影の一族 ~呂ノ段~
まだ、会話会が続きます。
少し長くなりますが、次あたりで戦闘シーンをお見せできそうなので、もうしばらくお付き合いください><;
硝子や陶器が破砕した時に耳にする不快な音を聞くや否や、影蔵は膝を立て、いつでも立ち上がれる姿勢をとる。
「曲者か!?」
「いや、多分……」
刃が続きを言い終える前に「にぃさまぁぁ~」という幼く頼りない声が廊下をこだました。
「遅かったか……」
刃の中に諦めの気持ちが去来する。――今日は徹夜かな、と。
「にぃさまぁぁ、どこぉ……?」
自分を乞う泣き声に、刃は観念したように腰を上げると、襖を開けて〝その子〟へ手招きしてやる。
「ここだよ。兄ちゃん、ここにいるぞ」
「にぃさまぁぁ~~!!」
開いた襖から一人の少女が部屋の中、というより刃の胸のあたりに飛び込んできた。
前髪をぱっつんと切りそろえたセミロング――姫カットの髪を撫でられながら嗚咽を漏らす少女は、眠気を覚えたようにぼんやりとした半眼に、大粒の涙を湛えている。
――戸隠心。
兄とは正反対に、里中が将来を心配して止まない刃の妹だ。
心は、里にいる他の子供たちに比べ、見た目と精神の成長があまりにも遅い。
一四〇cmにも届いていない身長は、少女というよりもはや幼女であり、兄である刃と三つしか歳が離れていないことが信じがたいほどだ。
彼女の小さな身体が着ているワイシャツも、明らかにサイズが合っていない。
袖は手をすっぽり覆ってなお余り、全体的にぶかぶか――いわゆる彼シャツ状態である。
「お主、妹に斯様な形をさせて……その年で、なんと業の深い……」
「勘違いすんな! 心が俺の服着ないと寝られないって言うから貸してるだけだ!」
刃は、いまだ泣き止まない妹に向き直り、静かだが、しかし明るさも含んだ優しい声で語りかける。
「心、わざわざ暗い中歩いて怖い思いしなくたって……兄ちゃんの部屋で待ってればいいだろ?」
「にぃさま、いつまでも、かえってこないから……こころ、こころ……」
返ってきた言葉は涙声に震えている。少し時間をかけすぎてしまったようだ。
「ごめんな、思ったより時間がかかってさ」
そう口にする兄の顔を、妹は生来の半眼で見上げる。
「にぃさま、おトイレながい! にんじゃならマッハですませて!」
「トイレ? あぁ……」そうだった。
呼び出しを受け、部屋から出ようとしたところを心に捕まり、なかなか聞き分けない彼女を納得させるため、そのような方便を言ったことを思い出す。
「おトイレ、まだおわらないの?」
「いや、もう終わったよ……ん?」
ぱっつんと切りそろえられた前髪から赤いものが透けて見えた。
「心? ちょっと顔見せてみな」
刃の手が、心の黒く染まった絹糸のような髪をかき上げる。
「血が出てるじゃないか。その傷、どうした?」
大好きな兄が自分を気遣ってくれる声に、しかし心は小さな体をさらに縮めて答える。
「ごめんなさい、こころ、ころんじゃって……こわしちゃった」
「壊したって……どこで転んだんだ?」
「そこ」
兄が開け、自身が転がり込んできた襖の先に続く廊下。その場所に向かって心は、袖に覆われたまま指をさす。
刃が暗がりに目を凝らすと、そこには何か大きなモノが砕けて散った残骸が見て取れた。
「あれは、壺……かな?」
「ごめんなさい……」消え入りそうな声で、そう述べる妹に「いいんだよ」兄はつとめて明るく言った
「あんなの、どうせ安物なんだから」
壺の値打ちなんてとんと分からないが、今はこの子を安心させてやらなければ。
シュンと小さくなって謝る心だったが、頭を撫で続けてやると、ようやく泣き止み――
「ぬわああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」今度はじいちゃんが鳴きだした。
髪と髭の白だけが残像となるほどの速さで、影蔵は和室を飛び出していく。――かと思いきや、同じ速さで戻ってきた。
この間、僅か二秒に満たない。
常人には不可能な動きでそれを成した高性能じいちゃんの手には、例の残骸の一部が握られている。
