第二章 過去と:ジェラルド
「……で、魔の世界の力が……聞いているのか?」
「……えっ?あ、う、うん」
娘は俺と目が合うなり視線を泳がせた。聞いていなかったらしい。俺がため息をつくと、彼女は目に見えて慌て出した。
「あ、あの、ごめんなさい。途中までは聞いてたのよ……だけど…、もう一度言って……?」
「気になるなら向こうへ行けばいいだろう?」
さっきロレンスが声を上げてから娘の関心はそっちへ行ってしまったらしかった。手元ではなく向こうに意識を向けているのが丸分かりだ。彼女は一度集中が途切れるともう駄目なのは経験から分かっていた。逆に集中している間は感心してしまうほどだが。
「そんなことないわ。…だって……、そんなの無理よ。……喧嘩したのかしら?」
支離滅裂だ。
「気になるんじゃないか。今日はここまでだ」
不安そうに向こうを見る彼女を横目に本を閉じる。そして、その本を彼女の方へ押しやった。軍での指導中に部下がこんな調子であれば殴り飛ばすが、この娘にはそういうわけにはいかない。
「でも、私が行ってもいいの?二人が喧嘩してたら私が行ってもどうにもならないでしょう?」
ちゃんと分かっているらしい。俺は思わず鼻を鳴らす。
確かにロレンスが声を上げるのは珍しいが、俺はあの二人が喧嘩になるとは思っていなかった。万が一、喧嘩だとすればお互い黙り込むだろう。
「行ってみないと分からないだろう?」
「ほんとに?ジェラルドも一緒に来てくれる?」
「ああ」
上目で不安そうに見上げられると嫌だとは言えない。無意識だとしても、たちが悪いなと思いながら、俺は彼女の後に続いて立ち上がった。
「サーシャ」
どことなく安堵した様子のアイリスが呼びかける。娘はその隣に腰を下ろした。俺も空いている席に座る。
「どうしたの?」
娘は恐る恐ると言った様子で問いかけた。
「なんでもないわよ。ちょっと行き違いがあっただけよ」
「ほんと?よかった。喧嘩じゃなかったのね」
「私とロレンスが喧嘩するわけないでしょ……。あ、ねぇ、でももし喧嘩したらどっちが勝つと思う?」
何を思ったかアイリスは笑いながら問いかけた。それを聞いて娘は真剣な表情で考え出す。ちらと表情を窺うと、俺の向かいに座る男は複雑な表情をしていた。
「……アイリス」
娘がぽつりと口を開く。
「ほんとに?」
「うん、絶対にロレンスが先に謝るわ。ね、そうでしょう?」
「あぁ、たとえアイリスが100パーセント悪くても私が謝るよ」
「ほら!」
「なんだか私がすごく悪いみたいな言い方じゃない?でも、それ覚えておいてよ。私は今後何があってもロレンスには謝らなくっていいってことよね」
「大変よ、ロレンス。もう怒っちゃったわ」
娘は心から楽しそうに冗談を言って笑いあっている。
その笑顔に心が安らぐ気がした。
俺は四人で過ごすこの旅のことを時々、夢かもしれないと思う。今までは毎日ががむしゃらだった。必死に腕を磨き戦争で生き残る事だけを考えてきた。戦争が終わってからは地位も上がり、また執務に追われる毎日だった。
それが今はどうだ。
彼女たちに合わせて、俺にはゆっくりと感じられる速度で歩き、途中に村があれば必ず立ち寄る。昼間に村に着くような時は、寝るまで特にすることもなく、自由な時間を持ったことのなかった俺は暇な時間を持て余している状態だった。
一年、か……。
俺は何気ない会話を繰り広げる三人を見渡しながら、ぼんやりと考えた。
一年もの期間を与えられたときは長いと思ったが、思い返せばこの20年はあっという間だった。おそらく、後で思い返す時、この一年もあっという間だったと感じるのだろう。
俺は今までずっと一人で生きているのだと思っていた。
周りに目を向ける余裕もなかったし、強くなるためにはその必要もないと考えていた。余計な事をしている暇はないと。
だが、最近、俺は自分は間違っていたのかもしれないと思い始めていた。俺は一人で生きてきたわけではなかったのだ。養父母、王、軍の男たち。気づけばいつの間にか多くの人に囲まれていた。
俺は自分でも無意識のうちにその誰とも距離を取って生きてきた。親を知らず、何事も一人で対処する癖がついていた俺には、軍の仲間、部下や上司という存在は居ても親しい友と呼べる者はいなかった。ロレンスにしても例外ではなかった。旅に出る前から何度か行き来はあった。共に酒を飲んだこともある。しかし、俺が胸の内を明かす事はなかったし、俺の生まれを語ったこともない。
そして、7歳で引き取ってもらった養父母とも上手い付き合い方が分からなかった。幼かったせいもあるが、突然出来た親という存在に戸惑った俺は、結局ぎこちない時間を共に過ごしただけだった。12で城に住むようになってからは滅多に家に戻らず、今ではすっかり疎遠になってしまっている。
