☆ 連理の絆、雪融けの縁
あるとき、あるところに、一人の男がおりました。
年は青く、名を母木孝助と申します。
ところは孝助達の母校の、裏山の中腹に建つ小さな神社。
彼は紋付袴を身にまとい、人生の一大事を待っておりました。この日は美琴との結婚を神前に誓うべき日。社務所の休憩室にて覚え書きとにらめっこし、三々九度の杯を交わす順序や玉串を捧げる手順を必死に復習しておったのです。
そこへ扉を叩く音が響きました。
*
と、ここでご説明申し上げねばならぬことが一つ。それは母木宇佐美についてであります。
ご存知の通り彼女は元来、叶美琴でした。孝助を失ったことで悲しみと絶望に暮れそうになった美琴の、彼を助ける一縷の望みに賭けて時間を遡った魂です。もし孝助が命を落とさなければ、彼女が過去へ行こうと決めることもないでしょう。つまり宇佐美がこの時空間で生きているのは、未来における孝助の死が大前提としてあるのです。
なればその悲劇を退けたとき、宇佐美は自らが産まれる原因を取り除いたこととなり、自身の存在が因果律によって否定される……などと言う、古今東西のSF物語にて多く扱われたタイムパラドックスの理論を持ち出して悲劇的な結末を想起したのであればご心配なく。
小雪と対峙した山で瀕死の容態となったのは、そんな小難しい理屈によるものではございません。
あの夜、小雪が先導したのは安全な近道でした。おかげで孝助は、あっという間に麓の町へと宇佐美を連れて行くことが出来たのです。雪の娘は山を離れては生きられぬとのことで、途中で別れました。
そして急いで宿へ戻り、宇佐美を寝かせてから町医者を呼びました。医者は少し症状の重い風邪だろうと診断して薬を渡してくれましたが、宇佐美はそれを全て吐き出してしまいます。試しに孝助が改めて自分の血を舐めさせてもみましたが、回復の兆しは見えません。
こうなっては頼るべきは物怪の専門家であると考えて、孝助は医者を帰した後で電話をかけました。相手は遠く別の地で温泉を愉しんでいた魔女でございます。
『……でも、話だけだとやっぱりピンと来ないわね』
顔が赤い、大量の汗を掻いている、四十度もの熱がある、しかし本人は寒気を訴えている、全身に痛みもあるらしい、等々。一問一答形式で症状を細かに伝えましたが、しかし孝助が期待した反応はありませんでした。
「そこをなんとか!」
『なんとかって言われてもねえ、孝助くん。宇佐美ちゃんは他に例の無い個体だから、特有の病気なんかがあると分からないのよ。それに言っておくけど、私は呪術師であって、医師じゃないわ』
「そんな……」
原因も治療法も知れぬ苦しみに喘ぐ宇佐美を見守って、孝助は気もそぞろであります。
『……ん、ちょっと待って。替わる』
『もしもし、こーくん?』
そこへ携帯電話の向こうから、魔女との忘年旅行に付いて行った美琴の心配そうな声が届いてまいりました。
「みーさん?」
『うん。隣で聞いとったけど、宇佐美ちゃんの具合が悪うなったって?』
「そうなんじゃ。こいつが身体を壊すなんて初めてで、どうしたらええか分からん。普通の薬も受け付けんみたいなんじゃ」
『こーくん、落ち着いてじゃ。一つだけ確認させてもろうてええかいね?』
「何じゃ?」
『宇佐美ちゃんが体調崩す前に、天気がガラッと変わったりせんかった? 例えば雨とか、雪とか、そういうんが急に止んだとか』
「たしか……猛吹雪がいつの間にかきれいに治まっとったが」
その答えを受けて美琴はしばし黙り、一つの考えをまとめてからまた口を開きます。
『こーくん。ひょっとしたら、なんじゃけど……』
「ひょっとしたら?」
促す孝助の声はとても頼りなさげでありました。
『宇佐美ちゃんのその症状って、食あたり、じゃなあかね?』
今度は孝助が押し黙りました。いえむしろ、あまりに予想外の答えに言葉を失ったと表現したほうが正確でしょうか。
『ほら、宇佐美ちゃんって、あの「雲呑み兎」じゃろ? ほんでこーくんのお祖父さんが書いた小説ん中で一回だけ、同じような苦しみ方しよう場面があるん』
