私のご主人さまは頭がおかしい
これは異世界転移で男に変わってしまった女性「ティエス」と、男になった女性に恋をした女の子「ヌイ」の話です。
TS(女→男)、精神的GL要素が入りますので以上が苦手な方は今すぐ引き返すことをおすすめします。
ヌイ視点で進みます。ティエスは転移者ですが、ヌイは現地人です。
私のご主人さまは頭がおかしい。
ドラゴンも楽に倒せるS級冒険者であるくせに、調理場に出る黒い虫は殺せずに叫んで逃げる。
この世界では珍しいサラサラとした黒髪と艶めく黒目を持つがっしりとした体躯の美丈夫であるくせに、私と二人きりになると女言葉で話してくる。
おまけにお人形遊びが好きであるようで、奴隷の私を着飾ってはきゃあきゃあと低い声を精一杯黄色くして喜んでいる。
そう、私のご主人さまはおかしいのだ。
奴隷契約をしてすぐに「私、実は異世界人で男に転生しちゃった女なの」とのたまうくらいには。
私はそれを聞いて、彼に命を救われたからと奴隷志願したことを少しだけ後悔したのだった。
朝、私が目覚めるとほぼ同時にご主人さまは目を覚まされる。
S級冒険者なのでもちろん気配には敏感なのだろうけれど、それでも仕える奴隷の私としては一緒に起きずに惰眠を貪っていて欲しいものだ。
「おはようございます」
私がどれだけ早起きしてもご主人さまは必ず一緒に起きて料理を作られるので、最近は諦めてご主人さまが目を覚まされる頃合いを見計らって起きるようになった。
「おはよう、ヌイちゃん」
寝起きのご主人さまは他人には見せられない。
起き立ての瞳は潤み、うっすらと笑みを作った顔は普段のきりりとした表情からは想像出来ない柔らかさだ。そんなご主人さまに低く掠れた甘い声で名前を呼ばれ、狼人族の特徴である私の犬耳や髪を撫でくり回される。
思わず腰砕けになって甘い声を出しそうになるが、寸での所で耐える私を誰か誉めて欲しい。
「あー、やっぱりヌイちゃんの手触り最高だわ」
「馬鹿なこと言ってないで、早く食事を作りましょうよ」
「ヌイちゃんが朝から冷たい。おねーさんショック」
「お姉さんと言われても……胸板見えてますよ」
「えぇっ、あ、ホント。ごめんなさいね」
そそくさと背中を向けて着替えるご主人さまから私は背を向けずに着替える。
別に私は裸を見られても気にしない。むしろご主人さまが私の裸を見て興奮してくださるというなら、うぇるかむ(ご主人さまに習った)だ。抱かれる準備はいつでも出来ている。
だが「自称」元女性であるご主人さまは私に手はおろか指一本出す気はないらしい。
仕えて初日に夜伽をと、命を助けて頂いた恩返しに全裸で迫ったらマジ泣きされたことは三年経った今でも昨日のことのように思い起こされる。あの時に「実は異世界人で元女」と与太話をされたのだが、まさか三年経ってもその設定を引きずるとは思わなかった。
「……ヌイちゃん」
「はい」
「あんまり見ないで。着替え辛いから」
「綺麗な背中だと思いまして」
「反省の色なしね」
背中を向けたまま大きくため息を吐くご主人さま。
むぅ、誉めたのにその反応はいかがなものか。
お互い着替え終わったら、料理の前にご主人さまのお楽しみたいむとなる。私の髪を整えることだ。
S級冒険者だからこそ買える最高級の櫛で髪を梳かれ、ご主人さまの手によって日々多種多様に変えられる髪型は貴族さまの間で流行となっている。
「今日は編み込みにしましょうか」
「ご主人さまのお好きなように」
「もう、張り合いないわね」
そう言われても。私は奴隷の身の上だからご主人さまに意見など言えるはずもないし、そもそもご主人さまの作る髪型はどれも素敵だから選べないのだ。
「はい、出来た」
「ありがとうございます」
今日も綺麗にまとめてくださったのを鏡で確認し、私はお礼を言う。ご主人さまは微笑ましそうに切れ長の目を細める。その視線は私の腰辺り、揺れているだろう尻尾に注がれていた。
