☆ 連理の絆、定めの渡し・後編
時間をすり抜けて遡上する、とは如何なる感覚なのでしょうか。まこと興味深いものではあるでしょうが、実のところを申し上げますと、何も感じることはございません。皆様が普段、時が未来へ進んでいることを取り立てて肌で感じることが無いのと同じであります。
しかしただ一つ、霊魂ならではの「すり抜け」とは関係無しに、美琴には確信し得ることがありました。それは、自分は必ず孝助の元へ辿り着くのだということでございます。
真っ暗闇の中で、彼女は恐るおそる目蓋を開きます。目でものを見る、という肉体の使い方を真似てようやく、改めて外界を知ることがかないました。
すると視界に広がったのは、力強い深緑と輝かしい木漏れ日でした。
耳を澄ませて、捉えたのは蝉の鳴き声と川のせせらぎです。
ここが夏山であることを知り、美琴は孝助の気配を求めて下りました。そして遠くに人影を認めて、心を躍らせました。
水筒と虫かごを首に提げて、汗を垂らしながら登ってくるのは、ぽっちゃり丸顔の鼻タレ小僧であります。
「こーくん……こーくん!」
美琴の記憶にあるより一つ二つ昔の姿ではありますが、彼女には確かに、その少年こそが孝助であると知れました。それから矢も盾もたまらず、美琴は彼に飛びつこうと致しました。
今の彼女では触れることも見られることも、言葉を交わすことも出来ないのですが、そこまで考えて留まるなど端にも思いません。
「あんた、あの子に何の用やっと?」
ところが、それを阻まんとするものがおりました。いつの間にどこから現れたのか、薄金色の髪を伸ばした巫女が、美琴の動きを遮るようにしてはだかったのです。
「どこの浮遊霊か知らんけど、そう簡単に孝助へ近づけさすわけにゃあいけん。立ち去りい」
「どこの女か知らんけど、邪魔ぁせんといて!」
美琴は苛立ちを抑えずに先へ進もうと致しますが、敢え無く手首を掴まれ、軽く宙へ放り投げられてしまいました。何度試みても巫女の動きは素早く、通り越すことが出来ません。
どうすればこの場を切り抜けられるのかと頭を悩ませました。力尽くで行こうにも、肉体があった頃とは勝手が違います。そもそも生来、物怪としての力を自発的に使うことが皆無だったのですから、上手な方法が思い立ちません。
一方で巫女も戸惑っておりました。美琴に触れた手の平が、火傷でもしたかのようにヒリヒリ痛むのです。故に相手がそんじょそこらの幽霊ではないことを直感し、安易に手を出してよいものかと迷ったのでしょう。また同時に、やはり彼女を危険な存在だとも認識して、正体はどうあれここで止めねばならぬとも考えました。
かくして膠着状態に陥っては、美琴に大きな焦りが生まれます。並の動物や物怪に比べれば長持ちはするでしょうが、既に肉体を離れた魂は自壊を待つのみなのですから。
「……お願いです。通してつかあさい。うちゃあどうしても、こーくんを助けたいんです!」
今の美琴に残った選択肢と言えば、なりふり構わず、ただ懇願することだけでした。
彼女は打ち明けました――自分が孝助の婚約者であること。いずれ孝助の身に危険が訪れること。彼を守るために未来から遡ってきたこと――そしてそのためには新たな肉体が必要であり、彼の家に仕えているという狐に協力を頼まなければいけないこと。
「じゃけえ、こがあなところで足止め食らっとる暇ぁ無いんです」
しかし彼女には、目の前の巫女こそが、その狐であろうとは知る由もございません。
「ダメよ。信用出来らん」
巫女はその話を聴き終えてからすぅっと目を細め、そしてはっきりと言いました。
「な、んで……」
切羽詰ったこの状況下にて明らかに否定されたのですから、美琴の絶望感は弥が上にも大きくなります。その暗い感情が強まるにつれて青空は見るみるうちに崩れ、雷雲が膨らんでまいりました。
彼女の気迫に押され、巫女は総毛立ちます。
「あたしも、本気やけんね」
速やかにこの幽霊を排除しなければ、どれだけの被害がもたらされるか知れない――そう感じた巫女は躊躇うことを止めていよいよ臨戦態勢に入りました。そして先手必勝とばかりに、足元から九本の影尾を伸ばしました。尾は草木をすり抜け、土煙すら立たせず、ただ霊体である美琴だけを狙うのです。
