☆ ごまかしの効かない関係・後編・甲
孝助少年は、どうして今日に限ってこんな目に遭うのだろう、と疑問に思わずにはいられませんでした。今日は彼にとって大事な日なのです。恋人との仲が一層深まり磐石となるか、それとも嫌悪され決別となるか、相当の決意をもってして臨む日なのです。
ところが、謎の爆弾騒ぎが起こるではありませんか。しかもそれが、自分の下駄箱に仕掛けられていたと言うではありませんか。
おかげで、爆弾について何か心当たりは無いかと警察や教職員達から念入りに訊かれたため、孝助は予定よりも下校が遅くなり、彼女を待たせることを余儀なくされました。もし体育の授業で先生の話が長引かなかったら、どうなっていたことでしょう。得体の知れないものの悪意に狙われるのはまっぴら御免と願うばかりでありました。
「きみが、母木孝助くんだね?」
それに加えて校門を出た途端、極道者然としたスキンヘッドの男に声をかけられたのですから、嫌な予感しか致しません。
無視して過ぎ去ろうとしても、隙の無い身のこなしで遮られてしまいました。
「な、なんですか? 俺は急いどるんです」
「それは、叶美琴との用事かい?」
何の前触れも無く胸の内を透かされ、しかも彼女の名前まではっきり出されたとあれば、動揺しないはずがございません。
「あんた、みーさんの何なんじゃ?」
「そう睨まないでくれ。私は、そうだな、彼女の保護者みたいなものだ。きみに折り入って話がある。もう少し静かな場所へ、ついて来てくれないか?」
「嫌じゃ。あんたらは信用ならんが」
孝助は極道者から距離をとるべく後ずさりしました。
しかし孝助の後ろには、それを阻むように二人の男――頭頂部のハゲたサラリーマンと、プロのアメフト選手かと見紛うほどに肩が逞しい学生――が待機しているのです。一見すると何の共通点も無さそうですが、三人は揃って、笑う猫をかたどった首飾りを提げておりました。
近くに下校中の生徒がまだ大勢おりましたが、スキンヘッドの強面を見ては関わるべきでないと早々に判断し、誰もが気付かぬ振りをして立ち去ります。
「残念だけど、急いでいるのは我々も同じでね。きみに拒否権を与えるつもりは無いんだよ」
それでも、このまま時間を費やせばそれだけ面倒事が増えるのは必至。そう考えた極道者はため息を一つ吐くなり、ずいっと孝助との間合いを詰めました。
「逃がさないッスよ」
なりふり構ってなどいられない。本格的に身の危険を感じた孝助は脱兎の如く身を翻しましたが、抵抗もむなしく肩の大きな学生に腕を掴まれてしまいます。
太い指が肉にめり込まれ、激痛に呻く間も無く、今度は極道者の手が孝助の胸倉へと伸びました。
このとき、この瞬間、乾いた音が小さく鳴りました。それは誰の耳にも届きませんでしたが、孝助がいつも身に着けている白狐の首飾りが無慈悲にも割れ欠けた音でありました。
屈強な男らに囲まれ押さえられては、もはや一介の高校生には逃れる技がございません。胸を突かれては、助けを求めて叫ぶこともかないません。
そして孝助は為す術も無く、黒塗りの高級車に連れ込まれてしまったのでございます。
一方その頃、孝助の恋人・叶美琴は学校裏山にある神社の境内にて待ちぼうけを食らっておりました。
「遅いなあ、こーくん。学校おわったら神社でって言うたんに……」
美琴は腕時計を何度も何度も確かめました。突然の休校措置から、はや三時間近くが経とうとしております。試しに彼に電話をかけてみても、無感情な声によって相手方の電源が入っていないと報されるばかりでありました。
「どうしたんかねえ。昨日は電話、平気じゃったのに」