それを詳しく覚えておる美琴の本好き加減については、ここで新しく述べることもないでしょう。
『龍神様の逆鱗に触れた村を守るために、兎は雷雲を呑み込むんよ。放っておいたら川が氾濫して村を沈めてしまうけえね。ほしたら龍神様は兎に免じて村を許すんじゃけど、兎のほうはそれから三日三晩、熱出して寝込んでしまうん。ほんはね、兎は無理しとったんよ。兎は他人から与えられた物しか食べられん。自分で獲ったんを食べても身にならん……そがあな物を腹一杯に入れようもんなら、身体を壊してもおかしくなあよ』
そこまで聞けば孝助にも合点がゆきます。今さら宇佐美に問うには及ばず、孝助と国彦が洞穴で待っている間に彼女が何をしたのか知りました。
「それじゃあ、みーさん。俺はどうすればええんじゃ?」
『適度に寝汗を拭いたり、水を飲ませたりは当然じゃろうけど……とにかく夜通し一緒におったげて。結局うちらにゃあ、そういうんが一番の薬じゃけえね』
受話器越しに、まるで美琴の慈しみに満ちた吐息が、耳にかかるようでありました。
「分かった、助かる」
『ううん、こっちこそ……そうじゃ、宇佐美ちゃんに替わってくれん?』
「……少しなら大丈夫じゃと思う。ほら宇佐美、みーさんじゃ」
孝助は妹の容態を鑑みて、電話を自分で持ったまま宇佐美の耳元へ寄せてやりました。
「みこと、さん……?」
『宇佐美ちゃん、今のうちにこれだけ言わせて』
「?」
『ありがとうね』
まず一言、美琴の口から伝えられたのは感謝の言葉でございます。
『少し前までずっと胸騒ぎがしとって、いくらこーくんに電話かけても繋がらんかったん。でも今は何だか安心してられる。きっと、宇佐美ちゃんがこーくんを守ってくれたんじゃね』
「…………」
『初めに会うたときから、なんだか宇佐美ちゃんとは他人な気がせんかった。あなたのこと、何でもってわけじゃなあけど、何となくは分かる気がしとる。気がするだけかもしれんけど……ほんでも、そこまで無理したんは、やっぱりこーくんのためなんじゃろう?』
宇佐美は黙って聞いておりました。何も言うことが無かったのか、はたまた何も言うことが出来なかったのか。
『あんまり気の利いたこたあ言えんけど、ほんにありがとう。宇佐美ちゃんがおらんかったら、うちもこーくんも、良くなあことになってたと思うけえ』
「ん……」
それから孝助と美琴とでおやすみの挨拶を交わして、二人は通話を切りました。すると今度はまた、宇佐美の呻きが孝助に聞こえてまいります。
「……にい、ちゃ……」
「大丈夫じゃ。俺が付いとるが。お前は安心して寝とれ」
孝助が宇佐美の枕元に腰を下ろして手を握ってやるなり、宇佐美はくすぐったさと嬉しさ半々に眉尻を下げて瞳を閉じました。
「兄ちゃ……生きとる、よね?」
孝助の手を握り返し、切れぎれの声で宇佐美は問います。
「当たり前じゃ。なんで腹を壊しとる奴なんかに俺が心配されんといかん」
「それで、年が明けたら、兄ちゃと、美琴さんは、結婚する」
「おう、もちろんじゃ」
孝助が力強く答えるや、宇佐美の眦からほろりと涙が落ちました。
「よかった」
「宇佐美?」
徐々にではありますが、握り返す手が弱まってゆきます。
「今だから、言うけど……私、小さい頃から、目をつむると……おかしな景色が、見えとった。夢みたいに。私が見るはずのない、場所……兄ちゃと美琴さんが、照れくさそうに喋ってる、図書室。二人で書いた、ノートを手渡して、夕日が差してて、きれい……」
「お前、いきなり何を言い出すんじゃ」
「他にも、木漏れ日の下で、キス、してる二人……薄紫色の……藤色? おっきな蛇と、楽しそうに、じゃれてる、兄ちゃ……あれは多分、未来の画だったんだと、思う」
ひきつった顔で問いかける兄を他所に、宇佐美は半分うわ言のように続けました。
