☆ 凍てつく吹雪、童女の戯れ・後編・丙
しばしの沈黙が続きます。洞穴は外から届く吹雪の鳴き声と、風を避けてもなお身体の芯まで凍えさせる山の冷気に支配されておりました。
「さっきから黙って聞いとりゃ適当なことばっかり抜かして……承知せんよ」
その気配を破ったのは、誰あろう宇佐美でございます。小雪に詰め寄った彼女は冷静であろうと努めながらも、声色には明らかな怒気を孕んでおりました。
「う、うそじゃねえど」
それまでずっと人をからかうような態度を通していた小雪が、激情を湛えた赤い目に気圧されて顔を逸らしました。それまで全く注意を払っていなかった女から、不意に只ならぬ物怪の気が感じられたので困惑しておるのでしょう。
「嘘かどうかは問題じゃないの」
宇佐美が進めば、それだけ小雪は退きました。
小雪は雪の物怪であり、まだ子供ながら、吹雪舞う冬山においては活殺自在。何ものにも侵されません。格の高さで有名な九尾の狐をさえも、正面からであれば容易に下せるでしょう。
それだけの自信があるため好き勝手に振る舞い、孝助や国彦のような大人の男に何を言われてもふざけて受け流していたのです。
「心の隙につけ込んで、惑わして、生命を弄ぶ。それも面白半分で。私はその根性が気に入らないって言っとるんじゃ」
しかし宇佐美にだけは違います。彼女が口を開く度に淀んでいた空気が薄らぎ、小雪が見せていた妖しさはメッキが剥がれるように落とされてゆくのでありました。
「…………っ!」
やがて重圧に耐えかねて、小雪は身を翻します。
「こら、まだ話は終わっとらんよ!」
「宇佐美、外へ出るな! 危ぶねえぞ!」
追いかけようとした宇佐美を、孝助が引き留めました。
「あの子にお灸を据えに行くだけじゃ。それより兄ちゃは、岩崎さんが変なことせんように一緒におってな」
「いくらお前でも、この雪の中を一人で行くのは自殺行為じゃ」
「だからって、あのまま放っておくわけにはいかん。また同じようなこと繰り返されたらかなわんがよ」
加えて宇佐美には、一つの懸念があります。
「それにもし、この吹雪があの子の仕業だったら? あの子がヘソ曲げたままで、ずっと雪が止まんかったら? 早いうちに手を打っておかんと手遅れになるかもしれん」
「それは、そうかもしれんが……」
「大丈夫じゃ。私が付いとって兄ちゃにもしものことがあったら、美琴さんに顔向け出来んもん。それに岩崎さんも、雪音ちゃんのことは残念だったかもしれませんけど、今でも家には奥さんが待っとるんでしょう?」
いざとなれば我が身を山に捧げようとまで考えていた国彦は、宇佐美の言葉で思い直しました。そして同時に、この状況下で一介の女子中学生に何が出来るのかと不思議にも思いました。
「だから二人は生きて帰れるようにします。私の命に代えても」
「宇佐美。俺の前で命に代えるとか何とか、軽々しく言うんじゃねえ」
孝助からのお叱りを受けて、かえって宇佐美は微笑みました。
「ねえ、兄ちゃ。なにか食べ物持っとる?」
問われて彼は手袋を外し、リュックを漁ります。
「ん? ああ、チョコ……は、お前アレルギーだからダメじゃな。キャラメルならあるが」
「ちっちゃい頃みたいに、食べさせてくんない?」
あーん、と宇佐美は待ちの姿勢をとりました。孝助は求めに応じてそれを一粒、つまんで彼女の開いた口へと運びます。
するとどうでしょう。宇佐美は甘味が舌に乗ると同時、そのまま指に噛みつきました。
「ぁ痛っ! 何すんじゃ、お前!」
とっさに孝助が手を引くと、爪の近くにざっくりと歯型がついておりました。しかしさらに彼と国彦が驚いたことには、その傷跡から抜け出た一筋の血糸が、宙を泳いで宇佐美の唇へと吸い寄せられたのございます。
それを舐め取った宇佐美の顔は紛れもなく年相応の少女であり、併せて覚悟を決めた戦士とも言えましょう。
「ごめんね、兄ちゃ。でもこれで……元気出た。絶対に負けない」
そして彼女はそれだけ強く言うと、今度こそ孝助の制止も聞かずに駆けてゆきました。
勢いに任せて洞穴の外へ踏み出した直後、宇佐美の背に悪寒が走りました。彼女はその原因を詳しく知るよりも早く、反射的に真横へ転がります。
すると刹那の間も無く、六枚の氷刃が足元の雪を割って飛び出しました。先ほどまで宇佐美の胸があった箇所を目掛けて鋭い軌道を描き、空中にて衝突し砕け散ります。
一瞬でも反応が遅れていれば心肺が貫かれて、代わり鮮血が散っていたことでしょう。
