亡国の天女・中
熊の一件以来、男の教えにはそれとなく従っておりましたが、しばらくして突然、天女は彼の家へ押しかけました。
彼女は短刀を手にして詰め寄ります。
『おい、この嘘つきめ。神妙にしろ』
『い、いきなりどうしたのさ』
『どうしたもこうしたもあるか! お前は先日、どんぐりは保存食になると言っていたな? だから大事に残しておいたのに、それがどうだ。今日食べてみたら、まったく渋くて食えたものじゃない』
腹立たしげな女に対し、男はきょとんとしておりました。
『もしかして、きみ、あれをそのまま食べたの?』
『そうだが?』
『どんぐりはね、皮を剥いて、一日くらい水にさらしておかなきゃいけないんだよ。さらにそれを細かく砕いて……』
『なんだと? そんなもの、食べられるとは言えないだろう』
『粉にしたものに、卵を加えて練るんだよ。そのときに蜂蜜なんかも混ぜるといい』
『随分と面倒だな』
『それを適当な大きさにちぎって、焼いて固めたものがこれだよ』
男は今まさに調理中だった、どんぐりの焼き菓子を見せました。天女はしばらく疑いの目をしておりましたが、男の真摯な表情に促されてそれを口に致しました。
『やっぱり嘘つきめ。こんな美味しいものが、あのどんぐりなわけがない。身の潔白を証明したければ、もう一度、手順を詳しく教えろ』
天女は乱暴な言葉でぶつくさ言いながらも、男の手ほどき通りに作ってみました。
そして出来上がった焼き菓子を頬張りながら、彼女が独り言のように呟くのです。
『私の故郷では、お前が言うところの「料理」という概念が無いんだ。ものは食べられるか否か、それだけ。食べ難いものを美味しく食べられるように工夫するというのは頭に無いんだよ。今だから言うが、最初にお前と会った日、海鳥を焼いたことにも内心ではとても驚いたものだ』
そして彼女は、もりもり食べるだけ食べると、また山へと戻ってゆきました。
生活にも慣れてくると、天女が男を訪ねることは少なくなりました。
それでも寒風吹きすさぶ季節。男は気になって岩山へと向かい、彼女の洞穴を探してみました。思いのほか特定に時間がかかり、松脂を灯りにして真夜中にそこへ踏み入りますと、天女の寝姿がありました。
彼女は確かに寝ておりました。膝と肘と額を地面に付けて背を上にし、翼を高く広げた格好で、寝息を立てていたのでございます。
男が近寄りますと、不意に翼がはためきました。そして彼が不思議に思ったのも束の間、女は跳び起きて、肌身離さず持っていた短刀を振るいます。
『……なんだ、お前か』
刃は間一髪のところで止まりました。あと一瞬でも天女の意識覚醒が遅れていれば、刃が彼の胸を貫いていたことでしょう。
『心配になって来てみたんだよ。いつも、そんなふうに寝てるの?』
『そんなふう?』
『羽を出してて、疲れない?』
男の質問に、女はあくびをして答えます。
『ああ、決して深くは眠れない。だが幼い頃からこうしていたから、もう慣れた』
『きみの国では、みんながそうして寝ているの?』
『いや、普通は翼を仕舞って、身体を横にして寝るものだ。私の場合は、環境が環境だったからな』
天女は言いました――自分が産まれる前から、故郷では戦争が続いていたのだと。
『私は戦士として育てられた。敵を殺すことが私の仕事だった。戦地で翼を出さずに寝るのは自殺行為なんだ。奇襲に対処できなくなるからな』
『それじゃあ、今日は僕が一緒に寝てあげる』
『待て、待て。何故そうなる?』
『たまには羽を休めて、ぐっすり眠ったほうがいいよ。それとも、僕のことはまだ信じられない?』
『それは、そんなことはないが……』
なし崩し的に不承不承、天女は翼を仕舞います。
熊の毛皮を布団代わりにして身を横たえますが、どうにも落ち着きません。すると、なんと、男が寄り添って腕枕を差し出したのでありました。
『なっ!?』
『どう?』
『なんだか、ムズムズする』
女は悪い気こそしませんでしたが、眠りに就くまでは時間を要しました。
ある日、天女は断崖に佇んで海を眺めておりました。その様子を不審に感じた男は、彼女に声をかけます。
『何かあったの?』
『ああ、ちょっとな。さっき船を見てきたんだ』
女の目は妙に虚ろでありました。
『冷凍睡眠装置……壊れたんだと思っていたけど、違った。皆は自分達で動力を切っていたんだ。きっと、限りあるエネルギーを私に残すために……そうでなければ本当に、ここへ辿り着く前に全滅していただろうから』
一人しか生き残れないのは仕方ない。他を犠牲にして誰かを永らえさせるのはひとつ妥当な考えだ。自らの星を捨てるという決断の上での長旅だったのだから――しかし彼女が物思うところは、何故そこで選ばれたのが自分なのかということでありました。
『素直に喜べないんだ。私は、戦いの技しか教わってこなかった。そんな小娘一人を残してどうなる?』
うずくまる天女の脇に、男は腰を下ろします。
『そんなきみにこそ、新しい世界を見せたかったんじゃないかな? 僕は、きみに何かを教えているときがとても楽しいよ』
『そ、そんな、バカな話があるか! 私は人殺しだぞ!』
『でも今は、ただの淋しがり屋な女の子だ』
男はそっと女の手を握りました。すると突然、ボンッという音と共に、彼女の背から翼が生えてバサバサと羽ばたきます。
『ど、どうしたのさ』
『う、うるさい。うるさい。お前がいきなり変なことを言うからだ!』
彼女は顔を逸らしてその場から離れようとしましたが、男は手を強く握ったまま放そうとは致しません。
『きみは独りぼっちじゃないよ』
真顔でそんなことを言われては、天女はもう何も返せないのでありました。
心許した男と女。ましてや天女は故郷を遠く離れた天涯孤独。
どうなるかはお察しの通り。
洞穴にて睦まれた会話を少しだけ抜き出すことに致しましょう。
『う……ん……』
『大丈夫だよ。安心して』
『今まで戦うことしかしてこなかったから、こういうのは初めてだ』
『その話は、今は忘れよう』
『ん……分かった』
『はは、素直だね』
『うるさい。揚げ足をとるな。あ、ちょ、ちょっと待て。待てと言うに! ……このままじゃダメだ。私が上になる』
『いいけど、どうして?』
『気持ちが昂ぶると、勝手に翼が出るんだ。さっきの体勢だと痛めてしまう』
『それじゃあ、きみの国の人同士ではどうするの?』
『おま、おま、お前、今それを訊くのか!』
『あ痛っ! でも、気になったから。きみのこともよく知りたいんだよ』
『……男と女で抱き合って、二人で空を飛びながら……って、なんでこんなことをわざわざ口に出さなければならんのだ! ええい、忘れろ!』
『分かったよ』
『あ、バカ、止めろ! いやらしい手つきで翼を撫でるんじゃない!』
さて二人のために、盗み聞きはこの辺りにしておこうかと存じます。