格闘経験の無い美琴では、回避出来るのはせいぜい初めの数撃だけでした。なにせそれぞれが独立した鞭のようなしなやかさで襲いかかるのですから。真黒な影に打たれた箇所から煙がたなびき、抉られる痛みが走りました。
「……九尾……もしかして、狐……?」
波打つ相手の尾を目で数え、はたと美琴は気付きました。幸いにして激痛は、かえって彼女に冷静さを取り戻させたのでございます。
「ほんじゃあ、あなたが愛奈さん?」
「だったらどうしたと?」
いつでも攻撃に移れる姿勢を崩さぬまま、巫女の姿に化けた狐・愛奈は返しました。
「……こーくんのお祖父さんから、言伝があるん」
美琴はしばし逡巡してから、敢えて自分の要求以外のことを口に出します。
「父方の? 母方の?」
「父方。宗助さんから」
「聴こうや。なんやっと?」
「『お前が出てきてくれたから、わしは変わることが出来た。ありがとう』って」
直球も直球な、感謝の言葉。それを耳にした愛奈の口元には、むずがゆいような、くすぐったいような気持ちが如実に表れました。
「ん……仕方なかね」
そして愛奈は美琴の発言を加えて吟味して、影尾を収めました。愛奈が憶えている限り、彼女が小説の中から「出てきた」ことを知っているのは宗助自身だけのはずだからです。
「ついて来んしゃい。早う気を抓らんといけんっちゃろ?」
愛奈は背を向けて歩き出し、数歩進んでから、首だけ回して美琴に声をかけました。
「信じてくれるん?」
「協力はしちゃる。ばってんあんたを信用したわけやなか。母木宗助と、孝助のためや」
「あ、ありがとう。愛奈さん。ほんに、ありがとう」
「お礼なんていらんっちゃ」
素っ気無い返事ではありましたが、美琴にとっては万の助けを得た思いでありましょう。彼女は喜びと安堵に胸を撫で下ろし、ふわふわと愛奈の後に従ったのです。
愛奈は山を降りると、鼻を利かせながら原っぱの茂みを掻き分けて進みました。
「……こうも早う見つかるとはね。ひょっとしたらあんた、運命ってもんに味方されとるんかもね」
地面に空いた穴を覗いた先にいたのは、子育て中の野兎でした。ただし乳を飲む子兎の中に一羽、脈の弱いものがおるのです。
「動物が子供ば沢山産むと、まれに、魂が定まっとらんうちに胎から出てくるもんがおる。そいつば探しとったとよ。兎は年がら年じゅう子作りするけん、どっかにはおるかと踏んだけど、丁度ええ」
愛奈は巣穴に腕を入れ、細指を伸ばして、ひ弱な子兎を手に収めます。母兎もその子を諦めているのか、特に抵抗もされずに引き出すことが出来ました。
それはまだ目も開いておらず、毛も生えておりません。
「こいつは長う生きられんけん、遠慮はいらんとよ」
そう言って愛奈は、子兎を美琴に差し出しました。
「ど、どうすりゃあええんかいね?」
「こいつの胸に指ば置きい」
迷いながらも、指示された通りに致します。それを受けて愛奈は、空いている指で美琴の手の甲をぎゅっと抓みました。
「あ、あ痛ぁっ!」
「静かにしれ。暴れて失敗したら水の泡やっと」
すると美琴の指先は子兎の胸を抜けて、身の内側に押し込まれてゆくのです。
「な、な、なんっ?」
「たぬきが『魂を抜く』なら、きつねは『気を抓る』。騙すんは得意っちゃけど、騙されたもんを治すのもあたしらの役目やけん。実際、狐につままれたような気持ちいうんは、正気に戻ったもんが使う言葉っちゃろ?」
それからずるずると、美琴の魂は腕から肩へ、小さな子兎の肉体へと吸い込まれてゆきました。やがて彼女の姿が消えて一連の過程が終わったとき、変化が起こりました。
子兎の身体がゆっくりと、ひとりでに愛奈の手から離れました。そして空中で静止するや、へそから捻じれた緒が芽吹くように伸びたのです。緒の先端は次第に平たく延ばされてゆき、終いには身体全体を包み固まりました。
そうして出来上がったものこそが、西瓜ほどの大きさをもった卵状の物体でございます。
兎の卵は、愛奈の計らいによって山中の沢に移されました。
「次は、あんたが孝助に見つけられんといけん」
『家ん前に置いとくとかじゃダメなんかいね?』
