☆ ごまかしの効かない関係・前編・上
あるとき、あるところに、一人の男がおりました。
年は早く、名を母木孝助と申します。
五年ほど前まではぽっちゃり鼻タレ小僧だった孝助少年も、今や清潔感のある男子学生へと育っておりました。母親譲りの丸っこい面立ちも、まあ、ご愛嬌と致しましょう。
そして彼もまた、世にあまねく青少年らの例に漏れず色恋に目覚めておりました。
いわゆる恋の駆け引きなどは隅にさえ覚えず、拙いながらも実直な想いを押し押して、遂には一人の女子生徒の胸を射止めました。
此度の話は彼女と、彼女を巡るもの達を追う形と相成ります。
孝助と心通わせたる女の名は、叶美琴と申します。
学年は孝助の一つ上。さらに華奢な身体は丈が長く、二人並ぶと頭半分だけ彼よりも背高でした。体型体格だけを見れば、十代の若者向け雑誌の表紙を飾っていても不思議ではございません。
ただし彼女自身が起伏の少ないささやかな生活を望んでいたため、むやみやたらと衆目に晒されることもありません。
腰まで届く長髪を三つ編みにし、顎の細い顔に似合う曲線的な眼鏡をかけて、時間があれば図書室で本を読んでいる――まるで絵に描いたような、人畜無害然とした文学少女でありました。
目立つまい、目立つまいと努めるうちに彼女は、かような装いとなっていたのです。
そんな美琴と孝助の交際において最も特筆すべきことと言えば、やはり交換日記でありましょう。それは恋人たちの通信手段が実に乏しく、彼女の家に電話をかけようものなれば頑固親父に一喝されていた時代の残り香。平成の世にとって見れば古のものとも呼べる方法で、二人は日々の思い出を綴っていたのです。
もともとは孝助が極度の電話嫌いなために仕方なく始めたものですが、それが美琴の性分に合っていたのでございましょう。
親類縁者のいない美琴は、築五十年超の下宿屋にて部屋を格安で借り、一人で暮らしております。寝間着に袖を通してから机に向かって例の交換日記を書くのが彼女の習慣でした。
ある日、いつものように日記を開くと、彼女は書かれたる文面を前にして赤面し身悶え致しました。
――前にも話したかもしれんけど、俺が電話嫌いなのは本当です。こんなことを書けば病院へ行けって言われるかもしれんけど、受話器を耳に当てるたびに、得体の知れない何かが水の中で喋っているみたいな、ゴボゴボした音が聞こえるんです。
もしまたあの音がするかもと思うと、電源をつけておくのも怖いんです。ケータイを持たされたけど使ってないのは、自分なりに理由があるんです――
と、何やら言い訳がましいことが書き連ねてあるかと思えば、一転して続きがございます。
――でも、このまま怯えて暮らすのはもう限界です。これ以上、怖がっていたくないんです。俺は、こうして離れているときでも、みーさんの声が聞きたい。俺の怖がりのために、みーさんと話す機会が減るなんて勿体なくて仕方がない。
話したいこともあるんです。今日はちゃんとケータイの電源を入れています。みーさんの都合がいい時間に電話をしてください。どうか俺に、少しだけ勇気を下さい――
ここで昨日の分の日記は終わっております。
すぐさま美琴は、机の上に置いてあった携帯電話を手にしました。そして何度も深呼吸をし、顔を合わせるわけでもないのに前髪を整えてから、電話帳の画面を開きました。
幾度目かのコール音の後、繋がってからもしばらくは沈黙が続きます。
『…………』
「あ、こーくん?」
その静寂を破ったのは美琴でした。
『……み、みーさん?』
「日記読んだよ。なん、なんねあれ! うちを萌え殺す気かいね!」
『そんなつもりはねえがよ。ああ、でも、よかった。みーさんの声じゃ』
「当たり前よ。聞き間違えられたら堪らんけえね」
互いに、心底から安堵の息を漏らしました。
「ほんで、こーくん。話したいことあるって書いとったけど、なんね?」
『う、うん。実は、頭ん中で決めとった』
美琴が訊ねると、返ってきた言葉には神妙な重みが含まれておりました。
必然、緊張は彼女にも伝わり、背筋を伸ばします。
