第二章 突然の2
宿の前に着いて、お礼を言って扉に手をかけようとした時エリックが口を開いた。
「明日行ってしまうのか?」
さっきも話したはずだった。不思議に思って何気なく振り返る。
でも、エリックの表情を見た私は言葉を失った。切ないような何かに耐えるような表情。そんな彼の眼を見て胸に湧いてきたのは何故か、罪悪感だった。
「え、えぇ。明日の朝」
「どうしても行かないと駄目なのか?」
彼は追い討ちをかけるように一歩近づく。
そう、どうしても行かなくちゃいけない。私は一度だけ頷いた。
するとエリックは一瞬目を閉じて息をついた。
「こんなこと、突然言っても信じられないかもしれないけど……、君が好きだ」
……すき……?
時が止まったような錯覚を覚えた。
口を開けたままの状態で言葉を捜す。でも、頭は真っ白だった。彼の真剣な目に囚われて目を合わせたまま、視線を動かすこともできなくなった。
「ぇ、……あ……、ど……」
何か言わなければ、と開いた口から出た言葉は意味を成さない。
私の動転ぶりを見たエリックはふっと優しく笑うと「困らせてごめん」と言った。
彼はそのまま宿の扉を開けて、戸惑う私の背を押して一緒に中に入った。
「サーシャ」
呼ばれてはっと向き直る。間近で見下ろされ、その近さに驚いている自分がいた。
「明日の朝、見送りに来てもいいかな」
言葉が喉に引っかかって出なくなった私は頷くのが精一杯だった。自分の心臓の音がびっくりするくらい大きく聞こえている。
エリックはもう一度優しく笑うと、少し背を屈めて私の頬に口付けた。
ぼけっと見返すことしかできない私に「おやすみ」と言うと外に出て行った。
私はしばらく、キスされた頬に手を当てて呆然とその場に立っていた。
好きだって……。
まだ心臓は激しく鼓動を刻んでいる。その意味を認識してしまった瞬間、顔も赤くなっていくのが分かった。
あまりにも突然すぎて夢の中の出来事みたい。誰かに好きだなんて言われたのは初めてで、どうしたらいいのか全然分からなかった。
エリックは私の何を好きになったんだろう……。
「ねぇ、いつまでそこに突っ立ってるつもり?」
その声に肩を弾ませて振り返ると、なんとそこには三人がいた。
……う、そ……。
全員が興味津々といった様子で玄関から繋がるリビングのソファーから私を見ている。今の出来事はばっちり見られていたらしかった。周りの見えてなかった私はすぐ近くにいたのに、気づかなかったのだ。
振り返って凍りついた私にアイリスが続けた。
「なるほど、そういうことだったのね」
にんまりと意味深に笑いながら。
私はそれを見て一瞬で現実に戻った。
「え、ち、違うわ。違うんだから!」
必死に否定しながらアイリスに駆け寄る。
何がそういうことなのか、何が違うのかは一先ず置いておいて、とにかく否定しなければと思ったのだ。さっきのを見てみんながどう思ったのかは分からないけど、少なくともアイリスはすごく勘違いしているような気がする。
「サーシャ、真っ赤だよ」
「なっ……!」
冷静な口調のロレンスに無表情で指摘されて、更に顔が熱を持つのを感じた。口をぱくぱくさせる私を見てロレンスはくっと笑う。
どうやらからかわれたらしい。
それに気づいて少し冷静な思考が働くようになった。
そうだ、好きだって言われたのは見られていないはず……。
「ひどい。からかうなんて」
アイリスの隣に座り、恨めしい気持ちを込めて言う。
ロレンスは声を出さずに笑ったまま答えなかった。
遅くなった事を怒るかもしれない、と思っていたジェラルドはいつもの、私の少し苦手な感情の読めない表情。
怒ってるの……?
ジェラルドはじっと私を見据えたまま何も言ってくれない。その視線を息苦しく感じた時、隣のアイリスが突然立ち上がった。
本当に突然だったのでジェラルドまでなんだ、という顔をした。
「な、なに?」
彼女は立ち上がり、黙って私を見下ろしている。その無言の迫力に気圧された私は思わず聞いていた。
「さ、部屋に戻りましょう」
アイリスはにんまり笑った。自分の顔が引きつるのが分かった。アイリスの目的が何なのかは明らかだ。
「え、えっと、私もう少しここに居ようかな……」
するとアイリスはまたあっさり腰を下ろした。
「そう、いいのよ。サーシャがよければ。ここで始める?」
その言葉に今度は私が立ち上がった。
顔を見合わせている男性二人を見て、ここは絶対ダメと思う。
「……やっぱり、部屋に戻るわ」
その後、結局私はアイリスにすべてを語って聞かせることになった。
話を聞いたアイリスは少し切ない顔をして「困ったわね」と言った。
そう、困った……。
冷静になってみれば、今の状況はその一言に集約されていた。
夜、ベッドの中に入っても全然眠れそうになかった。何度目ともしれない寝返りをうつ。
私は好きだと言われても何も出来ない自分に気づいたのだ。
恋してみたいとは思っている。けれど、そもそも、今の私には好きだという感情がよく分かっていない。
エリックの事は優しい人だとは思ったけど、それだけだった。出会ったその日に誰かを好きになれるものなんだろうか……。
明日見送りに来るって言ってたことを思い出すと困惑が募った。どんな顔をして会えばいいんだろう。
私は明日ここを出て行くって知っているのに、どうして好きだなんて言ったんだろう。
まさかこんな事になるなんて……。
困り果てた私の深い溜息は暗い部屋に吸い込まれた。