「それじゃあ不自然過ぎるっちゃろ」
『愛奈さんが持っていって見せるんは?』
「それも……無理やっと」
何故かと問われ、愛奈は答えました。自分は元々、宗助が著した小説の登場人物であり、読み手の応援によって実体化した物怪なのだと。
「ばってん、その小説は十八禁やっとよ。子供にはあたしの姿が見えらん。もちろん声も聞こえん。かと言って、あたしは字が書けんしキーボードも打てんけん、何も伝えきれん」
『難儀じゃねえ……』
「あんたほどやなか。でもまあ任せんしゃい」
翌日、愛奈は考えて行動に移りました。孝助が遊びに出かける直前に、こっそり水筒を隠しておいたのです。そして喉の渇いた彼は水を求めて沢へ向かい、そこで兎の卵を発見致しました。
「……なんだが、これ? ひょっとして、これ、恐竜の卵か?」
孝助は子供ながらに大興奮して、その卵を持ち帰って屋根裏に隠したのであります。
それから数日は様子見に徹していた愛奈でしたが、やがて卵の中身に成長が感じられないことを不審に思いました。そして焦りを覚えました。魂だけになった存在が新しい生命として生まれ変わるには、単に魂を重ねるだけでは不充分だということに気付いたのです。
現状がずっと続けば、努力の甲斐も無く卵は腐り果ててしまうでしょう。
「荒療治でやるしかなかね」
孵化を促すには卵と最も縁あるべき人間・孝助の生命を少しだけ分けてもらって補填するのが一番の近道。そう思い至った愛奈は、卵を暖めている毛布の中に、幾枚もの剃刀の刃を仕込んだのです。
彼の血を得た結果、予想以上の早さで卵は成熟してゆきました。いつしか美琴としての記憶は薄れ、肉体に合わせて新しい意識が芽生え始めました。ものを考えるにおいても、叶美琴であった頃の言葉遣いは殆ど消えておりました。しかしそれでも尚、孝助を守りたいという想いだけは変わらず持ち続けていたのであります。
ただまことに残念なことは、荒療治の副作用とでも申しましょうか。日に日に孝助はやつれて、恐怖心に苛まれてしまったのでした。
兎の卵が膨れ、あと少しで孵る頃合。時期の悪いことに宗助が体調を崩して隣町の病院に運び込まれました。ここで一人になったからといって恐れをなして逃げ出されてはかないません。故に愛奈は妖術を駆使し、孝助が家から出られないように致しました。
また残された子供がたった一人で、産まれたばかりの赤子の面倒を見るには不安がありましょう。健やかに育てるためには、どうしてもこの期に彼の母親にも来てもらわなければなりません。そこで愛奈は、孝助が「やっぱり来なくていい」と断りの連絡を折り返そうとしたところで電話線を断ち切ったのです。
愛奈は必死でした。
そして兎の卵も必死でした。彼女の強固な意力は、空気の隔たりを越えて孝助の耳へ届きました。
『ゴバガラダイエ。キググエウツボイバダイド』
しかし、しかし正しくは伝わりません。
『ゴバガラダイエ。アバラボマボイイギア』
狐の策は裏目に出て、兎の想いは誤解を生み、孝助は己の身を守らんと金槌を手に致します。
屋根裏に上がってきた孝助の気配を感じとって、兎は目蓋を開きました。早く、早く一目、彼をこの瞳で捉えたいと思ったからです。
「俺が、お前みたいなんに操られて、言いようにされて、思い通りになるん思うたら大間違いじゃ! 人間をなめんなが!」
ところが現実は非情で残酷でした。振り下ろされた金槌は卵膜を破り、兎の頭蓋を叩き割りました。
痛み、拒絶、混乱、恐怖……。
それでも兎は、今の彼女は絶望の深みに落ちることもなく、前に進もうと致しました。
腕をかき、足を伸ばし、どうにか這って彼に近寄ろうとしたのです。
兎は自分の身体が冷たくなってゆくのを感じましたが、決して最期まで諦めようとは致しませんでした。
こわがらないで。わたしはみらいからきたの。
どうか、こわがらないで。
このままでは、わたしはうまれることができません。
あなたを、まもることができない。
これをきいているあなた。どうか、こえをとどけてください。
わたしに、いのちをください。
てをのばせば、きっととどくから。
こわがらないで。どうか、てをのばして。




