☆ 凍てつく吹雪、童女の戯れ・前編
あるとき、あるところに、二人の男がおりました。
片や年青く、名を母木孝助と申します。
片や年中ごろ、名を岩崎国彦と申します。
孝助は勤勉実直で人懐っこく、心も熱い。年上から好かれやすい性質でございます故、成人して働きに出ては自ずと周りからの信頼を得ておりました。また学生時代から交際していた恋人・叶美琴との婚約も済ませ、公私ともども精力的に活動しておったのです。
国彦は、そんな孝助にとって職場の先輩にあたる人物でした。彼は面倒見がよく、特に年下の者から慕われておりました。当然に孝助との仲も大変に良かったのでございます。
さてさて、事の起こりは社内慰安旅行にございます。
社員の家族も同伴可能なこの旅行。今年はとある山麓の町に泊まり、雪見の露天風呂や地元名産のさくら鍋でも楽しもうという計画でありました。自由行動の日にはスキーをする者あり、名所を巡る者あり、行きずりの恋を求めて歓楽街に繰り出す者あり。
そのなかで孝助と国彦の二人はと申しますと、雪中登山を敢行致しました。
『そびえる山頂には雪の神を奉った祠があり、神は己の足で辿り着いた者を祝福してその願いを叶える』
この伝承を観光案内で聞いた国彦はどんな願いを胸に秘めているのか、周りが止めるのも聞かずに、一人でも必ず登ると言い出したのです。その様子は平時の穏やかさとはうって変わり、固い意志が鬼の形相を浮かび上がらせておりました。
闇雲に山――それもいつ天候が乱れるか分からぬ冬山――へ踏み入るとは生命に関わること。それを知りつつ行こうとする彼を放っておくわけにはいかない。そう感じた孝助は最後まで説得をしておりましたが、国彦は全く折れる気配が無く、ついには孝助も同行する運びと相成ったのであります。
元々は観光慰安が目的であったため、山登りに適した装備など用意しておりません。コンビニで買い込んだ菓子や雑貨をリュックに詰め、駅前の土産物屋で間に合わせた藁沓と木杖で、雪の上をザクリザクリと踏んで行きました。
幸いにも空は晴れており、視界も良好。
登山道を進む分には何の問題も無さそうだ。このまま無事に祠とやらへ着いてほしい――と、孝助が願いつつも六合目付近へ差し掛かったそのときであります。
「……雪音?」
前を歩いていた国彦が不意に立ち止まったかと思うと、あらぬ方向を見やって何やら呟いたのです。
「岩崎さん? どこ見とるんですか?」
孝助が問いかけても国彦は答えず、おぼつかない足運びで道を逸れて行きました。
「何が見えとるんですか、岩崎さん?」
「雪音! 雪音!」
「そっちに行ったら危ねえです! 岩崎さん!!」
呼び止めてもやはり国彦は耳を貸しません。彼は杖を放り捨て、人名らしきものを叫びながら、侵入禁止と書かれた看板とロープを跳び越したのです。
孝助は慌てて後を追いました。立ち入り制限区域であるところは伊達でなく、険しい傾斜に足をとられて二人は何度も転げそうになりました。あまりに夢中であったため、やっとのことで孝助が国彦を捕まえたとき、彼らは道を見失っておりました。
さらに間の悪いことには、この数十分ほどのうちに空が崩れ、辺りは吹雪で閉ざされていたのでございます。
とは言え、自分達が遭難しつつあることを危惧していたのは孝助だけでした。彼に掴まれた国彦はむしろ一層の錯乱状態に陥り、暴れて振り払おうとするのです。
「雪音! どこだ、雪音!?」
「岩崎さん、落ち着いてください!」
「……くすくす……」
そうして揉み合っている最中、微かにではありますが、孝助は子供の笑い声を耳に致しました。
しかしここは地元の人間すらなかなか立ち入らぬ山の中腹。さらにはろくに視界も効かぬ白い闇の中であります。これが真っ当な人間のものであろうはずがございません。
「お前は誰じゃ! 化生のものか、魔性のものか、正体をあらわせ!」
孝助は一喝しました。
しかし、何も変化はありません。相変わらず聞こえるのは国彦の喚き声と、びょうびょうと鳴る風の音ばかりです。
「気のせい……だったんか?」
歯痒そうに顔を歪めた孝助でしたが、後ろから肩をちょいちょいと叩かれていることに気付きます。恐るおそる振り返ってみますとそこには――
「んべぁ!」