「さて、ヌイちゃん。今朝は何か食べたいものはある?」
広い調理場に立ち、エプロンを着けながらご主人さまは聞いてくる。だから朝食の内容を奴隷に決めさせるのはいかがなものか。
それにしても、ご主人さまの藍色のエプロンを着けた姿は毎日見ているが素敵なものだ。
「ご主人さまのお好きなもので」
「えー、たまにはヌイちゃんのリクエストを受けたいのよ」
「……では、ふれんちとーすとが食べたいです」
「了解」
少し悲しそうな顔をさせてしまったので、仕方なく食べたいものを言う。ふれんちとーすと。あれは甘くていいものだ。
料理を一緒に作るとは言ったが、主体となって動くのは専らご主人さまの方だ。異世界人と言う設定だけはあってご主人さまの作る料理は私の知らないものが多く、また私が作るよりも美味しいのだから仕方がない。本人も料理が趣味だと言っていて、必要以上に仕事を奪うと悲しい顔をされてしまうので私も手出しは手伝い程度に留めている。
……掃除と洗濯だけはやりたがってもやらせはしない。これ以上、奴隷の仕事をなくされてはたまったものではないからだ。
「じょーずに、やけましたー」
「何の歌ですか、それは」
ご主人さまは自作なのか私の知らない曲を歌いながらパンを焼いていく。ご主人さまの趣味で広く作られた調理場に甘い香りが広がる。
「さ、食べましょうか」
出来上がったのは同じ料理が二つ。ご主人さまは奴隷の私にも自分と同じものを食べさせる。ご主人さまの奴隷に成り立ての頃は以前との勝手の違いに戸惑ったものだ。
今では同じ席での食事も平然と出来るようになってしまったのだから、人とは慣れる生き物なのだと思う。
「はい、頂きます」
「いただきます」
私はご主人さまに習った不思議な挨拶を口にしてから、蜂蜜のたっぷりかかった金色のふわふわしたパンを口に入れる。
甘く柔らかいそれは、今の私の生活を現しているかのようだ。
「おいしい?」
「はい」
「良かった」
私と二人きりの時のご主人さまはよく笑う。普段のきりっとした所が一つもないそれは私に気を許している証拠だ。
「ご主人さま、今日のご予定を聞きたいのですが」
「あー、そうねぇ。今日は休みに……」
「ご主人さま」
休みにしよう。と全て言い終える前に私は言葉を被せた。ご主人さまの肩がびくりと震える。
鏡を見ていないから分からないが、今の自分の顔はとても恐ろしいものになっているのだろう。
「気を遣って頂かなくても大丈夫です」
「で、でも……」
「大丈夫、です」
「……はぃ……」
今現在、私は月のもの二日目だ。目敏いご主人さまのことだ。それに気付かれて提案してくれたのだろう。
嬉しくは思うが、奴隷に気遣いは無用。少し強めに言葉を発するとご主人さまは渋々引き下がってくれた。奴隷が意見するのはおかしいとは思うが、これもご主人さま教育の一環なのだ。
「じゃあ、王都のギルドで何か簡単な依頼にしましょ? ね、それならいい?」
ご主人さまは眉をくっと寄せて、これ以上は譲らないと表情で訴えてくる。言葉遣いは置いておいてその表情はとてもよく似合っている。私もついつい絆されてしまい、その譲歩案で頷いてしまう。
「分かりました。そう致しましょう」
「うん」
ご主人さまがほっと胸を撫で下ろす。ご主人さまは奴隷に気遣いすぎだ。いちいちこうやって私の顔色を伺うところも。本当にこことは違う常識の世界からやってきたかのようだ。
一瞬浮かんだ考えをすぐに消す。まさか違う世界などあるわけがない。
私もご主人さまの妄想に染まってはいけない。私は片付けをしながら、思った。
「おお、万能のティエスじゃないか。久しぶりだな」
「やぁ、ゴルドー」
冒険者ギルドに入るとざわめきと共にギルド長に迎えられた。ご主人さまが爽やかに挨拶を返すだけで、女性達から感嘆のため息が漏れる。
