☆ 少年と、兎の卵・上
あるとき、あるところに、一人の男がおりました。
年は少なく、名を母木孝助と申します。
ぽっちゃり丸顔の鼻タレ小僧・孝助少年は、長い休みになる度、家族揃って父方の祖父の家へ行くことを楽しみにしておりました。彼はお爺さんが大好きでしたし、都会では味わえない山里の空気も大好きなのです。
ちなみにその田舎が如何ほどのものかと言いますと、例えば電車は二両編成のものが一時間に一本しか通りません。
日が長くなればどこからともなく現れた大量のカメムシが畳や柱の上にへばり付き、日が短くなれば天井裏にテントウムシが身を寄せ合って冬越しに備えているような具合でございました。
ある年の夏のこと。孝助のお父さんはとても仕事が忙しくなり、お母さんもそれを手伝うために帰省の時間が取れませんでした。そこで小学校高学年になっていた孝助は、背伸びをしたいお年頃、初めて一人でお爺さんの田舎へ行きたいと申し出たのです。
最初は反対していたご両親も、ついには息子の真剣さに折れ、切符の買い方から迷ったときの道の訊ね方まで、いろいろと教えました。
そして最後に、お父さんは一個の首飾りを渡しました。
白毛の狐をかたどったペンダントはお父さんが肌身離さず着けていたお守りで、男の子が持つには少し煌びやかが過ぎる物でしたが、孝助は喜んでそれを受け取ったのでございます。
別段の苦も無く、孝助はお爺さんの家に辿り着きました。一人で来られたことを褒められ、また大きくなったと頭を撫でられました。
このときの孝助は、例年通りに夏休みへの期待で胸が一杯でございました。
蝉がしょわしょわ鳴いて野兎の駆ける山野の森を、孝助が走り回っておったある日のことです。彼は水筒を家に置き忘れていたことに気が付きました。
冷たい麦茶がすぐには飲めないと知ると、余計に喉が渇いてきました。
そこで孝助は天然の水でこの渇きを癒そうと思い立ち、近くにあるはずの沢へ足を運びました。
そしてそこで、何やら見慣れぬ物を発見したのでございます。
「……なんだが、これ?」
彼はいつもでさえ大きな目を、ひときわ大きくして見張りました。
木陰で暗い沢に下半分を浸からせている、楕円形の物体。
大きさは西瓜一玉くらいでしょうか。鮮やかな黄色と青のまだら模様が強く孝助の目を惹きました。
恐るおそる手を伸ばしてみると、触感はザラザラしておりました。硬く、小突いてもビクともしません。試しに抱えてみますと、子供の腕にも軽く簡単に持ち上がりました。石や鉄の類ではなさそうです。
これは何なのか。一体全体、どこから来たのか。孝助には分かりません。ここ数日はカンカン照りが続いていたので、雨風に流されてきたものとも思えません。
見た目には何かの卵のようでもありました。ですが、この近くで見られるどの野鳥のものとも違います。模様はもちろんのこと、あまりにも大きいのです。
「ひょっとして、これ、恐竜の卵か?」
ほんのちょっとした非日常や冒険を望む年頃です。孝助が勝手にそう信じ、心をはやらせるのも無理のないことでございましょう。
「だったら、こりゃすげえが! やっぱり爺ちゃんとこは宝ん山じゃ!」
そして目を輝かせながら同時に、こうも考えました――これは秘密にするべきものだと。こんなに不思議で珍しい物が知られたら、きっと取り上げられてしまうと。
恐竜の卵を孵して育てるなどと言ったところで、大人は誰だって反対するに決まっていますから。
その想像が事実かどうかは別にして孝助は、恐竜の卵と仮定した謎の物体を持ち帰り、家の縁側で昼寝をしているお爺さんに気取られないように隠しました。秘め事というものは確かに後ろめたくはありますが、それにも増して一種の陶酔感を味わわせるものでもあるのです。
誰にも見付からない場所として選んだのは、蒸し暑い屋根裏です。自分が使っている部屋と直接繋がっているので何かと好都合なのでしょう。
そして座布団や毛布を寄せ集めて包み、少しでも卵を温かく保つべく努めました。ダメ押しで、物置から引っ張り出した赤外線ストーブも投入です。これらの作業中に孝助がずっと、期待と緊張とで胸を躍らせていたのは言うまでもございません。
