第二章 フェアリー
変な男の人と出会ってから4日、昨日小さな村を通り過ぎた私たちは、道を逸れた大きな木の下で休憩していた。
それぞれが適当に木の根元に腰掛けて、水を飲んだりおやつを食べたりと寛いでいるところだった。
「あ、見て、フェアリー」
アイリスが突然声を上げた。
指差す方向に目をやった私は心の中で、げ、と女の子らしくない声を出す。
私はフェアリーにいい思い出がないのだ。
フェアリーは森の中に住んでいる、特に珍しくもない魔物。魔物って言っても別に襲ってくるわけじゃないし、害はない。こっちが向かって行かない限り、気にもされない。
そのはずなのに、私は何故か、家の周りの森に住んでいたフェアリーの目の敵にされていたのだ。
うっかり出遭ってしまう度にキンキンする声で騒ぎ立てられ、追い掛け回される。
私には理由が分からなくて、出遭ってしまったら逃げ出すか、こっそり気づかれないようにやり過ごすしかなかった。
でも、憎めないのだ。可愛くて。
大きさは手のひらくらいしかないのに、人間と変わらない見た目でそれぞれに顔も違うし、髪の色も違って個性がある。花びらを綴って作った薄い服を着て、共通するのは透き通った白い羽と真っ赤な夕日のような瞳の色。
その見た目に魅了された私は、なんとかお友達になりたくて近づく努力をしてみたけど、駄目だった。
追い掛け回されながらもイブに吹き飛ばしてもらわなかったのは、ひとえに可愛いからだ。
今だって、できるならお友達になりたいと思っている。
もしかしてこの森のフェアリーは違うかも……。
フワフワとこっちに近づいてくる彼女たちを見て少し期待する。
6,7匹のフェアリーたちは私たちを観察するように木の周りを飛び回った。まるで相談しているかのように顔を寄せ合って小声でキィキィ話し合っている。
「可愛い……」
今までゆっくり近くで眺めさせてもらえなかった私はもう うっとりだった。
アイリスが笑った。
「ねえ、知ってる?フェアリーって森に入った男を惑わす魔物なんだって」
「そうなの?」
無害だと思っていた私は驚きに声を上げる。
「今だってきっとロレンスかジェラルドを狙ってるのよ。……あ、ほら来た」
見るとフェアリーは二手に分かれてロレンスとジェラルドの周りを飛び回りだした。キイキイと小さな声を出しながら近くを飛ぶ様子は、確かに二人の気を引こうとしているように見える。肩に止まって髪を軽く引っ張ったりしてる子もいる。
ロレンスはこらこら、と言いながらも仕方なさそうな表情で相手をしているけれど、ジェラルドはかなりうっとおしそう。髪を引っ張られても無視だった。
「すごいわね。積極的で」
アイリスは笑いを堪えきれない様子だった。
「あんなに小さくて可愛いのに……」
なんだか、意外。
惑わしてどうするつもりなんだろう。ジェラルドなんて絶対惑わされそうにないけど……。
私も内心笑っていると、フェアリーたちが一斉にこっちを向いた。
……え、なに?
「サーシャ、言ったわね……」
アイリスが呆れたような顔で私を見た。
「何を?」
「フェアリーに小さいは禁句よ。知らないの?」
「うそ……」
そんなの知らなかった。
そう言えば、子供の頃にも言ったことあるような……。フェアリーたちに嫌われていた理由がやっと判明した。
アイリスが「私じゃないわよ」と飛んでくるフェアリーに向かって声をかける。
そう、彼女たちは私に向かって飛んできていた。
怒ったように耳障りな甲高い声を上げて。さっきの囁くような鳴き声とは全然違う。
……冗談でしょ……?