ちなみに万能とはご主人さまの二つ名だ。剣も魔法も不得手なく扱えることからついたそうだ。ご主人さまは少し恥ずかしいらしく二人きりの時に「万能のティエスさま」と呼ぶと顔を手で覆って悶えるのが可愛らしかったりする。
「今日はどんな依頼を探しにきたんだ?」
「ヌイの体調が少し悪くてね、採取系でいいのはないかい?」
ギルド長にちらりと見られ、少し気まずい気分になる。私が俯くと、何を勘違いしたのかギルド長はご主人さまの肩を少し強めに叩いた。
「っ、何だよゴルドー」
「いやぁな、奴隷とはいえあんまり無理はさせんなよ? お前の体力は底なしなんだからよぉ」
ギルド長はにやついた笑みを浮かべ、ご主人さまを肘で小突く。ご主人さまは曖昧に笑った。
「ゴルドー、野暮なことは言うなよ」
「そりゃ、すまんかった」
ご主人さまはこの手の話題に否定も肯定もしない。そのせいで周囲はご主人さまのことを少女趣味の変態だと思っている。
ご主人さまは女避けになっていいと笑っていたが……私はまだ成長期だ。もう少しすれば胸だって大きくなってご主人さまの不名誉な噂もなくなる、はず。
そして成長した私は名実共にご主人さまと結ばれるのだ。元女だとか頭のおかしいことを言っているご主人さまだって、成長した私を見ればきっと……。
「っ?」
「どうした、ティエス」
「何だか寒気が……いや、俺の気のせいみたいだ」
おっと、いけない。つい思考がそれてしまった。
ちなみにご主人さまは私と二人きりの時以外は男言葉を使う。女言葉を使うのはおかしいということくらいは分かっているようだ。
「そういえば採取なら頼みたいものがあるんだ。場所が少々面倒でな。だが、お前なら転移魔法があるからさほど難しくないはずだ」
「場所は? ……ああ、ここなら大丈夫だ。すぐ行ける」
依頼書を受け取り目を通してからご主人さまは頷き、依頼を受ける。
ちらりと見えた内容は確かにご主人さまにとっては何のことはないものだった。
「他にはないか? ないなら俺達はもう行くが」
「ああ、あとは……」
ギルド長が言い終える前に、大きな音をさせてギルドの扉が開かれた。振り返ったご主人さまが「げ……」と短く声を出す。
「ティエス様! やっとお会い出来ましたわ!」
「プリエラ様……どうも」
豪華なドレスを着た美しい少女がギルドに入ってくるなりご主人さまへと駆け寄る。ご主人さまは彼女の名を呼び、歯切れ悪く言葉を返した。
プリエラと呼ばれた少女はキラキラとした目でご主人さまを見つめる。
彼女はこの王国の第三王女だ。かなりのお転婆で城を抜け出してはトラブルに巻き込まれ、ご主人さまに助けられること十数回。今ではすっかりご主人さまに骨抜きにされている。
まあ、ご主人さまほどの美丈夫に何度も救われれば、恋をしても仕方ないことだ。最近ではご主人さまに会う為に城を抜け出していると言っても過言ではないだろう。
余談だが、まだ成熟していないプリエラさまに迫られていることもご主人さまが少女趣味という噂に拍車をかけていた。
「プリエラ様がお前を探してたぞ……って、もう遅いか」
ギルド長の頬を掻きながらの言葉に、「もっと早く言ってくれ」と小さくご主人さまは呟いた。好意を隠そうともせず押せ押せでくるプリエラさまをご主人さまは苦手としているのだ。
「一月ですわよ! 一月もお会い出来なくてわたくし胸が張り裂けそうでしたわ!」
「それは申し訳ありませんでした」
ぷんぷんと湯気を立てそうな勢いでむくれるプリエラさまにご主人さまは苦笑いで謝る。私はそのやり取りを横目に、ばたばたとプリエラさまの従者達がギルドへ入ってくるのを見ていた。
護衛長は額に青筋を浮かべている。あちらもなかなか大変そうだ。
「姫様! いきなり駆け出さないでくださいと何度も言いましたよね!」
「あら、シーファ。ごめんなさいね、ティエス様に会いたい気持ちを押さえきれなくて」