何にせよ、これほど誰かに目を向けるというのは初めてだった。そして、その努力をするのも。たった四人だ。互いに目も届きやすい。毎日顔を合わせていれば、どんな性格なのか、何を考えているのかが自然と分かるようになってくる。
常に誰かの目に曝されている状態に、初めは戸惑いもした。だが、思っていたよりも人と関わるのは悪くはなかった。これほどの時間を一緒に過ごしていても、煩わしいとは思わない。
彼らのお陰で、俺は変わったのだろうと思う。少なくとも、この旅から戻った暁には、養父母のところに顔を見せに行こうと思う自分がいるくらいに。
「君はどうだ?」
突然、ロレンスに話を振られて、まったく聞いていなかった俺は返事に窮した。
「……何がだ?」
「聞いてなかったの?せっかくのチャンスなのに」
「いいってば、やめてよ。もう、二人とも!」
何の話題かは知らないが、笑い顔のロレンスとアイリス、頬を染めて憤慨している娘を見ると、いつものごとくからかわれているんだろうと分かった。
素直に感情を表す彼女は本当に見ていて飽きない。そしてくるくる変わるその表情の全てが愛らしかった。
「何の話だ?」
「だ、ダメ。聞いてなかったんだから、内緒!」
必死に言い張る娘を見て、まあ、今聞かなくてもいいかと思い直した俺はそうか、とだけ返す。すると追求されないことに安堵したらしい彼女は目を細めて満足そうに微笑んだ。
「で、何の話だったんだ?」
部屋でロレンスと二人きりになった俺は気になっていたことを聞いた。
「気になるか?」
思わせぶりな口調だった。分かっているくせに一々言わせたがるのがこの男の面倒なところだ。
だが、うんざりしつつも今はそれに付き合うしか方法がなかった。
「お前が俺に振ったんだろう」
「怖いものだよ。サーシャの怖いものは何かって言う話だ」
寝台に腰掛けたロレンスが面白そうに笑う。それでようやく俺も理解した。思わず苦笑する。
「なるほどな」
「ああ。彼女はまだ知らないんだよ。もう全員が知っているって事をね。それが可愛くてアイリスと遊んでたんだ」
「あまり過ぎるなよ」
「分かってるさ。もう泣かれるのは御免だからな」
その事を思い出したのかロレンスはわずかに顔をしかめた。
この男は男に対する態度と女に対する態度をあからさまに使い分ける。娘に対してもからかいはするが、基本的には貴族の女に対する扱いと同じ扱いを貫いている。ロレンスにとって女を泣かせるような男は最も軽蔑に値する人間だった。
それが先日、意図していなかったにせよ、この男は娘を涙ぐませてしまった。それを彼は後で心底悔やんでいたようだった。だが、ロレンスが少し睨んだだけで涙ぐむとは俺も驚いた。あの程度で泣くようであれば、軍の訓練時の俺を見れば彼女は二度と近づいてきてはくれないだろうと思う。そして、一方で、次の瞬間には恐ろしいはずの男の胸で安堵する彼女の心理は、俺には理解できそうになかった。
それに、娘は何もなかったとは言ったがこの男の推測もあながち外れてはいなかったのだ。寝台で無防備に微笑まれ、込み上げる衝動を抑え切れなくなった俺が娘の頬に口付けたのは事実だった。それで少しは男として意識されるかという期待もあったが、彼女には通用しなかったらしい。娘の態度に以前と変わるところは見られない。
……手強いな……。
そう思い密かに笑う。
それから俺は、寝台に仰向けに寝転んでいる男に目を向けた。
「そう言えば、さっき声を上げたのは何だったんだ?」
「あぁ……、ちょっとした誤解だよ。大したことじゃない」
「お前にしては珍しいな」
ロレンスが首を振ってため息をついた。
「別の事に気を取られてたんだ。アイリスの冗談を本気だと思って驚いたんだよ。……彼女はなかなか手強い」
そう言って自嘲的に笑う。ロレンスがそのような取り違いをする事自体珍しいことだった。が、俺にはそれよりも気になることがあった。
……手強い、か……。
独り言のように付け加えられた言葉。
なんとなくではあるが、俺には冷静な男を動揺させた理由が分かるような気がした。
☆どうでもいい後書き☆
えっと、サーシャの怖いものは何か。そして何故みんながもうそれを知っているのか。
その理由は既に書き終えているサイドストーリーに登場するんですが、なかなかアップするタイミングが見つからず……。
いずれ話の区切れのいいところで入れたいと思っています。
それまではご想像にお任せします。……なんて言いますが、大した話でもないんですけどね(笑
☆8月17日追加☆
新しく、グーテンベルクの歌【Side Story】の連載を始めました!
上↑で言っている話も、そちらの方にアップすることになります。これで話の区切れを考慮しなくてもよくなった!!ので、近いうちに仕上げます。一週間以内には……!