南海のスイートハニー・下
大きな少女は、クジラの骨を割り折って作った箸で『はい、あーん』をしました。
何度か指が震え、危うく男の顔を突き刺しそうになりました。
大きな少女は、海面から顔だけ出して『お帰りなさい、ダーリン。ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ、た、し?』と小首を傾げてみせました。
男は『いや、俺はどこにも行っていない』と軽くあしらいました。
大きな少女は、水浴びしている男に『お背中、流しますね』と奉仕の気持ちを込めました。
勢い余って津波が起きて、もう少しで男が海の藻屑となるところでした。
空回りや失敗ばかりの彼女でしたが、そのひたむきさに、なかなかどうして男は怒る気持ちになりませんでした。
とある夜、山頂での天体観測デートの最中に、男は大きな少女に問いかけました。
『どうしてお前は、人間にこだわるんだ』
『え、何がですか?』
『俺にしてくるお願い事というのは、どれもこれもが古典的で手垢の付いたような、小説やら漫画やらの受け売りだ。そうだろう?』
『人間は、わたしの憧れなのです。誰かと夢を語り合ったり、愛し合ったり、ときには競い合ったりして……そういうの、いいですよね』
『馴れ合うだけなら猿でも出来るさ』
『もう、ダーリンったら、夢が無いですよ』
そして彼女はうっとりと、こぐま座を掴むように空へ手を伸ばしました。
『人間の凄いところはですね、そうやって自分たちを高め合って、ついには星の世界にまで届いたところなんです。あのポラリスの時代に、人間はこの星で初めて、他の星々へ渡る力を手に入れた生き物なんですよ。すばらしいと思いませんか?』
『馬鹿を言え。俺達はまだまだ、月にすら行けていないんだぞ』
世の中には、自分達の先祖は天から降りてきたのだと主張する人種や民族がおります。男にしてみれば、大きな少女の語る神話や歴史など、それと同程度のものであるとしか聞こえなかったのでありましょう。
『えへへー、そうですね』
すると彼女は、初めて二人で星を観たときと同じように、笑って何かを誤魔化すのでした。
さて、男は探検家であり、探求者でありました。一所に長く留まることが到底耐えられぬ性分なのです。彼は今や大きな少女を憎からず思ってはおりましたが、それとこれとは別問題なのでございました。
大きな少女はとても名残惜しそうですが、おままごとでもよいと自分から申し出た手前、無理に引き止めることは致しません。
出立の日に彼女は言いました。
『じゃあ、最後に三つだけ、いいですか?』
『意外と多いな』
『えへへー。一つめ。この近くの海はとっても危ないので、いかだは使っちゃダメです。わたしに送らせてください』
せっかく作ったものが無駄になるのは気兼ねしましたが、より安全な方法があるならばと男は承諾しました。
『二つめ。これを持っていってほしいんです』
彼女は片目をつむり、涙を一粒落としました。
それはすぐに凝縮され、とても艶やかな青真珠へと形を変えたのであります。これも男は、思い出の品として受け取りました。
『三つめ。わたしに、ダーリンのお願いごとを叶えさせてください』
『意味が分からないな』
『はぅ、えっとですね、わたし、ずっとダーリンを困らせっぱなしでしたから。それに、いっつも、わたしからお願いしてばっかりでしたし……』
『いや、それはいらない』
『でもでも、わたしの気持ちが済まないんです』
『どうしても、か?』
『どうしても、です』
むくれてみせる彼女は、ここに至って妙に頑なでした。
しかし彼は、己の望むものは全て自分の力で獲得してきました。少なくとも彼自身はそう考えているのです。
『じゃあ、世界平和だ』
ならばと男が思いつきましたのは、自分が全く興味の無い物事でした。これより先、金輪際関わることがないと考えていた案件を彼女にお願いしてみたのです。
『お前の力で、人間同士の馬鹿な争いを止めてやってくれ』
『は、はひ! 必ず、やってみせます!』
大きな少女は快く頷き、意気込みました。
やはり彼女は笑っておりました。
余談ではございますが、男を大陸まで送った方法について触れましょう。
答えは至極単純。彼女は男を口に含み、そのまま泳いでいったのです。
大きな少女の咥内とは如何な心地だったでしょうか。これについては何を申し上げても、推論の域を出ないでしょう。
しかし、女は海です。