「でもたまに、嫌なものも、見えてた……兄ちゃが、死んじゃうところ。爆弾でやられるのとか、怖い人に車で連れてかれて山に埋められるのとか、おっきな怪物にたべられちゃうのとか、他にも、いろいろ……そういうの、少しずつ消えてったけど……つい最近まで、ずっと残ってたの、雪山……」
そこで大きく、えずきそうになったのを堪えて宇佐美は、やんわりと口元を緩ませます。
「でももう、大丈夫……兄ちゃは、死なない。だって、こうして、目をつむっても、何も見えない……」
そこまで呟いて彼女は軽く口を結び、枕に首を預けました。
「しっかりせい。これから死んでいく奴みたいなこと言うんじゃねえが」
「…………」
「宇佐美? おい、おい宇佐美!」
孝助は咄嗟に嫌な予感を覚えて大きな声で呼びかけますが、宇佐美は答えません。
答えられません。
「くー、すー」
二人っきりの畳の上、深々とした静けさの中。やけにはっきりした時計の針の音に混じって、耳を澄ませば、彼女の小さな口元から漏れる寝息が聞こえてまいります。
「……おいっ」
どっと疲れの押し寄せた孝助は喜び半分。試しに肩を揺らしても、頬を引っぱっても、デコピンをしても、彼女は全く起きずにぐっすり熟睡。まこと彼の心配に利子が付いて返るほど。なんと一晩ですっかり元気になったのでございます。
なにせ彼女は希望の灯火。食あたり如きで死んでは堪りませんもの。
ここで若干の補足をば。
何故に宇佐美は消えなかったのか。
その理由は明らかではございません。いえ、明らかにする必要が無いのです。
なにせタイムパラドックスなどというものは、所詮はただの思考実験であり、机上の空論に過ぎません。アキレスが亀に追いつけるかどうかと議論するようなものでございます。
実際に叶美琴は時間遡上を行い、母木孝助は生き永らえ、しかも母木宇佐美は消えていない。
それが全てでございましょう。
*
ノックの返事を待たず、休憩室の扉が開けられました。
「兄ちゃ、美琴さんの準備が出来たよー」
中学校の紺色セーラー服に袖を通している宇佐美が、長い耳をぴょこんと揺らして顔を覗かせます。
「おう、いま行く」
孝助が宇佐美に従って向かった先は更衣室でした。その扉の前に立つと、宇佐美はにんまりと孝助に笑いかけてから、取っ手を掴んで勢いよく開け放ちました。
「じゃじゃーん、お待ちかね! 美琴さんの花嫁姿、本邦初公開じゃ!」
もちろん彼女のことは十年来の恋人付き合いでよく見知っておりましたし、また衣装選びにも付き合ったのですから、そこに白無垢姿の美琴がいることは充分に存じております。
それでも孝助は彼女の美しさ、楚々とした居ずまいを目にして、息を呑まずにおれませんでした。
白粉の塗られた面は磁器の如くなめらかに、口に引いた紅の艶やかさを魅せました。目元は嵩のある綿帽子や着物にも霞まぬようにくっきりと強調され、たった一目で相対する者の心を捉えて離さぬでしょう。その上でやんわりと微笑みかけられたなれば、見惚れぬわけがございません。
「みーさん、綺麗じゃ」
万の自然物や歴史上の美女を引き合いに出して美琴の麗しさを称えることも出来ましょうが、しかし詰まるところは孝助の口から漏れたこの一言に尽きるのでありました。
「凄いでしょう? 私ってば呪術だけじゃなく、メイクの才能もあるみたいなのよね」
美琴の傍では、ここぞとばかりに小さな胸を大きく張る魔女のスーツ姿もございます。
「こーくんも、男らしゅうて格好ええよ」
「馬子にも衣装っていうか……」
「お前それ、間違っても年上に使う言葉じゃねえが」
「うぎゅ」
軽口を叩く宇佐美の頭を、孝助は扇子でぺちっと叩きました。
「せやけどほんまに、孝助はお父ちゃんに似てきたで。見た目はそっくりやわ。昔はうち似で、もうちょい丸っこくて可愛かったのに」
着付けの手伝いをしていた留袖の絹子が、息子の晴れ着姿を見てため息を吐きました。
「ところでその親父はどこにおるんじゃ? 俺のところにもおらんかったが」
「表でラジオ訊いとる。ほら今日、日曜やろ?」
「ああ、馬か」
「懲りないよね、父ちゃんも」
