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良い子と悪い大人のための平成夜伽話  作者: 橘圭郎
第二部《雲呑み兎》
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☆ 義理と兄妹


 あるとき、あるところに、一人の女がおりました。

 年は定かならず、名を母木宇佐美(うさみ)と申します。


 宇佐美が何者であるか。それについては結論を先に申し上げましょう。彼女は在りし夏の日に卵から産まれた物怪・雲呑み兎です。

 孝助の両親は初めのうち、彼女をこのまま育て続けることに難色を示しておりました。犬や猫を飼うのとは訳が違うのだからと。

 しかしいくら大人の意見を押し付けようとも、孝助の熱意が冷めることはございません。さらには雲呑み兎の本質をよく知る者・宗助も孫に味方をしたため、孝助の両親もやがて折れました。なんだかんだと言っても、やむなく世話をしているうちに情が移っていたのでしょう。

 まして絹子も物怪の輩。人に愛されて生きるのがどれほど重要であるかは身に染みております故、彼女が兎を認めるのはまこと自然な流れであります。


 かくして兎は、母木勇助と絹子の娘、すなわち孝助の妹と相成りました。

 はて、戸籍や出生証明はどうするのかですと? 化け狸の絹子だって立派に住民票や戸籍を持って結婚しておるのですよ。人に溶け込む物怪には物怪同士の繋がりがあるのです。中には、役場勤めや開業医をしているものがあっても不思議ではございません。




 彼女は宇佐美と名付けられ、賢く健やかに育ちました。

 身体は小さいのに幼稚園の駆けっこではいつも一等賞に輝きます。文字を憶えるのも早くて、同い年の子供に絵本を読み聞かせるほどでした。さらには勘と運気が非常に鋭く、トランプで神経衰弱をした際には最初の手番で全ての札を取って周りを仰天させたこともございます。

 孝助の母方の祖父――ポンポコ流空手百段と噂の御方――の言によれば、宇佐美は並の物怪に比べて魂の密度が非常に大きく、その扱いも巧みなのだそうです。言い換えれば、自分の思い通りに身体を動かすことに長けているのでした。

 宇佐美自身に関してさらに一つ特徴を加えて挙げるならば、兎が人間に化けているのではないという点があるでしょう。彼女は姿を変える術を覚えず、動物の兎としての形態を持ち得ません。頭頂部から大きな耳を生やした人型を常としておりました。

 もっとも、かの長耳は気の知れた相手にしか見えぬものではありますが。




 さてさて、ある年の梅雨時分。

 まだ夜も明けきらぬ時間に宇佐美は目を覚ましました。ふと頭に浮かんだのは、まだ暗い空の下はどんな世界があるのだろうということ。そのまま元気一杯の彼女は布団から抜け出し、好奇心に導かれるまま外に出てしまったのです。

 寝間着姿で、正義の仮面ヒーローを描かれたサンダルを履いてぺたぺたと、湿った空気の中を歩きます。しかし、なかなか彼女の興味を惹くようなものは見当たりません。なにせ動くものなど殆ど無いのですから。

 

「……かえろーっと」


 こんなに外が暗い時間に出歩いていたと気付かれたら、きっとお母さんやお兄さんに叱られてしまいます。そう思ったら急に眠気が蘇ってきて、宇佐美は大きくあくびを一つ。


「?」


 と、そのとき、片耳がぴくっと動きました。よくよく澄ませると、カラカラと乾いた音が曲がり角の向こうからしております。


「なんだろ?」


 抜き足、差し足、忍び足。宇佐美は電柱から顔だけ出して様子を窺いました。そこにぼんやり見えたのは、キャリーバッグを引く若い女の影でございます。


「ふんふん。『魂萌え雀』……動物を擬人化した萌え系ノベルか何かかねえ? 『わらわの勇姿を、とくと書け!!』……『うちのドラゴン様がボケまして』……なんか面白そうじゃねえ。まだ読めるんに、もったいない」