しれっと答えるプリエラさまに、護衛の皆さんはこめかみを押さえてため息を吐く。本当に苦労されているようだ。
「それでティエス様。今日のご予定は?」
「これからアルド山脈へ採取に行くのですが……」
「まあ! それでしたらわたくしもご一緒致しますわ!」
「えっ」
聞き捨てならない会話に私は二人へ視線を向ける。プリエラさまは頬を薔薇色に染めて笑っていたが、対するご主人さまの頬は若干ひきつっていた。
「決めたわ! ねえ、シーファ。良いでしょう?」
強引な所は流石王族と言った所か。プリエラさまはご主人さまの可否を聞かずに護衛長へ了承を取ろうとする。
「プリエラ様? しかしアルド山脈は険しい場所で……」
ご主人さまが慌てて遠回しに断りの言葉を放つ。だが押しが強いお姫さまにやんわりしたそれが伝わるわけがない。
ああ、これはまずいぱたーんだ。
「うぅむ。そうですな……下手に市中を歩き回られるよりもS級冒険者の中でもトップと言われるティエス殿と一緒にいてくれる方が安心ですな」
「えっ」
護衛長が納得してしまった。まさか了承するとは思っていなかったご主人さまからは「万能のティエス」の仮面が剥げかけている。
ご主人さまはご自分の評判の凄さを分かっていないので、度々こういうことが起こるのだ。そろそろ自覚を促した方が良いだろうか。
「ティエス様。今日はよろしくお願いしますね?」
「……はぃ」
お人好しで押しに弱いご主人さまがにっこり笑った王族の方に勝てるわけはなく、プリエラさまの同行を許可してしまう。
私が見つめると気まずそうにご主人さまは目をそらした。
へたれ、と思わず心で呟いてしまった私は悪くないと思う。
ご主人さまの転移魔法で訪れたアルド山脈の中腹は岩が多く草木の少ない場所だ。歩き辛いそこをプリエラさまはご主人さまの手を借りて進む。その少し後ろを私と護衛長が歩いていく。
少し拓けた場所に着くと、ご主人さまは立ち止まった。
「では俺は薬草を採取してきますので、プリエラ様達はここで待っていて頂けますか? 結界はしっかりとかけますので」
「わかりましたわ」
目的の薬草は崖下にあり、ご主人さま一人で採りに行くと事前にギルドで言い含めてあったのでプリエラさまも特に食い下がることなく素直に言うことを聞いた。
「それじゃあ、シーファさん。二人のことを頼みます」
「うむ、任せておけ」
この世界でも五本の指に入る最高ランクの結界をかけ終えると、ご主人さまは護衛長に頭を下げてから私の頭を軽く撫でた。
「ヌイ、行ってくる」
「いってらっしゃいませ」
背を向けたご主人さまの姿が一瞬で消える。地面を見ればくっきりと足跡がついていた。全速力で駆け出したのだろう。
ご主人さまがいなくなると沈黙が場を支配した。奴隷身分の私はもちろん王族に話しかけるわけがない。護衛長も無駄口を叩かない人だから、プリエラさまが口を開けない限り声を出す人がいないわけだ。
「あの、ヌイと言ったかしら。聞きたいことがあるのだけど」
「何なりと」
少しためらったあと、プリエラさまが話しかけてくる。私はすぐさま答えた。護衛長は特に何も言わない。
「ずばり聞きたいのだけど、あなたとティエス様はどこまでいっているの?」
「……ご主人さまの個人的な部分ですから奴隷の私の口からは何とも……」
ド直球で来られて私は前言撤回することにした。ご主人さまが明言されないことを言ってはいけないのだ。
「じゃあ、それはいいわ。それならティエス様との普段の生活を教えなさい」
「……それくらいでしたら」
私は内心、プリエラさまがあっさり引き下がってくれて良かったと思いながらざっくりと今朝の出来事などを説明した。これくらいならギルドでも知っている人がいるので構わないだろう。
「……と言った感じの生活をしています」
「それは、何とも羨ましいわ」