ここにおいて恐るべきは――この時点での宇佐美には気付かぬことでありますが――小雪は殺意をもってこれをやったのではないということでしょうか。己を不快にさせた相手を排斥する、という実に短絡的で子供らしい振る舞いの延長線上にある行為なのでした。詰まるところ彼女は、自分が仕出かしている事の軽重を少しも量っていないのです。
「素直に説教を聞くつもりは無いってこと? ……じゃあええわ。私も正直、あんまり喋るの得意じゃないから」
何としてもこの期に決着を付けねばならぬと、宇佐美は決意を改めました。
ところが、ただでさえ悪天候な上にもう日も沈みかけ。目に頼っては小雪を追うことが出来ません。
「さて問題です。兎の耳はどうして大きいのでしょう?」
それでも宇佐美は全く慌てる素振りを見せませんでした。防寒用に被っていたニット帽子を脱ぎ捨て、そう遠くないところから様子を窺っているであろう小雪に向けて、彼女は顔を真正面に据えたまま言うのです。
立ち上がり際に掴み取った雪を固めて球にしてから、辺りに集中して神経を研ぎ澄ませました。荒ぶる風に混じって小さく、尖った音を捉えて片耳が曲がります。
「答えは、あんたみたいな悪ガキの企みを聞き逃さんためよ」
宇佐美は感覚の導く先へ一閃、小柄な身に合わぬ強肩でもって雪球を振り投げました。
その剛速球は、生成途中の氷刃を撃ち抜いて術を中断させます。同時に小雪の「ひっ」という悲鳴も上がりました。
「続いて問題です。兎の脚はどうして速いのでしょう?」
問いかけられたとて、小雪が返すはずはございません。これ以上は関わらないのが正解だと判断したのか、雪童女は山頂の祠を目指して一目散に飛びました。
「答えは、あんたみたいな悪ガキをとっ捕まえるためよ」
そうは問屋が卸さぬと、宇佐美は跳ねます。とても藁沓とは思えぬ蹴り込みでもって、ぐいぐいと距離を詰めてゆきました。やがて前方に赤い着物を認めます。
一息に掴みかかってはもつれ合い、二人して傾斜にぶつかりました。
「ふむぎっ!」
「観念しなさい!」
いつしか向かい合う形になって、暴れの押さえの。
小雪の身体は触れる者の体温を奪ってゆきますが、宇佐美は決して放しません。
「やだやだやだっ……やだっ、やだっ……ははっ」
顔をくしゃくしゃにして喚いていた小雪――それが不意に微笑みました。
宇佐美はぞっとしたものを感じる間もなく、真横から強い衝撃を受けて吹き飛ばされてしまいます。
「くすくすくす、ひっかかった、ひっかかった」
倒れている宇佐美と、即席の術で作った氷の鬼を見下ろし、小雪は宙で笑い転げました。
殴られた肩に痛みと痺れを覚えつつも、それに負けじと宇佐美は奮い立ちます。奮い立ちますが、あっけなく氷の鬼に両腕を取られてしまいました。
「いくらおねえちゃんでも、そったなふうに捕まらさったら何にも出来ねえへ?」
小雪が余裕しゃくしゃくでいることには理由がありました。それと申しますのも多くの物怪には共通した弱点がございまして、身体の中でも首と名の付く箇所を封じられると気の流れが滞り、妖術や変化の類を上手に扱えなくなるのです。
まして氷の鬼は宇佐美の倍近くもの上背があるのですから、単純な力比べでの勝負も結果は明らかでしょう。
「どこまでも人をおちょくって……」
ならば万事休すかと思えば、さにあらず。宇佐美はちっとも諦めてなどおりません。
「生まれつきの術が無くっても、私には、鍛えて身に付けた技があるんじゃっ!」
彼女は氷の鬼から離れるのではなく、むしろ一歩を踏み込んで寄りました。身を縮めて手首を捻り、腕を内に大きく回して拘束を解きました。
「てえぇいっ!」
さらには相手の重心が崩れた一瞬を突き、体当たりに連ねて足払い。巨体が倒れるに合わせて自身はすかさず高跳びし、空中にて一回転しました。
「ラビット……キィィィック!」
長年に渡って連綿と支持されてきた物語上のヒーローを真似して叫び、落下の勢いを加えての蹴りを放ち、逃げ場の無い衝撃でもって氷の胸を踏み砕いたのです。
これら一連の動作は手慣れたものでして、実に華麗秀美。昨日今日で覚えた動きではございません。彼女はいざというときに備えて、常日頃から鍛錬を続けていたのでした。
「ふう、田川のお爺ちゃんに空手を習っといてよかった」
ちなみに物怪の護身術であるポンポコ流は、まず掴まれた手首を外す動きから習います。