「……んだよ、じいちゃん、大声出すなって。心がびっくりしてるだろ。あと、夜中にバタバタ走るのも止めろよな。この前、お隣の上野さんから怒られたのもう忘れたのかよ?」
先日起きたご近所トラブルの再発を危惧した刃は、注意を促すも、やはりこの年寄りには孫の声など届かないのか、拾ってきた破片を見つめながら小刻みに震えている。
「ツボ……儂の壺が……浮猿の壺がっ……!?」
「……なにザルだって?」聞いたこともない名前から漂うあまりの胡散臭さに、思わず聞き返してしまった。
「浮猿の壺じゃ!!」ガバッという擬音が聞こえそうなほどの勢いで面を上げる影蔵は顔面蒼白「なんと……なんということを!!」だがそれと正反対に、大きく見開いた目は、真っ赤に充血している。
「じぃじ、こわい……」
震えながら刃にしがみつく心が言うように、本当に怖い。忍軍の頭領というより真祖の吸血鬼みたいな顔になっている。
「そんな二束三文のガラクタが割れたくらいで喚くなよ。大の大人が見っともない」
「馬鹿を申せ! これが二束三文なものか! この壺は昔、国を揺るがす一大事を治めた折、大蔵省の然る御仁から報酬として賜った物ぞ! それを……それを……!!」
大蔵省が存在したのは二〇〇一年の始めまで。
「そんな昔の話しなんて知るかよ」
生まれる前になくなった官庁や、自慢の一品などというどうでもいい話しを聞くよりも、刃にはやるべきことがある。
「心、痛いの治してあげるから、こっち向きな」
刃は、ベルトに着けたポーチの中から応急処置に必要な道具を取り出す。
例え、住み慣れた我が家であっても、最低限の忍具を持ち歩くのは忍として当然の嗜み――うるさく喚き散らす年寄りはとりあえず放っておこう。
この子の手当が先だ。
「破片は……刺さってないみたいだな。 それに傷も深くない」
まず、血の滲む患部を殺菌効果のある水薬で流し、血止めの忍薬を塗る。そこにガーゼを当て、さらにそれがずれないよう、そして髪の毛を巻き込まないようにテープで留める。
「……ほら出来たぞ、心」
傷の手当が終わったことを告げられた心は、額に異物感を覚えるのか、いきなりガーゼを弄りだそうとするが「我慢しなさい」刃に止められる。
「聞いておるのか!!」
――我慢できないのは、こちらも同じらしい。
「聞いてるよ。それなりに良い壺だったんだろ?」
やれやれ、子供の次は年寄りの相手か。
「そんな物に入れ込むくらいなら、もっと孫を大事にしろよ。心に誕生日プレゼントひとつくれてやったこともないくせに、なにが壺だよ」
それを受け、影蔵は「大事にしておるとも」鷹揚に頷いて続ける。
「兄妹ともに忍術を授け、忍軍にも取り立てておるが、儂の中にお主らを使い捨てる魂胆でも見えたか? 世の中には同胞を切り捨て、親兄弟さえ手に掛けてでも任を果たす流派もあるが、戸隠では謀反でも起こさぬ限り、左様なことは致しておらぬ。この安泰は、忍にとって得難きもの」
それを知らぬわけではあるまい? と、影蔵は言葉を締めくくった。
他流の忍と深く関わったことのない刃だが、又聞き程度には知っている。
流派によって――というより、ほとんどの場合、雇い主は勿論、身内同士でさえ使い潰しや捨て駒扱いは当たり前。切り捨てられる本人でさえ、死兵となることを厭わない。
それができるように育てられる。
生まれ落ちたその瞬間から、そう仕込まれるのだ。
しかし、戸隠流はそれをしない。
同族を切り売りしてまで理を追求しないという流儀故に、現代まで存在を許されてきたのだ。
そして、戸隠の忍として、これからも里で暮らしていれば、歴史の影に生まれてきた者にとって過分な一生を送ることができる。
……だが、それは彼の望むものではない。
「そういうのじゃなくて……俺は、もっとこう、〝普通〟の生活がしたいんだよ」
「普通とな?」
眉を寄せる影蔵に、刃は言った。
「毎日、普通に学校に通って、忍術とは関係ない普通の勉強したり、忍者でもなんでもない普通の友達つくってバカやったり。俺ら以外の普通の人達がしてるような〝普通〟の生活がしたいってこと」
それは、〝忍〟ではなく〝人〟として生きるということ。
「ならん! 何を言い出すかと思えば、里抜けなぞ、断じて許さぬ!」