『俺さ、みーさんに隠してたって言うか、謝らにゃいかんことがあるんじゃ』
「日記じゃ書けんこと?」
『うん。もし今日、電話してくれたら。もし今日、ちゃんと声が聞こえたら、きっと伝えようって思うとった』
先を促しつつも、彼女の胸は張り裂けそうでした。
続きが気になる以上に、恐れていました。
まだ十代半ばの小娘なのです。男の隠し事と聞いて、穏やかでいられるわけがございません。
年下の彼氏は何を言い出すのでしょうか。別れ話でも切り出すつもりなのでしょうか。交際ニヶ月めにして早くも浮気をしてしまったとか懺悔するつもりでしょうか。はたまた、これまでの出来事は全て手の込んだドッキリだなどと告白するつもりなのでしょうか。
彼がトラウマと戦ってまでして繋いだ電話なのですから、そんなに悪いことではないはずだ――美琴はそう自分に言い聞かせますが、それでも嫌な想像ばかりが膨らんでしまいます。
『俺、みーさんの……』
しばし逡巡していた孝助がようやっと切り出した矢先、不意に美琴の部屋の扉がノックされました。
「あ、ごめん。こーくん。人が来たけえ、後でな。明日は大丈夫?」
『じゃあ明日、学校裏手の神社で。時間は、放課後でええが?』
「うん。メールするけえ。ごめん。ほんじゃあね」
大慌てに慌てて、美琴は通話を切りました。すると同時に部屋の扉が勢いよく開けられました。
美琴の返事を待たずして入り込むのは、見た目には幼さの残る女であります。身の丈に合わぬ薄手のネグリジェが、いかにも背伸びした風体をかもしておりました。
「美琴ちゃん。お団子買ってきたんだけど、食べる?」
そして彼女の手には和菓子店の紙箱がありました。閉じられた蓋の隙間から漏れ出る香ばしさは、胡麻の匂いでございます。
「管理人さん。おやつ食べるにゃあもう遅いけえ、太ってしまう」
「えー、いいじゃない。美琴ちゃんはもうちょっとお肉ついたほうが絶対に可愛いわよ」
「そがあなこと言うて、からかわんとおてください」
むくれてみせる美琴と、年不相応に笑う幼い女。
さて実のところを申し上げますと、彼女らは人間ではありません。管理人と呼ばれた女は、親の腹より産まれたときこそ普通の人間だったのですが、今では齢定かではない魔女なのです。月のものが来るか来ぬかの外見に惑わされてはいけません。
「しっかし、いつ見ても凄いわよねこれ」
魔女は美琴の部屋を見回しました。
室内には多くの本が、それはもう多くの本が、うず高く詰まれておるのです。人の歩みを妨げるほど、小説から漫画、絵本や図鑑まで種類も幅広く、すぐにも古本屋が開けるのではと思えるほどでありました。
「前より明らかに増えてるわよね。どうやって集めてるの? アルバイトをしてたって、ここまで沢山は買えないでしょ?」
いぶかしむ魔女に対して美琴は、はにかんで答えました。
「あの、その、燃えるゴミの日とか、古紙回収の日とかに、町内をぐるっと……」
「あらまぁ、顔に似合わず大胆ね」
「まだ読めるんに、もったいないですけえね。でも、そっちら辺の新なのは、ちゃんと自腹で買うたもんですよ。で、あっちの本棚が、お気に入り」
「ふぅん……あ、これは私でも知ってるわ。これに出てくる兎ってのがまた難儀なのよね。とても凄い力を持っているのに、それを自分のためには使えない。親しい人から愛情をもって与えられた食べ物じゃないと生命を保てない。最強にして最弱。さも人間のために産まれて死ぬかのような存在。なんともまぁ都合のいい話だなって思った記憶があるわね」
魔女が何気なく手に取り、パラパラとめくった文庫の表紙には『雲呑み兎』のタイトルが記されております。
「でもこれ、最後はどうなるんだっけ? 仲良くなった男の子に誤解されて殺されちゃうんだっけ?」
「そりゃあ鬱エンドで有名な漫画版です。原作の小説は、まだ完結しとりません」
「あら、そうだっけ? まぁ別にいいわ。と、こ、ろ、で……」
本を棚に戻した魔女は、今度は美琴の机にイタズラっぽい目線を向けました。そこでようやく、美琴は携帯電話を出しっぱなしにしていたことを悔やみます。