私が説明を終えると、プリエラさまは眉間をぎゅっと寄せて言った。確かに私も奴隷にあるまじき暮らしの自覚は持っている。
「あなたはティエス様に大切にされているのね」
「はい。私にはもったいない待遇です」
眉間の皺を消し話すプリエラさまに私は頷く。私はご主人さまからたくさんのものをもらった。
だが、それに私は何一つ返せていない。私にはこの体しかないというのにご主人さまからは必要ないと言われてしまっているのだ。
「……本当にもったいないことです。私はご主人さまにこんなにもよくしてもらっているのに、何一つ返せていない。慕う気持ちだけが大きくなって……何もできないんです」
「ヌイ……」
気付けば私は涙を流していた。ふがいない自分が情けなくて、それでもご主人さまを好きな気持ちだけはあふれて治まらないどうしようもなさに怒りを覚え涙が止まらなかった。
プリエラさまは泣きじゃくる私に呆れたりせず心配そうに肩をなでて下さった。彼女は強引だけれど人はいい。
「すみま、せん」
「大丈夫よ」
私はご主人さまが帰って来るまでになんとかしようと、乱暴に自分の目元を擦るが、腕が濡れて滑るだけで何の効果もなかった。
大泣きしたあと、ご主人さまが帰って来るまでに何とか涙は止まってくれた。プリエラさまも目元の赤みを誤魔化すのを手伝って下さったお陰でご主人さまに泣いたことを気付かれずに済んだ。
私達は目的の薬草を手に入れるとすぐにアルド山脈を転移で去った。依頼を手早く済ませるとプリエラさまの買い物に付き合う。その時、いつものようにプリエラさまの命を狙う暗殺者の襲撃に遭った。いつもならうんざりする所だが、今日は助けてもらったこともあってプリエラさまも大変だなと思い同情してしまった。
プリエラさまを城へ送り届けてご主人さまと二人で住む屋敷へ帰り夕食をとる。もちろん、ご主人さまの手作りだ。いつも通り美味しかった。
私は一緒でも構わないのだけど、湯浴みは別々にする。ご主人さまはひどく綺麗好きで、私が拭くだけで済まそうとするとおふろに入りなさいと命じられるので、言われる前にさっさと入ってしまう。奴隷が一番に入るのはどうかと思うが、ご主人さまの湯浴みは非常に長いので先に入ってくれと言われている。
「……珍しいですね」
湯上がりの体を冷ましながら寝室へ行くとご主人さまがお酒を飲まれていた。毒耐性を持つご主人さまは酔われないので普段お酒を召し上がることはない。珍しい出来事に声を出すとご主人さまは私へ、へらりと笑ってみせた。
「貰い物があるの忘れてたのよ。もったいないから飲んじゃおうって思って。ヌイちゃんも飲む? あ、まだ未成年だからダメねぇ、やっぱり」
「む……私だってお酒くらい飲めますよ」
子供扱いされて私は言い返してしまう。自分でも眉間に皺が寄ったのが分かった。
私はずいっと近寄りご主人さまの手にあるカップを奪おうとする。しかし、それはあっさりと失敗に終わる。ご主人さまは私の両手を片手で簡単に掴んでしまう。
「だーめよ。お酒なんて飲むとこれ以上成長出来ないわよ」
「それは困ります」
胸が大きくならないのは困る。私が抵抗を止めるとご主人さまは手を離して下さった。ご主人さまの大きな手が私の頬を滑り髪に触れる。湿った髪を温かい手が撫で回し、最後に耳を軽く摘んで離れていった。
「ヌイちゃんはいいこね」
甘ったるい声と優しい手つきに、それだけで酔ってしまいそうで、頭の芯がじんと痺れるような気がする。
もっとその感覚を味わいたくて、私は無意識に離れる手をとってしまう。
求めるなんて、奴隷の私がしていいことではないというのに。
「ヌイちゃん?」
「……いいこなんかじゃ、ありません」
ご主人さまの目が少し大きく見開かれる。宝石のように澄んだ黒色の瞳に、ご主人さまの腕を離さずに胸へ押しつけ首まで赤くした私が映っている。これでは狼人族ではなく発情した犬のようだ。
