第二章 お酒
「もうすぐ夕飯よ」とマリーに言われた私とジェラルドはそのまま食堂で待っていた。もうすぐと言われて部屋に戻るのもおかしいし……と考えると動けなかったのだ。
彼はマリーに入れてもらったお茶を静かに飲んでいた。私の前にもマリーが入れ直してくれたお茶が湯気を立てている。
なんとなく彼と目を合わせにくい気分の私は置いてあるカップに手をかけたままじっと中を見つめていた。
「気に入らないのか?」
えっ、と思って顔を上げると向かいに座っていたジェラルドが私を見ている。
「ううん、どうして?」
「さっきからカップの中を睨んでいるだろう」
「に、睨んでなんか……」
確かに、ずっと見ていたけどそんなに怖い顔してた?
私は自分の表情に自信が持てずに中途半端に返す。ジェラルドは軽く口元を上げると鼻を鳴らした。
それを見てまた胸に小さな違和感が生まれた私は何も言わずにお茶を口に運ぶ。さっきも飲んだ。初めての味だけどおいしいお茶だ。
「おいしいよ」
つぶやくと彼は「そうか」と言った。そのまま少し気だるげにテーブルに頬杖をつく。視線は窓の外に向けられていた。
こんなふうに二人きりでテーブルを挟んで座ったのは久しぶり……。
出遭った頃はこれだけですごく緊張していた事を思い出す。初めては教会で。それからはお城の部屋で食事をした何度か。そのどちらの時も、ジェラルドは近寄りにくい雰囲気だった。
鋭い眼差しと真っ直ぐに伸びた背筋。私から話しかけるにはすごく勇気が必要だった。
でも今は……?
そっと目を上げると目の前に肩の力を抜いて頬杖をついているジェラルドがいる。旅を始めてからしばらくすると、彼はこういう姿を見せるようになった。私ももう緊張しない。話しかけることだってできる。そう思うと自然と頬が緩んだ。
近くでゆっくりジェラルドを見る機会なんてそうそうない。そう考えた私は彼が外を見ているのをいいことにその横顔をしっかり盗み見ていた。
ジェラルドははっきりした色をしている。綺麗なブルーの瞳に綺麗な漆黒の髪。時々金髪にも見えるぼんやりした茶色の髪の私とは大違い。色に迷いがないのは性格の表れかもしれないと思ってしまう自分が少し情けない。
そして今まで気付かなかったけれど、力が抜けて半分伏せられた目の睫は意外と長い。睫とすっきりした眉も曇りのない黒だ。改めて見ると、少し彫りの深い目鼻立ちは繊細ではないけれど、整っているのかもしれない。顎のラインから首にかけては鋭い印象。日に焼けた肌としっかりした太い首は確かに、マリーの言っていた『逞しい』の意味が分かる気がする。
そして顔を支えている手。思わず自分の手をテーブルの上に置いて見比べる。太くて長い指、厚い手のひら、大きくて骨ばった手は自分の手とは全然違う。爪の形まで違う。私の手だってアイリスの手と比べるとそれほど綺麗じゃないけど、ジェラルドの手は明らかに荒れた男の人の手だった。
こんなにも違う……。
そう、落ち着いて見ればこんなにも違うのに、余裕のなかった私は気づかなかった。
これから過ごす時間の中ではもっとたくさんの違いを見つけるんだろうか。それとも、似ているところが見つかるんだろうか……。
私は自分の両手をテーブルに並べて眺めたまま、ぼんやり考えていた。
ふっと息を漏らす音が聞こえて顔を上げるとジェラルドは私を見てなんとなく面白そうな顔をしていた。
「今度は手か?」
それを聞いて急に恥ずかしくなった私は慌てて両手を引っ込めた。
「今は睨んでなかったわ」
今度はしっかり反論する。
でも、それはジェラルドに薄く笑みを浮かべるだけでかわされた。彼はテーブルについていた腕を元に戻して私に向き直った。
「明日もこの調子ならもう一日ここに泊まることにする」
それを聞いて窓の外に目を向ける。ガラスを叩く激しい雨は止みそうにないし、風もさっきから強くなる一方だった。時々、窓ががたがたと音を立てる。
「ひどくなりそう?」
「あぁ、おそらく。嵐だな」
「もうすぐ夏が終わるのかな。今日が野宿じゃなくて良かったね」
宿に入る時にも思っていたことだった。にっこりしてジェラルドを見ると彼は頷いた。相変わらず口数は少ない。でも、その眼はもう鋭くない。もう、怖いとも思わない。
いつかは慣れる――――
本当にアイリスの言っていた通りだったわ、と私は前の雨の夜の出来事を思い出していた。
それからすぐに食事になった。
この村ではワインが名産らしく、三人はゆっくりお酒を飲んでいる。私はもっぱら食べるだけだ。
「ねぇ、明日もここにいるんだからサーシャも飲んでみる?」
聞かれて赤っぽい葡萄色の飲み物を凝視する。今まではお酒を試して次の日動けなくなったら大変だからという理由で飲まなかったのだ。明日もここにいるのならその理由はなくなる。
でも、私はお酒にそれほど興味がなかった。
「うーん、どうしようかな……」
「サーシャが消極的なのは珍しいね」
ロレンスが食事の手を止めて私を見る。
「嫌いなの?」
「嫌いじゃないわ。飲んだことないから分からないもの」
アイリスの手の中のグラスで揺れる飲み物。何故か躊躇してしまう。酔うってどんな感じなんだろう。アイリスもわりとお酒には強いらしく酔った状態を見たことがないのだ。
「やめておけ。お前もだ、子供に飲ませるな」
ジェラルドが私とアイリスを順番に見て言い放った。
子供って……。
そう思われているんだろうとは思っていたけど、目の前ではっきり言われるとやっぱりショックだ。
それにさっきジェラルドはアイリスにはお酒を注いでいたのに……。アイリスは違うの?