「こんな遅くまで、誰と話してたのかなぁ? もしかして彼氏?」
「え、や、や、そがあなこと、ない、です」
「またまたぁ、隠し事はよくないわよ」
魔女は嫌らしい笑みで見上げながら、短い指をわきわきと動かして近寄りました。しかしてその冗談めいた雰囲気に反し、美琴は沈んだ面持ちとなっております。
「そう、ですよね。隠し事、よくなあですよね……」
「ど、どったの?」
「管理人さん……相談、乗ってくれんさる?」
やぶ蛇だったかと一歩引いた魔女に、美琴はぼつぼつと語りました。
自分が同じ学校の男の子と交際していること。彼が自分に何か隠し事をしていて、それに関して明日会って謝りたいと言ってきたこと。
そして、自分もまた彼に隠し事をしていること。
「うち、自分が人間じゃないって、まだ言うとらんのです。せっかくこーくんが勇気を出してくれよるのに、それに応えられんままなん、つらい」
「それは別に、無理して明かさなくてもいいんじゃないの? ずっと隠したままで添い遂げる物怪なんていくらでもいるわよ」
あっけらかんと魔女は言ってのけますが、美琴は真剣そのものです。
「けど、それだけと違うんです。うち、嘘つくん下手ですけえ。いつかバレてしまう。もし、そがあなことんなったとき……」
「傷付くのが嫌? だったらいっそ、隠し通したほうがいいんじゃない? 隠蔽工作だったらいくらでも協力するわ。っていうか、普通の人間は疑いもしないわよ」
しかし美琴は握った両拳を膝に置いたまま目を伏せて、首を横に振りました。
「バレて、怖がられて、カッとなって……こーくんを絞め殺してしまうかもしれん」
美琴の発言に魔女はぎょっとしましたが、彼女の正体を思えばすぐに納得致しました。
「うちも物怪の端くれですけえ。自分がほんは凶暴なん、分かるんです。今なら抑えてられる。けど、もっと深あ付き合いんなったら、どうなるか分からんのです。じゃけえ、言うなら今のうちしかないんです……」
もちろんそんなリスクだらけの告白など、当人の本意ではありません。波風立たせずにいられるのならば、それに越したことはございません。
それでも問題を先送りにして、いずれ最悪の事態を招くよりはずっとマシと思えるのでしょう。
「うーん。でもまぁ、それが美琴ちゃんの決めたことなら応援するわ」
魔女は腕を組んでしばらく唸っておりましたが、やがて大人の余裕ある笑顔になって美琴の肩を叩きました。
「管理人さん……ありがとう、ございます。勇気、出ました」
「いつだって私は美琴ちゃんの味方だからね。ついでにそれ、全部食べちゃっていいわよ」
そして今にも嬉し泣きしそうな美琴を励ますと、胡麻団子の箱を置いて立ち去ったのでございます。
さて、魔女が階下の管理人室に戻りますと、そこには美琴を除く下宿屋の住人が勢揃いしておりました。そして長机の上座に着いた魔女が「崩していいわよ」と言うなり、それぞれが人間の仮姿を解いたのです。
ある者は角と牙を生やした赤膚の巨体であったり、またある者は滑った緑鱗の痩身であったりと、形は様々でございます。
「ここにいる皆の中には、もう盗み聞きをして知っているものもいるとは思うけど……」
魔女は、美琴の部屋で浮かべていたものとは打って変わった、険しい表情を見せました。
「美琴ちゃんに彼氏が出来たわ」
下宿屋の管理人にして長である魔女の口から、改めて事実を突きつけられたことにより、住人らはこぞってざわめき立ちます。
「はいはい、静粛に、静粛に。あんまり騒ぐと彼女に聞こえちゃうでしょ。それよりも、大事なのはここから先よ」
柔らかく手を拍して場を静めた後、魔女は本題に入りました。即ち、美琴が交際相手に正体を明かそうとしている件についてであります。
すると住人は、
「それは危険だ!」
「なんと無謀な!」
「早いところ手を打たなくては!」
などなど、次々に懸念と反対の声を上げました。魔女もそれに深く頷きました。
「それにしても、ちょっと過保護じゃないですかね? なんだって魔女だの鬼だのと名のある御方が揃って、女の子の恋路にそこまで首を突っ込むんです?」
