材があるのかな? お城に来て一週間、食べた料理を思い出す。肉と野菜の料理がメインで、魚料理はほとんど無かった。首都ターラは海や川からは遠く離れているから、魚はめったに手に入らないのだろう。反対に、城内に家畜小屋と畑があるから、肉と野菜は新鮮だ。うん、あたしの得意分野。エルズバーグ村でもお肉は手に入りやすかったから、よくそれでシチューを作ったもんね。よし、がんばるぞ!
城内の長い廊下を進み、ようやく厨房についた。
…………。
あれ? 誰もいないな。
まだ朝早い時間だけど、食事を準備するのはこのくらいの時間からだろう。さぞたくさんの人が料理の準備をしていて、もしかしたらお邪魔かな、とも思ったんだけど、予想に反して、厨房には誰もいなかった。部屋の奥にはたくさんのかまどがあり、中央には作業台。かまどで料理を作り、作業台で、盛りつけなどをするのだろう。しかし、かまどにも作業台にも、料理らしきものはなにも用意されていない。どうしたんだろ? 早く準備しないと、朝食に間に合わないんじゃ……。
ぐるっと作業台の周りを一周してみる。部屋の奥にはドアがあった。たぶん倉庫で、中に食材とかがあるのだろう。どうしようかな? 誰もいない間に勝手に作っちゃうのは、さすがにまずいかな。なんて考えていると。
「……れが……」
ん? なんか聞こえた。人の声だ。ドアの向こうの、倉庫の方。みんな、倉庫にいるのかな? あたし、倉庫のドアに手をかけようとしたけど、その手を止めてしまう。
「……毒……」
という言葉が聞こえたから。
――毒?
毒とは穏やかじゃないな。何の話をしてるんだろ? あたし、そっと聞き耳を立てる。
「無色透……味無臭だ。どんな料理に……も気付かれることは無い」
「判った。どのく……量を入れれば……」
「スプーン……が妥当だろうな」
二人の男の声だった。ひそひそ話とまではいかないけど、かなり声をひそめているので、ドアを挟んででは、はっきりとは聞こえない。それでも、おおむね内容は理解できた。
心臓が、ドクン、と、大きく鳴った。
何? 今の会話。まるで、食事に毒を入れる話をしていたような……。
…………。
まるで、じゃない! これは、どう考えても、食事に毒を入れる話をしている! 一体、誰の食事に?
考えるまでも無い。
お城に来たときに聞いたじゃないか! ベルンハルト陛下を暗殺する者が、城内に潜んでいるかもしれないって!
この人たち、きっと、陛下の暗殺を企んでるんだ!
ど……どうしよう? 誰かに知らせないと!
でも、中の二人、まだ話してる。もっと聞いてた方がいいかな? もし誰かを呼びに行ってる間にいなくなってたら、犯人を特定することができない。声だけじゃ、誰なのか判らないもん。あたしは焦る気持ちを抑え、ドアの向こうの会話に再び聞き耳を立てた。
「死んだ後……なる? 検死で検出され……か?」
「正直それは何とも言えん。普通……ることはまず無いが……この国の技術は他国と……に高いからな」
「毒殺だとばれるかもしれないのか!? まずいじゃないか!」
「まあそうだな。だが安心……薬は効果が表れるまで五時間ほどかかる。標的が死ぬ頃には、俺たちは街の外だ。仮に薬が検出……も、捕まることは無い」
「そうか……ならいいが」
「薬を飲ませた後は時間との勝負だ。とにかく、一刻も早く城から出ろ。四七五・三八七地点で待っている」
「判った」
相変わらずとぎれとぎれではあるけど、内容は判る。毒殺後、検死すれば毒が検出する可能性がある。しかし、毒薬は効果が表れるまで時間がかかり、それまでに街の外に脱出しよう、というのだ。四七五・三八七、というのが集合地点。どこだかあたしには判らないけど、覚えておかなくちゃ。
会話、終わったみたい。
…………。
って、まずいじゃん! 中の二人、出てきちゃうよ。見つかったら大変だ! 足音が近づいてくる。あたしは厨房を出ようと、慌てて出口に走る。でも、遅かった。ガチャリ。あたしが出るよりも早く。倉庫のドア、開いちゃった!
――――!
あたし、とっさにしゃがむ。作業台の陰。倉庫側からは見えない角度。良かった。見つからなかったみたい。でも安心はできない。この厨房、広いとは言っても一部屋だ。隠れる場所は少ないし、今さら隠れるのも難しい。ぐるっと周られたら、すぐに見つかってしまう。
……どうしよう?