「あら、サーシャはもう18よ。子供じゃないわよ。ねぇ?」
アイリスが私の気持ちを代弁してくれた。それに力強く頷く。
「ねぇ、ジェラルドは何歳?」
彼にしてみれば、何歳なら子供じゃないんだろう。そう考えてさっきのマリーとの会話を思い出したのだ。ジェラルドには話の流れが見えなかったらしく顔を上げて私に目を留めて、それでも普通に答えた。
「28だ」
10歳も違う……。
28歳と言われてみても私にはピンと来なかった。男の人の28歳が若いのかそうじゃないのか。女の人だったら分かるけれど。
でも、私と10歳違えば8歳だ。確かに子供かもしれないと とりあえず納得することにした。
「結婚してるの?」
ついでにもう一つの疑問も聞いてみる。
「……いいや、何か今の話と関係あるのか?」
彼は明らかに怪訝そうな顔をした。
「ううん、聞いてみただけよ。ロレンスは?何歳?」
ジェラルドの隣で不思議そうな表情のロレンスに目を向ける。
「26だ。結婚もしていないよ」
「そう」
……後でマリーに教えてあげなくちゃ。
みんなは私の突然の質問に不思議そうなままだった。
「ねぇ、酔ったらどうなるの?」
空気を変えようと話を戻す。そう、お酒の話をしていたんだった。
私に顔を向けられたアイリスは手元のグラスに一度目をやった。
「え、私?私が酔ったらどうなるか?」
「なに?アイリスは特別なの?」
「ううん、そうじゃなくて。人によって酔うとどうなるかは違うと思うのよ」
「そうなの?アイリスはどうなるの?」
アイリスは何故か言葉に詰まった。彼女は前の男性二人に目を向ける。するとロレンスがにっこり笑った。
「私もぜひ知りたいな」
アイリスは少し眉をしかめて渋々口を開いた。
「……悲しくなるのよ。突然涙が止まらなくなるの」
それを聞いたロレンスが声を出さずに笑った。ジェラルドまで笑いたそうな顔をしている。アイリスがジェラルドを見て眉を顰めるとジェラルドはあからさまに目を逸らした。
「もう、だから嫌だったのよ。笑わないでよ!」
私は驚いていた。お酒って楽しくなるものだと思っていたのだ。
怒ってしまったけど、こうなると分かっていてきちんと答えてくれるアイリスは優しい。
「ちょっと、アイリスに失礼だわ」
私が言うと、ロレンスは咳払いをしてアイリスを見た。
「確かにそうだ、悪かったよ。アイリス、怒った?」
アイリスはじとっとした目で見返した。
「あなたは?どうなるの?」
「記憶がなくなる。それにどうも気が短くなるらしい。殴り合いの喧嘩をしたこともあるみたいだ。私は覚えていないが」
ロレンスは肩をすくめてあっさり言った。
アイリスと私は思わず顔を見合わせた。ロレンスがそんな事をするなんて信じられない。
「お酒ってすごいのね」
しみじみと言うとロレンスがゆるく笑った。
「適度に飲めば大丈夫だよ」
「ねぇ、あなたはどうなるの?」
アイリスがジェラルドに聞いた。
ジェラルドは口を開きかけて私を見ると何故か一度口を閉じた。しばらくそのまま考えるような素振りをみせる。それから首を振って答えた。
「言えないな」
「ははぁ、……なるほどな」
ロレンスが面白そうに言うとジェラルドは横目で彼を睨む。私の隣ではアイリスが静かに笑っていた。
「なに?何がなるほどなの?」
「言えないんだって」
アイリスが私を見て笑いながら言う。
「アイリスは分かったの?」
彼女は含み笑いをしたまま答えない。
「ロレンスも分かったの?」
ロレンスも私を見てにっこりしたけれど答えてくれない。
「どうして?どうなるの?」
みんなあれだけで分かるなんて。ジェラルドは知らん顔で食事を再開している。
「どうして教えてくれないの?」
思わず隣のアイリスの腕を揺する。彼女はまだ笑っている。
「サーシャも飲んでみれば分かるんじゃない?」
「……じゃあ、飲むわ」
「本当に?」
少し驚いた顔を向けられる。みんなだけ知ってるのに私だけ知らないなんて。半ば投げやりな気分だった。私も酔ってみれば分かるかもしれない。
「おい、やめておけ」
「じゃあ、教えてくれるの?」
期待を込めて聞くとジェラルドはまた口を閉ざした。それを見て今度こそ心を決めた。
……教えてくれないジェラルドが悪いんだから。
「私も飲むわ」