激怒。
影蔵が頭領として、こういった反応をするであろうことは刃も予想していた。
――だが。
「……だいたいさぁ、忍者なんてもう古いんだよ」
「なんと申した?」
いい機会かもしれない。この際に現実を見てもらおう。
「今は二十一世紀だぜ? 探偵、公安、自衛隊――忍者がやりそうな仕事は、そういった職業に取って代わられた。海外には、それこそ本物の忍も顔負けの諜報機関まであるみたいだし。これまでは、なんとか形だけでも生き残ってきたかもしれないけど、もう時代じゃないんだよ。この一族……と言うより、忍者そのものがさ」
歳不相応に達観した表情で肩を竦める孫に向けて、影蔵は言った。
「先の任での素破抜きは? お主が、忍であったからこそ立てられた手柄であろう」
先日、刃が見事やり遂げたという任務を例に出す。
世間を騒がせるほどの成果を上げたというが、それというのも……
「あんなの『すいませーん!! フ〇イデーでーす!!』ってマイク片手に駆け寄っただけだ。……あのアイドル、こっちが名乗ったネームバリューにビビって洗いざらい吐いたぞ」
某有名雑誌取材部からの下請けで、とある芸能人のスキャンダルを押さえたというもの。
「たまに入った仕事といえば、週刊誌記者の子飼いだなんてさ……」
うちの家系、火の車なの知ってる? 疲れた顔つきの刃は、そう付け加えた。
かつて、この国が乱世と呼ばれた時代であればいざ知らず、国中が平和になった現代において忍者など――少なくとも、活躍といえるほどの働きができる場など、どこにも残されていない。
「なればこそ、一門を立て直さねばならぬと解らぬか? お主等のような才ある若者の肩に掛かっておるのだ」
「だったら、せめて方針の見直しぐらい考えてくれよ。忍者稼業だけじゃ食っていけないんだって! 心だって、これから中学、高校と上がっていくのに、このままじゃ――」
「にぃ、さま……」
うつらうつらと舟を漕ぎながら、心はショボショボと目元を擦っている。
ただでさえぼんやりとした半眼が、微睡との鍔迫り合いの中、今にも閉じられようとしていた。
「悪いけど、部屋に戻るわ。心がそろそろ限界みたいだ」
どうやら寝てくれるらしい。今晩は徹夜せずに済みそうだ。
「心、部屋に戻るぞ。トイレは大丈夫か?」
「ねてからいく……」
「今いきなさい。……ほら、兄ちゃんがついていってやるから」
泣く子は、寝てくれるうちに寝かしつけてしまうに限る。
心を連れて和室を後にしようと歩き出す刃であったが「待て、刃よ」その背中に影蔵の声が掛かった。
「話は終わってはおらぬ」
まだ頭領として振舞い続けるじいちゃんに、刃は首だけを動かして言葉を返す。
「心を寝かしつけたら戻ってくるよ。それからでもいいだろ?」
「中忍昇格の任についてだが……」
「だから、戻ってから――」
「忍を一人、殺してもらう」
刃の歩みが止まった。
「何処の者かは、此方で取り決める。その者と仕合い、お主が勝てば中忍と認めよう」
「にぃさま?」
背を押していた掌の持ち主が急に立ち止まったことを訝しみ、心は刃の顔を見上げる。
「こころ、先に戻ってなさい。兄ちゃんも、すぐに行くから」
見下ろしてくる兄の顔に特別な変化はない。
「にぃさま、じぃじとけんか?」
それでもやはり兄妹というべきか、心はその表情の奥に何かを感じ取ったらしい。
「そんなことしないよ。 ただ、じぃじともうちょっとだけ〝お話〟するだけだ」
いつもなら、こんな暗い場所を一人で歩くなど絶対にしたくないのだが、彼女とて兄を困らせたいわけではない。
「すぐに終わるから。……な?」
背中を優しく押し出す手に従い、心は来た道を引き返していった。
「暗いから、転ばないように気を付けて歩くんだぞ?」
やがて心の姿が廊下の角へ消えるのを見届けると、刃は頭領に向き直る。
影蔵を見る刃の目は、先程まで心に向けていた優しいものではない。
底冷えするような殺気と、切り裂くような鬼気を宿した双眸。
それはこれまで、仲間や家族には決して向けることのなかったもの――忍の眼であった。
「前に言ったよな? 殺しはやらないって」
