第二章 恐怖2:ジェラルド
二人が娘の様子を見て安堵した姿を見て、俺は予定通り宿を出ることにした。
「行って来る」
ロレンスに告げたつもりだったのが、それを聞いた娘が驚いたように振り返った。
「どこに行くの?」
縋るような目を向けられて密かに驚く。その声も不安に満ちていた。
今から情報を集めに行くつもりだった。こういう事は夜の方が都合がいい。暗いとあまり顔も覚えられないし、相手をすることになる情報屋は主に夜活動する奴らがほとんどだからだ。
「外を見てくるだけだ。先に寝てろ」
「でも、危ないんじゃ……」
それを聞いて思わず、ふっと笑ってしまった。ロレンスも微かに笑っている。
どうやら俺の身を案じてくれているらしい。さっきの事で不安になっているのだろう。だが、この娘に心配されるようでは俺も終わりだ。
笑った俺たちを見て彼女はショックを受けたような顔をした。
「サーシャ、君は心配しなくていい」
納得していないのか、娘はロレンスの言葉に反応しなかった。何を考えているのかは分からなかった。彼女は俺をじっと見つめたまま動かない。大きな紫の瞳は俺が見つめ返しても揺るがなかった。
時々、この娘はこんな眼をする。まるで彼女にしか見えない何かを見ているような、真っ直ぐで不思議な眼差し。
「心配するな。すぐに戻ってくる」
それを聞くと娘は諦めたように静かに目を伏せた。
何か言いたいことでもあったのだろうか。気になりながらも、俺はロレンスに後を頼むと目配せを送り、部屋を出た。
「おかえり」
朝方、寝室に入ると寝ていたらしいロレンスが起き上がった。
「あいつらは?」
「あの後すぐに休んだ。サーシャはしばらく心配そうだったが」
娘が何を心配していたのかは分からない俺は答えようがなかった。ロレンスは彼女に何があったかなどという野暮な事は聞かなかった。鋭い男だ、言わなくとも気づいているのかもしれないが。
「古本屋を回ってきた。アラベールの書物があれば何か分かるかもしれないかと思ったんだが、明らかに薬学と医学書と分かるものしかなかった」
アラベール文字が読めない俺は挿絵から判断するしかなかったが、間違いようもなかった。
「元々あまり数もないしな。それに複写も難しい。高価だろう?」
「ああ。結構な値がついていた」
この複雑な文字はまだ全体の体系すらはっきりしていない。複写するには一字一句手で書き写すしかなく、途方もない労力がかかるためほとんど行なわれていなかった。そのため、現存する本はそのほとんどが原本であり、本来なら王立図書館にあるべき貴重なものだった。それがこの町では闇で取引されるのだ。
だが、この町を見ただけですぐに何かが見つかるとは思っていなかった。俺たちが軽く探し回っただけで何かが見つかるのならば、グーテンベルク一族が謎に包まれているはずがない。
「今日は南の方を回ってきた。明日は北の方を頼めるか。北には二軒しかないそうだが距離が離れていてな。今日中には回れそうになかった」
俺たちはあまり嗅ぎ回っているのが知られないように一日おきに行動する事にしていた。
「ああ、分かった。もし、内容が分からない本があればどうする?」
「すべてを買うわけにはいかないだろう。娘に確認してもらうしかない」
これは危険かもしれないが、仕方がなかった。それに、闇市の者は自分の身を守るためなら口を閉ざす。脅せばどうとでもなるだろう。
ロレンスも納得するほかはないようだった。
朝、リビングにはもう娘の姿があった。
「おはよう」
はにかみながら声をかけてくる彼女を見て安堵する。その様子はいつもと変わらない。
二人で話をしたあの朝から、娘は俺にも笑いかけてくるようになっていた。彼女の中で何があったのかは知らないがその変化は好ましかった。だが、同時に少し困っている自分もいる。娘の純粋な笑顔は俺には眩しすぎて直視できないのだ。
「アイリスに熱があるみたいなの」
「ひどいのか?」
「今までの疲れが出たみたい。今はまだそんなに高くないわ」
「薬が作れるんだったな。今用意があるか?」
女二人の会話を思い出す。この娘の知識にはアイリスも驚いていた。
すると、彼女は微笑んだ。
「うん。色々持ってきてるから大丈夫。今作ろうとしてたのよ」
それに頷いてみせると、娘は沸かしていた湯に向き直りごそごそと何かを始めた。
俺は黙ってそれを見つめていた。その後ろ姿に惹かれている自分を意識していた。
小娘相手に何を考えている?
