鷹の羽
一 刑部と五助
「負けたか」
「御味方、未だ崩れず」
刑部の問いに五助が答えた。
刑部は目が見えぬ。病のため全身を白絹で覆っている。自らは動けぬため輿に乗っている。また甲冑を着られぬ。そのため紙に墨で甲冑を描き、紙甲冑としてそれを羽織っている。遠目に見れば漆塗りの甲冑そのものである。病を患いながらも勇猛なその姿は、刑部に従う者の心を大いに鼓舞した。
「負けたか」
「未だ崩れず」
五助は刑部の家臣である。五助は刑部を守らねばならぬ。身を賭して守らねばならぬ。槍を握る五助の指に力が入る。
敵が二、三、味方を掻い潜り刑部に迫る。四、五、六。別の味方が壁となりそれらを迎え討つ。七、八、九。
「どうだ」
五助はそこで数えるのを止めた。
「御味方総崩れ。御合戦御負。無念にござります」
ついに五助が告げると、刑部は大きく頷いた。
「皆、大義であった。後は儂を置いて逃げよ」
五助は刑部を守らねばならぬ。身を賭して守らねばならぬ。
「殿を置いて逃げるなど出来ませぬ」
「敵に一矢報いて死にとうござります」
「最期まで御奉公仕りとうござります」
「殿」
「殿」
家臣らは涙した。各々に叫んだ。主を守らねばならぬ。身を賭して守らねばならぬ。
「好きに致せ」
家臣らはすかさず刑部の前で膝を付き頭を垂れた。
「一命捧げ奉る。御免」
家臣らは次々と敵方へ斬り込んで行った。ひとり。またひとり。怒濤の波に向かって行った。そしてついに、刑部の元に残るは五助ただひとりとなった。
「五助はおるか」
「は、こちらに」
「介錯せい」
刑部が命じた。五助は主の命に従わねばならぬ。
「敵方に首を渡してはならぬ。誰にも晒してはならぬ。病に崩れた顔を晒すは恥辱じゃ」
五助は主を守らねばならぬ。身を賭して守らねばならぬ。主の命に従わねばならぬ。
二 五助と仁右衛門
五助は走った。刑部の首を抱えて走った。
この首を敵方に渡してはならぬ。誰にも晒してはならぬ。五助は主の命に従い、ひとり草の野を駆けた。
今はもう、どれほど走ったか分からぬ。どこを走っているかも分からぬ。喉の奥から何とも言えぬ声が漏れる。槍を担ぎ、五助はただひたすらに走った。
人知れぬところに埋めねばならぬ。
銃の音も砲の音も敵方の声も、五助の耳には届かぬ。味方の声も聞こえぬ。風を切る音のみである。
五助は振り返った。誰もおらぬ。誰の声も無し。薄が風に揺れる音のみである。
この辺りで良い。
五助は穴を掘った。草を剥ぎ石を退けた。地に槍を突き、素手で掘った。爪は剥がれ血が滲む。五助は首を埋めねばならぬ。人知れぬ内に埋めねばならぬ。渡してはならぬ。晒してはならぬ。
五助は穴を掘り終えた。
白絹に覆われた、物言わぬ首に目をやる。埋めねばならぬ。埋めねばならぬ。
五助は、主を埋めた。
五助は地に倒れ、天を仰いだ。一羽の鷹が舞っている。浅葱の空に舞っている。くるり、くるりと、五助の遥か上を舞っている。五助はただ、それを眺めた。
五助は体を起こした。早くここを離れねばならぬ。人知れぬ内に去らねばならぬ。敵方に知れてはならぬ。敵方に知れてはならぬ。
しかし、五助は離れられぬ。拳を握り、土の上に涙を落とすばかりである。
そこへ、仁右衛門という名の若武者が近付いた。
敵に、知れてはならぬ。
「そこに埋めたのは刑部の首か」
仁右衛門は五助に槍を向けた。
