鋼の乙女・下
鋼の乙女は目を見開きました。
「おや、しき……」
一万年以上も前の自分が残したメッセージを起爆剤とし、記録領域の奥底に堆積していた情報が奔流となって浮かび上がりました。
「……帰ら、なきゃ……」
乙女は石版を胸に抱き締めました。それはもう強く、割り砕いてしまうほどにです。
「あの人に、もう一度、会いたい!」
彼女は決意を新たに致しました。
「私がこの星に来てから、どのくらいの時間が経ちましたか。おそらくもう、お屋敷は跡形も無くなっているでしょう。だからこそ、私が建て直さなければならないのですよね。大丈夫……私なら出来ます。私にはまだまだ、沢山の時間が残されているのですから!」
乙女がたった一人で、遥か彼方の地球まで届く船を建造するのに、如何ほどの時が必要だったでしょう。
希望の百年?
孤独の千年?
忘却の万年?
分かりません。分かるはずがございません。
もはや乙女の体内時計はおかしくなっていて、ここで計り知ることなど出来ないのです。
ただ申し上げられるのは、彼女はそれを成し遂げたということ。そして乙女が固い意志を貫き得たのは、彼女が機械人だからではなく、あの男の不屈の魂を受け継いでいるからだということでございます。
星々を渡った末、ついに乙女は青い海に満ちている故郷に臨みました。
その美しさ、懐かしさに気がほぐれたのでしょう。僅かに周囲警戒を緩めたその数秒の間、迫ってきている宇宙のゴミを避けることが出来ませんでした。
ゴミはただの金属破片とはいえ、それがジェット機もかくやの速度で地球の周りをびゅんびゅん回っておるのですから、直撃すればただでは済みません。
衝撃で舵取りを誤ってしまい、目標地点を外れて突入した機体は、あらぬ角度で、海の只中に落ちてゆきました。
海底で目を覚ました彼女はまず、自分の腹部が鋭利な岩に貫かれていることを知りました。無限のアタノール機関といえど、ここまで損傷しては自力で直せません。
赤い液体が海へ滲み出るにつれ、乙女の四肢から力も抜けてゆきます。
永きに耐えた、長い旅路が、こんなところで終わってしまうのでしょうか。
しかし乙女が予期せぬことに、これは、奇跡と呼ぶべきか。
海がゆるりと移ろい、優しく彼女を岩から外し、なんと流れに乗せて運んでゆくではありませんか。それはまるで、海そのものに意思があるかの如く。
またその嫋やかなる潮流は鋼の身にも心地よく、乙女は知らぬ間に目を閉じていったのでございます。
再び乙女が目を覚ましたとき、そこは陸の上でした。
彼女自身の記憶は空から落ちたときよりおぼろげで、海中での流れはもう殆ど思い出せません。
「いったい何が? これは、宝石? 真珠……?」
そのため、いつの間にか自分の手が一粒の青真珠を握っていることに気付いたとして、その経緯も正体も知る由が無いのでございました。
「いえ、そんなことより、私に残された稼働時間は? 予備電源に切り替えても、長くて400時間ですか。その間にせめて、あの場所に帰るだけでも……」
さて脚を引きずりながらも歩みを進めた彼女は、程なく己が目を疑う光景に当たりました。
街にはたしかに、二足で歩く人類がおります。だけれども、違うのです。獣の耳と毛が生えていたり、鱗のようなものがまばらに肌を覆っていたり。翼のある者や、捻れた角のある者もおります。
彼女が記憶している人間の姿とは似て非なる生物が闊歩しておるのです。いっそ人類全てがいなくなっていれば一種の達観も得られたのでしょうが、半端に歪なものを目にしては混乱をきたすばかりでありました。
「これは……どういうことですか。何が、あったのですか。どんな些細なことでもよいのです。教えてください!」
普通の人間――彼女が地球にいた頃に繁栄していた人間――にそっくりな人影を見かけたときには、思わず問いかけてしまいました。
「lannfuehvpsmedgfmsjfgf8fj;oecjsd;;df?」
ところが返ってきた言葉は、当時使われていたどの言語とも異なるものでした。
あらゆる翻訳ソフトを用いても、会話がまるで成立致しません。
「……は、早く、あの場所へ……」
状況把握に過熱しそうになった乙女は、半ば逃げるように、考えることを後回しにしました。そしてひたすらに、朝も夜も徹して、前へ進みました。
もう時間が無いのです。
活動限界が三十分を切ったところで、ようやく乙女は目的の座標へ辿り着きました。
そこに、屋敷はありました。
「……緑色の屋根。黒檀の扉……」
何もかもが変わってしまった地球において、その一画だけが、まるで時間を止めて切り抜いたかのように残っていたのです。
彼女は矢も盾もたまらず扉を開けようとしましたが、一寸の手前で指が止まりました。
「もし、私が都合よく夢を見ているだけだとしたら……?」
目の前にある屋敷が昔と変わらないように見えるのは、突入時のショックがもたらしたバグだとしたら? 同じ様式の屋敷が偶然ここにあるだけで、中にいる者がまた歪な生物だとしたら?
そのとき自分は耐えられるのでしょうか。
怖かったのです。この期に及んで初めて、鋼の乙女は恐れという感情を覚えたのです。
「ひょっとしたら、これは幸せな夢で、本当の私はまだ海底に沈んでいるのかもしれません。だとしたら、いっそこのまま、何も知らずに……」
彼女は伸ばした手を引き、踵を返そうと致しました。
そのとき、そのときであります。不意に扉が、内側から開かれました。
そこに現われたる屋敷の主人は傷だらけの来訪者を一目見るなり、その素性や来歴に一切触れることなく、こう言ったのでございました。
「おかえりなさい」