どんより曇り空の下、美琴は気持ちまで沈み、湿気で膨らみがちな三つ編みを弄って時間を潰しておりました。そしてふと、つい先ほどまで告白についての助言をくれていた魔女がいなくなっていることに気が付きました。
「美琴ちゃん」
きっともうすぐ孝助が来ると思って気を利かせてくれたのだろうと納得しかけた矢先、芳しい胡麻の香りが漂ってまいります。
「あれ、管理人さん。どこ行っとりんさったん?」
「ちょっとね。おやつ買ってきたの。一緒に食べましょ」
和菓子屋の紙箱を片手に石段を上ってきた魔女が微笑んでいるのは、赤鬼からの首尾報告を受けたからであります。しかし美琴に、その裏を読むことなど出来るはずもございません。
目の前にいる恋の相談相手こそが、孝助が待ち合わせに来ない原因であるなどと、夢にも思わないでしょう。
「管理人さんって、それ好きですねえ。いっつも差し入れしてくれんさるの、それですよね」
「いいでしょ? お気に入りなの」
美琴は何の疑いも無く、差し出された胡麻団子を受け取りました。
「おいしいんですけど……管理人さん、これで太ったら責任とってくれんさる? お団子のせいで、こーくんに嫌われるんはイヤですけえね」
そう口を尖らせつつ、気を紛らわせるためにも、美琴は手にしていたものを頬張りました。
「大丈夫よ。何も心配いらないわ。えぇ何も、ね」
そして魔女は、相変わらずの陰ある微笑みを湛えていたのでございます。
「……ええ、母木くん? 珍しい苗字ですけえ、名前くらいは知っとります。ほうですねえ。本が好きなんなら、もしかしたら図書室ですれ違うたことあるかもしれんですね。……いえ、違いますよ。うちと母木くんが付き合うとるなんて、誰が言いよるんですか。そがあ意味の分からん冗談、やめてつかあさい。そりゃあ、ほんに気の毒なん思います。けど、知りません」
孝助が不審者に連れられたまま行方知れずになった件で、美琴が事情聴取を受けたときの回答であります。
警察も一応の捜索をしてはおりましたが、彼が生きている望みは薄いとの見通しでありました。白昼堂々の事件であるにも関わらず、誰も犯人の姿を詳しく覚えていないことも迷宮入りを予感させました。
彼女は魔女の思惑通りに恋人との甘い記憶を失ってしまったのでしょう。
それよりも二人が交際に至る前――例えば美琴から幾度となく不信の目を向けられても孝助はめげなかったこと。例えば美琴が読み返していた『雲呑み兎』をきっかけにして話が弾んだこと――なども、彼女には覚えが無いのです。
いえ、実のところ彼女だけではありません。
誰も彼もが孝助に対する記憶や印象をおぼろげにしており、彼と美琴が交際していたという事実さえも、誰が言い出したか分からぬ冗談のような話として扱う始末でした。
もはや美琴は自らが物怪であることや、それを隠していることに煩悶する必要がありません。おかげで大きな希望も無ければ絶望も無く、誰かに裏切られて傷付く心配もないのでございます。
ところがある夜。得も言われぬ空虚感を抱いたまま美琴が布団にもぐったときのことです。
「……でも何か忘れとるような気がするけど、なんじゃったかねえ……ん?」
気付くと、窓ガラスが外からとんとん叩かれております。こんな夜更けに、しかもここは二階だというのに。
何事かと思った美琴は眼鏡をかけ直し、恐るおそる窓を開け放ちました。
すると一人の男が、倒れるように転がり込んできたのです。
とっさに退いた美琴が睨む先の男は、学生服に身を包んでおり、その顔は取り調べで見せられた母木孝助の写真によく似ておりました。
「な、なんっ! あんた、誰ね!?」