ほんの子供だと言っていたのは誰だ?
旅を始めてからの俺はおかしかった。何故か必要以上にこの娘の様子が気にかかる。気にしても彼女が何を考えているかなど分からないと知っているのに。
しかも今、彼女は部屋着を着て目の前に立っていた。俺が城で渡した部屋着を。
この部屋着は本来、夜寝る時にだけ身に着けるものだった。年頃の娘がその姿をむやみに男に見せるものではない。
初めの頃、普段とあまり変わらない格好で寝ている娘を見て、いくつか用意させた物を渡したのだ。純粋な好意からだった。娘はそれほど服を持ってきてはいなかったのだ。
しかし、部屋着と言ったのがまずかったのか彼女はそれを昼間も着ている。初めは本人が気にしなければそれでいいと思っていた。忙しかったせいで彼女と顔を合わせる時間がほとんどなかったから、あまり気にも留めなかったのだ。
それを今、後悔していた。
夜着と言うべきだったのだ。その普通の服よりも広く開いた胸元が気になってしまう。
俺は無邪気な娘に対してやましい気持ちを抱いた自分を諫めた。
だが今更どう言えばいい?
目のやり場に困るから着替えろと?
そんな事が言えるか……。
俺は密かにため息をついた。
しばらくして起きてきたロレンスは、案の定、それについて触れてきた。
「サーシャ、着替えないのか?」
「どうして?」
「どうしてって、それは部屋着だろう?」
「部屋着ってお部屋で着るんじゃないの?」
何がおかしいのか分からないといった様子で首を傾げて聞く。
俺はそのあまりに無邪気な様子に軽い恐怖すら覚えた。
「…………」
ロレンスは彼女を見てから俺に目を移す。鋭い男は何かを察したらしい。俺と目が合った一瞬だけ真顔になった。
それから娘に視線を戻し、困ったような顔を作る。
「部屋着は寝る時に着るものなんだ。それで寝室から出たりするのはちょっと……。私たちも男だし、少し困るというか……」
それを聞くと娘は表情をなくした。みるみるうちに耳まで赤くなる。
その赤い顔のまま勢いよく振り返り、潤んだ瞳で俺を見た。
「おかしいと思ってたっ!?」
その見たことのない勢いに俺は圧倒されていた。そして正直に答える。
「……少し」
「どうして今まで言ってくれなかったの!?」
「別に部屋からは出ないと知っていたし、誰とも会わないからかまわないかと思っていた」
「…………」
それを聞いた娘は表情を変えないまま黙って踵を返し、寝室に戻って行った。無表情なのが恐ろしい。
俺はその姿を呆然と見送った。
「ジェラルド、間違いなく嫌われたな」
いつの間にかソファーに座っていたロレンスが俺を見て言い放った。
やはり今のはまずかったのか。確かに、あの勢いは見たことがないな……。
反論できない俺は閉められた扉を眺めて黙って考え込んだ。
「さあ、どうする?君に残された道は二つに一つだ。今までの彼女に対する仕打ちを私に告白するか、今後は彼女に対する態度を改めるか」
ロレンスはソファーの肘に頬杖をついた余裕の表情で続けた。この男が今の状況を楽しんでいるのは明らかだった。
不愉快に思いながら、男の向かいに腰かけて言い返した。
「仕打ちとはえらい言いようだな。別に普通に接してきたつもりだ」
「そのつもりがどうなった?彼女は絶対、怒ったぞ」
「あれをどうやって言えば良かったんだ。今まで本人は気にしてなかったんだぞ」
自分でも分かっている。見苦しい言い訳に過ぎなかった。
「そういう問題じゃないだろう?」
ロレンスは呆れたような表情で言う。しかし、次の瞬間何を思ったか、にやっと笑った。
「……やっぱり止めだ。まあ、君もたまには悩んでみるのもいいんじゃないか。……頑張れよ、彼女に嫌われたくなければな」
その発言に耳を疑う。こいつはこんなに性格が悪かっただろうか。俺は呆れて首を振りながら言い返した。
「お前がそんな性格だとは知らなかったな」
「あぁ、私も楽しんでいる自分に驚いている」
答えたロレンスはまた静かに笑い出した。にやにやしながら、面白くなりそうだ、と独り言のように呟いた。