いたずらっぽく舌を出す少女の顔が迫っておりました。孝助が驚いて跳び退くと、彼女はけらけらと笑って宙を転げました。
そうです。彼女の足は地に着いていないのです。
見た目には十歳余りでしょうか。特徴は切り揃えられたおかっぱ頭と、鮮やかな朱色の着物、小さな足を飾る足袋と草履……そのいずれにも雪は掛かっておらず、とても綺麗なのでした。
「ああ、雪音! 雪音!」
戸惑う孝助から逃れた国彦は、一心不乱に着物の少女へ向かって駆け出しました。ところが彼女はそれをひらりとかわして、またからかうように笑うのです。
その反応が信じられないと言わんばかりに、国彦は目を見開きました。
「雪音? どうして逃げるんだ?」
「くすくす……おじちゃん、かんちがいしてら。わ(私)はそんな名前でねえだって」
「そんな、そんなはずはない。私を憶えていないのか?」
「知らね。わの名は、小雪ってんだ」
「お前は雪音だ。そうだろう?」
「知らねって言ってらな! しつっけえ!」
小雪と名乗る少女は眉間にしわ寄せ、にじり寄る国彦から露骨に身を退きます。
「岩崎さん。岩崎さんの言う人が誰だか俺にゃ分かりません。だけどそこにいる女の子は雪音さんって人じゃない。それだけは言えます。あれは、良くも悪くも物怪です」
呆然としている国彦に駆け寄り、孝助は次に小雪へ目を向けました。
「お前は何者じゃ?」
「だすけ、小雪」
「名前を訊いとるんじゃねえ。お前がどんな物怪か訊いとるんじゃ」
「自分じゃ知らねえども、町だば雪の娘って呼ばれてらすけ、多分それ」
「この吹雪はお前がやっとるがか? だったら早く止ませろ」
「さあ、知らね。山の天気さ変わりやすいすけな」
寒さで頭が鈍っているせいか、小雪に漂う無邪気さのせいか、孝助には彼女の真意が掴めません。
「へばね、がんばって」
やがて小雪はまたくすくすと嘲笑い、音も無く翻っては姿を消してしまいました。
残された二人は右も左も定かでない状況。下手に動いてはより深みに陥るでしょう。
孝助は目を凝らした先に洞穴を見つけ、大人しくなった国彦を引いてそこへ入りました。進むにせよ戻るにせよ、天候が回復するまでは身を潜めているのが最良。判断を間違えれば凍死しかねません。
孝助と国彦は酒入りチョコで身体を温め、状況が好転するのをじっと待つことにしました。
「……すまんな、母木」
外が暗くなりかけた頃合、微かな蝋燭灯りの中で、小雪が消えてからずっと押し黙っていた国彦が口を開きました。
「何がですか?」
「お前を巻き込んでしまった」
「謝らんでください、岩崎さん。俺が勝手について来たんですよ」
「そうか……でもこれは、この山を登ると言い出したのは、私の個人的な事情だったんだ」
「雪音って人と関係あること……ですよね?」
孝助は探りを入れました。雪が止んでからまた登るのか、それとも下りるのか。それは国彦の事情とやらに大きく関わると思ったからです。
「ああ、そうだ」
国彦は俯いたまま、重たく答えました。
「実は私は、前にもここに来たことがある。もう二十年以上も昔だ。妻と一緒に祠へ行った」
「そのときに何を願ったんですか?」
孝助にとって人間でないものや、それらが持つ不思議な力の実在は何度となく経験済みでした。故に、当時の国彦の願いが実現したのだろうと考えることは自然な流れでございます。
「妻と二人、手を合わせて頼んだ。私達夫婦に子供を授けてください、とな」
それを再現するように国彦は、胸の前で両手を合わせてみせました。
「そんなに深く信じてはいなかった。今までどこの神社のお守りを買っても効果は無かったし、産婦人科の先生からも匙を投げられかけていたのだから……。この山も、温泉旅行ついでに記念で登ってみただけだった」
「でもそれから間もなく、奥さんが妊娠したんですね?」
そう予想して促しつつも、孝助は頭の端に引っかかりを覚えました。国彦に子供がいるという話は今まで聞いたことがなかったからです。
「そうだ。母木は理解が早いな。これはきっと雪の神様が授けてくださった子供に違いない。そう思った。だから産まれた娘には雪音と名付けた。雪の福音という意味だ。大事に、大事に育てた」
とても愛らしい子だった、と国彦は絞るように呟きました。それを聞くと自然、孝助の胸もズキリと痛みます。