それでも今の彼女にとっては、ただの闖入者にしか見えないのでありましょう。その問いかけを受けて男は悲しそうに眉をひそめます。
「あなた達が僕を生み出した。物怪とは、人の心が凝り集まったものだから」
そして自ら物怪の輩だと明かした男は音も無く詰め寄りました。
「この顔は、あなたにとって最も大事な男の顔です。それなのに憶えていない。記憶を操られたから。思い出になるものは全て捨てられたから」
そして、おびえる美琴の肩を掴みました。
「でも僕だけはこうして物怪になって逃げ延びた。二人の絆の証だから。そして戻ってきた。あなたに思い出してもらうために」
「あんた……なに言うとるん?」
「読んでください。それだけが僕の望みです。このまま消えて無くなるなんて耐えられない。許されない。そんなことが、あっていいはずがないんだ」
男は真剣も真剣な面持ちでそこまで言うや、風に吹かれる砂塵のように掻き消えました。
あとは足元に一冊、『交換日記』と題されたノートが残っているばかりです。
ノートの見た目は至極普通で、実際に学校でも使う者の多い一般的なものです。
さっきの男は結局、何だったのだろう。夢でも見ていたのだろうか――そう思いつつも美琴はそれを拾い上げました。
気が動転しているうちに男は消えてしまいましたが、彼女が手にしているノートは幻などではなく、確かに実在しております。
「何が……書いてあるんじゃろう?」
怪しいとは思いながらもまずは興味本位で、彼女はそれをパラパラとめくってみました。
そして、愕然と致しました。そこに綴られているのは彼女自身の字ではありませんか。しかもよくよく見ると、もう一人の男の子らしい筆跡と交互になっているではないですか。
美琴は慌ててそれを閉じ、ざわめく胸を押さえました。外から見る分には何の変哲も無いにも関わらず、先ほどの彼の言動も相まってか、それがおそろしく重大なものに思えて仕方がないのです。
見てはいけない。
だけど、見なければならない。
双反する二つの感情を引き起こすのです。
美琴は大きく深呼吸をしました。
そして今度は強い使命感から、彼女はノートを開きました。
――前略、叶美琴様。
こんなふうにあらたまって書くと、なんだか照れますね。言葉で喋るのと文字で書くのとでは、テンポも何も全然違います。
今どき、恋人同士で交換日記なんてしているのも珍しいでしょうね。つい恋人なんて書いてしまいましたが、いいんですよね? なんだかもう、書きながらすごく恥ずかしいです。ドキドキしてます。
自分で言い出しておきながら、初めからこんなことしか書けないことを許してください――
――前略、うちの恋人の母木孝助様。
そうですよね。やっぱり、照れますよね。うちも書いててとても恥ずかしいです。読んでても恥ずかしいです。
だけど、嬉しいのも事実です。
いま鏡を見たらきっと、とんでもない、にやけ顔が映っとるでしょうね。見られんくて良かった。でもそういうくすぐったさもみんなひっくるめて、これは大切なコミュニケーションなんじゃと思います。これからもよろしくお願いします――
――前略、美琴さん。
交換日記を書くようになってから、なんだか世界が変わりました。朝露がきれいだったとか、夜風が気持ちよかったとか、そんな今まであまり気にしてなかったことを、いつまでも憶えていたいって思うようになりました。
ほんの小さな感動を、言葉にして美琴さんに伝えたいって思うようになりました。
あれを書こう、これを書こうって考えるのが楽しみなんです。
何か感動するものを見たとき、隣に美琴さんがいてほしいって思うのは、わがままですかね?