作業台に身を隠したまま、聞き耳を立てる。どうやら二人は、かまどのところで何かしているみたいだ。こちらに来る気配は無い。そっと顔を出し、様子をうかがった。
二人の男だ。
一人は中肉中背。黒の短髪、瞳も黒、たれ目、団子鼻、ややタラコ唇。
もう一人は少し背が高い。茶の短髪、瞳も茶、こちらは釣り目、鷲鼻、唇は薄い。
状況が状況だからじっくり見ているヒマは無いけど、これだけ犯人の特徴を覚えれば十分だろう。再び身を隠す。後はどうやって逃げるか、だね。
出口は目の前だ。相手は反対側。気付かれてもいいから、ドアを開け、ダッシュで逃げようか? うーん、あたし、足にはあまり自信が無い。追いつかれてしまう可能性、かなり高い。部屋を出て、運よく誰か(それも、メイドとか使用人じゃなく、騎士団の人)がいれば助かるけど、いなければダメだ。じゃあ、こっそり出る? 広い厨房とは言え、倉庫側から入口のドアは見える位置にある。あの二人に気づかれずにドアを開けられるだろうか? 難しいだろう。
……ダメだ。悩んでる時間は無い。厨房は、ずっと隠れていられるほど広くはない。時間が経てば経つほど見つかる可能性は高くなる。このまま待っててもあの二人がまた倉庫に戻る可能性は低いし、あたしに気づかず外に出てくれる可能性はもっと低いだろう。なら、一刻も早くこの場から立ち去るしかない。よし、こっそり出よう。見つかる可能性は高いけど、うまくすれば見つからないかもしれないし、もし見つかったら、そこからダッシュすればいい。うん。悪くない。それで行こう。覚悟を決める。
こそっ。物音をたてないよう、そっとドアに近づき、ノブに手をかけた。
…………。
心臓、バクンバクン鳴ってる。この音で、相手に気づかれたりしないだろうか? ……落ち着け、エマ。そんなことあるわけない。慌てず、慎重に。がちゃ、なんて言ったら、すぐにダッシュだ。ノブを回す。音は……しなかった。よし! 後はドアを開けて。ゆっくり。ゆっくり。慎重に。全部開ける必要は無い。身体が通るだけの隙間があればいい。三十センチくらいあればいいかな? 微妙だ。念のために四十センチ。くっそー。ダイエットしておくべきだった。十センチの差が、今はとてつもなく大きく感じる。でもあせらず、ゆっくり、確実に――。
きぃ……。
ドアが鳴いた。
聞かれたか聞かれてないか微妙な音だったけど、それを確認してる暇は無い。その瞬間、あたしは猛ダッシュ!
走って走って、とにかく走った。全力疾走。相手が追ってきてるかどうかなんて考えない。振り返ってたりしたら、その分追いつかれる可能性が高くなる。とにかく走って、誰かに助けを求め、それから振り返ればいい。追いかけてきてないならそれで良し。厨房に戻って捕まえてもらうだけ。とにかく、今は走ることが最優先!
とにかく走る。実際は、広いとは言えお城の中。そんなに走ってはないんだろうけど、地の果てまで走ったのではないかと思えるほど走って、やっと、通路の向こうに人影を見つけた。でも、まだ安心はできない。その人影が騎士団の人でないと意味が無いのだ。もし騎士団の人じゃなかったらどうしよう? 無視して走り去る? ダメだ。それじゃ、追いかけてきた男たちに、あたしの代わりに捕まってしまうかもしれない。身代わりなんてもってのほか。でも、立ち止まって説明してる暇は無い。説明してる間に、追いつかれてしまう。じゃあどうするのよ? わかんない! お願い! 騎士団の人であって! 祈った。
――――!
良かった! あの長い黒髪、あのすらっとした背、あの引き締まった身体に白装束、あの右腕だけの籠手! 近衛騎士団のシャドウさんだ!
「シャドウさん!」
長年会えなかった恋人に再会したかのように、あたし、シャドウさんの胸に飛び込んだ。
「エマ様!? 一体どうされたのです!?」
シャドウさん、目を丸くして驚く。
あたし、ようやく振り返る。後ろは長い廊下。幸い、誰も追ってきてはいなかった。良かった……あたし、安堵のあまり腰が抜けそうになる。
「大丈夫ですか?」シャドウさんに支えられ、なんとか座りこまずにすんだ。
「ん……平気です。それより、あたし、とんでもないこと聞いちゃったんです。今、厨房に行ったら、男の人が二人、ベルンハルト陛下の暗殺を企てていたんです!」
聞いた瞬間、シャドウさんの顔が変わった。「――暗殺? 本当ですか?」
「はい! 確かにあたし、聞きました! 食事に毒を入れるって。そして、毒の効果が表れるまで時間がかかるので、その間に脱出するって!」
「判りました。その二人は、まだ厨房に?」
「多分、いると思います!」
「では、案内してください」
「はい!」
良かった。これで安心だ。シャドウさんは忠義に厚い真の騎士だって、陛下が言ってた。あの二人、簡単に捕まえてくれるだろう。あたしは振り返り、長い廊下を戻ろうとした。
そのとき。
トン。
目の前が真っ暗になった。
同時に、首筋に鋭い痛みを感じる。
でも、それも一瞬。
スウッと、痛みが引いていく。そんな感じがした。でも違った。引いていったのは痛みではなく、あたしの意識。
感覚が麻痺していく。
立っていられなくなった。その場に崩れ落ちる。石の床。でも冷たさは感じない。何も感じられない。
何が起こったか、判らない。
ただあたしは、まるで深い闇の淵に落ちて行くように、意識を失っていた――。