第二章 病:アイリス
体が楽になったと感じたのは熱が出てから二日後の夜だった。
おでこに何かが触れる感覚がして目を開くと、私を見下ろすサーシャの優しい笑顔があった。
「良かった。熱が下がってきたみたい。まだ食欲はない?」
なんだか、サーシャには迷惑をかけっ放しだ。私のために薬や食べやすいスープなどを作ってくれているのだ。でも、食欲がないせいであまり食べられなかった。
「ごめんね。ずっと迷惑かけて」
「ううん、そんな事ないわ」
静かに笑いながら言うサーシャはいつもより大人びて見える。
女の私から見ても憧れてしまうくらい綺麗だった。こんな子に看病されたら男は絶対惚れると思う。どうでもいい事を考える余裕のある自分がちょっと回復してきたことを実感した。
「ずっと、おばあちゃんにも言われてたのよ。ちょっと熱を出すくらいの方が女の子らしくっていいって。私なんて、何をしても体を壊さないのよ。元気なのだけが取り柄なんだから」
秘密を打ち明けるような表情で言う。その苦々しい言い方と見た目は全然そんなふうに見えないのがなんだかおかしい。
私は思わず笑ってしまっていた。
「夕飯、食べられそうね?さっきも見に来たんだけどよく寝てるみたいだったから。私たちは先に食べたわ」
「ええ。もう熱が下がったみたいだし、そっちに行って食べるわ」
元気になってきたし、男二人にも顔を見せておいた方がいいだろうと思ったのだ。
「でも無理しないで?」
「大丈夫よ」
心配そうなサーシャに笑いかけて、ベッドから出た。黒いショールを羽織る。
「着替えないの?」
「病人だし、別にいいわよ」
部屋着だけど。まあ、あの二人だし今更よね、と適当に思う自分に苦笑いだ。
「そう……」
サーシャは少し複雑そうな顔をした。
「どうかしたの?」
「ううん、何でもないわ」
夕食を軽く食べた後、私は手持ち無沙汰でソファーに座っていた。
サーシャは後片付けをしている。後片付けを手伝おうかと聞いたら、絶対にダメ!とすごい勢いで拒絶されてしまったからだ。
彼女はいつの間にか全員の食事の用意を任されるようになっていた。多分私が寝込んでいたので外に食べに行くことができないせい。本当に申し訳なく思った。
初めて食べる料理だったけど、おいしかった。ここにいる間に私も料理を教えてもらわないと……。
ロレンスは今、外出していて部屋にはいない。
向かいにはジェラルドが座っていた。彼はさっきから静かに手元の本に目を落としている。両足を前の低いテーブルに上げて。
これはどうも彼の癖らしい。初めて見た時、サーシャがそれをやたらと気にしていたのを思い出した。どうして足がテーブルに載ってるの?お行儀が悪いと思うの、と気に入らない様子だった。ジェラルドがまだやっているのを見ると、言えないままなんだろうなと可笑しくなった。
二人の空気は前と比べると明らかに変わっていた。サーシャはジェラルドに対して笑いかけるようになったのだ。そして、あの無邪気な笑顔を向けられるとジェラルドが少し困ったような表情になることにも私は気づいていた。
この無愛想な男がサーシャに落ちるのも時間の問題ね……。
ジェラルドを前にしてこんな事を考えてる私ってすごいかも、と思う。旅の準備で家に戻った時に兄に聞いたところ、軍の男たちの中でも彼は恐れられているらしい。
でも、そんな男がサーシャには振り回されっ放しなのだ。なんだか微笑ましいとさえ思ってしまう。私も大概、怖いもの知らずだ。
「さっきからなんだ。俺の顔はそんなにおもしろいか?」
気づけばジェラルドはこちらを向いていた。
答え辛いのでとりあえず、意味深ににんまり笑って見せる。案の定、ジェラルドは嫌そうな顔をした。
「その様子だともうすっかり元通りだな」
「ええ、もう大丈夫。ご心配をおかけしました」
笑いながら言うと、彼は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
しばらくすると、ロレンスが帰ってきた。
その時にはもう私はすっかり元気になってサーシャと談笑していた。ちゃんとご飯を食べたのが良かったみたい。そんな私を見たロレンスはなんだか拍子抜けしたみたいだった。
「食欲がないかと思って、君の好きなクッキー買ってきたんだけど、必要なかったな」
そう言って背中の袋から紙の包みを取り出した。
クッキー……?
私はロレンスとそんな話をした覚えがない。
「クッキーってなに?」
「クロスグリのクッキー。好きだろう?」
好きだけど……、どうして知ってるの?
けれどその理由はすぐに思い至った。
「ルイス兄様から聞いたのね?」
「あぁ」
ごく普通の表情で答えたロレンスを見てやっぱり、と思う。あまり歓迎できる気分ではなかった。
……あの、おしゃべり。ロレンスに私の何を話したのよ。
「ちょっと、二人でどんな話をしてたのよ?」
ロレンスはくっと面白そうに笑った。
「それは秘密だな」
なんだか頭痛がぶり返すような気がした。ロレンスの様子だと他にも何かを聞いているみたいだ。本当に勘弁してほしい。
「あと、お見舞いのはずだったんだが、快気祝いに」
そう言いながら近づいてきたロレンスは私の膝の上に小さな花束を置いた。
「……ありがとう」
これには素直にお礼を言う。
「どういたしまして」
淡いピンクのゼラニウムの可愛い花束。柄にもなく女の子らしい気持ちになった私はそれを手にとって思わず微笑んだ。
「わぁ……!良かったわね、アイリス!綺麗なお花」
隣のサーシャがにこにこして声を上げた。私よりもサーシャのほうが嬉しそうかも。
ロレンスは本当にこういうことをしても嫌味がないというか、様になる。昔からそうだった。この優しい眼差しと笑顔で親切にされると悪い気はしない。女の子なら誰だってそうに決まっている。
でも、勘違いしてはいけないのだ。彼は誰にでも平等に優しいから。
それでも……。
「クッキー、食べようかな」
もう遅いけど、今日は特別よね。
それを聞いたロレンスは爽やかな笑みを浮かべた。