「私は悪い奴隷です。ご主人さまの意にそぐわないことばかりする奴隷です。ご主人さまから誉められるようなことはしていません」
自分で言っていて恥ずかしくなってくる。だが事実、私はご主人さまに口答えしてばかりだし、ご主人さまが異世界人だと言うのを信じられずに頭のおかしい妄言だと思ってしまっている。
これではいくら体が成長しようともご主人さまに好かれるはずがない。
ああ、そう考えたら悲しくなって泣きそうになってくる。月のもの二日目だからだろうか、今日はひどく情緒不安定だ。勝手に自己嫌悪に陥って、これではご主人さまを困らせてしまう。
ご主人さまの腕が、私の胸から離れる。抵抗はしなかった。温かさがするりと離れ、私の胸に冷たさがやってくる。
離れた指が私の頬を拭う。頬に触れる空気がひやりとしていた。どうやら私は泣いてしまっていたらしい。私はどこまでもご主人さまに迷惑をかける奴隷であるようだ。
「すみません」
「ん? 大丈夫よ」
謝る私に気にするなと優しいご主人さまは頭を撫でてくれる。ご主人さまの手が離れるとほぼ同時に涙は引いてくれた。私が泣き止んだのを見るとご主人さまはカップの中身を一気に飲み干した。
だがそれでは足りなかったのか、ご主人さまはカップに注がず瓶に直接口を付けて酒を呷る。いつもと違う荒々しい所作に私の目はぱちくりと瞬く。
「ご主人さま?」
「……ダメね、やっぱり酔えない」
ふぅと息を吐いて話すご主人さまに私は首を傾げる。この世界最高峰の毒耐性を持つご主人さまが酒精に負けるはずがない。何を当たり前のことを、と思ってしまう。
不思議がる私を見てご主人さまは小さく笑った。そしてもう一度深く息を吐いてから、ご主人さまは私の目をしっかりと見て話す。
「ヌイちゃん、アタシは今酔っぱらっています」
「はい?」
「いいから。酔っぱらってるから色々ぶっちゃけちゃうの。オーケー?」
「……はい」
どうやらご主人さまは言いたくて言い出せないことがあるらしい。私が頷くとご主人さまは安心したように目尻を下げる。
「じゃあ、こっち来て」
「はい」
私は寝台に座るご主人さまの隣へ行き腰を下ろす。もう一度ご主人さまは瓶を呷った。
「ふぅ……あのね、まず、好きになってくれてありがとう。泣かれるくらい好かれたことなんてないから、申し訳なく思うけど、嬉しいわ。だからそれについて罪悪感は持たないで欲しいの」
気持ち早口でご主人さまは話す。私は内容が理解出来ず首を傾げた。ご主人さまは私が話を噛み砕いて内容を理解するまで黙って待ってくれた。
そして話の意味が分かると私の頬へ一気に熱が灯った。
「っ……な、何で……ご主人さま何故……!」
陸に上がった魚のようにぱくぱくと口を開け、意味のなさない言葉を吐く私へ、ご主人さまは申し訳なさそうに目を伏せて説明してくれた。
「昼にかけた結界なんだけど、あれアタシの目と耳に繋がってるのよ。異常が起きてもすぐ分かって駆けつけられるようにね。プリエラ様とあんな話をするとは思わなくて……ごめんなさい」
「あ……あぅ……」
なんということだ。私は泣き止むまでにプリエラさまへ何を話しただろうか。いかに自分がご主人さまを好いているか涙ながらに語ったんじゃなかろうか。そしてこの思いが主人に抱いてはいけないものだとも話した気がする。ああ、これ以上は恥ずかしくて思い出したくない。
「ち、ちが、ちがうんです、ご主人さま。あの、その、あの……ぁの……」
「ああ、大丈夫だから。そんなに泣きそうな顔をしないで。ね?」
「はぃ……」
頭を優しく撫でられて少しずつ落ち着いてくる。ああもう、穴があったら埋まりたい。
「あのね、ヌイちゃん」
「はい」
うつむく私へご主人さまの柔らかい声が降る。顔を上げた私の目に映るのは声とは違う痛そうなご主人さまの顔だった。
「ご主人、さま?」
「アタシは……やっぱり、女の子を好きにはなれない……」
