第二章 不安
ざわざわと森が音を立てる。
私は眠ろうと閉じていた目を静かに開けた。
真っ暗な森の中、燃え続ける焚火の火だけがやけに赤々と周りを照らしている。
皆は眠っているようだった。ゆっくりと体を起こして辺りを見回す。
アイリスはローブに包まって横になって眠っている。ロレンスとジェラルドもそれぞれ近くの木に背を預け、座った姿勢のまま眠っているようだ。
初めての野宿は眠れそうになかった。さっき初めて知った事実のせいで。
横に置いてある袋に手を伸ばし、音を立てないように気をつけながら本を取り出した。濃いオレンジ色の光が揺らめきながらその表紙を映し出す。
『森の毒草・薬草とその効用』
そっと表題を指でなぞる。もう、すべてを覚えてしまうほど何度も読んだ本だ。
使い込まれた本の角は少し丸く、全体的に古びた見た目になってしまっている。でも、凹凸のある厚い表紙はツタが絡まったような複雑な模様で手の込んだ作りだった。高価なものだったはずだ。
……おかあさんが私のために置いて行ったの?
この本が特別なものだなんて考えたこともなかった。
今までこの本のおかげで薬草を売って生活して来られたのだ。側にあるのが当然すぎて何の疑問も抱かなかった。
誰にも読めない本。どうして私には読めるんだろう。
私には二つの文字の違いが分からない。この本も、現在使われているコナール文字で書かれているんだと思っていた。
もし、コナール文字を学ぶ前であれば、その違いが分かったの?
でも今になってはもう、それを知る事はできない。
また一つ、疑問が増えた。
答えを求めて旅に出たはずなのに分からない事が増えるなんて。心の中で苦笑いをしてふっと息を漏らす。
いずれすべて分かるのだろうか。旅はまだ始まったばかりだし……。
大丈夫。朝になれば明るい気持ちになれるわ。そう、暗いところで考え事をすると深刻になってしまうだけ。
私は無理やり自分に言い聞かせた。考えても答えは出ないのだ。
今は、じわじわと沸いてきそうになる不安に気づかない振りをするしかなかった。
翌日は素晴らしく晴れた一日だった。
昼間はとりとめのない話をしながら歩いた。昨日の出来事なんてなかったかのように、いつもと何も変わらなかった。
私は今日こそ自分に魔法が使えるのかどうか知りたいと思っていた。
今日も野宿だ。明日の昼には町に着けるらしいけど。
「ああー、疲れたぁー!」
夕食を取ろうと焚火の前に座ったとき、アイリスが突然声を上げた。
本当に疲れているのがよく伝わってくるその響きに、思わずロレンスと顔を見合わせて笑ってしまう。
「アイリス、レディーがその声を出すのはちょっとどうかと思うよ」
「何よ、こんな所でお父様みたいなこと言わないでよ」
そのやり取りもなんだか可笑しい。
今日は本当に暑かった。それに一日中歩き通しだった。昨日もそうだったけど、まだ一日目だったからそれほど疲れたとは思わなかった。それに昨晩は野宿だったのだ。体の疲れは溜まっているはず。
「この調子だと明日はもっと大変ね」
「サーシャはなんでそんなに元気なのよ?」
「アイリスよりは慣れてるもの」
肩をすくめて答える。私は森で暮らしていたのだ。今まであまり森に入った事がないアイリスよりはずっと慣れているに決まっている。
「それで魔法を使う事になったら大変なんじゃないのか?」
ロレンスの言葉にアイリスは笑いながら返した。
「人の治療する前に、私が死んじゃうわ」
魔法を使うとその分だけ自分の力が削られてしまうらしい。大きな魔法を使えばそれだけ多くの体力を使う。だから自分自身にそれなりの体力がないと魔法を使う事はできないのだ。これは精霊の力と違うところだった。
「だからごめんね。私今日はサーシャに魔法を教えてあげられないわ」
「えっ、そんな。楽しみにしてたのに……」
続いて放たれたアイリスの言葉にがっかりした。今日一日中ずっと楽しみにしてたのに。
でも、無理は言えないのは分かっている。今日は仕方がない。
「ジェラルドに教えてもらえばいいんじゃないのか」
ふと思いついたように言ったロレンスの言葉に私は固まった。
……え、でもそれは……。
焚火を挟んで反対側に座るジェラルドをちらりと見る。
「…………!」
その時ちょうど同時に私に眼をやった彼と思いがけず視線がぶつかった。ちらりと見てすぐに眼を離すつもりだったのに、なぜか囚われたまま視線を外せなくなってしまい、私は心の中で一気に焦った。
しばらくして、ふっとまるで興味がないかのように視線を外したのはジェラルドだった。
彼はそのまま一言も言わない。
泣きたいような気持ちで顔の向きを変えてロレンスに眼で訴える。
『嫌だって……』
ロレンスは私の視線を受けて困惑したような複雑な表情を浮かべた。彼はジェラルドに眼をやって口を開きかけたまま、どう言うべきか迷っているようだった。
「とにかく、食事にしない?お腹空いたわ」
助け舟を出してくれたのはアイリスだった。