と、そこへ、流れに逆らうような発言が一つなされました。その場にいたもの達が一斉に振り向いた先に座る声の主は、末席に着いていた子狐でございます。子狐は睨まれて肩をすくめつつも、答えを窺うように魔女から視線を外しませんでした。
「あぁ、お前は新入りだから、事の重大さがまだ分かってないようね」
魔女はため息一つ吐いてから言いました。
「美琴ちゃんが、それだけ要注意だからよ。ああやって学校に通わせているのでさえけっこう妥協してるんだから。彼女がどこにでもいる並の物怪だったら、私だってとやかく言わないわよ。恋愛は個人の自由だもの」
「するってえと、叶美琴は特別だと?」
「そうよ。彼女に普通の人間を深く付き合わせることは、例えるなら、核爆弾の発射スイッチが置かれた部屋に一般人を入れるようなものよ」
「そんなに大層なものなんですかい?」
食いつくように問いかける子狐。
「彼女はああ見えて、霊格は相当高いわよ。ちんけな神様気取りよりも影響力はずっと強い。今じゃ本人が自覚出来るほどにね。いい? 物怪は人間の感情を糧にして産まれてくる。その中でも負の感情――怒り、憎しみ、嫉妬、恐怖、渇望など――によるものは、自滅するか人間に討たれるかのどちらかでいずれ消えていくわ。だけど美琴ちゃんだけは違う」
次第に魔女は雄弁になってゆきます。
「彼女の本質は未来への絶望感と、怨む相手すらいない空虚感。一度でも暴走すれば、撒き散らされた瘴気は薄れない。どんな苦労や困難だって、それを乗り越えた先を信じているから頑張れるんでしょう? だけど美琴ちゃんの力は、その希望の芽を腐らせるのよ。人の未来を永劫に蝕み続ける。それは、仮に彼女を殺したところで収まりはしない。だからつまり……」
「つまり?」
「もし美琴ちゃんが愛する人に裏切られることがあれば、世界は滅亡するわ」
「なんだってー、そいつは大変だ」
どうにも緊張感に欠ける言い様ではあるものの、子狐もようやく事態を把握したのでございました。
「私達に出来るのは、彼女に降りかかる火種を未然に払うこと。そして一生を穏やかに過ごさせることよ。そのためには手荒なこともしなきゃいけない。分かるわね? 相手の男の子がどんな人間か知らないけど、万が一のことがあれば取り返しがつかないもの」
「だけど手荒な真似って……そんなことしたら余計に彼女が悲しみませんかね?」
「ええ、知ればショックを受けるでしょうね。だから後で、彼氏との甘い思い出を消させてもらうわ。適当な別の記憶にすり替えるの」
恋人との逢瀬を無理やりに忘れさせるなど、正気の沙汰ではございません。ところがこの魔女は、人間と物怪全体を守るために致し方ないことだと信じておるのです。
「しかし記憶を操るなんて呪いは相当に難しいと聞きますよ。一歩間違えれば、対象の人格をも壊しかねないとか。大丈夫なんですか?」
ここで、魔女の左隣に座っていた赤鬼が口を開きました。一方で己の疑問が解決した子狐は早くも興味を失ったのか、その隙に部屋を抜け出しておりました。
「その点は抜かりないわ。美琴ちゃんの体質はよく知ってるし、それに私の呪いが効き易くなるよう日頃から仕込んであるもの」
魔女は口角を緩ませながら、胸の内ポケットから薄黄色の液体が入った小瓶を取り出します。栓を抜くと、口から漂うは甘い胡麻の香りでございました。
「それに、呪いは彼女だけに使うわけじゃないわ。町全体に拡散させて、早いうちに『こーくん』とやらの存在感を薄める。記憶の齟齬が起きないようにね」
「徹底的ですね」
「もちろん。とにかく当面の目的は、美琴ちゃんの彼氏『こーくん』の特定及び暗殺。その後で、美琴ちゃんの記憶操作は私がやるわ。決行は明日。期限は二人が学校裏手の神社で落ち合うまで。夜に動けるものは、今から私の準備を手伝いなさい。昼に動けるものは、明日の実働に備えて今は休むこと。以上よ」
栓を閉めた魔女は、実に簡潔な言葉で、実に殺伐とした決定を下しました。
それと時を同じくして美琴は、階下で動く思惑など露知らず、胸を高鳴らせたまま眠りに就いたのでございます。