射殺すような眼差しを真っ向から受ける影蔵も、また同じく刃を見据える。
その眼力に、一切の遅れはない。
「如何にも……だが、それが許されるは下忍頭まで。これより先、中忍となれば自ずと他流の忍とも戦うことになろう」
その時は何とする。
問いに対する刃の答えはこうだ。
「適当に無力化するさ。戦いはしても殺しはしない」
さして難儀なことではない、という口ぶりに、忍の里を治める老人は頭を振った。
「斯様な戯言がいつまでも罷り通ると思うな。それに、お主の才をもってすれば、暗殺を生業とする上忍になるのも、そう遠くはあるまいぞ」
忍に生まれた者は、いつどこで理不尽な死に方をするか分からない。また、その逆も然り。顔も名前も知らない誰かを無慈悲に、その手で仕留めなければならないこともある。
力のある者ほど、それを強いられる。
「どうしても、どこかの誰かを殺さなきゃいけないのか?」
「無論じゃ」影蔵は、大きく頷く「お主に掛かる期待は、その力ありと見込まれてのものなり」
「そうかよ。……だった俺にだって考えがあるぞ」
刃は、短い息を一つ吸い込むと、それを言葉とともに吐き出した。
「やめた!!」
「……なに?」
あまりに唐突な一言を理解しきれない影蔵に、刃は続けて語る。
「これまでもいろんな無茶を言われてきたけど、それでも今日まで忍者としてやってきたのは、両親がいない俺らを引き取って育ててくれてる恩があったからだ。……でも、これ以上は付き合いきれない」
「どういう意味じゃ……?」
年老いた面。その眉間に、一層深い皺を刻んで、頭領は問うた。
「今日限りで、忍を辞めるって言ったんだ」
内にあった思いを吐露したためか、刃の眼は幾分穏やかさを取り戻したが、反対に、今度は影蔵の目つきが険しくなる。
「辞めて何とする? 戸隠に、忍より他に生きる道は無いと言うに」
「なら、俺は戸隠を出る。名前も変えて、忍の一切と関わらずに生きていく」
「抜忍となるか。 先に言うた通り、それ即ち謀反と相なるぞ?」
忍術とは各流派の秘伝。それが世に漏れることなどあってはならない。故に、どの派閥においても里抜けはご法度であり、抜忍は決して赦されざる謀反人とされる。
それは戸隠とて例外ではない。
「別にじいちゃん達の邪魔をするつもりはない。俺は忍者を辞めるんだからな」
ただ――と、刃の言葉が続く。
「忍術ってのはこれでなかなか便利なもんだ。こいつは、今後も上手く使わせてもらうさ」
この言葉を聞いた直後、影蔵の眼が一瞬で忍のそれに変じた。
刹那――
『この痴れ者がっ!!』
部屋中に、雷の如き怒号が轟いた。
ビリビリという音を立て、空気が震えたと錯覚させるほどの気迫が刃に叩きつけられる。
「忍を捨てながら、忍の術に縋って生きようなぞ、左様に虫の良い話があるものか!! 貴様が身に着けたるは、一族が幾百年を懸けて育み、守り抜きたる秘術――戸隠流忍術なるぞ!! 一族が為に振るわれるべきその力を何と心得る!?」
とても一人の老人が発するものとは思われぬ威圧感を前に、されど刃は臆することなく切り返す。
「誰が何年かけたか知らないけどな、これは俺のものだ!! 他の誰のためでもない。俺のために、俺が修行して、俺が掴み取った、俺だけの力だ!! それをどう使おうが俺の勝手だろうが!!」
言いたいことを吐き出し合った二人は、荒い息に肩を上下させて睨み合う。
それまで怒声がこだましていた和室の中にシンとした静寂が戻った。
「……よかろう」
程なくして、先に開口したのは影蔵だった。
「一族の宗家、そして忍軍の頭領たる儂に、こうまで吠えたのだ。……其の覚悟、常のものでは無いと見た」
それまでとは打って変り、老人は不気味なほど静かに、淡々と言葉を紡ぐ。
「なれば、その力――貴様が驕る程のものや否や……この儂、自らが見定めてくれる!」
嵐の前の静けさが終わり、暴風にも似た気迫が再び刃に吹きつけた。
「身の程を知るが良い、刃ぁ!!」
「上等だ、爺ぃ!!」
百畳敷きの和室の中、二人の咆哮と眼光は衝突し、見えない嵐を巻き起こした。
次回は、この作品初の戦闘会となります。
祖父(師)VS孫(弟子)によるルール無用の忍術バトルにご期待ください!