 今日は古紙の回収日です。

 深夜のうちにゴミ捨て場に出してしまう人も多くいるので、彼女はそれを狙って何か掘り出し物が無いかと漁っているのでした。予想以上に大収穫だったのか、独り言を漏らして興奮気味に本をキャリーバッグに詰めてゆきます。


「なーにしてるのー?」

「わ、わわきゃっ!」


 こっそり近づいていた宇佐美が背中を叩くと、本漁りをしていた女は裏返った声を上げ、長い三つ編みが跳ねました。


「ねー、おねえちゃん、なにしてるのー?」

「あ、あわわ、はは……」


 宇佐美は無邪気そうに覗き込みますが、女は動悸を抑えるので必死です。幼子が相手なのだから有無を言わさず追い払うなり自分が逃げるなり出来そうなものですが、それをしないのが彼女の人柄でありましょう。

 ちなみにこの町では、捨てられた物は所定の業者が回収する手筈になっているので、一般人が勝手に持ち去ってはいけません。


「えっとね、うちゃあ、その、こがあ見えても正義の味方なん。可哀想な本を保護して……っ!」


 しどろもどろに言い訳を考える女は、ここで初めて宇佐美に顔を向けました。眼鏡の奥にある深い瞳と、薄暗い中でも映える赤目とが視線を合わせます。

 年は(とお)以上も離れ、顔形も決して似ているとは言い難い――女は細面ですが、宇佐美はどちらかと言えば丸顔です――にも関わらず、そのときの印象は互いに全く同じでした。

 二人が後に思い返して曰く、まるで鏡を見ているようだったと。


「あ、ああ、ほんで、悪い大人にバレんように、この活動は秘密にせんといかんのよ」


 しばし宇佐美の目に見とれていた女は、また取り繕うように喋りだしました。


「じゃけえ、ここでうちを見たことは秘密にしとおてくれん?」

「うん、いいよー」

「約束してくれよう?」


 女は身を屈めて、小指を差し出しました。宇佐美はにっこり笑ってそれに応えました。


「うさみはいいこじゃから、やくそくはちゃーんとまもるがよ」


 指を絡めて女も微笑みます。

 と、そこへいつの間にやら一人の男が寄っておりました。


「アホかお前は」

「うあ、にいちゃ!」


 宇佐美はバツの悪そうな顔でその男・孝助を見上げました。彼の片手には、宇佐美の足から途中で脱げたサンダルが収まっております。


「約束を守る良い子は、こんな時間に一人で出歩いたりせんわ。悪い大人にでも捕まったらどうするつもりだったんじゃ」

「へいきだよー。ラビットキックでやっつけちゃうもん」


 宇佐美は得意げな表情で、裏の汚れた足を上げてみせました。


「何がラビットキックじゃ。俺にも届かんくせに」


 しかし気にせず孝助は、空いているほうの手で拳を作り、妹の頭を小突きました。うぎゅっと小さく呻いて宇佐美は目に涙を溜めます。


「うちの妹が迷惑かけてすみません。すぐに連れて帰りますんで」


 孝助は恥ずかしそうに女へ頭を下げ、宇佐美にも下げさせました。


「あ、いえ、こちらこそ非常識じゃったけえ。その子は何も悪うないん」


 すると女も。三人してぺこぺこと、しばらく頭を下げ合います。そんな自分達の様子がどこか面白くて、孝助と女はどちらからともなく吹き出しました。そうこうしているうちに空も白んでまいりました。

 しかし和やかな雰囲気になったとは言え、あくまでゴミ捨て場を漁っていた女と、それを偶然目撃した兄妹です。そこで大した話が膨らむわけもございません。その場では互いに名乗ることもなく別れました。