胸が刺されたように鋭く痛む。弛みそうになる涙腺に唇を噛んで耐える。辛そうに顔を歪めるご主人さまの前で涙は流せない。
「ごめん、ごめんなさい。ヌイちゃんの気持ちもわかるの。
あなたをモンスターから助けて、悪者のご主人様から救い出した私が、あなたには英雄に見えただろうことは。
おまけにこの姿形にあり得ない強さでしょう? 物語だって今時こんな設定そうそうないわ。
そんな状況でヒロイン役になったあなたが恋しないわけはないと思うのよ」
でもね、と吐息とともにご主人さまが呟いた直後、儚い音を立てて雫がシーツに染みを作る。
ご主人さまと出会って三年。初めて見る涙に私は狼狽えた。
「でも私はあなたに応えられない。
だってそうでしょう? この世界に来て三年経ったわ。
大学の合格発表を見た帰り道にこの世界に突然召喚されて三年よ? 顔も体も変わってしまって、私が田淵沙霧だった頃の面影なんてどこにもないわ。
残っているのは私の記憶にだけ。この世界で田淵沙霧を知る人間は一人しかいないのよ。
私が心まで男になってしまったら、田淵沙霧は消えちゃうの。
三年前に仕方なく作ったティエスに、十八年間一緒にいた田淵沙霧が消されてしまうのよ。
それは絶対に許されないの。
私を十八年、愛して育ててくれたお父さんとお母さんの為にも、してはいけないのよ」
涙は落ち続けるがしゃくり上げることはなく、ご主人さまは静かに語る。
私を映すことなく壁へ視線を向けるご主人さまの目には、何が見えているのだろうか。チキュウという名の異世界か、タブチサギリという奪われた自分か、はたまた愛してくれた父と母か。
私にはわからない。苦しさと辛さしか与えなかったこの世界と、自我を持たない奴隷の自分と、奴隷にする為に作られたという事実しか、ご主人さまと出会う前の私は持っていなかったのだから。
ご主人さまが全て教えてくれたのだ。この世界の美しさと楽しさを、感情を発露させる喜びを、人に愛され人を愛する至福を。
ご主人さまが、全てくれたのだ。
だからこそ、私はご主人さまに一つ教えなければならない。
僭越ながら、奴隷の身分で。だけど絶対に譲れないことを。
「ヌイちゃん?」
「ひとつ、言わせて、ください」
ご主人さまの腕を掴む手と声が震える。私はご主人さまの顔を見れず、ご主人さまの腕にもたれすがるように自分の手の甲に額を押しつける。
「ご主人さまは……間違っています。
私が好きなのは『ティエスさま』じゃない。
私が好きなのは『ご主人さま』なんです。
強くて、かっこよくて、英雄みたいな『万能のティエスさま』だけじゃない。
私が見たことも聞いたこともない世界の話を女言葉でしたり、とても美味しい料理を作ったり、私を着せ替えて低い声できゃあきゃあ言ったりする、会ったことはないですけど『タブチサギリさま』みたいな。
そんな、『ご主人さま』が私は好きなんです」
「ヌイ、ちゃん」
「不安だった。怖かった。異世界の話をされるたびにご主人さまがいつか戻ってしまわれるんじゃないかって。
きっとご主人さまは頭がおかしいんだ、異世界なんて妄想に囚われてるんだ、そう思わないとやっていられなかった。
私に苦しさと辛さだけだったこの世界の、美しさと楽しさを教えてくれたのはあなたの中の強さです。自我を持たない私に、感情を教えてくれたのはあなたの中の優しさです。
私に愛される至福と、人を愛する喜びを教えてくれたのは、強さだけでも優しさだけでもない、両方を持った『ご主人さま』なんです」
力なく顔を上げ、私は顔の筋肉を動かす。まだまだ下手だろう笑顔は、笑顔とわかるものになっているだろうか。
ご主人さまは涙で濡れた顔をくしゃりと歪め、私を抱き締める。私が子を宥めるように背中を撫でると、小さくしゃくり上げ始める。
「私があなたを奴隷から解放しないのは、あなたが私から離れないようによ?