さて宇佐美が事も無げに身を持ち直した一方、小雪は混乱を極めておりました。切り札であった氷の鬼が、まさかこうも容易く打ち倒されようとは露にも考えていなかったのでしょう。
「捕まえた!」
「うぎっ!」
あまりに予想外の出来事であったため、彼女は足首を掴まれるまで宇佐美の接近にも気付かぬほど。今度こそ抵抗も無く引き倒されました。
「最後の問題です。兎の拳はどうして固いのでしょう?」
「そ、そ、そったなウサギ、聞いたこともねえど!」
「答えは……」
今は宇佐美が小雪の右手首を左手で掴み、左手首を足で押さえている状態。小さな雪の物怪には為す術がございません。でたらめに身体をよじって解けるほど甘くはないのです。
そして宇佐美は右手袋を咥えて外し、これから打ち下ろすぞと睨みを効かせながら、敢えてゆっくりと腕を掲げました。小雪が目をぎゅっと閉じて顔を背けても、お構いなしであります。
「あんたみたいな悪ガキを懲らしめるためじゃ!」
ごちんと一撃、宇佐美は握った拳を小雪の頭に落としました。
手を放されても小雪は逃げも噛みつきも致しませんが、泣き止むまでには多少の時間を要しました。その場にぺたんこと腰を下ろしたままの小雪の隣では、耳を寝かせた宇佐美が膝を抱えて座っております。
「小雪ちゃん。よく聞いて」
落ち着くのを待ってから、宇佐美は諭すように語りかけました。優しくも毅然とした雰囲気でございます。
「私にぶたれるとき、怖かったでしょ?」
はっきりと答える元気も無い小雪は首だけで頷きます。
「誰だって傷付けられるのは怖いし嫌なの。殺されるのなんてもっと怖いはず。分かる?」
再び首肯致しました。
「あんたは私と兄ちゃにそうしようとした。岩崎さんに、そうさせようとしたのよ」
小雪は鼻をすすり、黙って聞いております。
「遊びのつもりでも絶対にやっちゃダメ。分かったら、二度としないと反省して。それからちゃんと謝って」
「……ご、ごべんだざい……」
「私じゃなくて、岩崎さんに。今日はあの人が一番苦しんどると思うから」
「ぅう……うん」
少なくともこの場で反発することは無さそうだ、と判じた宇佐美は片手を小雪の胸の前に差し出しました。
「だったら、指切り」
「へ?」
しゃくり上げて一瞬、きょとんとする小雪。しかし宇佐美は小指を立てたその手を強調するように振るってまた言います。
「だから、指切りよ。私の言ったことを守るって、約束。分かるでしょ?」
しばしの迷いを見せましたが、小雪はやはりそれに応じて小指を絡めました。
「言っとくけど、いざとなったら本当に針千本、呑ますからね。もしくは拳骨一万発」
「わ、わがっだ」
「よし、それじゃあ私は、あんたが約束を守る良い子だと信じるわ」
それだけ言うと宇佐美はにっこり慈悲に満ちた顔をして、小雪のおかっぱ頭をわしわしと撫でてから、腰を上げました。そして改めて、頬と耳にかかる豪雪で眉をひそめます。氷の鬼に殴られた肩がズキズキと本格的な痛みを訴えてきました。
「……っと、そういえばこの雪は、やっぱりあんたが降らせてるの?」
「うん」
「じゃあ止めて。このままじゃ危ないし、朝になっても町へ帰れないわ」
「で、出来ねえ」
「はぁ?」
「わはさ、雪っこ、ふらせられるけども、止めるごとは出来ねえ」
「アホ、自分で責任の取れない力を使うな! 今度やったら拳骨くらいじゃ済まさんがよ!」
宇佐美が凄むと、小雪は小さく鳴いて肩をすくめました。
「とにかく空を鎮めなきゃね」
これ以上は小雪を叱ったとて無意味と判断して宇佐美は、長耳をピンと立てて天を仰ぎます。
「そったなごと、出来るだか?」
「やったことはないけど、やれるはず」
宇佐美は痛みに耐えて、おもむろに両腕を上げました。それから何度も、何度も、手を結んで開いてを繰り返しました。
彼女の感ずるところとしては、雲を掴むイメージなのでしょうか。やがてそれに腕を落とす動作も加わり、遥かな高みの空を引き摺り下ろす形にも見えます。
「ふんっぐぐぐ……」
歯を食い縛る姿は必死の様態。傍にいる小雪は言葉無く見惚れているしか出来ません。
「ぬぐぎぎぎ……」
次第に宇佐美の真上では黒雲が渦を巻き始めました。その中心は徐々に螺旋状となって、下へ下へと垂れてまいります。
それから宇佐美は構えを変えました。両手の平で筒を作り、頬の前にあてがったのです。今度は口から大きく息を吸い、鼻からゆっくり吹き出すことを続けました。
