6.はじめての
アデラインは、フランクリン侯爵家主催の社交界へ向かっていた。グラットン伯爵家からフランクリン侯爵家はそこまで遠くないが、社交界へ向かう際は馬車で向かうというのが基本。アデラインは、重たいドレスと、初めての馬車に動揺を隠せないでいた。
(本当に、うまくできるかしら…)
アデラインは、この後待ち受けるミッションを思い出して、ため息をついた。そんなため息も、石畳で舗装された道を走る馬車のがたがたという音によってかき消さていく。しかし、アデラインの憂鬱な気持ちは、隣に座るウルツの耳に届いていた。
「アデライン、緊張しているか?」
「…はい、ウルツ様のお望みを実現させられるか不安でございます」
「この日の為に、練習を重ねた。きっと上手くいくよ」
「そうだと…いいのですが…」
ウルツが用意した馬車は黒を基調とした軽やかな作りで、日差しを取り込めるよう屋根が折り畳み式になっており、進行方向を向いて座る形式だった。二人は、並んで歩くことなど滅多にない。アデラインの緊張は、着飾ったウルツの横に座っていることも、一つの原因であった。
(こんな近くでお顔を見るなんて、マリア様の振る舞いをした日以来だわ…)
油断していると身体が触れてしまいそうで、アデラインはなるべく身体が動かないように、ウルツの顔を覗き込んだ。
「あの、お伝えできておりませんでしたが、ウルツ様の本日の装いは特別にお美しいですわ。隣を歩くことができて、嬉しく思っております」
「そうか、ありがとう。君のドレスも似合っていて何よりだ」
アデラインのラピスラズリ色のドレスは、今日の社交界用にウルツから贈られたものだった。ウルツから何か贈られるのは、これが初めての事である。
アデラインは、初めての贈り物に喜びを隠せなかったが、自分への好意からくる贈り物ではない事を重々承知していた。ドレスを贈られたあの日から、今回の社交界は特別で言い渡されたミッションは重要なもの、好意ではなく失敗するなという意味、だから喜び過ぎてはいけない、と何度も自分に念を押してきた。しかし、実際に着てみると夜空を切り取ったような色合いのアデライン好みのデザインだった為、アデラインは幾度となく好意なのではないかと錯覚してしまいそうになるのだった。
「あ、ありがとうございます」
とはいえ、褒められると思っていなかったアデラインは、予想外の事に蚊の鳴くような声で、返事をした。
「さて。もうすぐフランクリン侯爵家に到着するだろう、一旦復習をしよう」
「はい、仰せのままに」
ウルツと、アデラインは顔を見合わせると、伯爵家で決めた流れを振り返った。
「まず、君のミッションは、フラン嬢がしているという噂の真実を確認すること。これは忘れないように」
アデラインはこくりと首を縦に動かす。
「到着したら主催者であるフランクリン侯爵に挨拶をする。君は、社交界は初めてだろうから、私の後ろをついてきなさい」
「はい」
「次に、いわくつきのフラン嬢だが、マナーを守らないと噂なので恐らく遅れてくるだろう。フランクリン侯爵にもご挨拶をしないはずなので、入り口にいればすぐに見つけられるだろう。フラン嬢は男性には甘いが、女性には警戒心が強い。君は離れた場所でフラン嬢の様子を観察するように」
ウルツは、持っていた洋紙に、サラサラと会場内の図案を書いて、アデラインがいるべき場所に印をつける。
「フラン嬢がその場を離れたら、君はいつもの仮装をしてくれ。殿下に依頼した内容がうまくいっていれば、彼女はおそらく君と同じドレスを着ているだろう。私は、フラン嬢の行方を追う。君とバッティングしないように見ておくので、安心してくれていい」
アデラインは、胸が痛んだ。ドレスに他意なんてないとわかっていたのに。
ウルツの笑顔は、きりきりと痛む棘のように感じられた。
(やっぱり。このドレスは、私の為ではないのだわ。フラン様とお揃いだなんて…)
アデラインは、ため息をついた。しかし、今度のため息も石畳で舗装された道を走る馬車のがたがたという音によってかき消されていった。
◆
最後まで復習することはできなかったが、アデラインはこの後の手筈もしっかりと覚えていた。
ウルツのエスコートのもと、フランクリン侯爵夫妻に挨拶を済ませ(ほとんどウルツが応答し、アデラインは相槌を打っただけ)、挨拶が終わるとウルツは面識のある方への挨拶周りに向かった。
アデラインは社交界で会話をする相手もいないので、一旦ウルツの指定した入り口付近の壁際へ向かい、フランが来るのを待ち構えていた。
そうしていたのが、数分前。
ウルツの予想通りフランは遅れてきた上に主催者へ挨拶もなく、未婚の男性陣と会話に花を咲かせていた。これにはアデラインも眉を寄せた。フランの悪い噂や、学園での行いを知っていたが間近で見たのはこれが初めてだったからである。
あまりの非常識な行動に、アデラインはこれからの事を思うと、思わず震えてしまいそうになっていた。
「フラン、今日は見たことの無いドレスだね、夜空の色も君に似合う」
「うふふ、嬉しい!これね、アーサーから貰ったの。本当は、ローズカラーのドレスが着たかったのだけど、新しいのがなくて…これ地味でしょう?ちょっと落ち込んでいたのだけど、そう言ってもらえるならよかったわ!」
アデラインはフランの姿を確認すると、フランの視界に入らないように位置を奥まったところへ変えて、雑踏に紛れ込みながら、フランの行動を監視していた。少し離れた所にいても、フランの周辺はとりわけ声が大きく会話は無意識でも聞こえてくる。
もちろん、このドレスの話題は、自分と揃いのドレスの話をしていることはわかっていた。
(地味じゃない…とても素敵なドレスだわ。フラン様はそうは思わないのね)
アデラインは、感性の異なる揃いの装いの持ち主に、残念な気持ちを抱いた。
ドレスに対して特別な感情を抱かない様、抑制していたのに。簡単にヒビが入ってしまう。
(ウルツ様は、きっと構わないと言うだろうけど、私は悔しいわ)
アデラインは表情さえ崩さなかったが、グラスの中に黒い水滴が落ちるような気持ちの淀みを感じていた。
「ん~…なんだか酔ってきちゃったみたい。私、ちょっと喉が渇いたわ。ねーえ、一緒に来てくれない?」
唐突に、フランの甘い声が聞こえてくる。
アデラインには衝撃の言葉だったが、動揺している場合ではない。
フランとその連れの男性が部屋を抜けていくことを確認し、アデラインはウルツに合図を送った。フランが部屋を離れる際は、ウルツに合図を送る約束だった。
(宜しく頼むよ)
ウルツから視線の合図を感じる。アデラインは、視線で会話できるレベルになったことを嬉しく思い、クロークに預けていたペイント道具を受け取った。
この後からが勝負である。
アデラインは、あらかじめ用意してもらっていた準備部屋に向かった。