「お義父さんて、そがあにギャンブル好きなんですか?」
「そらもう、うちらの初デートが競馬場やったもん」
「それは酷い」「それはひどい」「そりゃあ酷い」「それは酷いわね」
こうしてその場にいない人物・勇助のダメさ加減をネタにしてひとしきり笑った後、そろそろ親族は会場に行こうかと、絹子と宇佐美、そして魔女が退室致します。
それから十分ほど経ったところで、一人の巫女が新郎新婦を呼びに現れました。
「……あれ? あんた、前に会ったことねえか?」
孝助は彼女の持つ雰囲気や匂いに、どこか既視感を覚えて訊ねます。
「ふふ、花嫁さんの目の前で、他の女にそげんこと言うたらいけんよ」
「あ、いや、そういう意味じゃねえが」
「とにかく、間もなく式が始まるけん。付いて来んしゃい」
口角を上げた巫女は音も無く翻ると、薄金色の長髪を揺らして、ゆっくり廊下を進みました。
そして新郎新婦は、連れ立ってその後に付いたのであります。
新郎側の親族席には、勇助、絹子、宗助、宇佐美が並びました。
新婦側の親族席には、親代わりとして魔女と赤鬼が並びました。
媒酌人は岩崎国彦と、その妻が務めます。
厳かにして、温かに、結びの神に将来を誓いました。
杯を交わす二人の姿を見つめて宇佐美は胸を熱くし、
ああ、産まれてきて良かった、としみじみ感慨に耽ったのでございます。
一通りの式次第が済みますと、一行は境内に出て並びました。このめでたい晴れの日に、是非とも集合写真を撮りたいと美琴が申し出たからでございます。
やがて国彦が三脚の用意をし、それぞれが立ち位置を決めたところで、不意に宇佐美が素っ頓狂な声をあげて顔をこすりました。
「うわ、なに、冷たっ!」
「どうしたんじゃ、お前?」
「ん、なんか鼻に冷たいものが当たって……ゆ、雪?」
不思議そうに空を眺めていると、開いた手の平に、綿のような白雪が落ちてきました。
本当か、本当だと、その場の誰もが驚き見上げます。たしかに晴天であるにも関わらず、ふわふわ雪の結晶が漂っておるのでした。
「日の出ているときに降る雨は《狐の嫁入り》などと呼ばれますが」
「こんなときの雪は、なんて言うのかしらね」
赤鬼と魔女が呟くと、宇佐美は伸びをして大層おだやかに答えます。
「そういうのは知りませんけど……私に分かるのは、とりあえず、小雪が祝ってくれとるってことだけです」
その発言の含みを知る孝助と国彦が、視線を合わせて頷きました。
山林の中、幸せ満ちたる新郎新婦を中心に集う石段の上。
新婦を慈しむは見た目不相応に微笑む魔女。
照れくさそうに斜めを向くは禿頭の極道者。
新郎の傍らに、満面の笑みでピースサインを作る妹。
大あくびする親父の尻を、母狸が見えぬところで引っぱたく。
老人が視線を落とす先にはよくよく見れば、木陰にまじって狐の影尾。
雲一つ無き空より、はらりと小雪が舞い降りる。
あるとき、あるところに、一組の男女がおりました。
男は年青く、名を母木孝助と申します。
女は年妙やか、名を母木美琴と申します。
*
さて結婚とは、言い換えれば結魂……すなわち魂を共有する儀式であると申し上げられましょう。魔女の呪いによって寄り添うことを運命づけられた二人は、遂に一つとなったのです。
そして孝助は、それ以前に、血と息吹をもって宇佐美と深く結びついておりました。
ここにおいて孝助を中心にし、美琴に秘められたる破壊と絶望が、宇佐美が見せつける再生と希望によって中和され、同じ未来へと進むことが叶います。
現に、この日を境にして宇佐美は、悪い予知夢を見なくなりました。
これからずっと、きっと、多分、おそらく、彼らは大丈夫でしょう。
実際のところは、今後どうなるか全く分かりません。
ようやく彼らの未来は、まだ誰にも観測されたことのない、まだ誰にも語られたことのない、どこにでもある普通の、人並みになれたのですから。
ともあれ今は、今だけは、万感の願いを込めて……
使い古されたお決まりの文言をもって締め括りと参りましょう。
めでたし めでたし