追伸:明日から「みーさん」って呼んでもいいですか?――
――前略、こーくん。
今夜は快晴ですね。月がとっても綺麗ですね。うちがこれを書いているとき、こーくんと同じ夜空を見上げているとしたら、素敵ですね。
うちもこーくんと同じ気持ちです。最近は特に、一日一日が掛け替えの無いものに感じられて、ああ、生きてるんだなって実感しています――
――前略、みーさん。
昼間に訊かれたことのお返事が、ようやくまとまったのでここに書きます。
なんだかんだ、あれこれ考えても結局は、一目惚れってことになると思います。
でも勘違いしないでください。俺は別に、みーさんのことを見た目だけで好きになったんとは違います。いや、もちろん見た目も好きですけど。図書室で本を読んでるみーさんの横顔を見た途端、すごく不思議で、神秘的で、気になったんです。
何度か通ってみても、いつも真剣に本に向かってて、それはそれでいいんですけど、無性にこの人の笑った顔を見てみたいって思ったんです。それが最初です――
――前略、こーくん。
昨日のお返しです。うちはこまい頃から、すごく人見知りでした。あんまり他人に期待したり関わったりしたらいかんと、周りの大人から言われとって、それがずっとまとわり付いとるんです。
一人で本にのめり込むようになったんも、きっとそのせいですね。
ごめんなさい。最初はちょっと、こーくんのこと、うっとうしいって思っとりました。でもたまに、毎日来とったはずのこーくんが来ん日があると、なんだか物足りなく感じるようになったんです。意識し始めたんは、それからです――
読み込むにつれ、ページを進めるにつれ、美琴の指は震えました。強く奥歯を噛み締めました。そして、目から涙が溢れてまいりました。
魔女が始末し損ねたもの。呪いによって記憶をすり替えられ、携帯電話の履歴さえも知らぬ間に消されていた美琴に、たった一つ残った恋人との記録。
真に魂込められたる物なれば、ごまかしやまやかしによって曇らされた偽りの心を晴らし、目覚めさせるなど造作もないことでしょう。
「なん、なんで……なんでうち、こがあ大事なこと忘れようなん!!」
堪えきれず美琴は、天地を揺るがさんばかりに叫びました。
天地を、というのは冗談でも誇張でもございません。
彼女が吼えるや、空はにわかに荒れ、雷雲が月と星々とを覆い隠したのです。
「最低じゃ……うちゃあ、最低な女じゃ!! こーくんのこと、知らんなんて言うて……ああ! いくら謝っても謝りきれん! こーくん! こーくんっ! こーくんっッ!!」
立ち上がる勢い余って椅子が大きな音を立てて倒れますが、それはもはや些細なことでした。
美琴は沸き立つ自責の念に駆られるまま、爪を立てて全身を掻き毟ります。三つ編みが解け、夜叉の如くに長い黒髪を振り乱しました。足元がおぼつかず、外れた眼鏡を踏み割りました。幾度となく辺りの本棚や壁に身を打ちつけましたが、それもまた意識を傾けるには値しません。
やがて暗い感情をさえ通り越して、何も考えられなくなりました。感情崩壊を起こしたその内面は、さながら自重にて潰れゆくブラックホールに例えられましょうか。
さらに肉体もひしゃげ、四肢が腐り落ち、遂には人間の皮が脱ぎ捨てられました。
異常を感じた魔女と赤鬼が駆けつけるも、既に手遅れと知りました。そして自分達の過保護が裏目に出たのだと悟りました。
単に普通の物怪が人型への変化を解いたのとは訳が違います。二度と人間の姿に変わることは出来ないでしょう。
美琴の瞳からは生気が消え失せ、ただ虚空を映すだけの球体に見えます。大きく開いた口には深遠が構えておりました。濃紫色の鱗は一枚一枚が細かく脈打ち、不気味に蠢いております。
いざというときのために多くの対策を練っていたはずの魔女さえも気圧されて、足をすくめることしか出来ません。そうして手をこまねいている間にも、美琴の胴体はメリメリと伸び、際限なく膨らみ続けます。下宿屋を支える壁や鉄骨が土くれ同様に砕けてゆきました。
魔女も赤鬼も、その他の住人も、美琴の胴体か倒壊する家屋かに押し潰されてあっけなく死にました。
彼女が何を望むでもありません。
存在そのものが破滅を呼ぶのです。
美琴が吐き散らした瘴気は、全天全地に走りました。
生ける者は未来を断たれ、死せる者は地を這いずりました。
人も物怪も、良い子も、悪い大人も、等しく希望を呑み尽くされました。
皮肉にもあの甘い日記こそが、人類絶望の最後の引き鉄となってしまったのでございます。




