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良い子と悪い大人のための平成夜伽話  作者: 橘圭郎
第二部《雲呑み兎》
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☆ 少年と、あなたと、雲呑み兎・後編


『どうか、手を伸ばして』


 孝助の問いかけに、声は答えます。


『どこにも、あなたの敵はいない』

『ここに、あなたを憎むものは無い』


 声は優しく、孝助に語り続けます。


『初春の令月にして、()()く風(やわら)ぎ』

『梅は鏡前の()(ひら)き』

『蘭は珮後(はいご)(こう)(かおら)す』


 今はじっとり暑い夏なのに、どうして急に春の話を始めるのか。

 そもそも何を言いたいのか、孝助にはまったく分かりません。


 ただ、ゆるやかに、胸のざわめきが引いてゆくのを感じました。


『よき月に兎は目覚め、やわらかな風は曇りを払う』


『故に、集約された夜伽話を体現し、最後に現れるものは――』


『新たな未来を(ひら)く希望の物怪は……その名を《雲呑み兎》という』


 観測された未来は過去に干渉いたします……あらゆる自然、あらゆる道理、あらゆる因果を捻じ曲げて。

 そうまでするほどの想いは、願いは、まさに物怪の力の源でございます。


『こわがらないで。きずつけるつもりはないの』


 兎の卵の意思は、彼女を支え見守る者達の後押しを得て――当人らは自覚しておらぬでしょうが――幾遍もの幾遍もの繰り返しの果てに、ようやく孝助へと正しく繋がったのです。


『こわがらないで。あなたをまもりにきた』


 孝助は全身に鳥肌が立つのを感じました。しかしそれは恐怖のためではなく、むしろ武者震いとでも言い表すべきものでありましょう。


「お前、あの卵か?」

『うん』

「お前は何者なんじゃ? ただの卵じゃなかろうが」

『……わからない。おもいだせないの』


 卵からの声は弱々しく、とても申し訳なさそうです。


『だけど、これだけはしんじて。わたしはあなたのみかた。あなたがわたしをひろったのは、ぐうぜんなんかじゃない』

「それで……お前はどうしたい? 俺の血まで吸うて、何をしたいんじゃ?」

『わたしは……』


 しばし沈黙が訪れました。つもりは無くとも、卵が孝助の体力を奪っていたことは事実としてあるのです。その点については申し開きが出来ないことを、卵自身も気付いてはおるのでしょう。


『わたしは、いきたい。うまれたい。あなたといっしょに、いきていたい』


 それでも、卵は言いました。叶美琴としての記憶と人格を失っていようとも、結論は最初からたった一つなのですから。


「分かった。もうええが」

『え?』

「待っとれ。今そっちに行く」


 見知らぬ者達の声を受けて、さらに卵の本音を聞いて、孝助は今までの自分を恥じました。そして手指の傷が開くや、迷いの無い足取りで血糸の伸びる先へと向かったのでございます。


 屋根裏に上った孝助は愕然と致しました。

 ここ数日は卵の観察などまるでせず、血が止まるなり入り口を閉じていたものですから、こうしてまじまじと見るのは久しぶりなのです。


 件の卵は、彼が最初に拾ったときとは全く異なる様相でありました。


 西瓜程度の直径でしかなかったはずの大きさが、今や倍以上にまで膨れております。

 さらに、まだら模様が消えておりました。硬く堅固であった表殻は薄い膜へと変質しており、その中身が透けて窺えるのです。

 孝助が立ち上がった際の振動だけでプルプルと揺れて、例えるならば水風船のようでございました。


 琥珀色の液体で満ちた卵の中には、大きく丸い頭と長い四肢を具えたものが膝を抱えております。

 へそと膜の内側とを繋ぐ、捻じれた緒も見えました。まだ外気に触れてもいない身体には毛が生えていません。定期的に上下している肩は、確かにそれが息と脈をもった生物であることを示しておりました。

 頭部と不釣合いに伸びた耳らしき器官を除いた場合、その外見的特徴にもっとも類似した生物の名を挙げるとすれば、やはり人間でしょうか。


 一歩、二歩、孝助は警戒しながら寄りました。注意深く、その卵を覗き込んだとき、


  きょろり


 中の生物が目蓋を開けました。真っ赤に燃える眼球が動き、孝助と目を合わせたのです。その澄んだ瞳は深い慈しみを湛えており、今の自分が力無き存在であるにも関わらず、さも彼の身を案じるようでもありました。