「だけど小学校へ上がる頃に、心臓の病気が見つかってな。大人になるまでは生きられないだろうと言われた。それからは手を尽くしても弱る一方だった。娘も精一杯生きたいと望んだし、私達もそう願ったが、駄目だった。雪音はわずか十歳で息を引き取った」
孝助はその先を、今度は口を挟まずに待ちました。
「臨終の日に、東京では記録的な豪雪があった。雪の神様が迎えに来たのだと思った。それ以来、雪を見る度に娘のことを思い出していた。思い出す度に、自分でもよく分からない濁った気持ちが胸に溜まっていった」
国彦は深くため息を吐き、孝助に向き直りました。その瞳にはどこか陰りがあるようにも見えます。
「今日パンフレットを見て、山の紹介記事を読んで、自分の気持ちがようやく分かった。子供のいない私達が待ち望んでいた幸せを与えておきながら、後で簡単にそれを奪うやり方が許せなかったんだ。雪の神って奴は、人間の希望や生命を弄んで楽しんでいるって。正直に言うが、母木。私は奴に復讐をしたかったんだ。大人げないと思うだろうが、あの祠をめちゃくちゃに壊してやりたいんだよ」
本当に雪の神が、国彦の勘繰る通りに意地悪な存在なのか。今の孝助には判別が付きません。
国彦が逆恨んでいるだけにも思えますが、明確な証拠も無しに反論したところで、ここまでの行動力を伴った相手に対しては火に油を注ぐようなものでしょう。
それよりむしろ孝助は、別方向から突いてみることに致しました。
「……岩崎さんの事情は分かりました。だけどもしかして、今は少し迷っとるんと違いますか?」
「よく気が付くな、お前は」
「ここまで聞いたら想像は出来ます。なんで岩崎さんが、あの女の子を追いかけていったのか。それはひょっとして小雪が、亡くなった娘さんにそっくりだったからじゃないですか?」
「ああ、似ているなんてものじゃない。親である私の目から見ても全く同じだった。あの着物の少女は、亡くなる前の雪音をそのまま生き映したようだ。いったい、いったいどうなってる?」
国彦は頭を抱えました。
ここが説得の要であろうと、孝助は頭を回します。
「それじゃあ、あの子はきっと雪音ちゃんの生まれ変わりですよ。娘さんは人間としての一生は終えても、またああして元気にしとるんです。それだけでも充分じゃないですか」
これで納得して国彦が山を下りるよう考えを改めてくれれば上々。
しかしそんな孝助の希望を小馬鹿にするが如く、再びあの嘲笑が聞こえてくるのでありました。
「くすくす、おにいちゃんの言うとおりだっきゃ」
洞穴の入り口に、いつの間にやら小雪が佇んでおりました。ぼんやり薄闇の中でも着物の朱色は目立ちます。
「そこなおじちゃんが、あんまりわのことさ雪音雪音ってうるさかったすけ。気になって神様にきいてみたんだ。したっきゃな、雪音ってのは、わが人間だったときの名前だど。その子が死んじまっで、魂っこ連れてもどして、雪っこに入れて生んだのがわなんだど」
小雪の発言は、先の孝助の希望的観測を裏付けるものでした。
それでいて孝助は彼女の言葉を聞きつつも、僅かに不安を覚えました。何故でしょうか。
「そんで神様の言うことにゃ、おじちゃんがどうしてもって言うんだば、わを人間にもどして、またおじちゃんの子供にさせることも出来るんだど」
「そ、それは本当か!?」
国彦としては願ってもない話でありますから、身を乗り出して聞き返しました。すると小雪は笑いを堪えるようにして答えます。
「うん、本当だ。でも一つだけ、条件があるんだど」
孝助はその乾いた声色に、ぞっとしたものを感じました。そして不安の正体を知りました。
異質なのです。これまでに彼が付き合ってきた多くの物怪達と違い、小雪はまだ子供です。岩崎雪音としての記憶と人格は失われているのです。雪を母体としている以上は、長く人里で暮らした経験も無いのでしょう。
「わが山から下りて人になる代わり、だれか別の人さ山にささげねばなんねえ」
詰まるところ小雪には、人間の生命を重く見ようという認識がまるで無いのです。
「山に捧げるって……人命をか?」
「おじちゃん、悪かねえ話だへ?」
雪の娘は、固唾を呑む国彦と孝助とを交互に見やってから言い放ちました。
やはりそれは二人の反応を観察して楽しもうとする、無慈悲な笑い声だったのでございます。