それからというもの孝助は、暇さえあれば卵の様子を見るようになりました。少なくとも朝起きてからと、夜寝る前の二回は必ずでした。
いつか何か変わりがあるかもと想像するだけで、毎日が楽しみでなりません。
ところが、ある夜のことです。いつも通りに卵を覆っている毛布をどかそうとした瞬間、孝助は指先に鋭い痛みを覚えました。慌てて見るとそこには、何やら鋭利な刃物で切られたような傷が出来ていたのです。
ヒリヒリとして、じんわりと血が滲みました。
薄明かりの中、ゆっくりその毛布を摘み上げてみますと、小さくて硬い物がいくつも、バラバラと床に散らばり落ちました。
「……っ!」
孝助は息を呑みました。
先ほど彼を傷付けたもの……それは剥き出しにされた剃刀の刃だったのです。
どうしてそんな危ない物があるのでしょうか。その数たるや、うっかり紛れたものとは到底思えませんでした。
何がどうしてそうなったのか、理解のほどが追いつきません。
茫然自失となった孝助が何気なく指の傷を舐めようとしたとき、さらに奇妙なことが起こりました。
ぷっくりと膨らんでいた血の玉が震えました。
続いて、よられた糸のように細く伸び、ひとりでに宙をたなびきました。そうして血の糸は謎の卵と孝助の指とを繋げたのです。
指先に痺れを覚えつつ、孝助はその様子をじっと眺めておりました。逃げるべきかどうかも分からなかったのでございます。
砂に水の染み入るが如く、卵の表殻を塗らした孝助の血は、乾く間も無く消えてゆきました。
「う……ぁあっ!」
そこで我に返った孝助は転がるように駆け下り、屋根裏への入り口を閉じました。急いで逃げたことと、先ほどまでの暑さとで、身体中を嫌な汗がじっとりと垂れてゆきます。
そして頭から布団をかぶって、目蓋を固く閉じたのでありました。
なかなか寝付けず、どこかで物音がする度に身をすくめました。
昨日までとは一転、自分はとんでもないものを拾ってしまったのではないかと怯えました。吸血鬼か何か、得体の知れない怪物の卵なのではないかと。
だからといって、今から捨てに行くことも、怖くて出来なかったのでございます。
翌朝に孝助は、ベタついた寝汗を拭くよりも早く、忍び足で屋根裏へ上りました。そこには昨夜と変わらず謎の卵が座しており、また昨夜と違って剃刀の刃はどこにも見当たりません。
その日は食事もろくに喉を通らず、ずっと塞ぎ込んでおりました。お爺さんが心配して声をかけても、生返事しか返せない有様でございます。
そして夜。
なるべく卵のことを考えまい考えまいと努める孝助でしたが、それでもやはり気になるものです。机に向かっていても、テレビを観ていても、まるで誰かに見張られているような心地になりました。
もちろん振り向いたって、誰もいやしません。せいぜい、お爺さんが寝そべりながら一緒にテレビを観ているくらいです。
疲れのせいでいつもより早く眠気に襲われかけた矢先、指先に激しい痛みが走りました。
かさぶたが溶け、塞がりかけていた傷が自ずと開いてゆくのです。
そして血の糸が宙をさまよいました。孝助はお爺さんに見付からないよう必死にそれを手で隠し、慌てて寝室へこもりました。
すると、やはりと申しましょうか、血の糸は屋根裏を目指して伸びたのであります。
血の糸は蛇のようにのた打ち回り、天井を飛沫で染めました。
それでも最初のうちは歯を食いしばっていた孝助でしたが、やがて激痛に耐え切れなくなりました。涙目で屋根裏への入り口を開けると、彼の血はすぐに卵へと吸い寄せられて、音も無く消えました。
すると不思議なことに、あれだけ強かった痛みも嘘のように無くなるのでございます。
だからと言って、不信感や猜疑心までが拭えるわけでもありません。
誰かに相談しようとも、祖父の田舎に友達はおりません。
そのお爺さんに打ち明ければとも思えますが、剃刀を仕込んだのは何者かと想像すれば、家主である彼こそが最有力なのです。どうかお爺さんには卵の不気味さと無関係であってほしいという希望のためか、真実を知ることへの恐れのためか、孝助は敢えて黙っておったのです。