あらゆる生命の母であり源とされているものと同質の温もりに包まれるというのは、決して悪いものではなかろうと存じます。まして花も恥らう乙女の舌が全身をやわっこく撫でるのです。さらに男が生命を預ける行為なのですから、もしやするとキスよりも、セックスよりも、遥かに深く濃密な繋がりなのかもしれません。
彼女と別れてから幾月。旅の途中で男は、世界中に出没する巨人の噂を耳にしました。
中継で映されるその姿は決まって深い霧に覆われているために、うっすらとしか全身像を把握できませんでしたが、あれは島で出会った彼女であると男は確信致します。
大砲や爆弾で攻撃されてのけぞりながらも、黙々と前進する姿がそこにはありました。
メディアが報じるところによりますと霧の巨人は、各所へ無作為に現れては破壊活動をして回っているのだそうです。
嵐と共に現れ、嵐と共に去りゆく神出鬼没。
貧富の差も無く、人種の差も無く、地域の差も無く、健やかなる者も病める者も等しく。
男にはすぐに分かりました。彼女は敢えて「人類共通の敵」を演じることで「人間同士の争い」を無くそうとしているのです。現にその目論見通り、冷戦状態の緊張は緩和され、世界情勢は各国が一丸となる協力体制へと移りつつありました。
ではそれを、男が黙って見ていたか。
俺の嫁は言いつけを守る働き者だ、などと喜んだか。
答えは否でございます。
彼はあの島の場所を突き止め、青真珠を胸に飾り、単身で彼女に会いに行きました。しかし何日も何日も、呼びかけたとて返事はありません。
予め持っていた水も食料も尽き、心折れそうになった頃合で、再び大嵐に見舞われました。
すると荒れ狂う海と、曇天の狭間に、彼女の姿がぼんやりと浮かんだのです。
『ダーリン、どうしたんですか? どうして戻ってきたんですか?』
『どうしたって、それはこっちの台詞だ!』
世界平和などと、もともとが無茶なお願いだったのは男も承知しております。だけれども、彼女がそれを愚直にも信じ、しかも自らを貶める方法で実行していることが我慢ならなかったのでしょう。
『一つの国では倒せない敵と、世界中の国が仲良く一緒になって戦うんです。みんなの強い絆で、邪悪な巨人をやっつけるんですよ。ハッピーエンドじゃないですか。そうでしょう、ダーリン?』
深い霧に隠されて、その表情は見えません。
『そうだな。しがらみを捨てて、誰もが手を取り合うのは素晴らしいことだ。実に使い古された、恥ずかしいくらいのハッピーエンドだよ。だけど……なんでその輪の中に、お前が入っていないんだ! お前は人間が好きなんだろう? 憧れているんだろう? 好きな奴らに望んで殺されるなんて、どうかしてるぞ!』
『平気ですよ。わたし、強いですから死にません。ミサイルを撃たれたって、へっちゃらです。それにわたしもバカじゃないですよ。適当なところで身を引いて、あとは海の底でひっそりと暮らします』
『なんで身を引く? 俺は考えを改めた。お前の傍に、ずっといてやる。だからもうあんな真似は止めろ。そうだ、また一緒に星を観よう。今度は春の星座を教えてくれ』
しかし彼女は、ゆっくりと首を横に振りました。
『お気持ちは嬉しいです。でも人間の一生は、わたしには短すぎます。わたしは、わたしは……ダーリンからもらった思い出だけあれば、この先、何万年だって生きていられますから。これでいいのです』
男は悔しさに奥歯をかみ締めました。
自分がこの島に留まったところで、結論を先延ばしにするだけだ。結果は変わらない。何の役にも立たない……そう宣告されたも同然なのですから。
『もう、ここに来ちゃダメですよ。わたしと話してるところなんて誰かに見られたら、ダーリンも嫌われ者になっちゃいますから。あ、でも、最後に一つだけ……あの青い真珠を、わたしだと思って大事にしてください。忘れたり、失くしたりしちゃ、いやですよ?』
男は青真珠の首飾りをぎゅっと握り締めました。
『――それじゃ、ばいばいです、ダーリン』
そして彼女が一方的に話を切り上げると、不意に嵐が静まりました。それと同時に彼女の姿も消えて無くなったのです。
でも嵐が止む直前、やはり彼女がはにかむように笑っていたのを、男は見逃しませんでした。
それからというもの、男が大きな少女と合間見えることは二度とありませんでした。
彼女は地上でいくらか暴れ回ったのち、かねての計画通り海底に沈むことを決めました。幸せなひと時を思い出し、夢に見て、それでもときには、切なさと寂しさに胸を焼かれることがありました。
だから海の水は、彼女の涙で塩辛いのです。