私の話を聞いて笑わずに『女性なら体で恩返し出来ないじゃないですか』って真顔で言ったヌイちゃんだから手放したくないと思った。
私がどれだけ『田淵沙霧』に戻っても気味悪がらないヌイちゃんを側に置いておきたかった。
私は強くも優しくもない。自分勝手な弱い人間よ」
「あなたがそれで安心するなら、いつまでもあなたに繋がれています。この奴隷の首輪があなたにとって私を離したくない証と言うのなら、これほど嬉しいことはありません。
あなたにとって、私がこの世界で唯一無二の存在であると言うのなら、私にだってあなたは絶対の存在なんです。
一生手放さないで、側に置いていてください。縛り付けて、離さないで。
あなたがチキュウに帰ると言うのなら、どんな姿でも構わないから、私を連れて行ってください」
ご主人さまは自分のお気持ちを吐き出し、私がそれに応えると抱き締めていた私の体を離す。
目こそ赤いままだが、「うん、わかった」と笑うご主人さまはいつもの雰囲気に戻っていた。
「ご主人さま、愛しています」
私が愛だと呼ぶこれが、他人から見て愛と呼べるかは知らない。ご主人さまの思いが、他人から見て歪んでいようがどうでもいい。
私は今、確かにご主人さまに必要とされて喜びを感じている。私は「ありがとう」と私の告白に微笑むご主人さまが、私に『タブチサギリ』さまを認められて安堵を覚えていることを知っている。
それ以上、何を考える必要があるだろうか。これがたとえ依存なのだとしても、人は葦のように弱い生き物なのだから、支え合って生きようと思うのは当然のことなのではないか。
「ねえ、ヌイちゃん」
「はい」
こつん、とご主人さまの額が私の額に合わせられる。祈るように目を閉じたご主人さまはとても美しかった。
「この世界の中で、あなたが一番好きよ」
初めて受けた額への口付け。それはとても神聖なもののように思えた。
「……やっぱり、ご主人さまは頭がおかしいです。
奴隷に、こんな……幸せな思いをさせるなんて」
「ヌイちゃんが幸せになれるなら、頭がおかしくても構わないわよ」
額を押さえる私を見て、ご主人さまはいたずらが成功した子供のように笑う。
この人は私を、どれだけ好きにさせれば気が済むのだろう。
「……ご主人さま」
「ん?」
口を開きかけて、止めた。
『いつかこの世界の中だけでなく、あなたの中で一番になれますか?』なんて、奴隷が聞いていいことではないから。
「……いえ、何でもありません」
私は言葉を飲み込む。
「そう? ならいいけど」
抱き締められる。暖かく優しい腕の中。
こんな幸せに包まれるような時間を教えてくれたのも、ご主人さまだ。
「ご主人さま、もう少しこのままでいてください」
「いいわよ」
私のご主人さまは頭がおかしい。
ドラゴンも楽に倒せるS級冒険者であるくせに、奴隷の私のわがままをこうやって受け入れてくれる。
この世界では珍しいサラサラとした黒髪と艶めく黒目を持つがっしりとした体躯の美丈夫であるくせに、チキュウと言う場所にいた時はどこにでもいそうな平凡な女性であったらしい。
おまけに奴隷の狼人族を「この世界で一番好き」と言ってくれる。
私をこんなに愛おしく幸せな気持ちにさせる、ご主人さまは頭がおかしい。
お読み頂きありがとうございました。