顔が強張った。これでは丸っきり今までと同じ状況じゃない。
飛んできた彼女たちに耳元でうるさく騒ぎ立てられた私は耐え切れずに立ち上がった。
「い、痛っ!いたたたっ!」
怒ったフェアリーは容赦がなかった。
顔を突かれ、髪を引っ張られた私は情けない声を上げて逃げ出した。走っても飛んでいるフェアリーは結構早い。
「もう、ごめんなさいってば!もう言わないから、か、顔はダメ!」
謝りながら、悲鳴を上げて逃げ回る。木々の間をジグザグに走った。
ここの森のフェアリーの方がしつこいかも……。
でもしばらく走っていて気づいた。ここは初めての森なのだ。みんなから逸れたら大変だ。
走りながら後ろを振り返ると、みんなの姿は木々に邪魔されて見えなくなっていた。
戻らなくっちゃ……。
「きゃ……っ!」
体の向きを変えようとした時、足元を見ていなかった私は木の根に引っかかって転んでしまった。
……もう、やだ。どうして……。
チャンス到来とばかりにフェアリーたちは私を一斉に取り囲んだ。耳元でキイキイ騒ぎながらしつこく髪や服を引っ張ってくる。
「もう、ダメだってば。やめてよ……」
私は座り込んだまま半分泣きそうな状態で抵抗していた。片手を振って顔の周りのフェアリーを追い払い、空いている手で引っ張られている髪を押さえる。何匹かのフェアリーと髪を引っ張り合うような格好になった。
「お前達、いい加減にしろ……!」
森に低い声が響いた。
格闘を続ける私の側に、いつの間にかジェラルドが立っていた。
怒鳴ってはいないけれど迫力のある声。
自分の事で精一杯だった私はジェラルドが近くに来ていた事に全く気づかなかった。それはフェアリーたちも同じだったらしい。
引っ張り合いをしていた私たちはそのままの格好で同時に凍りついた。
見上げた彼の表情はいつもと変わらない。でも、今はそれが逆に怖かった。
するとジェラルドは空中で動きを止めた一匹の首の後ろをつまんで近くの繁みに放り投げた。
……あっ!
「お前たちもだ、向こうへ行け」
それを見た他のフェアリーたちは驚き、非難するように一斉に騒ぎ立てる。耳に響くキンキンした声を上げて、慌てて私の側を離れていった。
「…………」
遠ざかっていくキイキイという鳴き声を聞きながら、私とジェラルドの間には妙な静けさが漂っていた。
私は地面に座り込んだまま、立っているジェラルドを見上げる事ができなかった。
……恥ずかしい……。
きっと、転んだことも知られているし、泣きそうになっていたのもばれている。
その事に気づいたのだ。
彼にはこんな姿を見せてばっかり……。
俯いている私の側にジェラルドも片膝をついてしゃがんだのが分かった。でも、そのまま何も言わない。不安に思ってそっと見上げると綺麗なブルーの瞳がすぐ近くにあった。
眼が合うとジェラルドはどことなく困ったような表情で首を傾げた。
「……大丈夫か?」
その静かで遠慮がちな言い方を聞いて、かっと顔が熱くなる。
きっと、私の情けない姿を見て呆れてる……。
すごく惨めな気分だった。赤くなった顔を隠すために下を向いて、きゅっと唇を噛み締めた。
そしてそのまま何も言わないでいると、頭に何かが触れた。
なに……?
その感触に驚いて顔を上げると、大きな手が引っ張り合いで縺れた髪を解くようにそっと髪をなでていた。
目を丸くしてぽかんとジェラルドの顔を見る。
するとしばらくして私の視線に気づいた彼は私をちらと見ると、すぐに顔を逸らし「髪が」とだけを呟くように言った。
そんなにくしゃくしゃになってるの……?
眼を合わせてくれない彼を不思議に思いながら、私は手ぐしで髪を整え、軽く一つに結びなおした。
ジェラルドは先に立ち上がると、何事もなかったかのように、まだ座り込んだままの私に手を差し出した。
「行くぞ」
「ありがとう」
その手に掴まって立ち上がる。大きくて硬い、でも温かい手。
二人の所へ戻る道。先に立って歩くジェラルドの後姿を見ながら頭に手をやった。
……どうしてなでてくれたの?
髪はそれほどくしゃくしゃにはなっていなかったのに……。
その日一日中、私は頭に残ったジェラルドの手の感触が気になって仕方がなかった。