「あれ……?」


 ゴミ捨て場の後片付けをしながら、女は頭の中に引っかかりを覚えました。


「さっきの女の子、兎みたあな耳が生えとらんかった?」




「あれ……?」


 帰り道で孝助も思うところがありました。


「さっきの女の人、うちの学校のジャージ着てなかったが?」


 すると彼に手を引かれていた宇佐美が、何故だか目をつむりながらも、やけにはっきりと言いました。


「うさみにはね、わかるの」

「何がじゃ?」

「にいちゃは、あのおねえちゃんとけっこんするよ」

「んな、いきなり何を抜かすんじゃ、お前は!」


 内心で、彼女は美人だったと鼻の下を伸ばしていた孝助は、妹の不意打ちに心臓が跳ねます。


「みえるの。にいちゃはね、おねえちゃんと『こうかんにっき』をするの。ぜったいにそうしたほうがいい」

「……幼稚園児の宇佐美ちゃんよ。交換日記ってどういうものか知っとるんか?」

「んー、わかんない」

「デコピンッ!」

「むぎゅっ」

「適当抜かすなが」

「うー。にいちゃは、いつもあたしにだけきびしい」


 かくして二人は家に着き、ひとまずは日常に戻りました。




 その後、孝助と本拾いの女・叶美琴は、高校の図書室で思わぬ再会を果たしました。

 そして宇佐美の言葉の通りに、やがて二人は惹かれ合い、交際を始めたのです。

 ちなみに申し上げますと、()()()()は電話に対する抵抗感を持ってはいません。しかし勇助の稼ぎが変わらない母木家では、宇佐美を育てるため何かと入り用になるので、わざわざ手のかからぬ長男に携帯電話を持たせる余裕はありません。よって二人の愛は『こうかんにっき』を通して密やかに育まれたとのことでした。



 

 さてまた時は過ぎ、孝助と美琴が結納を済ませ、後は年明けに式を残すだけとなった師走の頃。壮健活発な中学生となっていた宇佐美は、孝助の会社で催される慰安旅行の話を耳に致します。


「ねえ、兄ちゃ。その旅行って私は行っちゃダメなの?」


 もりもりと夕食――雲呑み兎は自分で用意した食べ物を食べられないので、孝助が料理したもの――を頬張りながら、宇佐美は赤目をくりっと上目遣いにして訊ねました。


「いや、一応は家族同伴可ってことになっとるが……」

「じゃあ私も行く! 絶対行く!」


 鼻が触れんばかりに顔を近づけます。


「いいよね、ね!」

「まあ今年は、親父とお袋は狸の会合に出る予定じゃし……人間の親父が行ってどうするんじゃって気もするが」

「聞こえとるぞ孝助。こっちはこっちで、狸爺のご機嫌取りに大変なんじゃ」


 一足先に食事を済ませていた勇助――今や初老と評して差し支えない年頃――が、居間でテレビを観ながら口を挟んできました。あぐらを掻く彼の膝上では、今日は狸の姿でいる主婦の休日だと決めた絹子が丸くなっております。


「とても大変そうには見えんが。とにかく、みーさんもアパートのひと達と忘年旅行って言うとったしな。お前が田川の爺さんのところに行くつもりが無いんなら、仕方ねえな」


 宇佐美の生まれたこの時空間において、まだ美琴は孝助らと同居をしておりません。


「ってことは? ってことは?」

「連れて行ってやるが」

「やったーい!」

「でもちゃんと、冬休みの宿題は終わらせとけよ。じゃねえとこの話は無しじゃ」

「分かっとるがよ。あー、でも楽しみ! 温泉、スキー、さくら鍋!」


 来たる雪国旅情に思いを馳せて、宇佐美は長耳をぴょこぴょこと動かしました。期待と興奮のままに駆け出そうとすると、すぐに孝助から「ご馳走様をしてからじゃ」と小言が飛びます。

 もしここに美琴もいたならば「あはは、宇佐美ちゃんはほんに元気じゃねえ」などと言って柔和に微笑むのでしょう。




 母木宇佐美はその爛漫(らんまん)たる振る舞いの内で常々、もしこの幸せを脅かすものがあれば断固として抗うべしと、強く考えていたのでございます。


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