「槍合わせ願う」
敵方に渡してはならぬ。誰にも晒してはならぬ。主を守らねばならぬ。ならぬ。ならぬ。
五助は頷き立ち上がり、槍を構えた。
五助は武勇に優れた武士である。若き仁右衛門の敵う相手ではない。しかしこの日、仁右衛門の槍は五助のそれを上回った。主の命に従おうとする五助であったが、既にその力は無かった。
五助は右の腿を突かれ体を崩した。倒れざまに槍を捨て刀を抜き、仁右衛門の槍を断ち切った後、倒れた。仁右衛門も刀を抜く。
「待て。勝負あった。話がある」
「命乞いか。見苦しいぞ」
仁右衛門は五助を睨む。
敵方に渡してはならぬ。誰にも晒してはならぬ。
「刑部殿は命じたのだ。誰にも晒してはならぬと。病に崩れた顔を晒すは恥辱であると」
五助は若き仁右衛門に頭を垂れた。五助は主を守らねばならぬ。
「某、大谷刑部少輔吉継が家臣、湯浅五助。そなたに御頼み申す。某の首を差し上げる代わりに、ここに埋めたことを秘してくださらぬか」
守らねば。身を賭して守らねば。
すると仁右衛門は膝を付いた。そして頷いた。
「御安心召されよ。湯浅殿の願い、しっかと心得た。誓って他言はせぬ」
「かたじけない」
五助は大いに喜んだ。そしてふらりと立ち上がり、形ばかり刀を構えた。
仁右衛門は走った。五助の首を抱えて走った。
銃の音も砲の音も既に無し。敵方、味方いずれの声も無し。地に伏した屍を踏まぬよう、草の野を駆けた。
仁右衛門は陣に戻り、佐渡守に首を差し出した。
「湯浅五助を討ち取ったか。でかした。すぐに内府殿の元へ参ろうぞ」
佐渡守は喜び勇んで内府の陣へ向かった。仁右衛門もそれに続く。
「湯浅五助の首にござります」
佐渡守は内府に首を差し出した。内府もまた喜んだ。
「これほどの男を討ち取るとは。如何にして」
仁右衛門は述べた。五助の最期を述べた。しかし刑部の首の事は秘した。
「五助は刑部の近習であろう。それが刑部の首の行方を知らぬ筈が無い。そなたは何か知っておらぬか」
内府は仁右衛門に問うた。仁右衛門は頭を垂れるのみである。
「面を上げよ」
若き仁右衛門に、内府は顔をぐいと近付けた。
「おぬし、知っておるな」
三 仁右衛門と内府
「存じておりますが、それを申し上げる事は出来ませぬ」
「何を言うか」
佐渡守が声を張る。
他言は出来ぬ。仁右衛門は深く、深く、頭を垂れた。
「某、他言はせぬと湯浅殿と交わして討ち取りました故、たとえ内府殿であっても申し上げる事は出来ませぬ。どうぞ某を御処分くだされ」
仁右衛門は額を地に付けんとばかりに頭を垂れた。他言は出来ぬ。他言は出来ぬ。
「義に厚い男よ。そなたも、湯浅も。佐渡守殿、良い家臣を持ちましたな」
内府は大いに笑い、仁右衛門を褒めた。
仁右衛門はこの後、内府から槍と刀を賜った。
仁右衛門は天を仰いだ。二羽の鷹が舞っている。茜の空に舞っている。くるり、くるりと、仁右衛門の遥か上を舞っている。
この日、多くの鷹が死に、しかし刑部の首は守られた。
完
【用語】
近習 : 側近のこと。
【登場人物】
刑部 : 大谷吉継。重い皮膚の病のため顔を隠していた。関ヶ原の合戦で敗れ自害した。
五助 : 湯浅五助。吉継の家臣。吉継を介錯した。
仁右衛門 : 藤堂高刑。関ヶ原の合戦時は二〇半ばの若武者である。
佐渡守 : 藤堂高虎。高刑の叔父であり主君。
内府 : 徳川家康。