「大丈夫じゃ。俺が傍にいてやる」


 対して孝助は優しく呟き、己の血で塗れた指を卵膜に添わせました。ゆっくり撫でると、中の生物は目をきゅっと細めました。

 それは小さな子供が親に抱かれて、安心して眠りに落ちていく様子に似ております。


 真夜中を過ぎてもずっと眠らずにいるということは、まだ小学生の孝助にとって慣れぬことでありました。

 何度も船を漕ぎ、耐え切れずに頭を床に打つこともしばしば。そのついでに、失くしたと思っていた白狐のお守りが物陰に落ちているのを発見して、首にかけ直しました。

 窓の無い屋根裏部屋は蒸し風呂のようで、孝助は背から額から大粒の汗を流しております。長丁場に備えて冷蔵庫から持ってきた大量のペットボトルは、もうとっくに中身が温くなっておりました。腹が減っても、自分だけ物を食べようとは露も考えません。


 これだけの労苦にも孝助はじっと耐えました。今日こそが卵の孵る日に違いないと感じるのです。

 これもまた理屈ではございません。

 まるで、そう、互いの魂が呼び合うように。


 やがて時が経ち、ついに日が昇るや昇らぬやの頃合。

 うたた寝から覚めた孝助は目を見張りました。ふと卵を見やると、中の生物が手足を広げてじたじたしておるのです。


 まるで溺れているように見えました。


「ど、どうしたんじゃ……大丈夫か!」


 慌てて飛びつき、生物を救い出そうと致しますが、卵の弾力に阻まれてしまいます。


「しっかりせえ! ここまできて、死ぬんじゃねえが!」


 生物は目をぎゅっと閉じながらも、孝助に向かって必死に腕を伸ばしました。

 叫び励ましながら、孝助は指に強く力を込めました。


 ――卒啄同時――


 ぷちゅっという水音と共に膜が貫かれます。どろりと琥珀色の液体が、彼の手を伝って流れてゆきました。

 孝助がほっと息を吐いたのも束の間、すぐに焦りを覚えます。何故なら彼の腕の中にいる生物は、ぐったりとしたまま動かずにいるのですから。


「おい……お前、やっと産まれてきたんじゃろ? なのに、なんで……?」


 まだ温もりはありますが、息をしておりません。卵膜がしぼんで身にまとわり付き、鼻と口を塞いでいるのでした。

 孝助は我を忘れんばかりの勢いで膜を剥がそうと努めますが、上手いことゆきません。苛立ち、じれったく思えばそれだけ、彼の手は(ぬめ)りに捉われてしまうのです。


「くそ! どうすりゃ、どうすりゃあええんじゃ……っ!」


 すると解決策を求めて辺りを見回す孝助の視界の端に、キラリと光る物がございました。

 深く考えずに拾い上げたそれは、剃刀の刃でした。かつて狐の愛奈が、卵に孝助の血を与えんと画策した後に、片付け忘れた一枚です。……いえ、ひょっとすると、こういう事態を予期して敢えて残しておいたのやもしれませんね。

 とにもかくにも、ここに至れば道は一つ。膜を手で離すことが難しいのであれば、いっそのこと千切ってしまえばよいのです。

 孝助は生物を床に寝かせ、剃刀を持ち直しました。そして生物のへそから伸びている捻じれ緒に刃をあてがいました。ごりっと固い感触を、拙い力の入れ方で何度も何度も押し引きして、ついに断ち切ったのです。

 続いて切れ目に指を入れ、多少は強引に、卵膜を内側からぷちぷちと引っぺがしました。


「がんばれ! がんばれ! がんばれ!」


 助けたい。今や孝助の内にあるのはその一心のみ。

 己に出来ることなら万事を尽くそうと、聞きかじりの知識ではございますが、生物の鼻と口を覆うようにして息を吹き込みました。咥内に生臭さが充満致しますものの、今さらそんなことでは退きません。


 その意気は、想いは、産まれ来るものに活力を配ります。


 生物は孝助の腕の中で身を縮めたまま、口から黄色く濁った水を吐き出しました。

 そして、




 大きく、大きく、産声を上げたのでございます。


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