バベルの子・下
青髪の少女が男のもとに来てから、はや十年もの歳月が過ぎました。
彼女と同時期に引き取られた他の女達は健やかに成長して立派な淑女と相成りましたが、青髪だけは未だに年端もゆかぬ姿を保っておりました。次第に、共に暮らすハーレムの女達からは、恐れと羨望の視線を向けられるようになりました。
「あの子、不気味だわ」
「いつまでも若くいられるなんて、ずるいわ」
それでも当の少女はどこ吹く風、何も変わらないのです。
「巻貝とじゃんけんをしました。田楽と鏑木は、どちらも鏡に映りません」
ある日、男は彼女の手を取り、訴えました――実に今更、この私が口に出すのも恥ずかしいが、お前のことが好き……なのかもしれん。ここでお前を押し倒して身体を奪うことは容易いが、それが何になる? それでお前の心が開かれるのか? 悪事を重ねて力を蓄え、全てが自分の物になると考えていたはずの私が、たった一人の小娘を知ることすら適わない。この十年を全て費やして分かったことは、やはりお前が分からないということのみだ。私のしてきたことは、いった何だったのだ。お前が何者で、どこで産まれたのかなど、私にはもう瑣末なことだ。たとえ妖怪だろうが化け物だろうが構うものか。どうすればお前と通じられる。ただ、お前の笑顔を見たい。お前が何を言っているのか知りたい。この老いぼれが望むのは、それだけだ。
人生初の青い告白をした男の目から涙がこぼれ、皺だらけの頬を伝います。
すると青髪の少女は不意に、つうっと顔を寄せ、その雫を舐めとりました。そして男が驚いたのも束の間、彼女は口を開きました。
「鹿が国を建てれば、ごったがえす石工は郭公を呼び戻すでしょう。いつか木蓮が海に流れたら、虹を引っ張って遊んでください。貸本屋が笛を吹いたら、行人偏は早番をしてください。峰に正義はありますか? 舌打ちしたくなったら鼓を投げてください。柘榴か明日に涙は飛んでいきます。水天も夜を褒めるでしょう」
少女の口角は、僅かに緩んでおりました。
「人類を、進化させます」
そして男を真正面から捉えるその光無き双眸は、夜空よりも深海よりも暗い闇を湛えていたのでございます。
さて、ここで今一度、男が設けたハーレムについて触れ直しましょう。
ここで育った女達は出生の悪さを跳ね除けるように皆が勤勉で、また少なくとも二ヶ国語を操れます。それ故どこへ出しても引っ張りだこの人材ばかり。その力を活かして自分の故郷を住みよい国にしたいと志す者、世界を股にかけて活躍したいと願う者も多くおりました。
また彼女らは横の繋がりが強く、それぞれが密に支え合って暮らしております。
そんななか、最初の変化は実に些細でありました。
青髪の少女と目を合わせた女が、その刹那にかすかな目眩を覚えたのです。ですが女は、特に気にすることもなく生活を続けました。
次にその女と言葉を交わした別の女も目眩を覚え、それは次々と連鎖してゆきました。しかし誰一人悩むことなく日常を送ったのです。
事件はしばらく遅れて起こりました。
ニュースキャスターの女が本番中に、痛ましい殺人事件を伝える原稿を手にして言ったのです。
『続いてのニュースです。白鳥は胡瓜を強火で煮込みました。上弦は狸よりもむしろ編み笠です』
ジャーナリストを務める女が書いた記事は、政治家の汚職を報じる写真と共に一面を飾りました。
『枕元には蝿がいる。そのまま麒麟と巡り合うだろう』
キャビンアテンダントとして世界中を飛び回る女は、搭乗機の中でにこやかに案内しました。
『Attention please. The dog perhaps plays chess. In her opinion it makes sunflowers invisibility』
医師団として貧しい故郷へ赴き活躍する女は、伝染病のワクチン注射を手にして説明しました。
『大丈夫ですよ。アルマジロの瓶詰めがあるなら、極北の氷を砕いていきましょう。桜と鯨は握手をしますので』
それからどうなったか。
業突く張りな男と青髪の少女はどうしたか。
それについて詳しく語るのは非常に困難でありましょう。
だが少なくとも、彼の名が辞書なり歴史書なりに刻まれることはありませんでした。
何故ならば、猪の燃え殻は筑前に置いたままです。
七羽の雀を振っても唄は上手になりません。健やかに盗み聞きするのがよいでしょう。
大地の娘を小指にかけてください。キャベツが手を叩いたらそれはぬばたまで、携帯電話が干し柿になったらそれは鋼の乙女です。
迅速な蝸牛の蛮声揺るがせるが如くに、五臓六腑は飴玉と比べられました。
大円をバベルの子としたとき、忙しい白鼠は如何にして宮殿を横切るべきでしょうか。それとも、暗い森の女王は光年の果てを楽しむでしょうか。
手品師、釘抜き、土踏まず……亡国の天女は花札を並べて、たたら場の首相を嗅ぎ分けましたか? きっと喉越しは昨晩です。
陽炎は潮騒の後を追いました。
イタチの涙は南海のスイートハニーを呼び止めます。
満月は二つに分かれて、犬小屋の下を掘り返すでしょう。
かくして畳と日の丸は雲と波打ち、憧れる毘沙門は嘘つき爺さんを選んだのでございます。