始めのうちはゆっくりだった雲の渦は、さも自らの重みに耐え切れなくなったかの如く、ごうごうと加速度的に勢いを付けてゆきました。もちろん渦の落つ先は宇佐美の口元。彼女はよろめこうとも踏ん張って倒れません。
それもそのはず『雲呑み兎』の物怪名は伊達ではありませんで、まさかまさかの予想通りに――決してスムーズとは言えないまでも――彼女の細い喉が全ての雲を呑み下しておるのでございます。
最後の一滴まで腹に収めたところで、宇佐美は膝に手を突いて息を荒げました。
「べはぁっ、はぁ、はぁ……焦げた、カラメル、みたいな味がした……想像と全然違う……」
先ほどまでが嘘のように空には満月が照り、星々が瞬いております。
余談ですが小雪は、このときにようやく心の底から「このウサギのおねえちゃんには絶対に逆らわないようにしよう」と思ったそうです。山をろくに降りない彼女が自分よりも力の強い存在を知ったのは、この日が生まれて初めてなのでした。
一帯を覆っていた雪雲を打ち消した後、宇佐美は小雪の手を引いて洞穴へと戻りました。
「……おじちゃん、ごめんなざい……」
小雪はしばらくもごもごとしておりましたが、宇佐美に背を軽く押され、やっと頭を下げました。
夕刻前とは打って変わってしおらしく語るところによりますと、山に人命を捧げれば自分が人間になれるという話はやはり口からの出任せだったのです。彼女は己の出自についても詳しくは知りません。物心が付いたらこの山にいて、何気なく日々を過ごしていたら幾年も経っていたとのことでした。話に出ていた雪の神もいないのだと。
しかし当人は気付いておらぬでしょうが小雪は、雪を畏れ山を崇める町人らの想いを得て成長していたのでしょう。その意味では彼女こそが雪の神だったのかもしれません。
「それでも……」
一通りの告白を受けてから国彦は、小雪の手を握りました。
「それでも私は、お前が雪音の生まれ変わりに違いないと思う」
「おじちゃん?」
「お前が私を忘れていても、小雪という名前になっても、人間じゃなくなっても、どんなに悪いことをしても、やっぱり私はお前を嫌いにはなれない。そうだ。どんなに時間が経っても、時代が移っても、この絆は永遠だと、私はきっと、そう信じたいのだ」
国彦は辛抱堪らず、彼女をぎゅっと抱き寄せます。どれだけ冷たくとも構いません。
「信じさせてくれるか? 今度は妻を連れてくる。そのときには、三人でたくさん話そう」
「……うん、待ってるすけ」
それから名残惜しそうに離れました。
「何にせよ、誰も大事に至らんでよかったですよ。宇佐美のおかげじゃ。よくやった」
二人の様子を見て心温まった孝助が、妹の頭をわしわしと撫でてねぎらいます。
「う……ん……」
「おい、宇佐美?」
すると何故だか宇佐美は小さく喘ぎ、上気したような面持ちを見せました。視点が定まらず、足元がふらついております。
「兄ちゃ……」
ついには立っていることもままならず、孝助の胸に頭からもたれて寄りかかりました。そのまま力無く、ずるずると落ちてゆきました。
「宇佐美、どうした!」
「宇佐美ちゃん?」
「おねえちゃん?」
慌てて孝助が抱えますと、彼女の身体の熱さに愕然と致しました。額に手を当ててみますと、脂汗がべったりとしておるのです。
「……いた、い。く、る、しい……」
息をするのも辛そうに、宇佐美は目を固く閉じ、すがるように孝助の服を掴みます。
生来の丈夫さ故にインフルエンザにもおたふく風邪にも罹らなかったのですから、彼女がこれほど苦しむ姿を見るのは孝助にとって初めてです。それだけ余計に、尋常でないことが起こっているのだと直感しておののきました。
原因は分かりませんが、いずれにせよ早く町へ戻らねばなりません。しかし時間は既に夜。いくら吹雪が治まったとはいえ、足元の悪さが解消されていないことには危険が伴いましょう。道を外れぬ保証もございません。
「おにいちゃん。わが案内するすけ、ついてけれ」
如何にして山を降りるべきかと勘案している孝助の背中を、小雪がちょいちょいと叩きました。
「迷ってるひまはねえど」
「母木、この子を信じよう」
続いて国彦も真剣な眼差しを向けてまいります。
「……分かりました。小雪ちゃん、頼む」
孝助が頷くと、小雪は晴れやかに微笑んでから素早く洞穴の外へと飛び出しました。
それから孝助は腹を括り、息も絶え絶えになっている宇佐美を背負って、赤い着物の後を追ったのでございます。




